不意に夜風が、上空の雲を吹き流す。
月明かりと外灯に照らされた裏庭は、にわかに明るさを増した。
その明かりの中、1人たたずむ彼女。
「後藤さん……」
「な、梨川くん……?」
彼女は、驚きの表情で僕を見た。
やっぱり可愛い……。
そんな表情ですら可愛く見えてしまう。
上下共に、ジャージに身を包んだミサキ。
この合宿では、部屋着はジャージでと決められているからだ。
もちろん学校と違い、指定というものはない。
僕をはじめ、皆、思い思いのジャージに身を包んでいた。
ミサキの着る白色のジャージは、その細身の体に良く似合っている。
でも……。
上も着てて暑くないのかな?
ここは自然が多く涼しい環境とはいえ、やはり今は夏だ。
僕は、上はTシャツ、下はジャージという姿でちょうどいい。
寒がりなのかな……。
そう思ったとき、ミサキの口が不意に動いた。
「あれ……?」
「えっ?」
その姿に見とれていた僕は、思わず慌てふためく。
そんな中、ミサキは僕を指し示した。
「それ……」
「えっ、ど、どれ?」
「梨川くんのジャージのズボン……」
「えっ、ズボン?」
もしかして、穴でも空いているのだろうか!?
慌ててズボンを確認する。
でも――
続くミサキの言葉は、想像していたものとは違っていた。
「それ……私と同じジャージじゃない?」
「えっ……?」
僕は、ミサキのジャージに目を向ける。
「あ……ホントだ……」
僕のジャージは、黒地に紫のライン。
対するミサキのジャージは、白地に緑のライン。
色は違うけど、それはまさしく同じ型のものだった。
「ぼ、僕、このメーカーが好きで!」
「私も、ここのデザイン好きなんだ」
そう言って、ミサキは微笑む。
ミサキが……僕と同じものが好き……!
その事実に興奮し、胸は激しく高鳴り出した。
「ぼ、僕、本当にこのメーカーが好きで! だ、だから、陸上のスパイクとかも、このメーカーで!」
口から言葉が、滝のように溢れ出してくる。
「こ、ここの道具って、デザインはもちろん、使い心地も本当に良くて……」
もう、自分でも自分が止められない。
「マークもかっこよくて……。好きなんです! ほ、本当なんです! 僕、好きなんです!」
もはや、自分でも何を言ってるのか、わからなくなっていた。
僕の勢いに、ミサキは呆気に取られているようだ。
はぁう、しまった……。
舞い上がりすぎだろ、僕!
「や……ち、違うんだ!」
手をばたつかせてフォローに入る。
「中学の頃なんか、『お前は広告塔か!』って言われるくらい身につけてたんだ……って、そんな話、どうでもいいか……」
フォロー失敗……。
僕は、深くため息をついた。
その瞬間――
「あははっ、やっぱり梨川くんは面白いね」
お腹を抱えて笑うミサキ。
どうやら、僕のリアクションはミサキのツボに入ったらしい。
ま……前にも、こんなことあった気がするな……。
笑い続けるミサキを前に、額の汗を拭った。
「あははは……」
ひとしきり笑ったミサキは、涙を拭きながら近くのベンチを指差した。
「ねぇ、座ろう」
そう言って、ミサキは軽やかに歩くとベンチに腰を下ろす。
な……!?
二人で並んでベンチに座る……だとっ!?
「早くおいでよー」
「う、うん、今いく」
そう言って、僕は平静を装い、足取り軽く歩き……。
あ、あれ、なんだこれ。
膝も足首も曲がらないぞ?
「梨川くん……おもちゃのロボットみたいだよ?」
「い、今、これがマイブームで……」
小首を傾げるミサキの元になんとか辿り着くと、僕も習って腰を下ろす。
「あ~、夜風が気持ちいいね~」
風にたなびく髪を押さえ、ミサキは空を見上げた。
「ウ、ウン、ソーデスネ」
そう答えるも、ほてった僕の体は、夜風くらいでは冷ませない。
心臓の鼓動も、激しさを増したままだ。
「……あ、あそこの木を見て」
ミサキが、5メートルくらいの高さの木を指差す。
緑の葉の中に、真っ白い花が枝いっぱいに咲きこぼれている。
「ヤマボウシっていうの。綺麗でしょ? 私、あの花が大好きなんだ」
無邪気に微笑むミサキ。
そして、更に高まる胸の鼓動。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやば――――い!
その笑顔は反則だー!!
僕の心臓は壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、脈を打ち続けている。
「ねぇ、梨川くん……」
気が付くと、ミサキが僕を見つめていた。
胸の鼓動が一段と大きくなる。
「な、なに?」
「ちょっと、瞳を閉じてみて」
「え……う、うん」
な、何だろう……?
