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第1話 『青い空の心』

「おはよー」

「おはよー!」


 登校する僕の耳に、朝の挨拶が聞こえてきた。


 校内を彩る木々は、その葉に夕べの雨粒を乗せ、日差しを浴びてキラキラと輝いている。

 頬をなでる風も、少しずつだけど、着実に夏に向けての歩みを感じさせてくれた。

 若葉がかおる候、5月。


 僕は、この季節が一番好きだ。

 理由は、特にないけれど……。

 この陽気に包まれているだけで、足取りも軽くなる。


「おはよー、ガク」

「ふわぁ、おはよ……」


 ……ハズなんだけど、やっぱり朝は苦手だ。

 どうやら、あと少し経たないとこの頭は目覚めてくれないらしい。

 眠い目をこすりながら、僕はクラスメートと挨拶を交わした。




 僕の名前は、梨川なしかわ 学司がくし

 学問を司ると書いて学司。

 でも、この名をくれた両親の期待とは裏腹に、学校の成績は中くらいだったりする。


 歳は16。

 高校2年生だ。

 みんなからは『ガク』と呼ばれている。


 僕は、身長、体重、成績、運動神経、ルックスと、全てにおいて平均的な普通の高校生だと自負している。

 髪は黒色で短め。

 あ、最近、ちょっと襟足が伸びてきたかな……。

 と言っても、校則違反ってほどじゃない。

 言うなれば、健全普通の完璧な平凡高校生だ。


 うう……。

 自分で言ってて、ちょっと悲しい……。


 ちなみに僕は、基本的に自分のことを“僕”と呼ぶ。

 でも、学校や友達と話すときは“俺”と言うことに決めている。

 もう子供じゃないし、人前で“僕”を使うのは恥ずかしいお年頃なのだ。

 本当は“僕”の方が、しっくりくるんだけどね……。


「よぉー、ガク! 今朝も眠そうだなっ!」


 昇降口に向かう僕の背中に、ひときわ明るい声が飛んできた。


「ああ……おはよう、レイジ」


 僕は、そう言いながら振り返る。

 声の持ち主――レイジは驚きの表情を見せた。


「ガク……お前、よくこっち見ないで俺だってわかったな」

「朝からそれだけテンションが高いのは、レイジくらいのもんだって」


 僕は苦笑する。


 目の前の彼、市井いちい 玲史れいじ

 通称『レイジ』。

 彼は、中学のときからの友人だ。


 レイジは、人懐っこく明るい性格をしている。

 勉強は僕と同じくらいのレベルだけど、スポーツは万能。

 そして、適度に波を出す癖のある髪と、生まれ持ったタレ目がちの甘いマスクが特徴で……。

 ちょっと悔しいけど、女の子からの人気は高い。

 でも、そのことを鼻にかける素振りもなく、そのため男友達からの信頼も厚かった。


「ガク……お前、朝からぼ~っとしてたけど……」


 革靴を脱ぎ、上履きに履き替える僕を、レイジがジロリと見る。


「な……なんだよ?」

「どうせガクのことだから『この季節が好きだ~』とか思いながら歩いてたんだろ!」


 くっ……鋭い!


「そして『全て平均的な普通の高校生だ』とも思ってただろ!」


 なんでわかるんだ!

 エスパーか、お前は!


「あまい! あまいぞ、ガク!!」


 レイジは、歩き出した僕の前に躍り出る。


「ガクは、自分のことを平均的でつまらないとか、平坦で何もないとか、死んだ魚の目みたいな人生だとか思ってるけど……」

「そ、そこまでは思ってない!」


 慌てて否定する。


「そう思ってしまう理由は、自ら何も行動しないからだ!」


 だけど、レイジは人の話を聞かない。


「そんなこと言われてもなぁ……」

「よく聞け、ガク。どんな凄い力があったって、行動しなかったら何もできやしないんだぜ?」


 そう言いながら、レイジは得意げに僕の前を歩き出した。

 仕方がないから、その後を付いていく。

 自信たっぷりに語るレイジの姿。

 その強さが、時々うらやましく思うこともある。


 行動するから自信が持てるのかな?

 それとも、自信があるから行動出来るのかな……?


