「へへへ~」
目尻が下がりっぱなしの僕。
それは、夕食の時間を迎えてもそのままだった。
その理由は簡単。
ミサキと、手を繋いじゃった……。
午前中の実地教習の出来事だ。
この左手……。
ミサキの優しい温もりが、今でも蘇ってくる。
合宿に来て、本当に良かった!
僕は、その温もりを逃がさないよう、力いっぱい手を握り締めた。
「なにを、ニヤニヤしてるのかな……?」
リオさんが
「確かに、ここのご飯は美味しいけどさ……」
そう言って、リオさんは自分の皿の上のエビフライを箸でつまみ上げた。
「だからって、ニヤニヤしてガッツポーズ? ……ちょっと気持ち悪いよ?」
「う、うるさいなぁ、そんなんじゃないよ!」
一気に夢から覚める。
まったく、幸せな気分が台なしだよ……。
唇を尖らせながら、僕はエビフライを口に運んだ。
その瞬間――
「……ん!? こ、これは……!」
僕は、思わずエビフライを見つめた。
カラッと狐色に揚がった、香ばしい衣。
口の中でサクサクと音を立てて弾け飛ぶ。
その衣の下から現れた海老。
それは、プリップリの触感でボリューム感満点だ。
海の恵みがギュギュッと濃縮されたような味が、口の中いっぱいに広がっていく。
そして、備え付けのタルタルソース。
おそらく自家製であるこれが、また絶妙だった。
エビフライそのものの味を邪魔することはなく、かと言って物足りないということもない。
それらは素晴らしいバランスで混ざり合い、そして溶けていく。
口の中に広がるこの食のメロディー。
それは、僕に食べることの喜びを思い出させてくれるには十分だった。
「な、なに? 今度は目がキラキラしてるよ?」
「いいから! このエビフライ、食べてみて!」
怯えるような素振りを見せる彼女に、僕は皿のエビフライを指し示す。
「なにをそんなに……」
「いいから!」
「ん~、あたし、案外エビフライにはウルサイんだぞ?」
そう言いながら、エビフライを口に運ぶ。
次の瞬間――
「やだ、なにコレ! めっちゃ美味しいんだけど!」
その口から、歓喜の言葉が飛び出した。
「でしょ~」
「うん、これ、ホント美味しい!」
リオさんは、あっという間に1本食べ尽くす。
別に僕が作ったわけじゃないけど、何だか得意げな気分になった。
「これ……キミがニヤニヤするのも、わかる気がするわ」
「や……それはまた、別の理由なんだけど……」
僕は、頬をかく。
「ん? 何か言ったかな?」
「な、何でもないよ」
とっさに苦笑いを浮かべ誤魔化す。
彼女は少し首を傾げたけれど、今は僕に構っている暇はないようだ。
自分の皿に乗ったエビフライを、キラキラとした子猫の瞳で見つめている。
僕は小さく笑うと、自分の夕食に向き直った。
そのとき――
「あっ!?」
不意に響くリオさんの声。
「ん?」
振り向いた僕の目に飛び込んで来たもの。
それは、彼女の箸から滑り落ちたエビフライが、床の上に着地を決める瞬間だった。
「ああん、うちのエビフライ~!」
リオさんの悲鳴が響く。
慌ててエビフライを拾い上げるも……。
「あかん、埃ついてもーた! もう、食べられへん~!」
どうやら、再起不能のようである。
涙目のリオさん。
でも、何より僕が驚いたのは………
「……“あかん”? ……“られへん”?」