理由はわからないけど、とりあえずミサキの言葉に従ってみる。
「それじゃ、大きく息を吸って……」
すぅ……。
「ゆっくり吐いて……」
はぁ……。
「吸って……。吐いて……」
「あ、あの……これは一体……?」
「いいから、やってみて」
「う、うん……」
すぅ……はぁ……。
すぅ……はぁ……。
「夜風……気持ちいいね」
ミサキは、さっきと同じことを言う。
「うん……」
僕は、うなずいた。
「耳を澄ませてみて……」
心の奥に響くようなミサキの声。
そっと耳を澄ますと――
風が木々の葉を揺らす音が聞こえた。
優しく吹く風。
運ばれた草木の香りが鼻をくすぐる。
心が穏やかになり、感覚が研ぎ澄まされていく……。
これは、先程の僕では考えられなかったものだ。
瞳を閉じて風を感じていると、人間も大自然の一部なんだと素直に思うことができた。
「……はい、目を開けてもいいよ」
しばしの後、優しいミサキの声が響いた。
ゆっくり瞳を開く。
「どう……? まだ、ドキドキしてる?」
「いや……もう大丈夫みたい」
僕は、微笑んだ。
落ち着いた気持ち、安定した脈拍。
先程までの自分が、嘘のようだ。
「私もね……ドキドキが収まらないとき、こうやって深呼吸するんだ」
「そうなんだ……」
「環境が変わって、色々戸惑うことあると思うけど、頑張ろうね」
どうやら、先程の僕の状態は、慣れない環境下での不安の表れと捉えたらしい。
本当は、ミサキの可愛さにドキドキしていたのだけれど……。
でも、そんなこと、言えるはずもなく……。
「ありがとう」
僕は、素直にお礼を言った。
嬉しそうに微笑むミサキ。
その笑顔に、また胸が高鳴る。
でも、深呼吸の効果があってか、今回は我を失うことはなかった。
「後藤さんも散歩?」
「うん……ちょっと眠れなくて……」
「そうなんだ。実は、僕もそう」
「梨川くんも?」
僕たちは、顔を見合わせ笑いあった。
「まさか、こんなとこで梨川くんに会えるなんて、思ってなかったよ」
「僕だってそうだよ」
「初日、梨川くん、遅刻してきたよね~」
「あ、あれは、ちょっと……」
いたずらな笑みを浮かべるミサキに、僕は慌てて弁解する。
転んで怪我をした女の子。
その手当てをしていたら、バスに乗り遅れてしまったことを……。
「そうなんだ……」
ミサキは感心したように、深くうなずいた。
「梨川くん、偉いね~」
「いや……たまたまだよ」
僕は頭をかく。
「たまたま傷薬を持ってたから」
「ふふふっ、妹さんのおかげだね」
「……確かに」
僕たちは、また顔を見合わせて笑った。
ああ……やっぱりミサキっていいな……。
つくづく実感する。
ミサキと話していると楽しい。
彼女の元気が伝わってきて、僕まで元気になれる気がする。
こんな気持ちは、初めてだった。
「あ……そういえば、梨川くん」
ミサキは、不意に僕を見た。
「ん~?」
幸せな気分で、ミサキを見返す。
その口が静かに開いた。
「梨川くんって……本当は自分のこと“僕”っていうの?」
「……えっ!?」
幸せな気分は、音を立てて崩れ去った。
「ぼ……いや、俺、“僕”って言ってた!?」
「うん、最初からずっと……」
しまった――!!
動揺していたときだろうか。
ミサキの前で“僕”を使ってしまったらしい。
人前では自分のことを“俺”と呼ぶことにしていたのに。
“僕”という呼び方は、少し軟弱なイメージがあったから……
うぅ……。
親にしか見せたことないのに……!
