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ヘルムート・シェルマン氏の真実の客
井上数樹
文芸・その他純文学
2024年07月28日
公開日
7,671文字
完結

京都は嵐山で開かれる、知る人ぞ知る名ピアニストの演奏会。名人ヘルムート・シェルマン氏には、奇妙な噂が囁かれている。

ヘルムート・シェルマン氏の真実の客

 今や外国人御用達の騒々しい観光地と化してしまった嵐山だが、渡月橋を渡り、大堰川を上流の方へ歩いていくと徐々に喧騒から解き放たれ、かわって川のせせらぎと竹の葉のざわめきだけが響く小さな古道が姿を現す。


  コンクリートの道路は石畳に代わり、電線や電灯はめっきりと数を減らす。

  古道の入り口には、ここが秘密の穴場であることを知っているごく少数の俥夫しゃふが控えており、曇り一つなく磨かれた漆塗りの人力車の傍で客が訪れるのを待っている。その様子は観光業に従事する者とは思えないほど寡黙で、まるで瞑想する山伏のようだ。


 彼らが沈黙するのは、この古道から先の一帯が私有地であるからだ。しかもただの金持ちではなく、皇家の傍流に連なる由緒正しい家系だ。


 今でも隠然たる影響力を持ち、府議会議員程度では、一族に相まみえることさえ許されない。故に、まるで多民族国家になってしまったかのような嵐山にあって、この一帯だけは不可侵の力によって守られている。


 この一族の当主は、自分こそが京都の雅やかな雰囲気と、過ぎ去った過去の伝統を保存する唯一無二の担い手であると確信していた。彼を知っている人々は、公の場においてはその名を口にせず、単に山の手の当主とだけ呼んでいた。


 そんな人物なので、かのヘルムート・シェルマン氏と意気投合するのも、当然の成り行きと言えるだろう。


 齢九〇歳にして現役のピアニストである氏は、これまでに四十を超える国々を訪れて演奏会を開き、そのすべてにおいて喝采を得てきた人だった。手にした栄誉は数知れないが、氏は六十歳を境にそれらを拒絶するようになっており、今となっては知る人ぞ知る密かな名人である。


 氏が、まるで世捨て人のように世間からの評価を拒むようになった理由は、今もって判然としない。


 一説として、冷戦の終結によって資本主義が支配的となり、それに伴って自分の音楽が商品化することを忌避したためとも言われている。


 氏が最初に声望を得たのが、当時は東ドイツ共和国の一部であったライプツィヒであったこと、青年期に演奏会のほとんどを東側の国々で開いたこと、ムラヴィンスキーがチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を指揮する際にソリストとして招いたこと等々を証拠として、今でも彼が共産主義者であるとまことしやかに噂する者は多い。


 しかし一方で、ヨーロッパ中の教会のパイプオルガンを自費で整備しては、ほとんどただ同然の値段でバッハのカンタータを弾くこともあった。彼の主義主張が奈辺にあるか知る者は数少ない。


 突拍子も無い噂話だが、シェルマン氏は若かりし日に悪魔と契約し、両腕の肘から先だけ不老となる取引をしたという。その罪悪感から、栄誉栄華を漁るより、ひたすらに芸術を極めんとしているのだ、と実しやかに囁く者は、後を絶たない。


 山の手の当主は、そんな謎めいた老ピアニストの数少ない理解者であり、この日本で唯一、演奏会を開く場を提供出来る人物だった。


 六十歳になるまでは様々な音楽家の曲を弾きこなしてきた氏だが、円熟期を迎えた現在、彼の技術と精神性が最も顕著に表れるのはショパンであると言われている。その完成された演奏は、録音データでは決して聴くことが出来ず、聴衆は必ず演奏会へ足を運ばなければならない。


 従って、日本で氏の演奏を聞こうと思ったら、必ず山の手の当主の邸宅を訪ねなければならないのだ。


 明治の終わりに建てられたこの屋敷は、増改築を繰り返しつつも、その古風な雰囲気だけは決して失わなかった。二階建ての建物が三棟、ちょうど凹の字のような形で配置されている。それぞれの棟は二本の木製の橋で結ばれており、山の峰から引かれた小川が一本の橋の下を通り、中庭の池を経て、もう片方の橋から屋敷の外へと流れ出ていく。


