雪がしんしんと降り注ぐ十二月のある日、山奥の温泉旅館『緑風苑』に、車に乗って一組の家族が到着しました。
頭に粉雪を乗せて入ってきたのは、眼鏡をかけたお父さんと髪の長いお母さん、六歳のくりくりとした目の男の子、そしてその腕に抱きかかえられた一匹のカエルのぬいぐるみでした。
顔や腕は抹茶みたいな緑色の糸で、お腹や口、手の平足の裏は白い糸でできています。目は黒くキラキラとしていて、いつも笑っているように見えます。茶色のベストに袖を通していて、なんどかとれてしまったボタンはそれぞれ違う種類のものがぬいつけられていました。男の子が歩くたびに、合わせて「ケロッ、ケロッ」と音が鳴ります。
「ケンくん、ケロちゃんはなしちゃダメよ」
ケロちゃんの頭に積もった雪をはらいおとしている男の子に、お母さんが注意しました。
「はーい!」
お母さんに言われて、ケンくんはケロちゃんをぎゅっと抱き締めました。ケロちゃんはケンくんの腕のなかで「グェー」と鳴きました。
チェックインを済ませたお父さんに続いて、お母さんとケンくんも後を追います。廊下にはヒノキの匂いが漂っていて、おちついた音楽が静かに流れていました。時々ほかのお客さんとすれ違いながら、一家はお部屋につきました。
お父さんが戸を開けると、木や畳、そしてほのかにお香の匂いが漂ってきました。部屋の真ん中には大きな机があって、上に急須やお湯のみ、お煎餅が置いてあります。奥の方は縁側のような作りになっていて、お母さんが障子を開けると、窓辺に積もった雪と灰色の空が現れました。空調がかすかに唸り声をあげていて、それがないと、寒くて凍えていたでしょう。
お父さんお母さんにならって、ケンくんもコートを脱ぎ、緑と白のチェック模様のマフラーもとりました。
外を眺めるお母さんの隣に立ったケンくんは、背伸びをして同じようにしようとしましたが、雪しか見えませんでした。すぐ近くに置かれている、背もたれの高い椅子によじ登ってようやく、いましがた入ってきた玄関を見下ろすことができました。
ちょうど、新しい家族が玄関に入っていくところで、ケンくんと同い年ぐらいの女の子がクジラのぬいぐるみを抱えているのが見えました。
雪の中の運転に疲れたお父さんは畳にごろりと横たわり、ケンくんも笑いながら同じように転がりました。お母さんは、ほったらかしにされたケロちゃんを縁側の椅子に座らせました。
テレビをつけて、お母さんがお茶を淹れました。地元では見れない番組がやっています。そのうち始まったアニメにケンくんが夢中になっている間に、お母さんは相変わらずごろごろするお父さんを跨いだりしながら荷ほどきを終えました。
アニメのエンディングテーマが終わる頃には、そろそろ晩御飯という時間になっていました。
ごはんは食堂に用意されているので、そちらに向かわなければなりません。まだちょっとだけ余裕があるので、館内の見学に行くことになりました。畳から起き上がったケンくんはケロちゃんを抱きかかえると、浴衣に着替えたお父さんとお母さんの後について部屋から出ました。
それからしばらくの間、ケンくんはケロちゃんをつれてあちこちを見て回りました。大浴場の入り口、お土産屋さん、ロビー、ゲームセンター、どこもかしこも新鮮で、飽きません。
ケンくんがゲームセンターで、お母さんがお土産屋さんで粘ったせいで、晩御飯の始まる時間に少し遅れてしまったくらいです。でも、そこから先の時間も、あっという間に流れて行ってしまいました。
おいしい晩御飯に、お父さんは上機嫌で何杯もお酒を飲みました。それから皆でゲームセンターに行って、何十年も昔から動いていそうなゲームで遊びました。
卓球台も置いてあって、お母さんがお父さんをボコボコにしました。浴衣の裾をはだけさせて必死にピンポン玉を追いかけているお父さんが面白くて、ケンくんはケロちゃんを抱いたままゲラゲラ笑い、つられてケロちゃんもケロケロ笑いました。
汗だくになったお父さんとお母さんと一緒に、ケンくんはいちど部屋に戻ってお風呂の準備をしました。ケロちゃんはお留守番です。