僕のつぶやきに、彼女はハッとした表情を見せた。
「聞いたなぁ……」
そして、ホラー映画のように、ゆっくりと僕の方を振り向いた。
「リ、リオさん……関西なの?」
僕の言葉に、彼女は観念したようにため息をつく。
「隠しておきたかったんやけどね……」
「なんで? 関西弁いいじゃん」
笑う僕に、リオさんは首を横に振った。
「だって……関東の人が聞いたら、迫力あるように聞こえるっていうやろ?」
「そうかな……? 俺は、気さくな感じがして好きだけど……」
「……ありがとう、キミって優しいんやね」
その言葉に恥ずかしさが込み上げ、思わず頬をかく。
「……でもね!」
厳しい表情になる彼女。
「関東に来たからには、あたしは関東の言葉を使いたい」
言葉が、再び標準語へと戻る。
「ほら、『朱に交われば赤くなる』って言うじゃない?」
彼女は、ピッと人差し指を立てた。
「それを言うなら、『郷に入ったら郷に従え』でしょ……」
ため息をつく僕。
「あ~、そうとも言うかな」
「そ、そうとしか言わないよ!」
こ、これが関西の気質ってやつか……。
僕は、ゴクリとツバを飲み込んだ。
そのとき――
「楽しそうだね」
不意に響く声。
僕は、慌てて振り返る。
「ご、後藤さん!」
果して、そこにはミサキが立っていた。
ミサキは、食べ終わった食器を下げるところらしい。
トレイを持ったまま、ミサキはじっと僕の顔を見つめてきた。
「え……なに?」
思わず、胸が高鳴る。
僕の緊張が高まる中、ミサキの小さな口が動いた。
「もう……私がいなくても大丈夫だね」
えっ……!?
予想外のその言葉。
「そ、それってどういう……」
「ミサキちゃ~ん!」
そのとき、ミサキを呼ぶ声。
「あ、うん、今行くー」
教習所に来て出来た友達に、ミサキは明るく応えると、
「それじゃね」
と、ニコッと微笑み去っていった。
僕の心に、大きな動揺を残して。
「なになに? 今の子、可愛いね。梨川くんの彼女?」
興味津々という感じで、リオさんが尋ねてくる。
「そんなんじゃ……ないよ」
なんとか声を絞り出した。
「そうだよね~。うちら、まだ免許持ってないもん、彼氏彼女はないか」
そう言ってリオさんは笑う。
「彼女だったら、いつも隣にいるあたしに、ヤキモチ妬いちゃったりするかな~なんて思ったからさ~」
「え……?」
ヤキモチ……?
ミサキが僕に!?
いや、まさか……。
うん……悲しいけど、それはないだろな……。
あんな可愛いミサキが、僕みたいなのに対してヤキモチを妬く理由が見付からない。
――って、
『いつも隣にいる』……?
リオさんの言葉に、疑問符が浮かぶ。
「ねぇ、リオさん……」
「ん~?」
「そういえば、何でいつも隣に座るの?」
恐る恐る尋ねた僕に、彼女は首を傾げた。
「……嫌?」
「や……嫌じゃないけど……」
「……けど?」
「リオさん、友達いっぱいできそうなのに、何で俺なのかな……って」
「ん~……」
彼女は、人差し指をあごに当て、考える素振りを見せる。
ややあって、その口がゆっくり開かれた。
「気になる存在だから……かな」
「え……」
予想だにしなかったその言葉。
僕の胸は、大きく高鳴った。
「き、気になるって……?」
「うん……似てるんだよね」
似てる!?
好きな人に?
もしくは、好きだった人に?
