アサミの唇が近づいてくる。
その肩は、小刻みに震えていた。
告白だって、このキスだって、きっと大きな勇気を振り絞っているのだろう。
アサミは、こんなにも僕を必要としてくれている。
僕はミサキのことが好きだ。
だけど、ミサキにとって僕は取るに足りない存在なのかもしれない。
叶わぬ恋を追い掛けるより、アサミの気持ちに応えた方が幸せになれるんじゃないか。
でも……。
心の中を様々な葛藤が吹き荒れる――
そのとき、階段を駆け上がる激しい足音が聞こえてきた。
誰かが来る……?
「ガクッ、いるかっ!?」
足音の持ち主は、ノックもせずにいきなり扉を開ける。
「――っ!」
思わず、弾けるように離れる僕とアサミ。
「お前ら……なにしてんだ?」
「や、やあ、レイジ」
足音の主、レイジに、僕はベッドの中から平静を装って挨拶をする。
アサミはそっぽを向いたまま、
「『やあ』じゃねーよ! なんで寝てんだよ、お前は!」
「なんでって……風邪を引いてるからなんだけど……」
その言葉に、レイジは額に手を当てた。
「そんなの、今日じゃなくたっていいだろ!」
「ちょ……! 僕が好きで寝込んでるとでも!?」
その一方的な言い方に、ちょっとむかっ腹が立った。
でも、そんな僕を無視してレイジは口を開く。
「お前……、これからミサキが何をするか知ってるのか?」
「大きい荷物持って……旅行に行くんでしょ」
アサミから聞いた情報だ。
「ちげーよ、馬鹿っ!!」
だけど、レイジからは怒りの声が飛ぶ。
こんなにも声を荒げているレイジは、初めてかもしれない。
レイジは、僕の肩を強くつかんだ。
「良く聞け! ミサキは、手術するんだよ!」
「……えっ!?」
手術!?
どういうこと!?
動揺する僕の肩を乱暴に離すと、レイジは立ち上がる。
そして、スマホを取り出し、どこかにかけ始めた。
「ね、ねえ、レイジ……」
「……あっ、マキか? ……ああ、今はガクの部屋だぜ」
僕の呼びかけを無視して話し出すレイジ。
どうやらマキと話しているらしい。
「……あ、ああ。わかった、任せる」
しばしの会話の後、レイジは僕を見た。
「おい、ガクッ!」
言葉と同時にスマホが飛んできた。
「うわっ!」
咄嗟に受け止める。
画面は通話中になっている。
「お前に代われって」
「マキが?」
真剣な顔でうなずくレイジ。
僕は、そっとスマホを耳に当てた。
「もしもし……」
『もしもし、ガク?』
電話の向こうから聞こえてくるのは、紛れもなくマキの声だ。
「マキ! ミサキが手術って、どういうこと!?」
『うん……』
マキは静かに話し出す。
『ミサキ……体育はいつも見学してるじゃない?』
「うん」
『あの子ね……実は心臓が悪いの』
「えっ!?」
『心臓の弁が悪いみたいで……。だから激しい運動は出来なくて……』
心臓が……悪い!?
