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第18話 『灼熱デッドヒート』

 草木の緑が染み渡る季節。

 今を盛りと大合唱するセミの歌声が聴こえる。


 暦の上では、暑さの峠は越えているはずだ。

 でも、実際の気温は高く、夏はまだまだ厳しい暑さを与えていた。


 ……でも、それは実家にいたときのお話。


 山にある伯父さんの教習所は、言わば避暑地だ。

 とても涼しくて、爽やかな風が優しく包み込んでくれる。


「すぅ……」


 僕は、緑が香る新鮮な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。



 ――というのが、昨日までの僕だった……。


 なのに、今は……。


「ぜはーっ! ぜはーっ! ぜはーっ!」


 荒い息が、山の中に響き渡る。

 新鮮な酸素を吸い込み、激しく二酸化炭素を吐き出す。

 緑の景色が、勢い良く後ろに流れていく。

 今の僕には、美味しい空気も、美しい緑も楽しむ余裕はなかった。


 そう、僕は今、全力で山道を疾走中なのだ。


 起伏の激しい山道。

 そこを走る足はパンパンに張り詰め、口からは心臓が飛び出しそうだ。


 でも、そんな泣き言を言っている暇はない――っ!

 コイツから、逃げないと……!


 全力疾走する僕を追い掛ける、4つ足の生き物――


 ――野犬!


 古来より犬は人間のパートナーとして、そして親しい友として生きてきた。

 でも、牙をむき出して追い掛けてくるコイツは、それを根底から否定しているように見える。


 そりゃ、石をぶつけてしまったのは悪かったけど……。


 それだって、ワザとじゃないんだ!

 何気なく蹴った石が、たまたま茂みにいた野犬に当たってしまったのだ。

 言ってみれば不運な事故だよ。

 それを、ここまで怒ることもないだろうに……。


「ガウ!? ガウガウガウ――ッ!!」

「うわあああっ!?」


 そんな僕の視線に気付いたのか、野犬はヨダレを撒き散らして吠える。


「くっそ――っ!!」


 人類は、これまでだって様々な危機に遭遇してきた。

 でも、その英知で見事に乗り越えて来たんだ!


「うおお、人間ナメんなー!!」


 傾斜、地形、路面状況を瞬時に判断し、猛然とスパートする。


 中学のときは、1年生ながら400メートルリレーの選手になったんだ!

 お前なんかに負けるものか――!!


 野犬との差が開いていく――


 と、思ったのも束の間。


「ガウッ!!」


 野犬は一声あげると、更に身を屈めて大地を蹴る。

 加速する野犬。

 そのスピードの早いこと。

 みるみるうちに、僕との差がなくなっていく。


「うわわ――っ!?」


 もし、野犬が人の言葉を話せたなら、きっとこう言っているだろう。


「犬、ナメんな」


 ――と。


 あっという間に距離を詰める野犬。

 その熱い息が、肌に伝わる。


「そ、そうだ! 茂みに逃げ込めば……」


 低い草木が、野犬を遮ってくれるかもしれない!

 そう思い、茂みに飛び込んだ。


 果して、僕の目論みは当たっていた。

 走りづらそうな野犬。


 で、でも、それ以上に僕が走りづらい!


 草木が足に絡みつく。


 し、茂みは失敗だったかな……!?


「ガァウッ!!」


 背後に迫る鋭い牙。


 も……もうダメだ……。


 僕の脳裏に“諦め”の2文字が浮かんだ――


 そのとき!


「……あれ!?」


 不意に体重が軽くなる感覚。

 それまで大地を蹴っていた足の裏に、何も伝わってこない。

 まるで空を駆けるような、これは……。


 じ、地面が……ない!?


 生い茂った草木のせいで、先に道がないことに気付かなかったんだ!


「うわあああ――!!」


 叫び声と共に、僕の体は落下し……。


 そして――


 ザッパーン!!


 水音と共に、派手な水しぶきが舞い上がった。


「うあっ、か、川だっ!!」


 ジャバジャバと、水の中でもがく僕。


 はっきり言って、泳ぎは得意じゃない!

 っていうか、走ること以外は全て苦手だ!


 このまま溺れ死んでしまうの……!?

 そ、そんなのは嫌だ!


 僕はもがき、なんとか水面から顔を出した。


「ぷはっ!」


 空気が美味しい。

 い、いや、爽やかな意味じゃなくて。


 右膝が痛む。

 どうやら、落ちたときに川底にぶつけたらしい。


 泳ぎが苦手な上に右膝の負傷。

 これではもう、溺れることは決まったようなものだ。


「くっ! ここまでなのか!」


 僕は、無念の思いで叫んだ。


 ……って、あれ?