皆を待っている間、仲居さんがやってきて、布団の準備を整えていきました。ケロちゃんは縁側の椅子の上から、その様子をじっと見つめていました。
やがて、火照った顔から湯気を立てた三人が帰ってくると、ケンくんはケロちゃんを抱いて、途中で買ってもらったアイスをなめました。お父さんとお母さんは、そんな二人の様子を見ながら、おだやかに微笑んでいます。
そうしてゆっくりと、時間は過ぎていきました。旅行を楽しみにしていたケンくんはまだまだ起きていたいようでしたが、とうとう疲れて寝息を立て始めてしまいます。お父さんはそんなケンくんを抱き上げて、そっと布団に寝かせてあげました。お母さんに運ばれてきたケロちゃんは、すうすうと眠っているケンくんの顔の横に座り、つぶらな二つの目で男の子の寝顔を見守っていました。ほどなくして、お父さんとお母さんも、ケンくんを挟んで布団に入りました。
部屋の明かりが消えました。
オレンジ色の常夜灯だけが光っています。備え付けの冷蔵庫がしずかにうなり、壁にかけられた時計が12の文字を指しました。ケンくんは起きる気配もなく、お父さんお母さんと同じようにぐっすりと眠っています。
「……さてっ」
ケロちゃんは枕元から立ち上がりました。
けろんっ、と体の中から音が鳴ります。どうにもしようがないので、ケロちゃんは抜き足差し足、静かに三人の側を離れました。
部屋に用意されている、まだ乾いているタオルを一枚とって、それからお父さんが机の上に置いていた鍵も手に取ります。出入口でジャンプしてノブを回し、扉が少し開いた隙にケロちゃんは廊下へと飛び出しました。
けろんっ。
廊下に着地すると、やっぱり音が鳴りました。
ケロちゃんはもう一度ジャンプして鍵をかけると、薄暗い廊下を歩きだしました。
静かです。昼間は流れていた音楽も止まっていて、空調の音と、ケロちゃん自身のケロケロ音、それとペとぺとという足音だけです。床に垂れてしまいそうだったタオルを首に巻きなおしつつ、ケロちゃんは階段の手すりを滑り降りていきました。
「ケロッ!」
お土産屋さんの近くで、警備員さんの懐中電灯に照らされそうになりました。ケロちゃんは慌てて、ぬいぐるみの盛られた籠に飛び込みます。その時もやっぱり「けろんっ」と音が鳴り、警備員のおじさんは小首を傾げましたが、カピバラのぬいぐるみに紛れたケロちゃんを見つけることは出来ませんでした。
おじさんが行ってから、ケロちゃんは「ふぅ」とため息をついて、首に巻いたタオルで冷や汗を拭いました。
「助かったケロ。ありがとうケロ」
ケロちゃんはお礼を言います。
ですが、カピバラたちは何も言いません。
「…………ケロ」
ぴょんと籠から飛び降りると、ケロちゃんはふたたび歩き始めました。廊下を抜け、宿直室の前をコソコソ走り、大浴場までたどり着いたのです。
暖簾をくぐると、そこは人間たちの使っているお風呂とは、別の世界になっていました。ぬいぐるみだけの、隠れ湯です。
ロッカー、洗面台、給水機、何もかもが人形たちの背丈にあわせて作られています。ドライヤーは肌を傷めない特別なもので、良い匂いがするスプレーも置いてありました。ガラス張りの冷蔵庫もあって、なかには人間が飲むのと同じサイズのヤクルトが入っています。ケンくんたちからすればちょっとの量ですが、ケロちゃんには十分な量です。
湯上りに飲むヤクルトを想像してわくわくしながら、ケロちゃんは器用にボタンを外してベストを脱ぐと、丁寧に畳んで、お部屋の鍵と一緒にロッカーに入れました。でも、こっちのロッカーには鍵はもちろん、戸もついていません。物を盗んでいく悪いぬいぐるみなどいないからです。
タオルを手にして浴室の戸を開けると、もわっと湯気がたちこめて、ケロちゃんの黒いつぶらな瞳を覆いました。かぽーん、とどこかで鹿威しの鳴る音が聞こえます。
湯船に飛び込みたい気持ちをおさえながら、まずケロちゃんは体を洗います。とはいえ、ぬいぐるみの隠れ湯は無礼講。湯船にジャンプしたり、泳いだりするくらいでは、誰も何も言いません。
