「それじゃ、着替え買って来るからね」
扉の向こうでコトノさんが言う。
「ほんと、すみません……」
「あはは、気にしないの」
浴室内からの僕の言葉に、明るい声が返ってきた。
「ちょうど、下の子を幼稚園にお迎え行かないといけない時刻だしね」
「あ……そうなんですか」
下の子、メグル君。
バス停で見たときの印象は、少し大人しそうだったな……。
「うん、それでね……」
あのときのことを思い出している僕に、コトノさんは言葉を続ける。
「ユリも連れて行こうと思ってたんだけど……寝ちゃったのよね」
そう言って、短くため息をつく。
「起こすのも可哀相だし……」
「あ~、でしたら僕が見てますよ」
「え、ガッ君、大丈夫?」
「大丈夫です。お世話になってるわけですしね」
努めて明るく答える。
「そうねぇ……。ユリは寝てるだけだし、寝起きもいい子だし……問題なさそうかな」
納得するコトノさん。
「じゃあ、出来るだけ早く帰ってくるから、お願いね」
「わかりましたー」
「そろそろ旦那が帰ってくる頃だから、そしたらユリのこと任せちゃっていいから」
「はーい……って、コトノさん、旦那さんいたの?」
思わず、驚きの声が出た。
「いないように見えた?」
「す、すみません……。何て言うか、所帯じみてない感じが……」
「ふふ、それは褒め言葉として取っておくわ」
扉の向こうのコトノさんは笑う。
「うちの旦那ねー、昔、レスリングやってて体格がいいから、強盗と間違えないでね」
「レスリング……」
素手で組み合い、相手にタックルしたり、投げ飛ばしたりする激しいスポーツ。
……うん、僕には無縁の世界だ。
「それじゃ行ってくるわね」
「はい、行ってらっしゃい」
「お風呂出たら、冷蔵庫の中のもの、適当に飲んでていいから」
その言葉と共に、コトノさんは扉の前から去って行った。
不意に訪れた静けさ。
僕は、そっと浴室の扉を開いた。
「コトノさーん……」
返事はない。
どうやら、もう保育園に出発したようだ。
「ふぅ……」
小さくため息をつくと、洗濯機の上に置かれたバスタオルに手を伸ばす。
着替えがないため、このバスタオルを巻いているしかない。
目の前の洗濯機は、ゴウンゴウンと音を立てて動いている。
多分、僕の服を洗ってくれているのだろう。
本当に、ありがたいことだ。
「よっ……と」
タオルを、きつく腰に巻く。
とりあえず、これで僕の下半身は安心だ。
「ユリちゃんは……」
脱衣所を出て廊下を歩き、ダイニングの扉を開く。
なるほど、ユリちゃんはつけっぱなしのテレビの前で、安らかな寝息を立てていた。
その体にかけられた薄手のタオルケットは、お気に入りのものなのだろうか?
寝ているにもかかわらず、気持ち良さそうに何度も顔にこすりつけている。
その幸せな寝顔を見ていると、自然と笑みが浮かんできた。
「『――繰り返しお伝えします』」
テレビは、先程の強盗の臨時ニュースを繰り返し放送している。
「『こちらが、防犯カメラと目撃者情報を元に描かれた犯人の顔です』」
フリップを上げるアナウンサー。
そこには、こけた頬に太い眉、目つきの悪い40代半ばくらいの男性の顔が描かれていた。
「ほんと、物騒になったなぁ……」
僕はため息をつく。
「その点、子供は無邪気でいいな……」
その頭をそっとなでた。
子供たちは、僕に真っ直ぐぶつかって来てくれる。
そこには、何の駆け引きもない。
肉体的に疲れることも多いけど……。
それでも、下手に小細工する大人たちより、よっぽど良かった。
「ふふ……」
僕はゆっくり立ち上がると、微笑みを浮かべたままキッチンへと向かった。
『冷蔵庫の中のもの、適当に飲んでいいから』
その言葉に、甘えさせてもらっちゃおう。
ガチャ――
と、音を立てて冷蔵庫の扉を開く。
「うわ、ビールばっか……」
目に飛び込んで来た缶ビールの山に、思わず言葉が漏れた。
その山のふもとにある林檎ジュースと牛乳のパック。
「……よし、牛乳にしよう」
ちょっと迷って、牛乳に決めた。
ふと視界に入ったテレビでは、アニメの主人公が牛乳パックに直接口をつけて美味しそうに飲んでいる。
僕も真似してみたら、少しワイルドな自分に出会えるのかな?
一瞬そう思ったけど、結局は普通にコップに注いで飲むことにした。
「んぐんぐんぐ……ぷはあっ!」
シャワー上がりの体、そしてコーラしか入ってない胃袋に、牛乳が染み渡っていく。
「牛乳って、こんな美味しかったんだ……」
僕はおかわりをもらおうと、再び冷蔵庫に向かった。
「……ん?」
そのとき、少しだけ開いたキッチンの窓から、外の通路を歩く人の姿が見えた。
ここは角部屋だから、そこの窓から見えるのは、この部屋に来る人だけのはず……。
「コトノさん……じゃないな、男の人みたいだったし……」
じゃあ、旦那さん?
