僕はベッドの上にあぐらをかき、目の前に置いた包みをどうすべきか悩んでいた。もうすでにこうやって一時間以上考えている。
この中には大金が入っている。今朝渡されたぶんは、帰りに無理やり押し付けてきた。あとはこれさえ返してしまえば、僕の日常は日常に戻る。竜洞寺玲はこれを正当な金だと言った。僕は彼女に対して、本当にこの金に値することをしたのだろうか。絶対にしていない、というのが変わらない結論だ。明日の朝にも玲は来るかもしれないから、そのときに返してしまいたいりがある。フフッ」
「僕、もう、走れない」関根は弱音を吐いた。
「転がればいいさ」手嶋が肩を叩く。
「正直、俺は植月に嫉妬していた」熊田が白状した。「しかし植月は、真の妹のために玲と健全な関係を保った。あのハレンチなボディを目の前にして、己の欲望に打ち勝った植月は、賞賛に値する。それにこの計画は、クマダ
グループにとっても価値がある」
「熊田、こんなときでも宣伝のこと考えてるなんて、感心するというかなんというか」
「俺はいずれクマダグループを背負って立つ男だからな」
「わたしたちも負けていられない」
中野が噛みしめるように言った。
「よし、問題ないな?」
手嶋が輪の中心に右手を出した。みなが次々と手を重ねていった。全員の手が重ねあわされ、最後に、光太郎が戸惑いながらその手を乗せた。
全員が全員と顔を見合わせ、うなずいた。
「いくぞ?」
男たちの雄たけびがクマダ・スクエアを激震させた。
***
『こちらA班、クマダ・スクエア北側入り口に異常なし』
『こちらB班、東側も異常なし』
『C班、南側も同じく異常なし』
『D班、西側も異常なし』
黒服の男たちの襟元に取り付けた無線を通じて、情報が行き交う。
竜洞寺玲はリムジンで手嶋病院に移動しながら、無線通話に耳をそばだてていた。
「そのまま警戒していなさい。焦ることはないわ。逃げ場はないのだから」
玲は紅茶を口に運ぶ。その美貌にはたっぷりの余裕にあった。
『こちらC班、クマの着ぐるみが出てきた。ティッシュ配りをしていますが、ターゲットが変装している可能性は否定できない。念のため取り押さえます』
「尻尾を出したみたいね」
玲は冷たく微笑む。
しかし。
『こちらA班、クマの着ぐるみが出てきた。その数三匹。こちらに気づいて三匹とも走り出した! 一匹は転がりながら低速で移動中! なにがしたいんだ!?』
『D班、こちらにもクマの着ぐるみだ。こちらには一匹……いや、増えた。三匹いる。変なキックボードのようなものに乗っている! なんて速さだ!』
『B班、こちらも着ぐるみを発見した。こちらは五匹いる! 一匹は着ぐるみを着たままタクシーに乗ろうとしているが、頭がつかえて乗れないようだ! ただちに確保する!』
『こちらC班、クマが次々と入り口から出てくる! その数は七、八……!? 増えている! 一匹が原付で逃げた! 派手にすっ転んだ! 救急班を頼む!』
『A班、クマを全て確保したが、一般人が二名、ターゲットの仲間が一名。さらにクマが出てくる! ちなみに転がっていたのは予想通りセキネ繊維産業のご子息でした!』
『東側まで応援求む! なにしてるんだ、一匹逃げられた!』
『一匹が一般車両に乗った! 追跡しきれない! 応援求む!』
玲は混乱する部下たちの報告を聞き、苛立ちを隠さない。今にもティーカップを叩き割らんばかりに、ふるふると震えている。
「あんたたち、ふざけてるの!? たかがクマごときになんてザマ!?」
『申し訳ありませんお嬢様。しかしやたら数が多く、どうやら一般人もかなりの数が混じっているため、手荒なこともできません。しかもクマダ・スクエアのイベントだと勘違いした通行人たちが集まってきて、あたり一体が騒然としており、うるさくてお嬢様の声もよく聞こえない状態で……』
「言い訳はいらないわッ!!」
ピシャリと言い放つと、数秒間、無線の向こうに喧騒だけの空白が生じた。
「なんとしても、お兄様が手嶋病院にたどりつくのを阻止しなさい」
『念のため、E班には病院前まで先回りさせています』
『病院の敷地に入られてしまえば手出しできませんが、その前に押さえます』