でも、ケロちゃんは丁寧に手や足を洗います。まだ小さいケンくんに、うっかり病気やダニをうつしてしまわないためです。
シャンプーもボディソープも、ぬいぐるみのもこもことした肌を傷めず、それでいてしっかりと汚れを落としてくれます。足の裏から黒い汚れが落ちるのを見た時は、こんなに汚してしまっていたのか、とケロちゃんじしんびっくりしたくらいです。
頭のてっぺんから足の裏まで、くまなく綺麗になったケロちゃんは、いよいよ湯船に向かうことにしました。でも、内風呂に入るより、せっかくなら露天風呂です。
外に繋がる扉を開けると、雪混じりの風が吹きつけてきて、シャワーで温まったはずの体にもこたえました。いそいそと、でも滑らないように石畳を歩いて、露天風呂の縁に着きました。まわりを囲んでいる石は、どれも雪をかぶっています。もくもくと立ち上る水蒸気は、雪と入れ違いになって、夜空に消えていきます。
ちょん、と足をつけると、少し熱いくらいでしたが、温泉とはそういうものです。ケロちゃんはゆっくりと全身を浸すと、口から「ケロロ~」とため息を漏らしました。お湯が体の隅々まで染みわたっていきます。元気なケンくんと過ごすのは楽しいけど、疲れはどうしても溜まってしまいます。それが今、ゆっくりと抜けていくようでした。
ふとまわりを見渡します。洗い場もそうでしたが、他のぬいぐるみの姿は見えません。
「ケロぉ……」
ケロちゃんの声は、鹿威しの音に混ざって、宙に消えていきました。
露天風呂には、ほかに誰もいないようです。
いえ、ぬいぐるみの隠れ湯じたい、今では訪れるぬいぐるみたちもめっきり減ってしまったのです。
ケロちゃんは、ここに来る途中で出会ったカピバラたちのことを思い出しました。
彼らもケロちゃんと同じぬいぐるみです。でも、彼らにはまだ魔法がかけられていません。だから言葉も無ければ、心もまだ持ってはいないのです。
その魔法は、人間なら誰でも持っている力、すなわち何かを愛するということなのでした。
ぬいぐるみは、人から愛を分けてもらうことで、初めて言葉と心を持つことができるのです。
「ケロケロ」
ケロちゃんは露天風呂の端まで泳いでいくと、つぶらな黒い瞳でじっと夜空を見上げました。まだ雪は降り続いているけれど、わずかに空が開けているところもあります。そこから、名前も知らない星たちが、静かに光を降り注いでいるのでした。
でも、その光のなんと冷ややかなことでしょう。温まっていく体と反対に、ケロちゃんの心には隙間風が吹くようでした。
ケンくんは来年の春になると小学生。友達も、今よりたくさんできるに違いありません。そうなった時、きっと自分のことなんて見向きもしなくなってしまう……。
愛をもらったぬいぐるみでも、それが途切れてしまうと力を失ってしまいます。そう、あの名前を持たないカピバラたちのように、目を開けたまま眠り続けるだけの存在になってしまうのです。
「でもそれも仕方のないことケロ。ケンくんが無事におっきくなってくれれば、ケロはそれだけで良いケロ……」
そんな風に強がりを言ってみました。でも心は正直です。いつしかケロちゃんの目に、涙が浮かんでいました。もう湯上がりのヤクルトもすっかり頭から抜け落ちてしまっています。
「ケロっ……ケロぉ……! ケロぉ……!!」
他に誰もいないのです。ケロちゃんはさめざめと泣きました。涙がポタポタとお湯に落ちて、小さな波紋をいくつも作りました。
その時です。
ケロちゃんの真横にブクブクと泡が浮きました。
「ケロっ、ケロっ……ケロ?」
ブクブクが大きくなって、ようやくケロちゃんも気がつきました。涙をぬぐいながら見ていると、次第に泡も大きくなっていきます。
そして、お湯をざばぁっとかき分けて、水色の肌のクジラが浮上してきました。
大きさはケロちゃんと同じくらい。小さな子供が両腕で抱えられるくらいです。まるっとした頭に、ケロちゃんと同じつぶらな黒い瞳がついています。でも、みょうにくりっとした、無邪気そうな印象もあるのでした。
ケロちゃんとクジラはしばらくそのまま向き合っていましたが、どちらともなくぺこりと挨拶しました。