 山の清流を湛えるこの小さな池は、庭園のみならず、この秘密の屋敷の中心をなしていた。まるで水晶を砕いて溶かしたかのように澄み切っていて、長く見つめていれば引き込まれそうな錯覚を覚えることだろう。


 水面からは色とりどりの睡蓮が顔を出し、コウホネの葉がその周りを彩っている。宝石のような鱗を持った鯉が茎と茎の間を泳ぎ、時折尾鰭で水面を叩いた。春になると、池の周りに植えられた桜の花びらが水面を彩り、その光景そのものが一種の美術品となる。ある高名な茶人がこの池を評して、玻璃はりの溜まりと呼んだのは、知る人ぞ知る話だ。


 歴代の当主にとって、この池は自慢の種であり、屋敷の象徴でもあった。政財界の有力者を集う時は必ずこの庭を宴会場としたし、能楽の舞台とすることもあった。


 今回は、シェルマン氏が愛用するベーゼンドルファー・モデル290が運び込まれ、池須の中心に鎮座していた。“インペリアル”と呼称されることもあるこのピアノは、ヘルムート・シェルマンがショパンを演奏することを前提に造られた特注品だった。


 シェルマン氏の来日はマスコミにほとんど注目されることはなく、また、山の手の当主が主催する演奏会の情報も、漫然と過ごしているだけでは絶対に手に入らなかった。仮に知ることがあったとしても、相場から大きく逸脱した額を目にすれば、行こうという気も萎えてしまうだろう。


 四月一日の夕方。夕日が山の背に隠れ、少しずつあたりが暗くなり始めた頃、隠れた古道を通ってぽつぽつと観客が屋敷を訪れ始めた。普段は静寂に支配された竹林に、車輪の転がる音がひっきりなしに鳴り響く。


 屋敷の入り口につけられた人力車から、いかにも裕福そうな身なりの紳士淑女が何人も降り立ち、山の手の当主と握手を交わす。自動車で乗り付けている者は一人もいない。まるで百年も前に戻ってしまったかのような光景だ。


 玄関を入ってすぐのところには、受付役の青年が立っている。チケットを素早く確認すると、洗練された仕草と完璧な笑顔で「どうぞ」と促す。


 ホールには当主の用意した飲み物や軽食が並べられていて、小さいながらも社交会場としての体裁を作っていた。天井に吊るされた、瀟洒な造形のシャンデリアから零れる光が、壁にかけられた日本画や客の服を厳かに照らし出す。


 並べられたグラスや陶磁の皿の金縁、磨き抜かれた大理石の床が瞬く。いくつもの囁きが重なって、それ自体、一つの音楽のようになった。誰もが騒がしくしてはならないと分かっているのに、期待感からおのずと声が漏れてしまうのだ。


 やがて案内がなされ、庭に通じる扉が開かれた。客たちがそろってそこをくぐろうとした時、最後の客が、やや慌ただしい足取りでホールに入ってきた。


 少し息を弾ませながら現れたのは、黒いパーティドレスに身を包んだ若い女性だった。少年のように中性的な顔つきで、艶やかな黒い髪の毛もショートカットにしているが、少しも尖ったところを感じさせない穏やかな雰囲気をまとっている。薄くチークを入れているが、そんなものを必要としないほど美しい血色が、頬を染めていた。


 受付役は、彼女が上品な、これまた黒いハンドバックからチケットを取り出す仕草を見て、どこか由緒ある家柄の令嬢に違いないと確信した。何人かの目ざとい客が彼女の姿を認め、どこの社長令嬢であっただろうかと、頭の中の人物録を紐解いた。


