僕の手をつかんだまま、ミサキは急な下り坂をグングン進んで行く。
「ちょ……ちょっと待って……」
呼び止める。
だけど、その足は止まらない。
真っ直ぐ前だけを見詰めて突き進んでいく。
「うわっ……!」
足がもつれて転びそうになる。
「ちょ……ちょっと待てってば!」
たまらず、僕はその手を振りほどいた。
「なんだよ告白って!」
ミサキの背中に叫ぶ。
「なんで僕が、そんなの見せ付けられなくちゃいけないんだよ!」
自分でもビックリするくらい大きな声。
「ミサキは……。僕の気持ちを、分かってないっ!」
心の中に溜め込んでいたものが、濁流のように一気に溢れ出す。
「だいたい、免許は持ってるの!? 免許もないのにそんなこと……」
その言葉に、ミサキは振り返った。
そして、僕のことをキッとにらむ。
「な……なんだよ……」
思わずたじろぐ僕をよそに、ミサキは手にしていたバッグに手を入れた。
しばしの後……。
バッ!
不意にバッグから引き抜かれたミサキの手が、僕の鼻先へと迫った。
「うわっ!?」
殴られる――!?
咄嗟に目をつぶり、体をキュッと固くする。
鼻をぶつけたときの感覚って嫌なんだよな……。
ジーンとして、涙が止まらなくて。
鼻血、出ないといいな……。
――って、あれ……?
いつまで経っても伝わらない衝撃に、僕は首をひねった。
「もうっ、ちゃんと見て!」
ミサキの声が響く。
「え……」
恐る恐る目を開けてみる。
僕の目に飛び込んできたもの、それは――
「あ……恋愛……免許証……」
「私は誰かさんと違って、ちゃんと取ったんです!」
「うぐっ……」
思わずうめく僕。
「な、なんかトゲがある言い方……」
「や……だ、だってガクが……」
ハッとしたミサキは、免許証を胸の前でキュッと握り締めた。
「ごめん……なさい……」
つぶやくような、小さな声。
僕から瞳を逸らし、彼女は力無くうつむいていた。
「……ミサキ?」
ふと、その肩が小刻みに震えていることに気が付く。
「……ミサキ」
僕はもう一度、名前を呼んだ。
「ガク……」
ゆっくりと顔を上げるミサキ。
その瞳には涙が浮かんでいた。
「私だって……怖いんだよ……」
今にも消え入りそうな弱い声。
その声は、震えていた。
そうか……。
そうだよな……。
ミサキだって僕と同じ、先のことはわからない。
だから怖いんだ。
僕には、その気持ちが痛いくらいわかる。
「……ミサキ!」
僕は、ミサキの手をつかんだ。
「ガ、ガク!?」
「大丈夫だよ!」
そして強く握り締める。
「僕が、ミサキを応援するから!」
不安、そして驚きの表情を見せていたミサキは……。
「だから、頑張ろう! ね?」
「ガク……ありがとう……」
次第に笑顔を取り戻していった。
「ガクの手って、温かいね」
「あっ! ご、ごめん、つい……」
「ううん、少しこうしてて。心が、落ち着く気がするから……」
その笑顔に、少し照れ臭さを覚えた僕は、
「あは……あはははは……」
笑いながら、鼻の頭を指でこする。
少しくすぐったいような、不思議な空気がそこにはあった。
「えへへへ」
ミサキも、僕と一緒になって笑っていた。
「あ……それでミサキ」
「うん?」
恥ずかしさを誤魔化すように、話題を変える僕。
「今から、どこに行こうとしてたの?」
「うん……ライブハウス」
「ライブハウス?」
ミサキは、首を巡らせた。
長い下り坂の先には、夜の街並みが広がっている。
「先輩ね……今日ライブやるんだ」
ミサキは、僕の手をつかんだまま歩き出す。
僕も、その横に並ぶ。
「ほら、先輩、ギターやってるから」
「そういえば……前に言ってたね」
「うん……。先輩のバンド、今日がライブの日なんだって」
「ライブかぁ……。凄いな……」
人前に立つことが苦手な僕にとって、ステージに上がって演奏するなんて考えられない。
改めて格の違いを感じさせられた。
……って!
今は暗くなっちゃダメだって!
ミサキを応援するって言ったんだろ!
今だけは、明るく振る舞うんだ!
