「それじゃ、しっかりね」
母さんが笑顔で手を振る。
「うん、行ってくるよ」
そう言いながら、僕は車から降りた。
後ろの扉を開け、後部席に置いていた大きなスポーツバッグを取り出す。
バッグと並んで座っていたエリカは、膝の上に乗せていた2つの紙袋を空いた座席の上に置いた。
そして、
「お兄ちゃ~ん」
瞳をくりくりさせて、僕を見詰めてきた。
「……なに?」
「えへへ、お土産、買って来てね~」
「あ、遊びに行くんじゃないんだぞ!」
お気楽なエリカに、思わず大きな声が出た。
僕は今、駅のロータリーにいる。
これから電車に乗り、伯父さんの経営する恋愛免許教習所に向かうのだ。
「どうしたのお兄ちゃん? 難しい顔して」
そりゃ、そんな顔にもなるだろう。
もともと気乗りしなかった上に、最短でも20日間かかる合宿だ。
そんな長い期間、家に帰らなかった経験はない。
「まったく~、行く前からホームシックになってちゃダメだぞっ!」
からかってくるエリカに、ゲンコツを振り上げる真似をする。
「きゃー? あはは」
笑いながら首をすくめるエリカ。
「ったく……」
僕は、ため息をついた。
「学司、9時30分の電車に乗るんだから、そろそろ行かないと」
母さんが、僕たちを振り返り言う。
「うん、わかった」
うなずき、ドアを閉めようとしたとき、
「あ、お兄ちゃん!」
エリカが、再び僕を呼び止める。
「エリカ、どうした?」
「あのね、お兄ちゃん。これ持ってって」
そう言ってエリカは、傍らに置いた2つの紙袋のうち、1つを僕に手渡した。
「これは……?」
「長旅でしょ? お腹がすいたら食べてね」
「エリカ……」
「頑張ってね、お兄ちゃん!」
笑顔の妹。
「お前……実はデキる妹だったんだな~」
そう言いながら、エリカの頭をなでてあげた。
「もうっ、子供扱いしないでよー!」
エリカはそう言うが、その顔は嬉しそうだった。
「ありがとう、頑張るよ!」
「うん、だからね……」
「……ん?」
「お土産待ってる」
エリカの笑みが、いたずらなそれに変わる。
「そう繋がるのか……」
僕の口から、再び深いため息が漏れた。
「ほら、学司」
「う、うん、行ってきます」
急かす母さんの言葉を受け、僕は紙袋を無造作にバッグにしまった。
「行ってらっしゃーい!」
「気を付けてね」
見送る2人に手を振ると、バッグを肩からかけて走り出す。
駅の階段を駆け上がり、切符売り場で切符を購入。
改札を抜けプラットホームに辿り着くと、ちょうど電車が構内に入ってくるところだった。
音を立てて停車する電車。
その音はプラットホームの屋根で反響し、意外と大きく響き渡る。
「時間ピッタリ」
一言つぶやき、開いたドアから中に乗り込んだ。
電車特有のニオイが鼻をくすぐる。
空いてるボックス席を見つけ、僕はそこに腰掛けた。
「ふぅ……」
背もたれに寄り掛かると、少しだけ落ち着いた気分になる。
「これからどうなるかな……」
不安な気持ちが、不意に言葉となって口から漏れた。
だけど、それに答える者は誰もいない。
僕は、深く吸い込んだ息を一気に吐き出した。
それから10分ほどして、ホームに発車のアナウンスが流れる。
電車は、ゆっくりと動き出した。
乗客は僕を含めても10人いるかいないか。
そのためボックスシートを広く使うことができ、それが僕の気持ちを救ってくれる唯一のものだった。
「1人旅っていうのかな……」
額を窓ガラスに当ててみる。
ひんやりとした感覚が心地よい。
眼下に広がる町並みは、電車が加速する度にどんどん後ろに流れていく。
「恋愛免許証か……」
僕は、そっと瞳を閉じた。
まぶたの裏に、ミサキの顔が浮かぶ。
でも……。
免許を取ったところで、今の僕に告白なんて……。
そんな気持ちを表すかのように、空はグレーの雲に覆われていた。
「あ――っ、もう!」
僕は頭を振った。
こうなってしまったからには、望む望まないに係わらず、もう後戻りは出来ない。
「もう、余計なことを考えるのは止めよう!」
どうせ考えたって、何も答えは出ないんだから。
僕は、前を見つめた。
少しだけ、前向きになれた自分がいる気がする。
これが旅の効果なのだろうか?