思わず頭を抱えた。
そのとき――
「“僕”、いいよね」
ミサキは、そう言って笑顔を見せる。
「……え?」
予想外の言葉。
僕は驚き、顔を上げた。
「“僕”って……軟弱……っていうか、子供っぽい感じしない?」
「全然!」
ミサキは、首を横に振った。
「優しい感じがして、梨川くんによく似合うと思う」
「そ……そうなの?」
「うん! 梨川くんは、“俺”より“僕”の方がしっくり来るかも」
驚きだった。
まさか、そんなことを言ってくれるとは、夢にも思っていなかった。
「あ……そんな風に思われるの、嫌だった? だとしたら、ゴメンね」
「い、嫌じゃないよ!」
僕は、慌てて手を振った。
「うん……。じゃ……これからは“僕”って言うことにしようかな……」
微笑みながら答える。
僕的にも、その方が話しやすいし。
「ふふ……」
ミサキは、小さく笑いながら立ち上がった。
「梨川くんは、やっぱり優しい人だった」
そのまま手を後ろで組み、爪先を立てるようにして歩くミサキ。
「実はね……最初、梨川くんって怖い人だと思ってたの」
「えっ……そうなの!?」
僕は、思わず立ち上がる。
「そうだよ~」
「だって、最初の頃って、私のこと避けてる感じがしたから」
「え……!?」
「私、嫌われてるのかなって……」
「そんなことない!!」
思わず大きな声が出た。
避けていたのは、君のこと意識するあまりに……。
喉まで出かかるその言葉。
それを、なんとか飲み込む。
今の僕に、それを切り出す勇気はない。
せっかく、2人で仲良く話せるようになったのに……。
そんなことを言って、今の関係が壊れてしまうのだけは絶対に避けたかった。
「うん……。数ヶ月だけど一緒にいて、梨川くんがそんな人じゃないこと、ちゃんとわかったから」
ミサキは微笑む。
この笑顔を失うのが怖い。
でも……。
もっと、彼女に近付きたい……。
その葛藤。
揺れる想い。
大きく深呼吸をすると、正面からミサキを見つめた。
「あ、あのさ……」
「……うん?」
ミサキは、首を傾げる。
もっと近付きたい――
その想いが、僕を突き動かす。
「ぼ、僕、みんなから“ガク”って呼ばれてるんだ」
「うん、そうだね」
「だ、だから……。良かったら後藤さんも、僕のこと“ガク”って呼んで下さい!」
勇気を振り絞ったその言葉。
心臓は、バクバクと音を立てている。
「ほ、ほらっ、な、“梨川くん”って、他人行儀な気がするじゃん? ……友達なのに」
慌てて言葉を付け加える。
“友達なのに”と付けないといられない自分が悲しい……。
僕の言葉に、ミサキは少し考える素振りを見せる。
そして……。
「……うん、わかった」
と、首を縦に振った。
「あ、ありがとう……」
ほっと胸をなで下ろす。
「でも……そのかわり……」
ミサキは、人差し指を立てた。
「私も、みんなから“ミサキ”って呼ばれてるから……」
「えっ……それって……」
ミサキを、驚き見る。
「うん……だから、私のことも“ミサキ”って呼んで下さい」
そう言って、ミサキは優しく微笑む。
僕の中で、何かが弾けた音がした。
2人を隔てる心の壁。
それが、大きな音を立てて亀裂が走り、そこから温かな日差しが差し込んできた――
「ありがとう……」
今まで遠い存在だと思っていたミサキを、近くに感じられた瞬間。
その喜びに、自然と笑みが浮かんだ。
「これからもよろしくね、後藤さ……」
その刹那、ジロリと僕を見るミサキ。
「……じゃなかった、ミ、ミサキ」
「うん、よろしくね、ガク」
ミサキは、満足げにうなずいた。
そして僕たちは、どちらからともなく笑い出す。
夜風が吹く。
風は僕たちの笑い声を、周りの山々へと届けるように吹き抜けていく。
「あはははは……」
ひとしきり笑いあったあと、ミサキは僕を見た。
「それじゃ、そろそろ部屋に戻ろうかな」
「ああ……うん、明日も早いしね」
僕はうなずく。
「今夜は楽しかった。ありがとう、ガク」
「こちらこそ……ありがとう、ミサキ」
「それじゃ、おやすみなさい」
ミサキは微笑むと、くるりと僕に背を向けた。
そして、女子宿舎の方へと歩き出す。
ミサキの小さな背中が、だんだんと遠ざかっていく。
その現実に寂しさを覚え、思わずうつむいた。
――くっ!
でも、次の瞬間、僕は拳を握り顔を上げた。
「あ、あのさっ!」
去っていくミサキの背中に声をかける。
ミサキの足が止まった。
「あ……明日も、またここで会えるかな?」
ミサキは、顔だけをこちらに巡らせると、肩口から僕を見つめる。
そして――
「――うんっ!」
微笑みを浮かべ、小さくうなずいた。
そして、また前を向くと、少し早足で歩き出す。
建物の角まで辿り着いたミサキは、ゆっくりとこちらを振り返った。
「おやすみ」
そう言って手を振る彼女。
僕も振り返す。
そしてミサキは、建物の向こうへと消えていった。
「……やった!」
歓喜の声が、思わず漏れる。
こんなこと、他人から見たら、小さな一歩かもしれない。
でも、僕にとっては大きな一歩なんだ。
「やった――っ!」
僕は、天に向かって高く手を突き上げた。
明日、会うという約束。
それが、こんなにも嬉しくて――
こんなにも楽しみで――
こんなにも力をくれるということを、僕は初めて知った。
「僕にも風が吹いて来た!」
夜空を見上げる。
そこは、いつしか満天の星だった。
突き上げたままの手の先で、月が静かに輝いている。
その月を掴むように、僕は手を強く握り締めた。