「はじめまして、クジ」
「ど、どうもケロ……」
いったいいつからいたのだろう、とケロちゃんはあっけにとられる思いでした。なにしろクジラの顔は、のぼせて真っ赤っかになっていたからです。
「ふー。あ、ちょっと失礼するクジ」
そう言うやいなや、クジラは頭のてっぺんから潮を吹きました。ぷしゅー、と空気の抜けるような音といっしょに、お湯がアーチを描いて飛んでいきます。
「つい気持ちよくて、長いことつかっちゃったクジ」
良いお湯クジー、とのんきな声でクジラは言います。
それまでの感情を押し流されてしまったケロちゃんは、浮きかけていたおしりをもう一度露天風呂の底に落ち着けました。クジラはそんなケロちゃんに、どこまでもマイペースに語りかけてきました。
名前はクジちゃん。持ち主のアキちゃんが、言葉を使いはじめた時からずっと、そう呼ばれていたからです。
ほがらかで優しいクジちゃんに、ケロちゃんはすぐに打ち解けました。最初こそびっくりしたものの、話していると面白いし、少しも肩肘を張らなくてよいので気が楽でした。
お互いの家族のこと、これまでの思い出のこと……話し出すと止まりません。まるでずっと昔から友達であるかのようでした。
そんなクジちゃんが、だしぬけにこんなことを言ったので、ケロちゃんはびっくりしました。
「ケロちゃん、さっきはどうして泣いてたクジ?」
気付かれていたケロ、とケロちゃんは少しうろたえました。でも、クジちゃんのつぶらな瞳はじっとケロちゃんを見つめていて、とてもはぐらかすことはできなさそうです。
「実は……」
ケロちゃんは思っていたことを素直に打ち明けました。
ケンくんが大きくなるのは嬉しいけど、いつか自分を忘れてしまうのではないか。
忘れられてしまった自分は、いつまでも思い出されないまま消えて行ってしまうのではないか。それを仕方のないことだと受け入れなければならないのではないか。
「クジちゃんは悩まないケロ?」
そうきくと、クジちゃんは「んー」と考えつつ、ヒレでちゃぷちゃぷとお湯を叩きました。
「……寂しくならない、わけじゃないクジ」
「だったら」
でも、とクジちゃんは頭をケロちゃんの方に向けました。
「クジたちにできるのは、クジたちの役目を果たすことクジ」
「役目、ケロ?」
うん、とクジちゃんはうなずきます。
「クジたちの役目は、みんなに愛されることクジ。誰かに愛してもらっている子供たちが、愛されるだけじゃなくて、ほかの誰かを愛せるようになる、そのお手伝いをすることクジ」
つぶらな、まっくろの瞳で、クジちゃんはじっとケロちゃんの顔を見つめました。そこには迷いや悩みは少しもありません。ただただ、そうすることが正しいのだ、という確信だけがあるようでした。
「誰かを愛するためのお手伝い、ケロ?」
「そう。クジはアキちゃんに、誰も愛せない大人になってほしくないクジ。だから今は、アキちゃんが愛し方をおぼえるために、まいにち一緒にいるクジ。
もちろん、いつかアキちゃんにとってクジがいらなくなる日が来るかもしれないクジ。でも、誰かを愛せる子に育ってくれたなら、きっとその愛をクジにもずっと分けてくれる……クジはそう信じてるクジ」
そう言って、クジちゃんはふんっ、と胸を張りました。
「ケンくんは、ちゃんと愛されてるクジ?」
「もちろんケロ」
ケロちゃんはケンくんのことを思い浮かべました。お父さんとお母さんのことも、みんなで一緒に過ごす毎日のことも。
そして、小学生よりももっと大きくなったケンくんのことを想像しました。
まだ、顔はぼやけていてよく見えません。でも、未来のケンくんがどんな顔をして過ごしているか。それは自分に懸かっているのだと、ケロちゃんは強く思いました。
「……そうケロ。ケロはケンくんに、大切なことを教えてあげなきゃいけないケロ」
「クジ」
クジちゃんが頷いた時、露天風呂の入り口の方がにわかに賑やかになりました。
見ると、大勢のぬいぐるみたちが、わいわいがやがやと入ってくるところでした。
