僕は行く。
100メートル走のスタートラインへ。
『がんばって!』
ミサキの声無き声が、僕を突き動かす。
今の僕は……。
きっと、何だって出来る!
この100メートル走は、2人で走ってタイムを計る。
僕の相手は、もうスタートラインに立っていた。
今の僕なら、誰が相手でも負ける気はしない!
その揺るぎない自信は――
相手が振り返ったとき――
あっさりと揺らいでしまうのだった……。
「カ、カズマ……」
そう、僕の相手は、不良・
「ガク、チャンスだぜ!」
レイジは、僕の肩に手を回すと、短くささやく。
「日頃の借りを返してやれよ!」
「えっ!? そ、そんなこと言われたって……」
「ほらっ、行ってこい!」
背中を強く押され、よろけるようにしてスタートラインに立った。
そんな僕を、カズマはにらむ。
「や、やあ……」
思わず愛想笑いが浮かぶ。
「……テメェには、ぜってー負けねぇ」
そんな僕の挨拶は、ドスの効いた鋭い言葉で返されるのだった。
なんでカズマは、いつも僕に突っかかってくるんだろう……。
戸惑いながらも片膝をついて腰を落とし、スタートラインに両手の指をつく。
カズマも僕に習い、クラウチングスタートの体勢になる。
「行け、ガク! お前、走るの
レイジの無責任な応援が飛んだ。
「だ、だけって言うなよ!」
周りに笑いが巻き起こる。
「ったく、レイジは……」
僕は小さくつぶやいた。
でも、確かに走ることは得意だった。
―――
小学生の頃から足が速かった僕は、中学に上がると迷わず陸上部に入った。
僕が得意なのは短距離走だ。
静かなスタート直前。
それが次の瞬間、躍動する。
心臓は凄く速く脈打っているんだけど、でも頭の中は驚くくらい静かで――
目に見えるものは、遥か先のゴールだけ。
最初は走りの邪魔をしようとする空気の壁も、いつしか僕を包みこんで――
そして僕は風になる。
その感覚は、みんなには理解してもらえないかもしれないけど……。
この瞬間が、僕は大好きだったんだ。
そんな僕だったから、毎日遅くまで練習に励んでいた。
少しずつだけど、毎日タイムが速くなっていく実感もあった。
そのかいあって、夏の大会では1年生ながら400メートルリレーの選手に選ばれたんだ。
100メートルを4人で走る、この競技。
僕は第3走者で、最終走者のキャプテンにバトンを繋ぐ役だ。
重大な役目に、僕はよりいっそう練習に励んだ。
そして、大会当日。
「うわぁ……もうすぐ400メートル始まっちゃうよ……」
意味もなく立ったり座ったり、辺りをウロウロと歩き回る僕。
自分の出番が近くなるに従って、その奇妙な行動は激しさを増していく。
話をしてる人、ストレッチをしてる人、目つきの悪い人……
周りの人全てが、僕を見ている気がする。
「も、もう一度、トイレ行ってこようかな……」
「なんだ、梨川。緊張してるのか?」
そんな僕を見かねたように、1人の先輩が声をかけてきた。
「は……
「なんだ、その情けない声」
そう言って先輩は笑う。
蜂須賀先輩は3年生。
400メートルリレーで、僕の前を走る第2走者だ。
練習熱心なだけではなく、後輩の面倒見もいい先輩は、皆から凄く信頼されていた。
「お前は、いつもの様に走ればいいよ」
「は、はい、頑張ります!」
「だから、力抜けって」
ガチガチの僕に、先輩は苦笑いを浮かべる。
「あまり気負うなよ? 1年に活躍され過ぎても、3年として格好つかないからさ」
そう言って肩をすくめる先輩に、僕の緊張は少しだけ軽くなった気がした。
でも……
今、思うと、先輩は自分自身をリラックスさせるために笑っていたのかもしれない。
3年生は、この大会で負けたら引退なのだから……。
もちろん、高校に行っても陸上を続けることはできる。
