「オラッ、さっさと乗れ!」
それから程なくして、駆け付けた警察官と刑事に、パトカーへと押し込まれる犯人。
「あ、あの家は、この時間帯には誰もいないはずなんだぞ! なのに……」
「ほ~ら、話なら署でたっぷり聞いてやるでのぅ」
白髪混じりの老刑事は、薄くなった頭を掻きながら気だるそうに促した。
「ご協力、感謝します!」
犯人を押し込んだ若い刑事は、一度パトカーの外に出ると、ビシッと敬礼をする。
「い、いえ、当然のことをしたまでであります!」
緊張した面持ちで思わず敬礼を返すのは、コトノさんの旦那である
それを真似て、2人の幼い子供たちも刑事に敬礼を送る。
その様子を、笑いながらコトノは見詰めていた。
走り去るパトカー。
それを見送った後、コトノさんは僕たちに振り返った。
「さあ、ご飯にしましょう!」
「いただきまーす!」
元気な声が響く。
食卓に並んだ美味しそうな料理に、我先にと飛び付くコウイチさんとユリちゃん。
「ちょっと、あなたたちお行儀が悪いわよ! それじゃ、ガッ君が食べられないでしょー!」
コトノさんの叱咤が飛ぶ。
「おう、兄ちゃんも沢山食え!」
笑顔で言うコウイチさん。
「……食べてます」
そんなコウイチさんに、僕はぶっきらぼうに答える。
「コトノの料理は美味いんだぞ」
「……そうですね」
「そうですね……って、兄ちゃん」
コウイチさんは、僕の前に広がる、ほとんど手付かずの料理を見た。
「あまり食べてないじゃないか」
その言葉に、僕はコウイチさんをにらんだ。
「顔が痛いんです!」
怒気を込めた声。
僕の頬には、殴られた跡が痛々しくついている。
コウイチさんは、先程の犯人を殴り倒した後、そのままの勢いで僕まで殴り飛ばしたのだ。
「しかも、変態扱いして……」
「だ、だから、悪かったって~」
唇を尖らせる僕に、コウイチさんは申し訳なさそうに苦笑する。
「兄ちゃんが、あんな格好だったもんで……つい、な」
「好きで、あんな格好してたんじゃないですよ!」
今はコトノさんの買ってきてくれた服に身を包んでいるが、あのときの僕はタオル1枚。
確かに勘違いされても仕方ないけれど……。
でも、この頬の痛みが、僕を素直にはさせてくれなかった。
「まぁまぁ、それくらいで」
笑いながら、コトノさんが仲裁に入る。
「ガッ君はユリを守ってくれて、それで名誉の負傷ってことでね」
「名誉の……負傷?」
名誉の負傷。
そう聞くと、まんざらでもない気がする。
もちろん、命に別状なかったから言えることなんだけどさ……。
なんにせよ、いつまでも怒っているわけにはいかない。
僕は短く息をはくと、笑顔を作った。
「もう……いいですよ」
「……え?」
大きな体を小さくしていたコウイチさんは、その言葉に顔を上げた。
「僕も助けてもらったわけですし……今、こうしてご馳走になってるわけですから」
困惑していた顔が、みるみる明るくなっていく。
「兄ちゃん……いいやつだな」
「そ、そんなこと……」
少し照れ臭くなって、思わず鼻をかいた。
「よーし、兄ちゃん! さぁ、飯を食え! 飯!」
すっかり元気を取り戻したコウイチさんは、満面の笑みで僕の背中をバシバシ叩く。
「だ、だから、痛いですってば!」
嫌がりながらも、思わず僕も一緒に笑っていた。
それから30分後……。
並べられた数々の料理もあらかた食べ尽くし、食事は終盤へと差し掛かっていた。
お腹と背中がくっつくんじゃないかと思っていた胃袋も、今ではパンパンに満たされている。
それでも、デザートは別腹とは良く言ったものだ。
食卓に並んだのは、美味しそうなプリンだった。
ぷるんぷるんのコイツは、口の中に入れると、とろけるように広がっていく。
こ、これは……。
最高に美味いぞぉぉぉ!!
このプリンなら、何個だって食べられそうだ!