 演奏者も含めて平均年齢の高い会であったため、彼女の登場はすぐさま全体の知るところとなった。客たちが庭へと案内され、思い思いの席に座った後も、囁きが止むことはなかった。当の本人はと言うと、あまり人目につかない隅の方の席に座り、ライトアップされたグランドピアノをじっと見つめている。


 やがてヘルムート・シェルマン氏が登場すると、そのざわめきも徐々に、徐々に、小さくなっていった。まるで何者かが、スピーカーの摘まみを捻ったかのように。後には聴衆の息遣いや咳払い、そして風の音だけが残った。


 インペリアルの傍らに立つシェルマン氏の姿は、ピアニストと言うよりむしろ、怪しげな知識に精通した魔術師のようだった。


 若いころは長身のスマートな青年だったのだろうが、今や背骨が突き出るほどの円背になっており、杖を持たず歩いているのが奇跡的であった。蜘蛛のように長い腕だけが、かつての長躯の名残として残っている。手もヤツデの葉のように大きく広いが、どうしてか白い手袋をはめていた。


 隠しようのない老いがあちこちに見受けられるものの、シェルマン氏の顔には陰鬱さなど一欠けらも浮かんでいない。髭にせよ眉毛にせよ綺麗に整えられており、不潔さとは全く無縁だった。


 あたりが静まり返るまで待っていたシェルマン氏は、軽く会釈した。元々腰が曲がっているため、よろめいたと捉えてしまった人も何人かいたほどだ。そして、悠長な仕草で椅子に座ると、軽く指を揉み合わせた。


 最初、シェルマン氏の姿を見た聴衆たちは、氏の腕前に疑問をいだいた。


 かつては唯一無二の演奏者と称された氏だが、果たして今もその実力は衰えていないのか。ひょっとしたら、自分たちはここに来るために、とんでもない大損をしたのではないか。そう考えたのだ。それも、ショパンの『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』の最初の一音が響くまでしか続かなかった。


 Andante spianatoという言葉に導かれて、流麗なアルペジオが宙に漂う。ベーゼンドルファーの奏でる艶やかな音色が響くたびに、庭園を包む空気そのものが作り替えられていくかのようだった。永遠にこの心地良い旋律に身を任せて居たいと思わせるほどに、シェルマン氏の演奏は懐が深く、魅惑的であった。


 やがて『アンダンテ・スピアナート』の箇所が終わりに差し掛かり、ピアニストの指使いも次第に悠長になっていく。これはひとつながりの曲ではあるが、中間点を境に曲想は大きく姿を変える。


 そして、『華麗なる大ポロネーズ』への転換点で、シェルマン氏は一気にエネルギーを解放させた。ポロネーズに至るト音のファンファーレを力強く叩き、六つの単音を極端なスタッカートで弾けさせる。


 そして始まったポロネーズは、先程以上に人々の心を掴んで離さなかった。勇壮な旋律は聴衆の注意を一瞬で支配し、その一音々々を余すことなく刻み込む。


 ある評論家は、ヘルムート・シェルマンの演奏だけは絶対に耳にしたくないと公言している。何故なら、以降どのピアニストの演奏を聴いても、老人より数段劣ったものと意識させられてしまうからだ。現に彼は、氏の奏でる『華麗なる大円舞曲』を聴いてしまったがために、残りの人生で『華麗なる大円舞曲』を美しいと思えなくなってしまった。


 そんな魔術的な逸話が罷り通るのが、ヘルムート・シェルマンの演奏なのである。この時、この場に居合わせた人々は幸運であったが、同時にとてつもない不幸を背負うことになったのかもしれない。


 ともあれ、彼の演奏を耳にした直後は、皆言葉に出来ないほどの感激で身を震わせていた。プログラムの前半が終わった時、全ての聴衆が立ち上がって割れんばかりの拍手を送った。円背の老ピアニストはポケットチーフで軽く額を叩いてから、軽やかに一礼してひょこひょこと舞台を去って行った。


 十五分間の休憩となった。感嘆の溜息をつきながら聴衆は席を立ち、一旦、屋敷の中へと入っていく。用意されていた飲み物を片手に、先程覚えた感動を分かち合ったり、蘊蓄を自慢げに披露したりと、過ごし方は様々だ。誰もが、秘密の音楽会に参加したという優越感と興奮に浸っており、その態度を普段よりも開放的にしたのであろう。