「旦那さんはレスリングやってたんだよな……」
僕は、窓から見えた姿を思い出してみる。
黒い服装に身を包んだ姿は、なかなかの細身に見えた。
「うん……体格がいいとは言えない……」
――じゃあ、誰?
僕が悩んでいるうちに、その足音は玄関の前で止まった。
扉の向こうでカチャカチャと音がする。
「旦那さんが、鍵を探しているのかな?」
それにしては、時間がかかっている気がする。
まさかとは思うけど……。
心の中を、にわかに覆う暗雲。
先程からテレビのニュースで流れている『強盗』の二文字が頭に浮かぶ。
「ま、まさかね……」
僕は、つぶやく。
相手の姿を、もう一度確かめられれば……。
でも、キッチンの窓からでは、玄関前にいる者の姿を見ることが出来ない。
「どうしよう!?」
扉の向こうの人物は、きっと旦那さんだ!
でも……。
旦那さんじゃないかもしれない……。
その不安を吹き飛ばすため、コトノさんが言っていた旦那さんの特徴を確認したいのだ。
うあーっ!
僕は、得も言われぬ恐怖に頭をかきむしった。
「……あ、そうだ!」
あることを思い出し、ふと顔を上げる。
視線の先には、ダイニングの壁に取り付けられたインターホンがあった。
そして、そこには予想通り、モニターがついていた。
もちろん、呼び鈴は押されていないため、モニターは黒いままで何も映ってはいない。
「でも……このスイッチを押せば……」
震える指でスイッチを押す。
黒いモニターが、瞬時にして光を放つ。
スイッチに呼応して、外壁のインターホンに付けられたカメラが作動したのだ。
「んーと……」
そのカメラが映し出す姿。
「体しか見えない……」
しゃがんで何かをしているため、体の一部分しか見えていない。
「で、でも、黒い格好をしてる……」
それは、ニュースで伝えられている犯人の黒い服と良く似ていた。
心の中の暗雲が、どんどん深くなる。
「……まあまあまあ!」
僕はその不安を吹き飛ばすように、明るく振る舞った。
「く、黒い服なんて珍しくないし……そ、そんなの僕だって着るさ」
うんうんと、何度もうなずく。
「やっぱり顔が見えないと……」
その瞬間、男が立ち上がった。
男の顔がモニターに映る。
「んああー!?」
太い眉の下に光る、鋭く細い目。
神経質そうな、こけた頬。
そして、歳の頃は、ちょうど40代半ばくらい。
まさに、テレビで見た強盗犯の似顔絵、そのままの顔だった。
「ちょ……!」
嘘でしょ!?
思いがけない展開に、頭の中が真っ白になる。
「あ、そうだ! 今、大声を上げれば……」
おそらく犯人はピッキングの真っ最中。
鍵を開けられる前なら、声を出せばビックリして逃げ出すかもしれない。
……なんでそんな簡単なこと、今まで気付かなかったんだろう。
僕は、大きく息を吸い込んだ。
その瞬間――
――カチャッ!
玄関の扉の鍵が外される音が響いた。
「んむ――!?」
僕は慌てて口を押さえ、出かかった声をなんとか飲み込む。
遅かった!!
鍵を開けられてしまった今、騒いだら動揺した犯人に殺されてしまうかもしれない!
口封じということだって十分に考えられる!
僕の背筋に、冷たい汗が流れた。
「に、に、に、逃げなくちゃ!」
幸いにして、犯人はまだ部屋に入ってこない。
外でガサガサと音がするところをみると、ピッキングに使った道具をしまっているのだろうか。
「は、早く、今のうちに……」
「う~ん……」
そのとき、耳に可愛い声が聞こえた。
思わず振り返る。
僕の瞳に映るもの、それは……。
「ユリちゃん……」
それは、小さな体で寝返りをうつユリちゃんの姿だった。
何の夢を見ているのだろう。
そこには、満面の笑みが浮かんでいた。
「くっ!」
この無邪気な笑顔を見捨てて逃げる……。
「……そんなこと」
僕は、思わず拳を握った。
「そんなこと、出来ない!」
眠るユリちゃんをそっと抱き上げると、隣の部屋へと運ぶ。
「この子は、僕が守らなきゃ!」
倒せなくてもいい!
捕まえられなくてもいい!
無事に犯人を追い返すことが出来れば、僕の勝ちだ!
「何か武器はないのか、何か!!」
包丁とか、フライパンみたいに、殺傷力が高いものはいらない。
犯人が逆上する可能性がある。
「牽制になるようなものでいいんだ!」
視線を巡らせる。
そして、僕の目がダイニングの片隅で止まった。
次の瞬間、そこに弾けるように飛んだ。
「こ、これだ!」
僕が手にしたもの、それは1本の杖だった。
テレビアニメの主人公が使う杖のおもちゃ、多分、ユリちゃんの物だろう。
キラキラと装飾がされたその杖は牽制にはもってこいだ。
長さは約50センチ。
先端はなかなかに重く、武器としても使えそうだった。
「よ、よしっ!」
その瞬間――
玄関の扉がゆっくりと開く音が聞こえた。
「く、来る!?」
胸の鼓動が早くなる。
神様……。
もし、願いが叶うなら、強い勇気をください!
僕は、その杖を両手でしっかりと握り締めた。