僕は、喋ることすら忘れて、ひたすら口に運んだ。
「それ、私が作ったのよ。美味しそうに食べてくれて嬉しいわ」
「そうなんですか! もう、本当に美味しくて、美味しくて!」
「あはは、ありがとう」
コトノさんは、嬉しそうに微笑んだ。
「……あ、ところで兄ちゃんさ」
僕に負けないくらい美味しそうにプリンを食べていたコウイチさんが、ふとこちらに顔を向ける。
「兄ちゃんは、これからどうするんだ?」
「え……」
その言葉に、僕は手を止めた。
「あんな山道にいたなんて……何か目的があったんじゃないのか?」
「僕は……」
目的――
そんなものはなかった。
ただ、ミサキから逃げたかっただけ。
そして、逃げた先に何かが待っているというワケでもない……。
「何も……ないです……」
僕は、絞り出すように答えた。
そう、今の僕には何もない……。
目的も……。
恋愛も……。
ミサキの信頼ですら手放してしまった……。
「ワケありねぇ……」
コトノさんがため息をつく。
そのとき、僕の正面に座っていたユリちゃん、そしてメグル君が立ち上がった。
「……ん?」
2人は僕のところにやって来る。
「どう……したの?」
その言葉には答えず、メグル君はキュッと僕の服の裾を掴んだ。
「……え?」
戸惑う僕に、ユリちゃんはニコッと微笑む。
「行くとこないなら、ユリのおうちにいてもいいよーっ!」
「えっ?」
「だってユリ、お兄ちゃん、大好きなんだもーん!」
その言葉に、メグル君が裾を強く引っ張る。
「メグルも、お兄ちゃんと一緒にいたいって」
「2人とも……」
胸に熱いものが込み上げてきた。
教習所、そしてミサキから逃げ出した、情けない僕。
こんな情けない僕でも、2人は好きと言ってくれる。
必要としてくれる。
こんなにも嬉しいことはない。
「ありがとう……2人とも」
僕は、幼い子供たちを力いっぱい抱きしめた。
その様子を眺めていたコウイチさんは、やがて、ためらいがちに口を開く。
「ん~、泊まるのは構わないんだがな……親御さん、心配するんじゃないのか?」
「そうね、きっと心配してるわよねぇ」
コトノさんもうなずく。
確かに、僕は黙って逃げだしたわけで。
みんな、心配しているかもしれない。
それを思うと、胸が苦しくなる。
連絡くらいは、しておいた方がいいのかな……。
でも……。
しづらいな……。
ミサキとだって、顔を合わせづらいし……。
「なぁ、兄ちゃん」
そのとき、不意にコウイチさんが僕の顔を見詰めてきた。
「兄ちゃんの苗字って何だった?」
「梨川ですけど……?」
「梨川かぁ……じゃあ違うか……」
残念そうに、ため息をついた。
「いきなりどうしたの?」
コトノさんが、不思議そうに尋ねる。
「いや……な、ちょっと雰囲気が似てる人がいてさ」
「雰囲気?」
「ああ……大学の先輩なんだけど」
「あなたの先輩っていうと……
えっ……?
「確か、山の上で教習所やってる人よね?」
えっ、えっ!?