『こちらD班、電動式キックボードのクマに包囲網を突破された! 追跡続行不可能!』
「あんたたちバカなの? それは國司田よ! 放っておきなさい!」
『しかしお嬢様、万が一ということも……』
「黙りなさい!」
『D班より通達! クマのキャラの名前はクマジローと判明! 通行人より情報提供あり!』
『A班より追加情報! 昨年のゆるキャラグランプリで三位と健闘した模様!』
「そんな報告してる暇があったら仕事しろッ!」
玲は無線通話を切った。その後もせわしなく足をゆすり、無能な部下たちの悪態をついた。
「お嬢様」
銀二がハンドルをにぎりながら玲を呼んだ。
「このような、意地悪をなさらなくてもよろしいのではないでしょうか」
「意地悪!?」
玲がショックを受けたように、ヒステリックな声を出した。
「そんなつまらないものではないわ。これは復讐なのよ!」
銀二はそれ以上なにも言わず、運転に集中する。
事故で兄を亡くしてからというもの、玲は人が変わったように周りを敵視するようになった。特に、事故の生存者に対する行動は常軌を逸していた。調べさせ、探し出し、無理やり面会し、糾弾した。
心の支えを失った彼女には、新たな心の支えが必要だと、銀二は考えた。それゆえ彼女に、友達を作るようにと促してきたのだが……。
銀二はバックミラーに映る玲の様子をうかがった。無線の向こうの、部下たちのやりとりを聞いて顔をしかめている。
無線から、ひときわ上ずった声が流れた。
『クマジローが空を飛んでいます!』
『なに!?』
『確かにあれはクマジローです!』
『パラグライダーだ!』
玲はまさかと思って空を見た。この暗い空を危険を承知で飛んでいこうというのか。
『クマダ・スクエアの屋上から飛び降りた模様! パラグライダーは手嶋病院の方向へ向かっている!』
『聞こえるかE班!』
『聞こえている! だが空からのアプローチは想定外であり、防ぐ手段がない!』
『やられた!』
『お嬢様! どういたしましょう!?』
『お嬢様! 申し訳ありません』
『お嬢様! ご指示を!』
『お嬢様!』
バックミラーに映る玲は、今にも無線機をにぎりつぶしそうな相好で、ギリギリと奥歯をかんでいる。
銀二は車をUターンさせると、玲に向かって進言した。
「お嬢様、お屋敷に帰って、きついお仕置きを」
***
廊下ですれ違った看護師さんはギョッとして飛びのいた。
「すみません! B棟ってここであってますか!?」
「あなた何者ですか!?」
質問に質問で返され、僕は被り物の頭部を持ち上げようとした。だけど屋上に着地――もとい衝突――した際の衝撃で壊れたのか、どう頑張っても外れない。
「植月光太郎です! 植月ゆずりの兄です! 今日ここに運び込まれたんですが!」
僕はなんとか事情を説明して、B棟への行き方を教えてもらった。
「院内ではそれを脱いでください!」
看護師さんがヒステリー気味に叫んだが、僕は返事もせず階段へダッシュした。一段抜かしで駆け上る。ナースステーション前を通ったときは悲鳴が聞こえたけれど、気にせず目的地を目指す。
目的の番号の部屋を見つけた。ノックもせずに飛び込んだ。
「クマジロー!?」
愛香は目をまん丸にして、椅子から落っこちそうになっていた。
「愛香! 僕だってば」
「こうちゃん!? なんでクマジローなの? 」
「ちょっとわけあって借りてるんだけど、取れなくなったからこのまま来た」
僕がベッドに近づいていくと布団をかけて眠っているゆずりの寝顔が見えた。
「ゆずりちゃん、大丈夫そうだって。落ち着いたよ」
安らかな寝顔をのぞきこんで、愛香が言った。僕は心から胸をなでおろした。
部屋は個室で、ベッドのほかには棚や洗面台、いくつかの椅子がある程度だ。僕は脱力して愛香の隣に座った。
「ごめんね。私が連れ出したせいで、こんなことに」
「愛香が謝ることじゃないってば。無事だったんだし。それに僕も、ゆずりと色々ちゃんと話さなきゃ……」
だけどなんて言えばいいだろう? 幸いゆずりは眠っているが、まだなにも考えていない。
静かな病室のベッドの上で、ゆずりにかけられた布団が、呼吸に合わせてかすかに上下している。ゆずりは、もう僕のことなんか、見たくも話したくもないだろうか?
