目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第15話 『風に吹かれて』

 不意に夜風が、上空の雲を吹き流す。

 月明かりと外灯に照らされた裏庭は、にわかに明るさを増した。


 その明かりの中、1人たたずむ彼女。


「後藤さん……」

「な、梨川くん……?」


 彼女は、驚きの表情で僕を見た。


 やっぱり可愛い……。


 そんな表情ですら可愛く見えてしまう。


 上下共に、ジャージに身を包んだミサキ。

 この合宿では、部屋着はジャージでと決められているからだ。

 もちろん学校と違い、指定というものはない。

 僕をはじめ、皆、思い思いのジャージに身を包んでいた。


 ミサキの着る白色のジャージは、その細身の体に良く似合っている。


 でも……。

 上も着てて暑くないのかな?


 ここは自然が多く涼しい環境とはいえ、やはり今は夏だ。

 僕は、上はTシャツ、下はジャージという姿でちょうどいい。


 寒がりなのかな……。


 そう思ったとき、ミサキの口が不意に動いた。


「あれ……?」

「えっ?」


 その姿に見とれていた僕は、思わず慌てふためく。

 そんな中、ミサキは僕を指し示した。


「それ……」

「えっ、ど、どれ?」

「梨川くんのジャージのズボン……」

「えっ、ズボン?」


 もしかして、穴でも空いているのだろうか!?


 慌ててズボンを確認する。


 でも――

 続くミサキの言葉は、想像していたものとは違っていた。


「それ……私と同じジャージじゃない?」

「えっ……?」


 僕は、ミサキのジャージに目を向ける。


「あ……ホントだ……」


 僕のジャージは、黒地に紫のライン。

 対するミサキのジャージは、白地に緑のライン。

 色は違うけど、それはまさしく同じ型のものだった。


「ぼ、僕、このメーカーが好きで!」

「私も、ここのデザイン好きなんだ」


 そう言って、ミサキは微笑む。


 ミサキが……僕と同じものが好き……!


 その事実に興奮し、胸は激しく高鳴り出した。


「ぼ、僕、本当にこのメーカーが好きで! だ、だから、陸上のスパイクとかも、このメーカーで!」


 口から言葉が、滝のように溢れ出してくる。


「こ、ここの道具って、デザインはもちろん、使い心地も本当に良くて……」


 もう、自分でも自分が止められない。


「マークもかっこよくて……。好きなんです! ほ、本当なんです! 僕、好きなんです!」


 もはや、自分でも何を言ってるのか、わからなくなっていた。

 僕の勢いに、ミサキは呆気に取られているようだ。


 はぁう、しまった……。

 舞い上がりすぎだろ、僕!


「や……ち、違うんだ!」


 手をばたつかせてフォローに入る。


「中学の頃なんか、『お前は広告塔か!』って言われるくらい身につけてたんだ……って、そんな話、どうでもいいか……」


 フォロー失敗……。

 僕は、深くため息をついた。


 その瞬間――


「あははっ、やっぱり梨川くんは面白いね」


 お腹を抱えて笑うミサキ。

 どうやら、僕のリアクションはミサキのツボに入ったらしい。


 ま……前にも、こんなことあった気がするな……。


 笑い続けるミサキを前に、額の汗を拭った。


「あははは……」


 ひとしきり笑ったミサキは、涙を拭きながら近くのベンチを指差した。


「ねぇ、座ろう」


 そう言って、ミサキは軽やかに歩くとベンチに腰を下ろす。


 な……!?

 二人で並んでベンチに座る……だとっ!?


「早くおいでよー」

「う、うん、今いく」


 そう言って、僕は平静を装い、足取り軽く歩き……。


 あ、あれ、なんだこれ。

 膝も足首も曲がらないぞ?


「梨川くん……おもちゃのロボットみたいだよ?」

「い、今、これがマイブームで……」


 小首を傾げるミサキの元になんとか辿り着くと、僕も習って腰を下ろす。 


「あ~、夜風が気持ちいいね~」


 風にたなびく髪を押さえ、ミサキは空を見上げた。


「ウ、ウン、ソーデスネ」


 そう答えるも、ほてった僕の体は、夜風くらいでは冷ませない。

 心臓の鼓動も、激しさを増したままだ。


「……あ、あそこの木を見て」


 ミサキが、5メートルくらいの高さの木を指差す。

 緑の葉の中に、真っ白い花が枝いっぱいに咲きこぼれている。


「ヤマボウシっていうの。綺麗でしょ? 私、あの花が大好きなんだ」


 無邪気に微笑むミサキ。

 そして、更に高まる胸の鼓動。


 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやば――――い!

 その笑顔は反則だー!!


 僕の心臓は壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、脈を打ち続けている。


「ねぇ、梨川くん……」


 気が付くと、ミサキが僕を見つめていた。

 胸の鼓動が一段と大きくなる。


「な、なに?」

「ちょっと、瞳を閉じてみて」

「え……う、うん」


 な、何だろう……?