 だが一部の客の視線は、例の黒いドレスの淑女を追いかけていた。どちらかといえば灰色の頭髪の多い中で、黒真珠のような光沢を持った髪はよく目立った。気を利かせた給仕係が、さりげなく彼女に飲み物を提供する。それを契機に、彼女はたちまち会話の輪の中に取り込まれてしまった。


「本当に、素晴らしい演奏でした。ウィーンやベルリンのホールでも、これほどの音楽体験はありませんでした」


 彼女は良く手入れされたヴァイオリンの弦のように、ピンと背筋を伸ばし明瞭に会話する。


 緊張や取り繕ったような様子は微塵も見られず、正しい品位と礼節を身に着けていることがはっきりと見て取れた。彼女の立ち居振る舞いは、上流階級の紳士淑女にとって実に期待通りの反応であった。そして、自分たちが今までに重ねてきた音楽の遍歴について意気揚々と喋り出そうとした時、演奏会の再開が告げられた。


 後半の曲目は、ほとんどがショパンのノクターンで占められていた。その何れもが、聴衆の記憶を永遠に支配するような素晴らしい演奏であったことは、言うまでもない。


 オーソドックスな二番に始まり、十八番、二十番、四番、十七番……と、順番を無視して演奏したのは、氏のこだわりによるものである。


 先に弾いたからといって必ずしも軽視しているわけではなく、また後に弾いたから重視している、というわけでもない。退屈と評されることの多い六番を妙に力を入れて演奏したかと思えば、初期の傑作と言われる三番を氏らしからぬ月並みな表現で(無論、最高の技術を以てだが)描いてみせたりもする。その極端な好き嫌いに、長年ショパンの楽曲を弾きこなしてきたヘルムート・シェルマンの自負と誇りが見て取れた。


 いずれの曲を弾くにしても、名人の指は歳を感じさせない繊細さで音を紡ぎだし、聴衆を虜にした。演奏が進むにつれ、彼らは次第に、以後これ以上に素晴らしいノクターンに出会えないのだという確信を深めていった。


 最後のノクターンは、大方の予想通り最も雄大とされる第十三番だった。


 瞑想的なメロディを縦糸に、深く静かに押し込まれた和音が横糸として織り込まれる。望遠鏡で夜空を覗き込んだ時の、あのどこまでも吸い込まれていくような感覚を音として表したなら、このようになるのであろう。静かで、かつゆったりとした曲調であるにも関わらず、奏者に要求される技術は非常に高度な作品である。


 やがて、昇るところまで昇った旋律は、曲の中間点を境にその様相を変化させる。ヘルムート・シェルマンの腕が鍵盤の上で跳ね、Doppio movimentoの指示に従い、最初の主旋律が倍の速度で再現される。


 ショパンの音楽は、演奏者に対して常に感情の表現を求めてくる。シェルマン氏の紡ぐノクターンには、氏の長い人生の中で積み重ねられたあらゆる想いが上乗せされていた。


 あるピアニストが、引退に際してこのような言葉を残した。「私の技術も経験も、全ては私に命を与えた神の御業によるものです。主は与え、かつ取られる。私はこれから、神に与えられたものを一つずつ返却していくのです」。


 長く生きれば、その分人は多くのことを見聞きし理解出来る。しかし大抵の場合、気づいた時にはそれを表現する術を失っているのだ。老いるとはそういうことである。だが、ヘルムート・シェルマンのピアノだけは、その老いに対して意固地なまでに反抗しているかのようだった。


 演奏会が終わった。聴衆は各々の胸に感動を抱きつつ、ベーゼンドルファーの音の余韻を消すまいとするかのように静かにその場を立ち去って行った。まるで、秘密の儀式を終えた異教徒のようだった。


