それから10分ほど走り、車は1軒のアパートの駐車場に停車した。
「はーい、到着ー!」
コトノさんはチャイルドシートのベルトを外し、ユリちゃんを車から降ろす。
助手席の僕も、それに習って外に出た。
「ここが……」
「そう、ここがウチ」
少し小さくも感じるそのアパートは、建てられてからまだ数年しか経過していないように思えた。
外壁にこのアパート名を示すプレートがある。
『
賑やかなコトノさんにピッタリの名前だと思う。
「この2階の角部屋なのよ」
そう言って、コトノさんは歩きだす。
その後を追ってユリちゃん、そして僕が続いた。
部屋の前に立ったコトノさんは、鍵を開けて扉を開く。
「さぁ、どうぞ。あまり綺麗じゃないけどね」
「お邪魔します……」
促され、おずおずと玄関の中に入る。
「わぁ……」
僕の口から、思わず感嘆のため息が漏れた。
目に飛び込んできた木目調の壁紙。
それは、壁だけではなく天井にも貼られていた。
壁と天井とを繋ぐ木目。
それはまるで、1本の樹をくり抜いて、部屋を作り上げたかのようだった。
「最近、都市開発とかで木が少なくなってきてるでしょ?」
コトノさんは言う。
「だから大家さんは、木の温かさを感じられるような部屋にしたかったんだって」
「そうなんですか……」
「まぁ、この辺はまだまだ自然が多いから、関係ないっちゃないんだけどね」
そう言って笑うコトノさんに、思わず僕もつられて笑ってしまった。
靴と汚れた靴下を脱ぎ、中に上がる。
部屋の間取りは1DKと、少し狭い。
でも、壁のハシゴを上れば広いロフトがあって、空間はしっかり確保されている。
「じゃあ、シャワー浴びてきちゃって」
コトノさんは、キッチンの奥を指差す。
「私は、その間にご飯の準備をしとくから」
「何から何まで……すみません」
「いいの、いいの。困ったときはお互い様」
そう言いながら、コトノさんは何気なくテレビを付けた。
「『次のニュースです。本日未明、強盗がスーパーに押し入り……』」
「ったく……最近、物騒で嫌ねぇ」
ニュースを見て、コトノさんがつぶやく。
「『犯人は40代くらいの痩せ型の男性で、帽子から靴まで全て黒という格好をしています』」
テレビは、防犯カメラに映った映像を流す。
口元を隠す白いマスク以外は、確かに全身黒づくめだった。
「ママ~、チャンネル変えていい?」
「あ、うん、いいわよ」
「わ~い」
ユリちゃんは歓喜の声を上げ、リモコンのボタンを叩く。
次々と変わる画面の中、動物の生態を紹介する番組に決めたようだ。
犬や猫、イルカなど生き物に目を奪われているユリちゃん。
我が子のその様子に、コトノさんは優しく微笑んだ。
「……あの」
そんな彼女に、恐る恐る声をかける。
「ん? まだ入ってなかったの?」
「はい……」
「なに? どうしたのよ?」
目を伏せる僕に、コトノさんは首を傾げた。
「……何で、見知らずの僕にここまでしてくれるんですか?」
「ん~? ユリのお礼って言わなかったっけ?」
「で、でも!」
僕は、ちらりとテレビに目を向けた。
「もし……僕が強盗だったら……」
「ん? 君は強盗なの?」
「い、いや、違いますけど!」
「じゃあ、いいじゃない」
明るく笑うコトノさん。
「で、でも……」
「亡くなったお婆ちゃんがさ~、困ってる人がいたら助けなさい、恩を受けたら必ず返しなさい……って、何度も何度も言ってたのよ」
「お婆ちゃんが……?」
「うん。それこそ、亡くなる直前までね」
彼女は目を細めた。
「そんな性格だったからか、お婆ちゃんのお葬式には、沢山の人が来てくれたの」
それは、今は亡き祖母との思い出を、そっと懐かしんでいるかのように見える。
