爽やかな風が、緑の木々を揺らす。
「バス停での……」
「絆創膏の……」
まぶしい青空の下で、僕たちは顔を見合わせた。
目の前の女性と女の子。
それは、この前バス停で会った親子だった。
あのとき、転んだ女の子に持っていた絆創膏を貼ってあげたのだ。
エリカの間違いが人の役に立った
「この間は、ありがとうね」
「い、いえ、気にしないで下さい」
微笑む女性に、僕は慌てて答える。
タイトなTシャツとスカート、揺れる長い髪に、胸が一瞬熱くなった。
「ところで……こんなところで何してるの?」
首を傾げる彼女。
「いえ……ちょっと道に迷って……」
「道に迷った?」
その瞬間――
ぐ~~~。
僕のお腹が大きな音を立てた。
「あ……や……こ、これは……」
そんな僕に、彼女はアハハと笑う。
「良かったら、うち来ない? この間のお礼も兼ねて、何かご馳走するわよ」
「えっ……」
「それとも、これから用事あった?」
「い、いえ、そんなのはないんですけど……ただ……」
僕は、自分の服を見た。
「車、汚しちゃうかなって……」
川で濡れたまま山歩きした体は、泥と葉が沢山ついていた。
「ふふ~ん、大丈夫」
そう言うと、彼女は車から1枚のレジャーシートを取り出す。
そして、それを助手席に敷いた。
「これなら、少しくらい汚れてても大丈夫でしょ」
「よ、用意がいいんですね……」
「小さい子がいるから、こういうのは慣れっこなのよ」
そう言って笑う彼女の顔は、青空のように澄み切っていた。
「私、
ハンドルを握る彼女は、前を向いたまま言う。
「あたし、
後部座席のチャイルドシートから、薄桃色のワンピースに身を包んだユリが、足をバタつかせて言う。
「僕……梨川 学司……です」
「んー、元気ないなぁ!」
コトノさんは唇を尖らせ、
「でも、しょうがないか! 私もお腹減ってたら元気出ないしね」
そして、1人で納得して、明るく笑っている。
「ねー、おにーちゃん、あのねー! あたしね、弟もいるんだよー!」
「え? 弟?」
ユリちゃんの言葉に、バス停でのシーンを思い出す。
「……ああ、そう言えば」
確かにあのとき、もう1人小さな男の子がいた。
ユリちゃんの隣りの席にある、青いチャイルドシート。
それが、その子の席なのだろう。
「
「メグル君かあ」
「うんっ! メグルは、あたしと一緒に幼稚園に行ってるの」
幼稚園……。
懐かしい響きだ……。
元気に話すユリちゃんに、妹のエリカの姿を重ね、僕はそっと微笑んだ。
でも……。
こんなことが本人に知られたら――
「エリカ、そんなに子供じゃないもん!」
とか言って怒るんだろうな……。
僕は思わず苦笑した。
……って、あれ?
「ユリちゃんは、幼稚園お休み?」
その言葉に、ユリちゃんはコックリとうなずく。
「あたしねー、今日は咳コンコンのキツネさんになっちゃったの」
そう言って、わざと咳をする。
「朝、ちょっと咳が出て、グズってたから、お休みにして病院に行ってきたのよ」
コトノさんが補足し、車内に取り付けられた鏡で我が子の様子をチラリと見た。
僕はその鏡を知っている。
振り返らなくても、チャイルドシートの様子が見られる便利なアイテムだ。
母さんも、エリカがまだ小さかった頃に使っていた。
「それで、今がその帰りってわけ」
「なるほど……」
「今は、こんなに元気なのにね」
僕が振り返ると、ユリちゃんは無邪気な笑顔を見せる。
コトノさんは、仕方ないという風にため息をついて苦笑した。
車は山を抜け、なだらかな道を走る。
まだまだ自然は多いけど、ぽつりぽつりと民家も見え出した。
「……それで、君は?」
「え?」
不意に話を振られ、困惑する僕。
「あんなとこ、1人で歩く人なんて、なかなかいないよ?」
「僕は……」
一瞬、頭に教習所、そしてミサキの顔が浮かぶ。
「僕は……」
ミサキと過ごした教習所での日々が蘇り、僕は思わずうつむいた。
偶然の再会。
技能教習のときに握った手。
温かく、柔らかな温もり。
月明かりの下、2人でヤマボウシの白い花を眺めたりもした。
心と心が触れ合って――
そして、それを恋と認識して――
ミサキも、僕と同じ気持ちでいるものだと思っていた。
でも――
それは違っていたんだ……。
こんな苦しみが待っているなら、もう恋なんかしない方がいい。
そもそも、陸上からも教習所からも……。
そして……。
ミサキからも逃げ出す僕に、人の心に触れる資格はないのかもしれない。
僕がいなくても世界は回る。
僕なんかいなくても、きっとみんな気にしないだろう。
そう、僕なんか……。
「な、な~んか、ワケありねぇ」
深く肩を落とす僕に、コトノさんは頬をかいた。
「僕なんか……僕なんかが……」
久しぶりに襲い来る負の感情。
心身共に疲れきった僕に、それに抗う術はない。
「……ねぇ」
そのとき、不意にコトノさんが車を止めた。
「何を悩んでるかはわからないけど……」
その顔は、真っ直ぐ前を見詰めたまま。
「無責任かもしれないけど……若い頃はいっぱい悩んでいいと思う。悩んで、苦しんで……。それで少しずつ大人になっていくものだから」
風が、その長い髪を揺らしていく。
「……でもね!」
不意に、ハンドルを握る手に力が入る。
コトノさんは、ゆっくりと振り向いた。
「“僕なんか”なんてこと、言わないで」
その瞳は、とても真剣だった。
「君には君の魅力があるはずだから」
「僕の……魅力?」
「そうよ。小さい子に手を伸ばす、優しい心を持っているんだから」
そう言って、コトノさんはチャイルドシートの愛娘に微笑む。
ユリちゃんも、ニッコリと微笑みを返した。
「助けたって言っても、あれくらい……」
「それでも、私たちは君に感謝した。君には何でもないことでも、私たちは凄く嬉しかったのよ」
「そ、そんな……」
「ふふ……君はまだ若いんだし、焦ることないわよ」
戸惑いを隠せない僕に、コトノさんは優しく言う。
「いっぱい悩んで大きくなれ、少年!」
そして、Vサインをビッと突き出してきた。
落ち込む僕を力付けようと、明るく振る舞ってくれているのだろう。
その優しさが、素直に嬉しかった。
「ありがとう……ございます……」
そう、つぶやくように言い、静かに顔を上げた。
僕を見詰めているコトノさんと目が合う。
「す、すみません……初対面の人に、こんな姿……」
不意に恥ずかしさが込み上げて、思わず謝罪が口から漏れた。
「ふふっ、若い頃はありがちなことよ」
そう言って笑う。
その笑顔に、少しだけ心が軽くなった気がした。
「それじゃ、行くわよ!」
コトノさんは前に向き直ると、アクセルを踏んだ。
排気熱を感じさせるエンジン音が辺りに響き渡る。
赤いオープンカーは、風を切って再び走り出した。