 そんな中、黒いドレスの淑女だけは椅子に腰かけたまま、金縛りにあったかのように微動だにしなかった。


 彼女の周りでは、屋敷の使用人たちが演奏会の後片付けのために動き始めていた。魔法が解け、現実への回帰を促しているかのようだった。


 彼女は深く溜息をつき、黒いハンドバックの中からスマートフォンを取り出し、電源を入れようとした。だが、すぐ目の前に一人の老人がぷらぷらと近寄ってくるのが見え、動きを止めた。


 シェルマン氏は頬を上気させたまま、にこにこと笑っていた。片手には桃味の「いろはす」のペットボトルを握っている。名人がすぐ目の前まで歩み寄ってきたことにも驚いたが、ヘルムート・シェルマンともあろう人が「いろはす」のボトルを持っているというギャップが何とも可笑しく、ついくすくすと笑ってしまった。シェルマン氏も少しも気を悪くした様子はなく、にやりと頬と目じりを引っ張って、彼女の隣の椅子に座った。


「いかがでしたか、お嬢さん」


 シェルマン氏の日本語は、イントネーションにやや違和感があるものの、十分に聞き取れるだけのものだった。彼女は間を置かずに「とても素晴らしい演奏でした」と、心からの感謝を込めて伝えた。


「満足いただけたようで嬉しいです。あなたは良く目立っていましたよ。どうにも、私の演奏会は平均年齢が高めになる傾向があるので」


 まあ最大値を引き上げているのは私なのですが、とシェルマン氏は付け加えた。そして「ぜひ、また機会があれば」とさらに付け加えようとしたのを、彼女はやんわりと押しとどめた。


「残念ながら、これが最後だと思います」


 照明が一つずつ落とされ、庭園は徐々に闇に包まれていく。ベーゼンドルファー・モデル290“インペリアル”は光沢を失い、暗闇に沈んだ。屋敷の窓から漏れる光が、忙しなく動き回る使用人たちの姿を影人形へと変えていた。


「私、楽器店で働いているんです。有名な会社だけど、学歴が無いとあんまりお給料も貰えませんから。だから、本当はこんな所に来るのは場違いなんです。服やバックだって、全部レンタルなんですよ」


 いくらか照れ臭さを滲ませつつも、嫉妬や悲嘆は一切見せなかった。シェルマン氏は表情を変えず、黙したまま彼女の告白を聞いていた。


「ピアノもエレクトーンも、どれも高いですから。私はお客さんが買っていくのを見るだけで、それが演奏会でどんな音を出すか知らなかったんです。飛行機だって乗ったことないのに、ウィーンとかベルリンとか、行けるはずないんです」


 彼女はスマートフォンの電源を入れなおした。液晶に白い光が灯ってすぐに、何かの通知を告げる振動と機械音が響いた。彼女はそれをさっとバックの中にしまい込んだ。


「でも、今日の演奏は本当に綺麗でした。何もかも全部魔法みたいで……そういうところに行ったんだって思うだけで、これからの毎日が楽しくなりそうです」


 彼女は屈託のない、晴れやかな笑顔をシェルマン氏に向けた。これからまた、魔法などこの世に無いという現実を突きつけられる日々が始まるとしても、辛うじて信じていられそうだった。


 老ピアニストは「そうですか」と呟き、空になったペットボトルを地面に置いた。それから、ピアノを片付けようとしていた使用人に向かって「ちょっと待って」と声をかけた。


「お嬢さん。お帰りになるまでに、まだいくらか時間はおありですかな?」


 ええ、と彼女は呟くように答えた。「結構」とシェルマン氏はよろめきつつ立ち上がり、右手の手袋を外した。


「良ければご一緒していただけますか? まだノクターンの第八番を弾いていません。とっておきです」


 シェルマン氏は右手を差し出した。楽器店勤務の女の子は、その手を取ろうとそろそろと腕を伸ばした。そして、皮膚と皮膚が触れた瞬間に気づいた。


 ヘルムート・シェルマン氏の大きな手には、拘縮も皺も一切無く、しなやかな筋肉と強く脈打つ血管に覆われ、火のように熱かった。

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