「それこそ、全く縁もなさそうな人までね」
そう言って、嬉しそうに小さく笑った。
「素敵なお婆ちゃんだったんですね……」
「うん、大好きだった……」
目を閉じるコトノさん。
そのまぶたの後ろには、大好きなお婆ちゃんの笑顔が映っているのだろうか……
「そして、ね……。お婆ちゃん、こうも言ってた」
ゆっくりと目を開き、コトノさんは僕を見詰める。
「自分の信じる道を進みなさい、って」
「信じる……道……?」
「そう、私は君を助けたいと思った。だから助けた」
「で、でも、世の中、そんな簡単には……」
「……ったく~!」
食い下がる僕に、ため息をつく。
「何かしたいって思うことは、理屈じゃないのよ。自分が正しいと思うことなら、それを貫けばいいの」
「で、でも、それで失敗したら……」
「そのときは、その失敗を取り返せばいいわ」
そう言って、彼女は笑う。
「人生、手遅れなんてこと、そうそうあるもんじゃないし」
「そ、そうかもしれませんけど……」
「あ~、もう! さっきから何よ!?」
不意に鋭い目つきになるコトノさんは、キッと僕をにらんできた。
「そんなに私の生き方に、ケチを付けたいワケ?」
「い、いえ、そういうワケじゃ……」
その視線に気圧され、思わず焦る僕。
「ったく……君は、もっと自信を持たないとね」
「……はい」
僕に足りないもの、自信。
もっと自信を持てれば、世界は変わってくるのだろうか……。
「よ~し、それじゃシャワー浴びてきちゃいなさーい!」
うつむく僕の背中を、コトノさんは強く叩く。
よろけるようにして、僕は一歩踏み出した。
僕も、この人くらい前向きにいられたら……。
そっと振り返る。
瞳に映るコトノさんは、先程までの笑顔に戻っていた。
「ん? まだ何かある?」
「い、いえ……」
慌てて目を逸らす。
「はは~ん、さては……」
そんな僕の姿に、コトノさんはポンと手を叩いた。
「さては、お姉さんに体を洗ってもらいたいのね?」
「……なっ!?」
予想外のその言葉。
僕は驚き、コトノさんを見た。
「仕方ないなぁ……じゃあ、今回は特別に……」
な、な、な、なにを――!?
僕の体を隅々まで洗ってくれるコトノさん。
思わず、危険な妄想が脳裏に浮かぶ。
うあっ!
か、顔が熱い!
まるで顔が――
い、いや、頭の中が沸騰してるみたいだー!!
「け、け、け、結構ですー!!」
僕は叫ぶと、逃げるように脱衣所に飛び込み扉を閉めた。
扉の向こうでは、彼女の笑い声が響いていた。
「まったく……変な人だよ……」
短く息を吐く。
少し深呼吸をして心を落ち着けた後、服を脱いで浴室に入る。
蛇口に手を伸ばし、それを捻った。
「うわっ、冷たっ!」
シャワーの口から降り注ぐ冷水に、僕は思わず叫んだ。
「う~……!」
でも、この冷水は、火照った頭に心地好くもあった。
シャー……。
しばらく流していると、冷水は次第にお湯へと変わっていく。
「ふぅ……」
僕は、ようやく一息をついた。
体に当たったお湯が、黒く色を変えて流れていく。
それと共に、体中の疲れも流れていくようだった。
「バスタオル、置いておくわよ」
外から、コトノさんの声が聞こえた。
「あ、ありがとうございます」
「はーい」
明るい声と共に、脱衣所を出ていくコトノさん。
そして、しばしの後……。
「そういえば、ガッ君ー!」
再び脱衣所に帰ってきた。
「“ガッ君”って……」
最近、変な呼ばれ方することが多いな……。
僕の脳裏に、リオさんの顔が浮かんだ。
「……で、どうかしました?」
「うん、ガッ君ってさ~」
「はい?」
「着替え、持ってきてる?」
「あ……」
途切れる僕の声。
シャワーの流れる音だけが、空しく浴室内に響き渡っていた。