でも、このメンバーで走れるのは、これが最後だ。
3年間走り続けてきた先輩の想い。
それを無駄にしないため、僕はできることを精一杯やるしかなかったんだ。
―――
「おい、ガクーッ! なにボーっとしてんだー?」
過去の思い出に浸っていた僕を、レイジが今へと連れ戻す。
「う、うん、大丈夫」
僕は顔を上げ、前をにらんだ。
「位置について……よーい……!」
スタート係であるクラスメートの声に合わせ、僕は静かに腰を上げる。
「スタート!!」
その声と同時に、大地を蹴った。
瞬時に景色が後ろに流れていく。
静から動。
久しぶりのこの感覚は、やっぱり気持ちが良かった。
でも……。
あのときの僕には、そんなことを楽しむ余裕なんてなかったんだ……。
―――
リレー開始直前に蜂須賀先輩と話し、それでほぐれたはずの緊張。
でも、スタートの合図を待つうちに、それはまた蘇ってきた。
この400メートルリレーは8チームで競い合うのだけれど……。
他の学校の選手は2年生か3年生で、1年生が選手にいるのは僕の学校、
最初は、そのことに誇りを持っていたのだけれど……。
第3走者として、いざこの場に立ってみると、
やっぱり2、3年生には勝てないんじゃないか……。
という思いが強くなってくる。
「うわぁ……あの人、背が高いな……」
とか、
「はわわ……速そうな体つきしてる……」
とか、見る人全てが、自分より速そうに見えた。
「やっぱり、僕じゃダメだ……」
思わず、口から弱音がこぼれる。
そのとき――
「下を見るな、梨川っ! 顔を上げろ!!」
不意に響く声。
僕は慌てて顔を上げ、声の方を見た。
「せ、先輩!?」
それは、蜂須賀先輩だった。
「梨川、周りを見てみろ!」
先輩に促され、辺りに目を向ける。
「あ……」
そこには、第一走者の先輩、第二走者の蜂須賀先輩、そして最終走者のキャプテンの姿があった。
「わかるか梨川。お前は1人で走るんじゃないんだ!」
「先輩……」
「大丈夫! 心配するな!」
「はいっ!!」
そして、青い夏の空にスタートの合図が鳴り響く。
低い姿勢から、一気に飛び出す第1走者たち。
皆、いち早くトップスピードに乗ろうと、大地を蹴っていく。
蹴り出した足は爪先から着き、そしてまた蹴り出す。
出来るだけ接地の面積と時間を少なくした方が、足の回転数も上がり速度も増すからだ。
前傾姿勢だった体は距離を進むごとに徐々に起き上がり、そしてトップスピードとなる。
空気を裂く腕の振り。
大きな足のスライド。
その力強い動きに、競技場にいる誰もが釘付けになった。
「すごい……」
僕は、ゴクリとツバを飲む。
早く走りたい――
自分でも気持ちが高まってくるのがわかった。
次の走者は、コース内にマーキングをし、そこを前の走者が走り抜けたらリードを始める。
ブルーゾーンと呼ばれる位置から走り出し、次のテイクオーバーゾーンでバトンを受ける。
ブルーゾーンで加速する蜂須賀先輩は、後ろを全く振り返らなかった。
第1走者の先輩は、その背中を追い掛け、アンダーハンドパスと呼ばれる方法で下からバトンを渡す。
2人のバトンの受け渡しは、まさに完璧だった。
「……っ!」
僕は、思わず拳を強く握り締める。
僕たちの順位は、現在3位。
蜂須賀先輩の走りは、まるで引き絞った弓から放たれた矢のようだ。
みんなが見つめる中、先輩は2位に浮上した。
「おおぉぉ……」
思わず、熱い感情が口から漏れた。
先輩との距離がみるみる近くなる。
いよいよ僕の出番だ!
よし――行くぞっ!!
ブルーゾーンいっぱいを使って加速する。
背後に、蜂須賀先輩が迫る。
もちろん、後ろは振り返らない。
あれだけ練習したんだ……。
僕にも出来る!
