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第19話 『感謝の気持ち』

 爽やかな風が、緑の木々を揺らす。


「バス停での……」

「絆創膏の……」


 まぶしい青空の下で、僕たちは顔を見合わせた。


 目の前の女性と女の子。

 それは、この前バス停で会った親子だった。

 あのとき、転んだ女の子に持っていた絆創膏を貼ってあげたのだ。


 エリカの間違いが人の役に立った一時ひとときだった。


「この間は、ありがとうね」

「い、いえ、気にしないで下さい」


 微笑む女性に、僕は慌てて答える。

 タイトなTシャツとスカート、揺れる長い髪に、胸が一瞬熱くなった。


「ところで……こんなところで何してるの?」


 首を傾げる彼女。


「いえ……ちょっと道に迷って……」

「道に迷った?」


 その瞬間――


 ぐ~~~。


 僕のお腹が大きな音を立てた。


「あ……や……こ、これは……」


 そんな僕に、彼女はアハハと笑う。


「良かったら、うち来ない? この間のお礼も兼ねて、何かご馳走するわよ」

「えっ……」

「それとも、これから用事あった?」

「い、いえ、そんなのはないんですけど……ただ……」


 僕は、自分の服を見た。


「車、汚しちゃうかなって……」


 川で濡れたまま山歩きした体は、泥と葉が沢山ついていた。


「ふふ~ん、大丈夫」


 そう言うと、彼女は車から1枚のレジャーシートを取り出す。

 そして、それを助手席に敷いた。


「これなら、少しくらい汚れてても大丈夫でしょ」

「よ、用意がいいんですね……」

「小さい子がいるから、こういうのは慣れっこなのよ」


 そう言って笑う彼女の顔は、青空のように澄み切っていた。



「私、藤堂とうどう 琴乃ことの。ヨロシクね!」


 ハンドルを握る彼女は、前を向いたまま言う。


「あたし、由梨ゆり


 後部座席のチャイルドシートから、薄桃色のワンピースに身を包んだユリが、足をバタつかせて言う。


「僕……梨川 学司……です」

「んー、元気ないなぁ!」


 コトノさんは唇を尖らせ、


「でも、しょうがないか! 私もお腹減ってたら元気出ないしね」


 そして、1人で納得して、明るく笑っている。


「ねー、おにーちゃん、あのねー! あたしね、弟もいるんだよー!」

「え? 弟?」


 ユリちゃんの言葉に、バス停でのシーンを思い出す。


「……ああ、そう言えば」


 確かにあのとき、もう1人小さな男の子がいた。


 ユリちゃんの隣りの席にある、青いチャイルドシート。

 それが、その子の席なのだろう。


めぐるって言うんだよー」

「メグル君かあ」

「うんっ! メグルは、あたしと一緒に幼稚園に行ってるの」


 幼稚園……。

 懐かしい響きだ……。


 元気に話すユリちゃんに、妹のエリカの姿を重ね、僕はそっと微笑んだ。


 でも……。

 こんなことが本人に知られたら――


「エリカ、そんなに子供じゃないもん!」


 とか言って怒るんだろうな……。


 僕は思わず苦笑した。


 ……って、あれ?


「ユリちゃんは、幼稚園お休み?」


 その言葉に、ユリちゃんはコックリとうなずく。


「あたしねー、今日は咳コンコンのキツネさんになっちゃったの」


 そう言って、わざと咳をする。


「朝、ちょっと咳が出て、グズってたから、お休みにして病院に行ってきたのよ」


 コトノさんが補足し、車内に取り付けられた鏡で我が子の様子をチラリと見た。


 僕はその鏡を知っている。

 振り返らなくても、チャイルドシートの様子が見られる便利なアイテムだ。

 母さんも、エリカがまだ小さかった頃に使っていた。


「それで、今がその帰りってわけ」

「なるほど……」

「今は、こんなに元気なのにね」


 僕が振り返ると、ユリちゃんは無邪気な笑顔を見せる。

 コトノさんは、仕方ないという風にため息をついて苦笑した。



 車は山を抜け、なだらかな道を走る。

 まだまだ自然は多いけど、ぽつりぽつりと民家も見え出した。


「……それで、君は?」

「え?」


 不意に話を振られ、困惑する僕。


「あんなとこ、1人で歩く人なんて、なかなかいないよ?」

「僕は……」


 一瞬、頭に教習所、そしてミサキの顔が浮かぶ。


「僕は……」


 ミサキと過ごした教習所での日々が蘇り、僕は思わずうつむいた。


 偶然の再会。

 技能教習のときに握った手。

 温かく、柔らかな温もり。

 月明かりの下、2人でヤマボウシの白い花を眺めたりもした。


 心と心が触れ合って――

 そして、それを恋と認識して――


 ミサキも、僕と同じ気持ちでいるものだと思っていた。


 でも――

 それは違っていたんだ……。


 こんな苦しみが待っているなら、もう恋なんかしない方がいい。


 そもそも、陸上からも教習所からも……。

 そして……。

 ミサキからも逃げ出す僕に、人の心に触れる資格はないのかもしれない。


 僕がいなくても世界は回る。

 僕なんかいなくても、きっとみんな気にしないだろう。


 そう、僕なんか……。


「な、な~んか、ワケありねぇ」


 深く肩を落とす僕に、コトノさんは頬をかいた。


「僕なんか……僕なんかが……」


 久しぶりに襲い来る負の感情。

 心身共に疲れきった僕に、それに抗う術はない。


「……ねぇ」


 そのとき、不意にコトノさんが車を止めた。


「何を悩んでるかはわからないけど……」


 その顔は、真っ直ぐ前を見詰めたまま。


「無責任かもしれないけど……若い頃はいっぱい悩んでいいと思う。悩んで、苦しんで……。それで少しずつ大人になっていくものだから」


 風が、その長い髪を揺らしていく。


「……でもね!」


 不意に、ハンドルを握る手に力が入る。

 コトノさんは、ゆっくりと振り向いた。


「“僕なんか”なんてこと、言わないで」


 その瞳は、とても真剣だった。


「君には君の魅力があるはずだから」

「僕の……魅力?」

「そうよ。小さい子に手を伸ばす、優しい心を持っているんだから」


 そう言って、コトノさんはチャイルドシートの愛娘に微笑む。

 ユリちゃんも、ニッコリと微笑みを返した。


「助けたって言っても、あれくらい……」

「それでも、私たちは君に感謝した。君には何でもないことでも、私たちは凄く嬉しかったのよ」

「そ、そんな……」

「ふふ……君はまだ若いんだし、焦ることないわよ」


 戸惑いを隠せない僕に、コトノさんは優しく言う。


「いっぱい悩んで大きくなれ、少年!」


 そして、Vサインをビッと突き出してきた。

 落ち込む僕を力付けようと、明るく振る舞ってくれているのだろう。

 その優しさが、素直に嬉しかった。


「ありがとう……ございます……」


 そう、つぶやくように言い、静かに顔を上げた。

 僕を見詰めているコトノさんと目が合う。


「す、すみません……初対面の人に、こんな姿……」


 不意に恥ずかしさが込み上げて、思わず謝罪が口から漏れた。


「ふふっ、若い頃はありがちなことよ」


 そう言って笑う。

 その笑顔に、少しだけ心が軽くなった気がした。


「それじゃ、行くわよ!」


 コトノさんは前に向き直ると、アクセルを踏んだ。

 排気熱を感じさせるエンジン音が辺りに響き渡る。

 赤いオープンカーは、風を切って再び走り出した。

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