 川底に膝をぶつけるってことは……。


 もがくのをやめ、静かに体を起こしてみる。


「あ……足がつく」


 水は、僕の太ももまでの高さしかなかったのだ。


「人間、パニックになると正しい判断が出来なくなる……」


 まさに、その見本だった……。


 そのまま、ジャバジャバと向こう岸まで歩く。

 野犬は、濡れるのを嫌がってか、追って来なかった。


「やーい、やーい!」


 岸に上がった僕は、向こう岸の野犬に向かって勝利のポーズを見せてやった。

 次の瞬間、川に飛び込む素振りを見せる野犬。


「うわあ、ごめんなさ――い!」


 僕は、全力でその場を後にした。




 それから30分後――


「迷った……」


 僕は、山の中でつぶやいた。

 周りは眩しい緑ばかり。

 空は高い樹木に覆われ、太陽の方角すらわからない。


「と、とりあえず、下ってみよう……」


 獣道のようなところを、ふもとであろう方向に向かって歩く。

 時折、不意に音を立てる茂みが怖い。


「ま、また野犬とか、いるんじゃないだろうな……」


 でも、茂みからは何も現れず――

 なんとか舗装された道路に出ることが出来た。


 やっぱり、舗装された道は歩きやすい。

 草木に遮られず、空で悠然と輝く太陽。

 僕は、それに向かって大きく背伸びをした。


「よし、この道を下ってみよう!」


 舗装された道の上に、濡れた足跡が点々と続いた。




 そして、それから更に30分後……。


 僕は、誰ともすれ違うことはなかった。

 今日は夏休みとはいえ、平日だ。

 こんな秘境みたいな場所を訪れる者はいないのだろう。


 ただ、ひたすらに歩く。


「おなか……減った……」


 僕のつぶやきが、山の中に響いた。


 夕べのバーベキュー以来、何も口にしていない。

 そんな状態で山歩きをしたり、野犬に追われたり、川に落ちたりしたのだ。

 もう、精根尽き果てそうだった……。


 ズボンのポケットに手を当てる。

 手に伝わる財布の感触。


「お金は……あるんだ」


 財布の中には、確か3000円くらい入っているはず。


「でも……」


 僕は、足を止めて天を仰いだ。


「でも……店がないんだ……」


 爽やかな風が、優しく吹き抜けていった。


「うう……何か食べるもの……」


 うめく僕の視界に入る、1台の自動販売機。

 それは、ジュースの自動販売機だった。


 こんなとこで、誰か買うのだろうか……。

 そう思うくらい、自販機は寂れていた。


 でも、背に腹は変えられない!


 僕は自販機に走ると、勢い良く小銭を投入した。

 コーラを3本購入。

 そして、それをおもむろに飲む。

 からっぽの胃に染み渡っていくコーラ。


 2本と半分飲んだところで、気持ちが悪くなった……。


 涼しい風が、僕の頬をなでていく。


「これからどうしよう……」


 これからの不安と、腹部膨満感ふくぶぼうまんかんに思わずうつむいた、そのとき――


「……あ!」


 僕の脳裏に浮かぶもの。


「スマホがあるじゃん……」


 そうだ、伯父さんに電話をして、助けに来てもらおう!


 でも……。

 試験から逃げ出した身としては、連絡しづらいものがある。


「だ、だけど、そんなこと言ってる場合じゃない!」


 僕は、ズボンの前ポケットからスマホを取り出した。


「……あ」


 が、しかし、しっとりと水を含んだそのスマホは、うんともすんとも言ってくれなかった……。


「終わった……僕の人生……終わった……」


 もうダメだ、もう動けない。


 半ば自暴自棄になった僕は、ゴロンと道路の真ん中に倒れ込んだ。

 野鳥のさえずる声が、風に乗って耳に届く。


「何で、こんなことになっちゃったんだろ……」


 こんなことなら、素直に試験を受けに行っていた方が良かったかもしれない。


「これから……僕はどうなるんだろう……」


 見上げた空は果てしなく青くて――

 思わず、瞳に涙が浮かんだ。


 ――と、そのとき……。


「……ん? 車の音……?」


 耳に刺さるような爆音。

 甲高い排気音エキゾ-ストノート


 それは、どんどんこちらに近付いてくる。


「もしかして、助かるかも……!」


 心の中に希望が湧いた。

 疲れきった四肢に力を込め、無理矢理に立ち上がる。

 僕の目に、曲がりくねった山道を駆け上がる、真っ赤なスポーツカーが見えた。

 どうやらオープンカーのようだ。


 オープンカーは、みるみるうちに近付いてくる。

 僕は、道路の真ん中に立つと、


「おーいっ、おーいっ!」


 ありったけの声で叫んだ。


 ややあって、目の前のカーブを曲がってオープンカーが姿を現す。


「止まってくださーいっ!」


 ドライバーは僕に気付くと、慌ててブレーキを踏んだ。

 鳴り響く、甲高いブレーキ音。


 車は、僕の目の前で停止……。


 停止……。


 ――停止出来ない!?


「うわあっ!!」


 引かれそうになった僕は、転がるようにして道の脇に逃げた。

 辺りに漂うゴムの焼ける臭い。

 道路にくっきりとタイヤの跡をつけ、車は数メートル先で停車した。


「あ、危なかった……」


 つぶやく僕の目の前で、勢い良く扉が開く。

 中から、サングラスをかけた、長い髪の女性が現れた。


「助かった……」


 ふぅ……。

 と、ため息をつく僕に、女性は髪を振って詰め寄ってきた。


「何やってんのよ! 危ないでしょ!」


 すごい剣幕で女性は怒鳴る。


「こんな道の真ん中で、行き倒れじゃあるまいし!」


 いや、その通りなんですよ……。


 僕が、そう答えようとした瞬間――


「あーっ!」


 後部座席から、可愛らしい声が響いた。

 シートから身を乗り出し、小さな女の子が姿を現す。


 その小さな口が、嬉しそうに開いた。


「バンソーコくれた、おにーちゃんだー!!」

「「えっ!?」」


 僕たちの口から、思わず驚きの声が漏れた。

 女性は、慌てたようにサングラスを外す。


 そして、次の瞬間――


「「あーっ!」」


 2人は同時に叫んでいた。

 僕たちの声は、遠い山々に山びことなって響き渡っていった……。

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