「そう、その人。兄ちゃん、フミヒコさんが若い頃と雰囲気が似てる気がしてさ……」
「そうなの?」
「ああ……でも、フミヒコさんは苗字は梨川じゃないし、高校生くらいの息子はいないからな」
そう言って、コウイチさんは笑った。
「あ、あの……」
おずおずと手を挙げる。
「ん? どした、兄ちゃん」
「は、はい……そ、その人……」
「うん?」
「た、多分……僕の伯父さんかと……」
「「えっ!?」」
そう、伯父さんの名前は文彦という。
そういえば、大学の頃はレスリングやってたって言ってた気がする……。
「なんだ、フミヒコさんの甥っ子かい」
コウイチさんの顔が、みるみる明るくなった。
「フミヒコさんは厳しい人だったけど、いい先輩でなぁ」
そう言って、懐かしそうに目を細める。
「フミヒコさんは、3つ下に
「あなた……!」
「バ、バカ、昔の話だって! だ、第一、今は結婚してこっちにいないから……」
コトノさんににらまれて、しどろもどろになるコウイチさん。
「あの……」
そんな中、僕はまたおずおずと手を挙げた。
「その人……僕の……母さん」
「なんだって!?」
目を見開いて、僕を見詰めてくるコウイチさん。
思わず、ゴクリとツバを飲んだ。
「確かに、目なんかミキさんにそっくりだな」
コウイチさんは、ウムとうなずいた。
「じゃ、ガッ君は夏休みを利用して、伯父さんとこに遊びに来たってとこ?」
「遊びっていうか……」
コトノさんの質問に、僕はバツが悪くなって頭をかいた。
「……恋免を受けに」
「えっ!? じゃあ、こんなとこにいたんじゃダメなんじゃないの?」
「や……3日後の追試を受ければ……あ、でも……」
「でも?」
「受けなくてもいいかな~って……」
目標を失った今、恋免に対するモチベーションは非常に低くなっていた。
「だって、せっかく受けに来たんでしょう? ……ガッ君、好きな人いないの?」
「好きな人……」
思わずミサキの顔が浮かぶ。
「……いません」
だけど、僕はそれを無理やり掻き消した。
ミサキには好きな人がいるんだ……。
それは、僕よりずっと凄い人で……。
ミサキの幸せを願うなら、僕は身を引くべきなんだ……。
「また暗くなる……」
うつむく僕に、コトノさんはため息をつく。
「まぁ、さ」
そんな雰囲気を一掃するような、コウイチさんの大きな声。
「恋免なんて今すぐ必要ってわけじゃないし、本人にその気がないんじゃ受けなくてもいいんじゃないか?」
「そうは言っても、やっぱりいつかは必要になるものだし……」
「必要になったときに、受けりゃいいじゃないか」
僕をそっちのけで、あれやこれやと話し合う2人。
まるで、両親になったかのようだ。
僕のことを真剣に考えてくれている。
その気持ちが伝わり、とても嬉しく思った。
「あ、あのっ!」
少し大きな声で、そんな2人の間に割って入る。
「あ……あと3日あるので……それまでにどうするか考えます」
その言葉に、2人は顔を見合わせる。
「あ、あの……それじゃダメですか……?」
恐る恐る尋ねる僕に、コトノさんは優しく微笑んだ。
「そうね。まだ少し時間はあるから良く考えるといいわ。最終的に決めるのは、あなたなんだから」
「はい……」
僕は、頭を下げた。
「よ~し、そうと決まれば、フミヒコさんに連絡しておくか」
コウイチさんは立ち上がる。
「2、3日、うちで面倒見るので、心配しないで下さいってな」
「コウイチさん……」
僕は、もう一度頭を下げた。
「じゃあ、お兄ちゃん、お泊りできるの~?」
無邪気な笑顔を見せるユリちゃんに、コトノさんは優しく微笑んだ。
「うん、お兄ちゃん大丈夫だって」
「やったー! わーい、わーい!」
ユリちゃんが喜びの声を上げる。
メグル君も、手足をばたつかせ喜びを表している。
「……ねぇ、ガッ君」
そのとき、コトノさんが不意に真剣な瞳を向けてきた。
「この限られた時間で、あなたの答えを探してみて」
「僕の……答え?」
「そう。ガッ君は色々なことを抱え込んでるみたいだし……」
そこまで言うと、コトノさんは傍らのカップを口に運んだ。
豊潤なコーヒーの香りが、辺りに広がる。
そして、再び口を開いた。
「追試のことも含めて、良く考えてみて」
静かな口調――
「これまでの自分……そして、これからの自分のことを」
だけど、その言葉には、強い想いが感じられた。
僕は……。
これまで嫌なことから逃げて来た。
陸上からも――
恋愛からも――
そして――
ミサキからも……。
そんな風に逃げてばかりいる自分が、とても嫌いだった……。
でも――
レイジたちは、何も言わずに友達でいてくれるし……。
コウイチさんとコトノさんは、こんなにも親切にしてくれる。
ユリちゃんとメグル君は、僕のことを好きって言ってくれた!
そしてミサキは……。
こんな僕にも、優しく微笑んでくれた……。
僕は、そっと
僕は、どこに向かうのか。
どこに向かうべきなのか。
きっと今が、それを真剣に考えるときなんだ。
僕の手に伝わる確かな鼓動。
それは、僕がこの世界で生きている確かな証だった……。