 思わずうつむいたそのとき、


「んっ?」


 不意にレイジの声が響いた。


「どうした……のわっ!?」


 顔を上げた瞬間――

 視界に飛び込んで来たのは、立ち止まったレイジの背中だった。


「むぎゅー!」


 僕は、その背中に激しく顔を打ち付けた。


「つっ……いって~~っ……な、なんだよいきなり立ち止まったりして!」


 痛む鼻をさすりながら抗議する。


「おい、ガク……」


 そんな抗議にはお構いなしで、レイジは僕の肩に腕を回してきた。


「あれ見てみろよ」


 レイジは、廊下の少し先を指し示す。


「なんだよ、まったく……」


 唇を尖らせながらも、その指の先に視線を向けてみた。


「……あれ?」


 僕の目に、1人の女生徒が映る。


 小顔で色白の肌に、どこかうれいを帯びた大きな瞳。

 細身の体からスラリと伸びる手足。

 腰の位置まで長く伸ばされた髪。

 それは、つややかでよく手入れされていることを物語っている。


「ガク……」

「うん……凄く可愛い……」


 彼女は、教室に向かう人波から少し離れたところで、1人、たたずんでいた。

 廊下の壁に背を預け、窓から見える空を眺めている。

 遠くを見つめるその瞳の色はとても深く、まるで何か大きな不安や悲しみを背負っているかのようにも見えた。


 その横顔に、思わず高鳴る胸。

 でも……。


 僕は、ゆっくりと口を開いた。


「……あんな子いたっけ?」

「そうなんだよ。俺はこの高校の女子なら、先生、生徒問わず、完璧に記憶してるはずなんだが……」


 それ凄いな!

 その記憶力を勉強に活かせばいいのに……。


 レイジは手をあごに当て、考え込むポーズを取っている。


「この俺の記憶にない子……」

「ん~……あ、そういえば、隣のクラスに転校生が来るって聞いたけど」

「それだっ!!」


 パチンと指を鳴らすレイジ。

 そこそこ大きな音が、廊下に響いた。


「そっか、転校生じゃ知らないはずだよね」


 笑う僕に、レイジは向き直る。


「よし、ガクッ!」

「ん?」

「ちょっと挨拶してこい!」

「え? ……えええええっ!?」


 な、何を言い出すんだコイツは!?


「何でいきなり!?」

「行動しなけりゃ何も始まらないって言ったろ?」


 レイジは、ニヤニヤしながら言う。


「そうだけどさ……」

「よしっ、わかったら行け!」

「い、いや、ちょっと待ってって!!」

「なんだよ?」

「だ、だって、俺……。まだ、恋愛免許証……持ってないから……」

「……は?」


 沈黙が辺りを包む。


「い、いや、だって、ほら、法律違反になっちゃうじゃん!」


 思わず声が上擦る。

 15年前に制定された法律、恋愛法。

 免許を持たない者の告白は、重大な犯罪行為だ。

 レイジは、僕に犯罪者になれと!?


「……ぷっ……くくくくく……ははははは!!」


 その沈黙は、レイジの笑い声で破られた。


「な、何が可笑しいんだよ!」

「あのなぁ、ガク」


 レイジは、笑いすぎて涙が溢れた瞳をこすりながら言う。


「俺は、別に告白してこいなんて言ってないんだぜ?」

「……え?」


 一瞬、思考が止まる。


「挨拶するだけなのに、恋免れんめんなんていらないってーの!」


 再び笑い出すレイジ。

 ようやく僕の頭も回りだした。


 か、勘違い!?

 勘違いなのかっ!?


 うわっ……。

 顔が熱い!

 燃えるように熱い!!