 理由はわからないけど、とりあえずミサキの言葉に従ってみる。


「それじゃ、大きく息を吸って……」


 すぅ……。


「ゆっくり吐いて……」


 はぁ……。


「吸って……。吐いて……」

「あ、あの……これは一体……?」

「いいから、やってみて」

「う、うん……」


 すぅ……はぁ……。

 すぅ……はぁ……。


「夜風……気持ちいいね」


 ミサキは、さっきと同じことを言う。


「うん……」


 僕は、うなずいた。


「耳を澄ませてみて……」


 心の奥に響くようなミサキの声。


 そっと耳を澄ますと――

 風が木々の葉を揺らす音が聞こえた。

 優しく吹く風。

 運ばれた草木の香りが鼻をくすぐる。


 心が穏やかになり、感覚が研ぎ澄まされていく……。


 これは、先程の僕では考えられなかったものだ。

 瞳を閉じて風を感じていると、人間も大自然の一部なんだと素直に思うことができた。


「……はい、目を開けてもいいよ」


 しばしの後、優しいミサキの声が響いた。

 ゆっくり瞳を開く。


「どう……? まだ、ドキドキしてる?」

「いや……もう大丈夫みたい」


 僕は、微笑んだ。

 落ち着いた気持ち、安定した脈拍。

 先程までの自分が、嘘のようだ。


「私もね……ドキドキが収まらないとき、こうやって深呼吸するんだ」

「そうなんだ……」

「環境が変わって、色々戸惑うことあると思うけど、頑張ろうね」


 どうやら、先程の僕の状態は、慣れない環境下での不安の表れと捉えたらしい。


 本当は、ミサキの可愛さにドキドキしていたのだけれど……。


 でも、そんなこと、言えるはずもなく……。


「ありがとう」


 僕は、素直にお礼を言った。

 嬉しそうに微笑むミサキ。

 その笑顔に、また胸が高鳴る。

 でも、深呼吸の効果があってか、今回は我を失うことはなかった。


「後藤さんも散歩?」

「うん……ちょっと眠れなくて……」

「そうなんだ。実は、僕もそう」

「梨川くんも?」


 僕たちは、顔を見合わせ笑いあった。


「まさか、こんなとこで梨川くんに会えるなんて、思ってなかったよ」

「僕だってそうだよ」

「初日、梨川くん、遅刻してきたよね~」

「あ、あれは、ちょっと……」


 いたずらな笑みを浮かべるミサキに、僕は慌てて弁解する。


 転んで怪我をした女の子。

 その手当てをしていたら、バスに乗り遅れてしまったことを……。


「そうなんだ……」


 ミサキは感心したように、深くうなずいた。


「梨川くん、偉いね~」

「いや……たまたまだよ」


 僕は頭をかく。


「たまたま傷薬を持ってたから」

「ふふふっ、妹さんのおかげだね」

「……確かに」


 僕たちは、また顔を見合わせて笑った。


 ああ……やっぱりミサキっていいな……。


 つくづく実感する。

 ミサキと話していると楽しい。

 彼女の元気が伝わってきて、僕まで元気になれる気がする。


 こんな気持ちは、初めてだった。


「あ……そういえば、梨川くん」


 ミサキは、不意に僕を見た。


「ん~?」


 幸せな気分で、ミサキを見返す。

 その口が静かに開いた。


「梨川くんって……本当は自分のこと“僕”っていうの?」

「……えっ!?」


 幸せな気分は、音を立てて崩れ去った。


「ぼ……いや、俺、“僕”って言ってた!?」

「うん、最初からずっと……」


 しまった――!!


 動揺していたときだろうか。

 ミサキの前で“僕”を使ってしまったらしい。

 人前では自分のことを“俺”と呼ぶことにしていたのに。

 “僕”という呼び方は、少し軟弱なイメージがあったから……


 うぅ……。

 親にしか見せたことないのに……!