下から伸びてくるバトン。
手の中に、固い感触が現れる。
「はいっ!!」
その瞬間、先輩の声が響く。
僕は、手の中のバトンをしっかりと握り締めた。
「――っ!!」
足に力を込め、一気にトップスピードに乗る。
僕の目に、1位の選手の背中が映った。
それは徐々に大きくなり――
そして、遂にその横に並んだ。
「うおおおおぉぉぉっっ!!!」
そう叫びたくなる気持ちを力に変えて、僕は懸命に走った。
そして――
1位の走者は、僕の視界から消えていった。
僕が1位に躍り出たのだ。
「よしっ!」
本当なら、ガッツポーズの1つでもしたいところ。
だけど、当然そんな余裕があるはずもなく――
僕は、ひたすら前だけを見て走った。
遮るものが何もない視界というのは、本当に気持ちが良い。
自分が風になったと感じられる一瞬だった。
そして、最終走者であるキャプテンが、僕の動きに合わせてリードを始める。
僕は、そのまま速度を落とすことなく、テイクオーバーゾーンへ突入。
「はいっ!!」
掛け声と共に、キャプテンにバトンを託した。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
体中が、酸素を求めて悲鳴を上げている。
それでも、僕は前を見続けた。
どんどん小さくなっていくキャプテンの背中。
それを必死に追う、他校の最終走者たち。
でも、その差は縮まることはなく――
そしてキャプテンは、1位でゴールを駆け抜けたのだった。
「やったーっ!!」
僕は疲れも忘れて走り出した。
僕の後に、第1走者の先輩、そして第2走者の蜂須賀先輩も続く。
にわかに出来た審判員の輪の横をすり抜け、僕たちはキャプテンの元に辿り着いた。
「キャプテン!」
肩で息をしていたキャプテンは、1つ大きく深呼吸をすると、すぐに白い歯を見せて笑う。
「やりましたね、キャプテン!」
「ああ……これで、まだこのメンバーで戦える! 俺たちの夏は、まだ終わらないぞ!」
「はいっ!!」
達成感と充実感に包まれて、僕たちは喜び、称え合い、そして笑い合った。
「まさか、梨川があんなに上手くバトンリレーが出来ると思わなかったぞ」
キャプテンはそう言って、僕の背中を叩く。
「たくさん、蜂須賀先輩にしごかれましたから。ねっ? 先輩!」
笑顔で振り返る。
今の僕は、かつてないくらいの最高の笑顔でいることだろう。
そして、当然先輩も、最高の笑顔を見せてくれるに違いない。
でも……。
その予想は見事に外れていたんだ……。
先輩は目を細め、どこか遠くを見つめていた。
「先……輩……?」
僕も、先輩が見つめる方向に目を向けてみる。
そこには、審判員たちの輪があった。
「先輩……?」
「……あ、ああ、梨川! 見事な走りだったぞ!」
もう一度声をかけた僕に、先輩は慌てて笑顔を見せる。
「どうしたんですか?」
「いや……」
そのとき、審判員たちがにわかに動き出した。
「ん? 何かあったのか?」
キャプテンが、首をひねる。
「あ! もしかして……!」
第1走者の先輩が手を叩く。
「俺たち、大会新記録を出したとか?」
「あーっ、きっとそれですよ! うちら、めちゃくちゃ速かったですもん!」
僕は、笑顔でその言葉に同意する。
そのとき――
1人の審判員がマイクを片手に現れた。
蜂須賀先輩の顔が、一瞬険しくなる。
でも、喜びに包まれていた僕たちは、誰1人その表情に気付かなかったんだ。
審判員は咳ばらいをすると、マイクを口元に持って行く。
「え~、ただいまの男子400メートルリレーですが」
低い、でもよく通る声。
「1位の桜坂中学は……」
「来るぞ、大会新記録!」
「ド、ドキドキしますね……」
僕たちが、固唾を飲んで見つめる中――
審判員の口がゆっくりと開いた。
「桜坂中学は、反則のため失格となります!」
予想外のその言葉。
僕たちの時は凍り付いた。
ただ1人。
蜂須賀先輩だけは、血がにじむほど唇を噛み締めていたんだ……。