「それ、こうちゃん、気に入ってるの?」
「気に入ってるわけないよ」突っ込みにあまり勢いがないと自分で思った。「脱がしてくれるとありがたいんだけど」
「うん、そのままでも可愛いけどね」
愛香が立ち上がり僕の後ろに回った。
「頭の後ろ、潰れてるよ?」
「いろいろあったからね。愛香、ずっとそばに付いててくれたの?」
「うん。松野さんもだよ」
「いつもありがとう。松野さんは?」
「外にいなかった? 休憩スペース」
「全然気づかなかった」
愛香は着ぐるみを脱がすのに手こずっているらしく、チャックをガチャガチャやっている。
「ダメそう?」
「ちょっと待って。がんばる」
うーうー唸って頭を引っ張るので、僕は椅子からごろんと転げ落ちた。
「ちょ、なにしてるのさ!?」
「ごめん、だって硬いんだもん。松野さん呼んでくる」
愛香はそう言って病室を出て行こうとするが、ゆずりがもぞもぞと動いたのを見て戻ってきた。目覚めたゆずりはまだ半ば夢の中にいるかのような目をして、愛香の名前を小さく呼んだ。
「愛香? ……愛香?」
「ここにいるよ」愛香は答えてゆずりの手を握った。「気分はどう?」
「まだ少し、ぼーっとする」
愛香に握られていないほうの手で、ゆずりは自分の目をこすっている。
受け答えはしっかりしているから、本当にもう大丈夫なのだと思った。ようやく肩の荷が全部降りた気がした。
「ここどこ?」
「病院だよ」
「ロジャー……?」
ゆずりが僕のほうに初めて顔を向けた。その視線はまだ半分は夢の世界を見ているようだ。
「心配だから来てくれたんだよ」
ゆずりはふっと笑ったように見えた。そしてまた目を閉じた。
「ロジャーっていうのは、こうちゃんがあげたテディベアの名前だよ。知ってた?」
「知らなかった」
愛香と僕は囁きあった。
別にクマジローでもロジャーでもいい。ただ僕はあの交差点でのことをどう説明するか考えがまとまらず、ロジャーとしてそこに座っていた。一度はゆずりを竜洞寺家に任せるという話をしてしまったこと。僕が竜洞寺玲の兄という仕事をしようとしていたこと。だけど、結局投げ出してきてしまったこと。今の、まだ完全に快復したわけではないゆずりに、全て話して良いのだろうか。僕の顔を見ることさえ、ゆずりには堪えられないことなのではないか? そう考えると僕はロジャーとして、ただの人形として無言でここに座っているべきのように思えた。
「そうだ。ちょっと松野さん探してくるから、少しの間だけ、ロジャーと一緒にいてもらってもいい?」
愛香は優しく言って僕に目配せする。え? 何? どういうこと?
いつも愛香の言うことなら素直に聞いていたゆずりだったが、今回はそうではなかった。
「行かないで。怖いの」
「大丈夫。ロジャーがいるじゃない」
「イヤ。ここにいて、愛香。いなくならないで」
「いなくなっちゃうわけじゃないよ。すぐ戻ってくる」
「……行かなきゃだめなの? ここで待ってればいいのに」
「うん、行かなきゃ。松野さん、すごく心配してたんだよ」
ゆずりはしばし無言だった。それから「絶対戻ってくる?」と尋ねた。こんなふうに心細さを隠しもしない声音を、僕は今まで聞いたことがなかった。ゆずりの瞳は愛香が二度と彼女の元に戻ってこないことを本気で恐れているかのようだった。
「絶対戻ってくるから。心配しないで」
「約束して」
「約束する」
「すぐ帰ってきて」
「うん。分かった。ロジャーとお話しててね」
愛香はそう言い残して病室を出て行った。ゆずりはまた目を閉じた。
愛香は僕に気を遣ってくれたのだろう。話したいことがあるなら今のうちに話しておきなさい――そんなふうに。
確かに落ち着いてゆずりと話す機会は、最近はなかなか取れなかった。今後も、僕はバイトや家事に忙殺される日々に戻るかもしれない。だったら今、ここで、しっかり話しておくべきなのかもしれない――。
僕が意を決して口を開きかけたとき。ゆずりが先に口を開いた。
「ねえロジャー? 愛香、ちゃんと戻ってくるよね?」
僕は返事をするかどうするか困って、とにかく肯定するために頷いた。ゆずりが薄目を開けてそれを見ていた。