 思わず頭を抱えた。

 そのとき――


「“僕”、いいよね」


 ミサキは、そう言って笑顔を見せる。


「……え?」


 予想外の言葉。

 僕は驚き、顔を上げた。


「“僕”って……軟弱……っていうか、子供っぽい感じしない?」

「全然!」


 ミサキは、首を横に振った。


「優しい感じがして、梨川くんによく似合うと思う」

「そ……そうなの?」

「うん! 梨川くんは、“俺”より“僕”の方がしっくり来るかも」


 驚きだった。

 まさか、そんなことを言ってくれるとは、夢にも思っていなかった。


「あ……そんな風に思われるの、嫌だった? だとしたら、ゴメンね」

「い、嫌じゃないよ!」


 僕は、慌てて手を振った。


「うん……。じゃ……これからは“僕”って言うことにしようかな……」


 微笑みながら答える。

 僕的にも、その方が話しやすいし。


「ふふ……」


 ミサキは、小さく笑いながら立ち上がった。


「梨川くんは、やっぱり優しい人だった」


 そのまま手を後ろで組み、爪先を立てるようにして歩くミサキ。


「実はね……最初、梨川くんって怖い人だと思ってたの」

「えっ……そうなの!?」


 僕は、思わず立ち上がる。


「そうだよ~」


 かかとを軸にし、ミサキはくるっとこちらに向き直った。


「だって、最初の頃って、私のこと避けてる感じがしたから」

「え……!?」

「私、嫌われてるのかなって……」

「そんなことない!!」


 思わず大きな声が出た。


 避けていたのは、君のこと意識するあまりに……。


 喉まで出かかるその言葉。

 それを、なんとか飲み込む。


 今の僕に、それを切り出す勇気はない。

 せっかく、2人で仲良く話せるようになったのに……。

 そんなことを言って、今の関係が壊れてしまうのだけは絶対に避けたかった。


「うん……。数ヶ月だけど一緒にいて、梨川くんがそんな人じゃないこと、ちゃんとわかったから」


 ミサキは微笑む。

 この笑顔を失うのが怖い。


 でも……。

 もっと、彼女に近付きたい……。


 その葛藤。

 揺れる想い。


 大きく深呼吸をすると、正面からミサキを見つめた。


「あ、あのさ……」

「……うん?」


 ミサキは、首を傾げる。


 もっと近付きたい――


 その想いが、僕を突き動かす。


「ぼ、僕、みんなから“ガク”って呼ばれてるんだ」

「うん、そうだね」

「だ、だから……。良かったら後藤さんも、僕のこと“ガク”って呼んで下さい!」


 勇気を振り絞ったその言葉。

 心臓は、バクバクと音を立てている。


「ほ、ほらっ、な、“梨川くん”って、他人行儀な気がするじゃん? ……友達なのに」


 慌てて言葉を付け加える。

 “友達なのに”と付けないといられない自分が悲しい……。


 僕の言葉に、ミサキは少し考える素振りを見せる。


 そして……。


「……うん、わかった」


 と、首を縦に振った。


「あ、ありがとう……」


 ほっと胸をなで下ろす。


「でも……そのかわり……」


 ミサキは、人差し指を立てた。


「私も、みんなから“ミサキ”って呼ばれてるから……」

「えっ……それって……」


 ミサキを、驚き見る。


「うん……だから、私のことも“ミサキ”って呼んで下さい」


 そう言って、ミサキは優しく微笑む。


 僕の中で、何かが弾けた音がした。

 2人を隔てる心の壁。

 それが、大きな音を立てて亀裂が走り、そこから温かな日差しが差し込んできた――


「ありがとう……」


 今まで遠い存在だと思っていたミサキを、近くに感じられた瞬間。

 その喜びに、自然と笑みが浮かんだ。


「これからもよろしくね、後藤さ……」


 その刹那、ジロリと僕を見るミサキ。


「……じゃなかった、ミ、ミサキ」

「うん、よろしくね、ガク」


 ミサキは、満足げにうなずいた。

 そして僕たちは、どちらからともなく笑い出す。


 夜風が吹く。

 風は僕たちの笑い声を、周りの山々へと届けるように吹き抜けていく。


「あはははは……」


 ひとしきり笑いあったあと、ミサキは僕を見た。


「それじゃ、そろそろ部屋に戻ろうかな」

「ああ……うん、明日も早いしね」


 僕はうなずく。


「今夜は楽しかった。ありがとう、ガク」

「こちらこそ……ありがとう、ミサキ」

「それじゃ、おやすみなさい」


 ミサキは微笑むと、くるりと僕に背を向けた。

 そして、女子宿舎の方へと歩き出す。

 ミサキの小さな背中が、だんだんと遠ざかっていく。

 その現実に寂しさを覚え、思わずうつむいた。


 ――くっ!


 でも、次の瞬間、僕は拳を握り顔を上げた。


「あ、あのさっ!」


 去っていくミサキの背中に声をかける。

 ミサキの足が止まった。


「あ……明日も、またここで会えるかな?」


 ミサキは、顔だけをこちらに巡らせると、肩口から僕を見つめる。


 そして――


「――うんっ!」


 微笑みを浮かべ、小さくうなずいた。

 そして、また前を向くと、少し早足で歩き出す。


 建物の角まで辿り着いたミサキは、ゆっくりとこちらを振り返った。


「おやすみ」


 そう言って手を振る彼女。

 僕も振り返す。

 そしてミサキは、建物の向こうへと消えていった。


「……やった!」


 歓喜の声が、思わず漏れる。

 こんなこと、他人から見たら、小さな一歩かもしれない。

 でも、僕にとっては大きな一歩なんだ。


「やった――っ!」


 僕は、天に向かって高く手を突き上げた。


 明日、会うという約束。

 それが、こんなにも嬉しくて――

 こんなにも楽しみで――

 こんなにも力をくれるということを、僕は初めて知った。


「僕にも風が吹いて来た!」


 夜空を見上げる。

 そこは、いつしか満天の星だった。


 突き上げたままの手の先で、月が静かに輝いている。

 その月を掴むように、僕は手を強く握り締めた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?