 今、鏡を見たなら、おそらく熟れたトマトよりも赤い顔をしていることだろう。


 そして、このやり取りは転校生にも聞こえていたらしい。

 見れば、顔を背け口元を押さえ、必死に笑いを隠そうとしている。


 恥ずかしすぎる……。


 僕は、耳の先まで熱を帯びていくのを感じていた。


「あら、楽しそうね」


 不意に響く声。

 振り向くと、そこには柔らかい色の服に身を包んだ、上品そうな40代前半くらいの女性が立っていた。


「お母さん!」


 転校生は、ゆっくりとした足取りで、その女性のもとに歩み寄る。

 女性は、優しい笑みを浮かべて迎えた。


「何か楽しいことでもあった?」

「うん、ちょっと……ね」

「そう……それは良かったわね」


 そう言って2人は微笑み合う。

 その自然な微笑みに、僕の胸は再び強く脈打った。


「それじゃ行きましょう」


 母の言葉に、うなずくと転校生は僕たちに向き直った。

 彼女は、真っ直ぐこちらを見つめてくる。

 僕の胸の鼓動は、更に激しさを増した。

 その音は、まるで夏の夕立のよう。

 耳の中に響き渡る激しい鼓動の中、彼女と母親は、僕たちに向かってそっと会釈をした。

 はじけるように、慌てて頭を下げる。

 レイジも、僕に習って頭を下げた。


 どれくらいそうしていただろう?

 それでも、胸の高鳴りは収まらない。


 この心臓の音、レイジに聞こえるんじゃないだろうな……。


 そう思った瞬間――


「……おい、ガク!」

「うわぁっ、レ、レイジッ!?」


 不意に名前を呼ばれ、思わず驚きの声が出た。


「『うわぁ』じゃねーよ」


 跳ね起きた僕に、レイジはため息をつく。

「あの2人、もう行っちゃったぜ?」

「……え?」


 見れば、2人の姿はすでにそこにはなかった。


「そ、そっか……」


 僕は、深く息を吐く。


「いやぁ、可愛い子だったな~」

「う、うん……」


 レイジの言葉に、動揺を隠しつつうなずく。


「隣のクラスのやつが羨ましいな」

「う、うん……」

「お母さんも美人だったな」

「う、うん……」

「おい、ガク……」

「……う、うん?」


 不意にレイジは、僕の顔をまじまじとのぞき込んだ。


「な、なんだよ……」

「お前……」


 眉をひそめる僕に、レイジの口がゆっくりと開いた。


「お前……惚れたな?」

「な……!!」


 その言葉に、僕の心臓はまた強く早く拍動する。


「なに言ってんだよ!」


 思わず大きな声が飛び出した。

 周りの人の視線が、一気に集まるのを感じる。

 でも、そんなことはお構いなしのように、レイジはニヤニヤと笑っている。


「レイジは……いきなり変なこと言うなよ」

「照れんなって」

「て、照れてなんかない!」


 ニヤニヤした笑顔のまま僕に近付いてくると、レイジは僕の肩に腕を回してきた。


「いいじゃんいいじゃん、恋する気持ちに素直になれよ!」

「だ、だからっ!!」


 僕は、その手を振りほどく。


「恋じゃないってのっ!!」


 その高ぶった声に、再び周りの視線が集まるのを感じた。

 ええい、そんなの知るか!


「ガク~、そう興奮すんなって~」

「くっ……興奮させてんのは誰だよ……」


 はぁはぁ……。

 と荒く息をつきながら、僕はレイジをにらんだ。


「確かに可愛いとは思ったけど……。別に……まだ恋ってレベルじゃない」

「ふ~ん……まだ・・……ね」

「な、なんだよ、何か言いたそうだな」

「いや、別に~」


 にらむ僕の視線から逃れるように、レイジはおどけてみせる。


 くっ……コイツは……。


 ため息をつきながら、僕は彼女がしていたように空に視線を向けた。

 そこには、青く澄んだ空がある。


「ガクも、俺みたいに行動的にならなきゃダメだぞ」

「……ん? 俺みたいにって……何かしたの?」


 視線を戻しながら、僕はレイジにたずねた。


「ふっふっふ、聞きたいか?」


 不敵に笑うレイジ。


「あ……やっぱいいや」


 僕は、イタズラな笑みを浮かべて、そう言ってやった。


「な、なんだよ、聞けよ!」

「いいって、大丈夫だよ」


 愕然がくぜんとするレイジを後目に、僕は教室に向かって走り出した。


「ちょ……お、おい、ガクッ!!」


 僕の後を追って、レイジも走り出す。



 窓から見える空。

 それは、はてしなく高くて――

 流れる雲は、とても優しくて――

 僕たちの想い、全てを

 そっと包み込んでくれるような――

 そんな気がしたんだ……。

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