「そうだ、エリカに何かもらったんだよな」
気分転換にとバッグの中身を探る。
「電車の中で食べてって言ってたけど……」
程なくして、その紙袋を取り出した。
「なんだろ? 僕の好きなクッキーかな?」
紙袋の中に手を入れる。
手に、何かが触れた。
「こ、これは……」
恐る恐る中身を取り出す。
僕の瞳に映るもの――
それは……。
「絆創膏と消毒液……」
そう、それは絆創膏と消毒液以外のなにものでもなかった……。
「どうやって食べろって言うんだよ!」
「――ねぇ、エリカ。お母さんが買っておいた傷薬、知らない?」
「えー? エリカ、知らないよー?」
「変ねぇ……紙袋に入れてたんだけど……」
「え、紙袋……?」
「なぜか、中身がお菓子に変わってるのよねぇ」
「あ……あは……あははは……」
きっと、今頃こんな会話が為されているに違いない。
「エリカめ……これはお土産は考えものだな」
僕は苦笑し、それらをまたバッグの中にしまった。
それから約2時間が過ぎ、電車はようやく目的地の駅に到着した。
「う~っ、長かったな~」
凝り固まった筋肉をほぐすため、大きく背伸びをする。
関節が、ポキポキと音を立てた。
駅から出た僕を待っていたのは、輝く緑の山々と、降り注ぐ眩しい太陽だった。
「うちの方は雲ってたのに、こっちは晴れてるんだな~」
でも、その日差しに、うだるような夏の暑さはない。
連山から吹きおろす風が、涼しく爽やかな空気を作り出しているようだった。
天気や景色、そして空気まで違う。
「遠くに来たんだな」
つくづくそう思った。
「さてと次は……。あ、あったあった」
辺りを見回し、バス停へと走る。
「え~と、次のバスは……」
携帯で時刻を確認して、時刻表に目を向けた。
「今が11時30分だから……あと10分くらいで来るかな」
1人旅の寂しさからか、いつもより独り言も多くなる。
僕は駅の売店でパンを買い、停留所のベンチに腰掛けてバスを待つことにした。
田舎駅だけど、意外と交通量も多いようだ。
様々な車が通過していくのを、パンをくわえながら眺めた。
ここからバスで1時間ほど行ったところに、伯父さんの教習所はある。
僕は、パンフレットと同封されてきた入校案内書を取り出した。
「教習所到着が12時40分くらい……。
1時から入校手続きと案内で、その後に適性試験かぁ……」
手にしたパンをかじりながら、モゴモゴ言う。
「そして、学科と実技教習……初日はギッチリだなぁ」
軽く息を吐く。
2日目からは教習と教習の間に長い休みもあり、それが救いだった。
そうしているうちに10分が過ぎ、目の前に1台のバスがやって来た。
空気を吹き出すような音がして、バスの扉が開く。
僕は立ち上がると、バッグを肩からかけた。
バスから20代半ばくらいの女の人と、幼い女の子と男の子が降りてきた。
おそらく親子なのだろう。
3人で手を繋いで歩いていく後ろ姿は、微笑ましいものがあった。
僕にもいつか、あんな家族が出来るのかな……。
しばしの間、その光景に見とれていた僕は、小さく微笑むと入口の手すりに手をかけた。
そのとき――
「いたーい!」
不意に響く幼い声。
慌てて振り返ると、先程の女の子が転んでいる姿が目に入った。
「いたいよーぅ」
泣きながらも起き上がる女の子。
「ほら、泣かないの」
お母さんは優しく頭をなでながら、服に付いた砂利を払い落とす。
しかし、女の子は泣き止まない。
「だってだって……血が出ちゃったもーん!」
見れば、スカートの下からのぞく膝頭に、うっすら血がにじんでいた。
「ちょっと、お客さん! 乗らないの?」
思わずその光景に見入っていた僕に、バスの運転手が声をかけてくる。
「あああ、すみません、乗ります!」
「いたいよ~ぅ、いたいよ~ぅ」
後ろでは泣きじゃくる女の子。
「お客さん?」
再び動きが止まった僕に、運転手がまた声をかける。
僕は、手すりを握る手に力を込めた。
ブロロロロロ……。
バスが、アクセルを吹かして走り出す。
「ほら、もう大丈夫でしょ」
笑いかける僕。
「うん、ありがとー! お兄ちゃん」
女の子の顔にも笑みが浮かぶ。
僕は、出した絆創膏と消毒液を、またバッグの中にしまった。
エリカの間違いが、意外なとこで役に立ったな……。
心の中で苦笑する。
「ありがとう、お兄さん。あなた、小さい子の扱い上手いのねぇ」
母親が感心したように言う。
「うちに似たような妹いますから」
そう言って、僕は笑った。
「ありがとー! またねー!」
大きく手を振る親子に、少しだけ大きく振り返す。
去って行く親子の後ろ姿を見送って、バスの時刻表に目を向けた。
「さっきのは乗れなかったから、次のバスは……」
――12時40分発。
「ええっ!? 1時間に1本しかないの!?」
「これは完全に遅刻だぁ……」
思わず天を仰いだ。
でも、後悔の気持ちはなかった。
あのまま少女を見捨てていた方が、よっぽど後悔していたと思うから……。
「遅いよ、学司」
「ごめんなさい、伯父さん」
それから1時間が過ぎ、僕はようやく伯父さんの教習所に到着した。
「もう、入校案内は終わって、今から適性試験だ」
「う、うん」
教習室へと案内してくれる伯父さん。
僕は、少し太ったその体の後について行った。
教習室の前に来ると、伯父さんはこちらを振り返った。
「もう試験始まってるから、空いてる席に座って」
「うん、ごめんなさい」
「頑張ってな」
そう言うと、伯父さんは体を揺らして去って行った。
僕は、そっと教習室の後ろの扉を開けた。
小さな部屋の中で、10数名の人たちが筆記試験を受けている。
「え~と、どうすればいいんだろ……」
まごまごと戸惑っていると、教官が近付いてきた。
「話は聞いてるから、早く席に着きなさい」
「は、はい!」
慌てて空いている席を探す。
でも、狭い室内は、どこもいっぱいの様に見えた。
「空いてるとこ、空いてるとこ……」
そのとき、1人の女性の手が上がった。
「私の隣り、空いてますよ」
そう言って振り向いたとき――
「「あっ!?」」
僕たちは、2人同時に驚きの声をあげた。
「梨川くん?」
「後藤さん……なんで!?」
そこにいたのは後藤 美咲。
そう、あのミサキだったのだ……。
僕の胸は、これから始まる期待と不安に、一際大きく鼓動するのだった……。