戸惑う僕をよそに、リオさんは言葉を続ける。
「……うちの犬にさ」
「犬かい!」
思わず裏手ツッコミが飛んだ。
「あはは! 好きな人に似てるって言うと思った?」
悪びれた様子もなく、彼女は無邪気に笑う。
僕は、唇を尖らせた。
「あはは、ゴメンね。残念ながら似てないよ」
「似てないってことは……好きな人はいるんだ?」
僕の言葉に、リオさんは嬉しそうにうなずく。
「彼ね、バンドやっててね」
「バンド?」
「うん……
それ、どんな感受性だよ……。
という言葉が浮かんだが、口にはしないでおいた。
のざえる……。
確か、どこかの方言で、“
「でね、ずっといいなって思ってたら……。この前、向こうから告白されちゃって……」
少し照れたように微笑むリオさん。
「それで、ちゃんと付き合うために免許を取りに来たんだ」
その幸せそうな笑顔を、僕はうらやましく思う。
目的を持って行動している人って、凄く格好良く見える。
昔から僕に足りていないもの。
それは、何かをするという行動力だから……。
「ナッシーは、誰か好きな人いるの?」
不意に、彼女がくりくりした瞳で尋ねてきた。
「ちょ……その、ゆるキャラみたいな呼び方」
「いるの?」
僕の言葉を無視して、リオさんはズイッと迫る。
「そ、それは……」
思わず、心の中にミサキの姿が浮かんだ。
「俺は……」
気になっている人ならいるよ……。
そう言おうとして――
でも……。
『もう……私がいなくても大丈夫だね』
ミサキのその言葉が不意に蘇ってきて――
僕は、それ以上言葉を続けることが出来なかった……。
夕食後、リオさんと別れた僕は、1人部屋へと戻った。
入浴も済ませ、ベッドにゴロリと横になる。
時計の針は、午後10時。
「ふぅ……明日に備えて、もう寝ようかな……」
僕はつぶやく。
電気を消して、瞳を閉じた。
でも――
ミサキの言葉が蘇り、いくら寝返りを打っても夢の世界へ向かうことは出来なかった。
「ああ、ダメだー!」
僕は飛び起きる。
「全然眠れない……」
ため息をついて、窓の外に目を向けた。
「散歩でもしたら、気が紛れるかな……」
ガタンゴトンゴトン!
自動販売機からジュースが落ちて来る。
思った以上に大きな音がした気がして、思わず辺りを見回した。
炭酸飲料のペットボトルを取り出し、そのキャップを開けて口に運ぶ。
弾ける炭酸が、僕の心を少しだけ軽くしてくれた気がした。
「ふぅ……」
一息ついて辺りを見回す。
空は雲に覆われていて、月は全く出ていない。
その暗闇の中に、白い外灯の明かりだけが点々と続いていた。
「誰もいないな……」
おそらくは皆、自室でテレビでも見ているか、明日に備えてもう寝ていることだろう。
こんな時刻に散歩なんかしているのは、たぶん僕くらいのものだ。
「はぁ……」
ため息が口から漏れる。
「ミサキのあの言葉……『私がいなくても大丈夫だね』って、どういう意味なんだろ……」
今度会ったとき、その真意を聞いてみたい。
でも……。
僕に、そんな勇気があるのだろうか?
「はぁ……」
再び漏れたため息は、夜の闇の中に静かに消えていった。
――と、そのとき。
僕は、ふと顔を上げた。
夜風に乗って、誰かの声が聞こえた気がしたからだ。
「……だよ、だから」
うん、気のせいじゃない。
声は、どうやら宿舎と宿舎の間にある中庭の方から聞こえてくるらしい。
何の気なしに、その方へと足を進めた。
「……うん、大丈夫。何かあったらすぐ病院行くから」
1人の声しか聞こえて来ないところを見ると、どうやら電話をしているらしい。
「あはは、お母さんは心配性だよー」
明るく笑う声。
中庭に近付くにつれ、それはハッキリとしたものになる。
僕は、その声に聞き覚えがあった。
向かう足が、自然と早くなる。
「……あ、誰か来たみたい」
急ぐ僕の足音が聞こえたのだろう。
声の持ち主は、電話を終わらせる方向に持っていく。
この声……。
僕は建物の角を曲がった。
目の前に広がる中庭。
薄暗い外灯の下に1人の女性の姿が見えた。
間違いない……!
そのとき、夜風が通り抜けた。
風は、空を覆っていた雲を吹き流していく。
月明かりに照らされて、辺りは不意に明るくなった。
スマホを片手に握り締めた彼女――
「後藤さん……」
それは、ミサキだった。
「梨川くん……?」
ミサキは、驚いた表情で僕を見つめてきた。
夜風が頬をなでていく。
淡い月明かりは、見つめ合う僕たちを優しく照らしていた……。