そこには、新しいぬいぐるみもいれば、何度も大手術を経験してきたようなぬいぐるみもいます。今日買われたばかりで、お尻にタグをつけたままのカピバラも居ました。
露天風呂はあっという間にいっぱいになり、おたがいの交わす言葉で鹿威しの音さえ聞こえなくなりました。
「ほらね、ケロちゃん。きっと大丈夫クジ」
「……ケロ!」
それから二人は、露天風呂に入ってきた仲間たちと楽しい時を過ごしました。火照った体を岩の上で休めたり、露天風呂の端から端まで泳いで競争したり、何もかもが忘れられないくらいの思い出になりました。
でも、いつまでも浸かっているわけにはいきません。名残惜しいですが、ケロちゃんとクジちゃんはみんなにお別れを言って一足先に温泉を出ました。
来た時よりずっと賑やかになった脱衣所で、ケロちゃんとクジちゃんはお互いに体をふきふき、ドライヤーで乾かしました。スプレーは、ケロちゃんはほうじ茶の香りを、クジちゃんはプリンの香りを吹き付けて、それから一緒にヤクルトをちびちび飲みました。
本当はケンくんにもお土産で持って行ってあげたかったのですが、人間に持って行ってはいけないルールです。
ぽかぽかと湯気を立てながら暖簾をくぐると、時計はもう三時を指していました。お客さんはともかく、あと少しで旅館の人たちが起きてきてしまいます。
ふたりは元来た道をたどってそれぞれの部屋に向かいました。クジちゃんの部屋はケロちゃんの部屋よりも先にあったので、扉の前で別れることになりました。
「クジちゃん、ありがとうケロ」
「ケロちゃん、いっしょに頑張るクジ」
ケロちゃんとクジちゃんはお互いの手とヒレで握手しました。ケロちゃんは、クジちゃんの姿が廊下の向こうに消えてしまうまで見送ると、名残惜しい気持ちを胸に鍵を開けて、部屋に入りました。
三人は、ケロちゃんが出て行った時と同じ姿のまま眠っています。
「ケロ……」
ケロちゃんはケンくんが眠った時とまったく同じ位置に座ると、そっと男の子の前髪に触れました。ケンくんは幸せそうに寝息を立てています。ケロちゃんのふわふわの手の平になでられて、少しくすぐったそうにもぞもぞ動きました。
「邪魔しちゃいけないケロね」
でも、ケロちゃんはケンくんを抱き締めたくて仕方ありませんでした。
それも、朝まで待つことにします。目が覚めたらきっと、ケンくんは自分を抱き締めてくれる。
「そう、それもケロの仕事ケロ」
そしてケロちゃんも、少しの間休むことにしました。今夜の幸せな思い出を夢に見ながら……。
◇◇◇
「あら、ケロちゃん、いつもよりなんだか毛並みが良いわね?」
朝ごはんに行く前、ふとお母さんがそんなことを言いました。ケロちゃんを腕に抱いたケンくんはこしこしとカエルの頭を撫でます。ふわりとほうじ茶の匂いが立ち上りました。昨日こんな匂いしたっけ? そう思いながら、お父さんとお母さんを追いかけて食堂に降りました。
今までがそうだったように、朝ごはんの後も時間はあっという間に過ぎていきました。途中、水色のクジラを抱えた女の子とすれ違った時、そのクジラがひょいとヒレを動かしたように見えましたが、きっと気のせいだと思いました。
たった一日しかいなかったのに、いざ帰る支度をはじめるとさみしくなります。ケンくんは思わず泣きだしそうになってしまいました。でも、春になったら小学生のお兄さんです。これくらいで泣いちゃいけない、そう自分に言い聞かせます。
その時、ふと胸のあたりが温かくなりました。きゅっ、と抱き締められたような気がしました。
「ケロと一緒に帰るケロ?」
そんな声が聞こえた気がしました。
「……うん!」
ケンくんは壊れないように優しくケロちゃんを抱き締めると、寒くならないように自分のチェックのマフラーを首に巻いてあげました。
「あら、ケンくん寒くない?」
「ぼくは大丈夫だよ!」
そう言ってにっこりと笑うと、腕の中のケロちゃんも「ケロロッ」と鳴き声を上げました。
そして三人と一匹のカエルは『緑風苑』の玄関を出ると、車に乗り込んで、雪をかぶった木々に挟まれた道を下っていきました。