「……あ、ところで!」
僕は、努めて明るい声を出す。
「ミサキは、そのライブハウスの場所、知ってるの?」
ミサキはうなずく。
「中に入ったことはないけど」
「そうなんだ。場所は地図か何かで調べたの?」
「ううん――」
その言葉には、ミサキは首を横に振った。
「私ね……今のところに引っ越す前は、この街に住んでいたの」
「えっ!?」
僕は驚きミサキを見た。
「ここに、ミサキが……?」
僕は、ゆっくりと辺りを見回した。
眼下に広がる街並み。
ここが、ミサキの育った場所なんだ……。
そう思うと、少しだけミサキの心に近付けた気がして……。
胸の中に、熱いものが込み上げてきた。
……って、待てよ!
僕は、ミサキを見る。
「も……もしかして、その先輩もこの街に住んでるの?」
少し照れたように、ミサキはうなずく。
「中学の先輩なの……」
「あ……ああ、そうなんだ」
喜びが半減していく僕であった。
「ねぇ、ガク」
そんな僕に気付かず、ミサキは笑顔を見せる。
「私、先輩に詩を褒められたって言ったでしょ? 恋免に合格したら、詩に曲付けてもらえるって」
「う、うん」
試験前夜の合宿所の中庭で、確かにミサキはそんなことを言っていた。
「だから私ね、これ持って来ちゃったー」
そう言うとミサキは、バッグの中からノートを取り出した。
ミサキの詩が書いてあるノートだ。
「前にね、先輩が私の為にって歌を作ってくれたことがあったんだけど……」
ミサキは微笑む。
「私の詩に曲を付けてもらうのは初めてだから、すっごく楽しみなんだー!」
とても嬉しそうなその笑顔。
でも、この明るさは……。
もしかしたら自分自身を奮い立たせるために、そう振る舞っているのかもしれない。
僕よりも小さな体で……。
僕よりも大きな勇気を出そうとしている。
そう思うと、彼女がとても健気で、いじらしく思えた。
思わず、ミサキと繋いでいない方の手を、強く握り締めた。
「ねえ……。前に先輩が作ってくれた歌は、どんな感じだったの?」
歩きながら僕は尋ねる。
ミサキが不安を忘れられるよう、出来るだけ明るい声で。
「うん。とても素敵な歌だったの」
その想いに気付いたのか、ミサキは僕に微笑んだ。
そして、夜空を見上げる。
「ピアノのイントロが印象的な、メロディアスなバラードでね……」
「先輩……ピアノも出来るんだ?」
「うん、凄いよね」
風になびく髪。
少し風が強くなってきたようだ。
「先輩、文化祭で歌ってくれて……。私、感動して泣いちゃった」
ミサキは、髪を押さえながら恥ずかしそうに言う。
「いい歌だったんだね……」
僕は、目を細めた。
ミサキの幸せを願うなら……。
隣りには僕じゃない。
きっと、その先輩が相応しいんだ。
沈黙――
不意に訪れた静けさ。
2人の足音と風の音だけが、闇の中に響いていく。
ミサキの心に、僕の入る隙間はない。
もし、僕の想いを伝えたとしても――
それは叶わないだろう。
世の中は、一生懸命になったとしても――
報われないことがたくさんある……。
僕は、短く息を吐いた。
でも――
「――ミサキ!」
僕は叫んだ。
「な、なに? ガク……」
「この恋、叶えよう!」
そう言って、僕はVサインを突き出した。
驚きの表情を見せるミサキ。
だけど、それは次第に崩れていき――
「うんっ!」
そして、最高の笑顔と共に、ミサキもVサインを突き出した。
僕は、ミサキのことが好きだ。
だから今だけは、彼女のために一生懸命になろう。
僕じゃ、彼女を幸せにすることができなくても……。
彼女の恋を、そして幸せを応援することはできる。
今まで、色々なことから逃げ出してきたけれど……。
好きな人のために頑張ることができたなら、僕の中で何かが変わる気がする。
「よーし、ミサキ! 気合い入れていけよー!」
「はいっ!」
僕たちの声が夜空に響く。
この声、この想いが、夜空の向こう側……。
遥か遠い過去の、あのときの僕に届けることができたなら……。
でも夜空は、この想いに応えることはなく――
ただ風だけが、僕たちに強く吹き付けている。
僕は繋いだミサキの手を、少しだけ強く握り締めた。