だからあのとき……。
赤鬼と青鬼から走って逃げたとき、あんなにも苦しそうにしていたのか……。
「そ、それで手術って……?」
『うん……今日、アメリカに渡るみたい』
「アメリカだって!?」
僕は、思わず立ち上がった。
『主治医さんの紹介だって』
マキは言う。
『難しい手術だから、万全を期するために心臓外科の第一人者にお願いしたみたい』
「そんな……」
ミサキがアサミに言った言葉、
“もしかしたら帰れないかも……”
その言葉が蘇り、今、僕に大きくのしかかってきた。
「マキたちは……このことを知ってたんだよね……」
思わず声が震える。
しばしの沈黙の後、マキの声が聞こえてきた。
『うん……ちょっと前にね』
「そっか……」
僕は、ベッドの端に力無く腰を下ろした。
「僕……全然……知らなかった……」
『このことは一部の人しか知らないし……、それに……』
「……それに?」
『う、うん……』
電話越しでも伝わってくるためらい。
それが、とてももどかしい。
「もしかして……僕には言わないでって言われた?」
マキの返事はない。
だけど、それが答えなのだろう。
「そっか……」
僕は、短く息を吐いた。
縮まったと思ってたミサキとの距離。
だけど、実際は全然そんなことなかったんだな……。
僕がミサキを守るとか、勘違いも
そう思ったら、急に可笑しさが込み上げてきた。
『ガク、あのね……』
「……フフフフ……あはははははは!」
『ガ、ガク!?』
いきなり笑い出した僕に、マキ、そして部屋の2人も驚きを隠せないようだ。
「あはははは……笑っちゃうよね」
僕は、拳をゆっくりと握り締めた。
「ミサキにとっての僕は、所詮その程度の存在だったんだ」
『ガク、それは違う……』
「違わないよっ!」
マキの言葉を遮って、僕は叫んだ。
「僕には、言うまでもないってことでしょ!」
『違うの、あのね……』
「ミサキの幸せを願うとか、傷つけるやつは許さないとか……僕が言っても、逆に迷惑だったんじゃない?」
とめどない負の感情。
これまで抱えていたものが、一気に爆発する。
自分でも、もう抑えることができない。
「あ、もしかして、みんなで僕のことを笑い者にしてたんじゃない?」
『ガク、だから話を……』
「酷いよね。それならそうと言ってくれればいいのに」
『お願い、話を聞いて!』
「あ~あ! こんなことなら、最初から出会わなければ良かった!」
その言葉を発した瞬間――
『ふざけないで!!』
マキの怒りの声が、僕の耳を貫いた。
『さっきから何よアンタは!! 本気でそんなこと思ってるワケ!? ……わかってない!! アンタは、ミサキのこと全然わかってないよ!!』
怒りのマキ。
その迫力に、僕の自暴自棄は薄れていく。
『あの子は話さなかったんじゃない! 話せなかったのよ!』
「え……それはどういうこと?」
『アンタは心臓病のことを知ったら、ミサキに気を遣うでしょ?』
「そりゃあ……」
『それが……嫌だったのよ!』
マキの声が震えている。
泣いてる……のか!?
『あの子……ガクにだけは特別扱いされたくないって……』
聞こえてくる涙声。
『ガクと同じ世界を見たいって……必死に頑張ってたのっ!』
僕は、思わず下唇を強く噛み締めた。
『だから、そんなこと言わないで……。出会わなければ良かったなんて、そんな悲しいこと言わないでよ!』
嗚咽が混じるマキの声。
その言葉に込められた想いは、胸の奥に深々と突き刺さっていた。
ミサキ……。
ミサキは、どんなときも明るく振る舞っていた。
いつでも一生懸命だった。
そんな彼女だったから、僕は好きになった。
合宿のときも、僕のことを励ましてくれたり……。
ときには本気で怒ってくれたりもした。
ミサキにとってのそれは恋愛じゃなくて、ただの友情なのかもしれない。
だけど、真っ直ぐに僕を見詰めてくれたことに嘘偽りはない。
僕が、どんなに情けなくても、彼女は目を逸らすことはなかった。
その想いは……。
その優しさは、いつも感じていたことだったのに……。
「ゴメン……。僕、どうかしてた……」
僕は目をつぶった。
ミサキとの思い出が、心の中に蘇る。
嬉しかったこと、楽しかったこと。
中には忘れたいことだってある。
でも、結局は忘れられなくて……。
それは今、僕の中で大切な思い出になっている。
真っ白だった心の中が、ミサキでいっぱいに埋め尽くされていく。
静かに目を開いた。
さっきと同じ部屋の中なのに、なぜか世界が変わって見えた。
「マキ……ありがとう。僕は、忘れちゃいけないものを忘れるところだった」
『ガク……』
「もう大丈夫……。僕はミサキを信じる」
『うん……うん、ありがとう……』
マキは、嬉しそうに泣いていた。
『ガク……ミサキは今、駅にいるわ。1時の新幹線で空港に向かうの』
壁の時計に目を向ける。
現在の時刻は12時15分。
「あと45分しかない!」
『お願い、行ってあげて!』
「わかった!」
僕は電話を切ると、それをジーンズのポケットにしまった。
そして、レイジとアサミに向き直る。
2人は、僕の言葉を待つかのように、ジッとこちらを見詰めていた。
僕の口が動く。
「駅に行ってくる!」
「ああ!」
レイジは、力強くうなずいた。
ミサキ、待ってて!
彼女への想いを胸に、僕は扉へと向かった。
だけど――
その足は、すぐに止まることになる。
僕の前に、立ち塞がる人。
「アサミ……」
「行かないで!」
両手を広げたアサミは、にらむような視線を僕に向けてきた。