「ロジャーが頷いてくれるなんて、初めてだね。ここは夢の中なのかな?」
ゆずりの意識はまだ思いのほかはっきり覚醒していないのかもしれない。僕は結局、話そうと思っていたことを全て飲み込んだ。
ゆずりが布団から手を出して、ロジャーの手をにぎった。
「怖い。みんないなくなっちゃう。目が覚めたら、誰もいないかもしれない……」
彼女の目尻には涙の粒が浮かんでいた。
「みんなが私を捨てていなくなるの。みんなが私のせいで迷惑してる。学校でも、みんな私のこと本当は面倒くさいって思ってる。私がいるせいで、みんながなにか我慢しなきゃならなくて。愛香だって、私がいなければもっと遠くに遊びに行ける。あいつだって、部活をやめないで済む。ギターを売らないで済む。バイトばっかりしないで済む。家事も楽になる。愛香ともっと遊べる。愛香と、ちゃんとデートできる……」
僕は空いているほうの手を、ゆずりの小さな手の上に乗せた。ゆずりはまだしゃべり続ける。瞳に透き通った涙の粒を、いっぱい浮かべて。
「私があいつになにもできなくするの。全部をダメにするの。なにもかも奪い取ったの。私が、あの人から、大切な人を奪ったみたいに、みんなから大切なものを奪うの。私は最低なの。死ねばよかったの。あの人が生き残って、私が死んでいたら、誰もなにもダメにならなかったの。私はなにもできないの。下手くそで、覚えるのが遅くて、ぜんぜんダメ。だから私にはなにもさせてくれないの。私はやることがないの。テレビを見ることだけが仕事なの。だから私があいつに捨てられるのも、仕方ないの」
そんなふうになんて、思っていない。思っていないのに、僕は……。
「怖いよロジャー。捨てられたくない。もう一人になりたくない。私、捨てられるの。どうしたらいいの? あいつに捨てられないためには、なにをすればいいの? もし捨てられたら、どこに行けばいいの?」
たまった涙が、一筋の流れ星のように、白すぎる頬を流れ落ちた。
ゆずりが求めていたものは、たぶん僕があれこれ考えていたよりも、ずっとずっと、当たり前の、平凡なものだったのかもしれない。そして、僕は、気づかないうちに彼女を追い詰めていた。
僕はゆずりを捨てるつもりなんてない。そう言ってあげたい。
ノックの音がして、愛香と松野さんが戻ってきた。
「愛香。松野」
ゆずりが呼ぶ。
「戻ってきたよ。ロジャーとはおしゃべりできた?」
「うん」
ゆずりは手の甲で涙をぬぐった。二人がベッドに寄り添って腰かけると、安心したのだろう、表情がおだやかになった。
松野さんがゆずりの額を、まるで自分の子供にするみたいに優しくなでる。すると、だんだんと寝息が聞こえ始めた。
初夏のさわやかな風が緑をゆらし、街を渡っていく。
僕、植月ゆずり、笹淵愛香。僕の父、僕の父が連れてきた名前も知らないおじさん。手嶋基樹、手嶋の父親――つまりこの病院の院長。
手嶋病院の屋上の空中庭園広場では、七人がそれぞれ思い思いに過ごしながら、最後の参加者の到着を待っていた。色鮮やかな花々を鑑賞したり、ベンチに座って雑談をしたり、眼下に見える街を眺めたり。これから始まることに、少しの期待と不安とを抱きながら。
屋上の扉が開き、一同の注目を集めた。
「ごきげんよう」
竜洞寺玲だ。あまり機嫌がよくなさそうな『ごきげんよう』だった。
彼女の後ろには銀二と呼ばれる老年の紳士が付き従っている。それから見慣れた松野さんの姿が見えた。
さらに後ろから、竜洞寺の関係者とおぼしき中年の夫婦が現われた。
「遅れて申し訳ない」夫のほうが礼儀正しく頭を下げた。「本日はこのような場にお招きいただき感謝したい。私は竜洞寺グループCEOの
婦人もうやうやしく挨拶したが、玲はこの場の誰もを見下すような目をしていて、頭も下げなかった。
僕や愛香、父などもみな会釈を返した。急に場の空気が引き締まり、僕は居住まいを正した。
僕の父が広場の中央に歩み出た。
「全員おそろいのようです。さっそく始めさせていただきましょうか」
自分の父がこの場を仕切っていることに多大なる違和感を抱きつつ、僕はなりゆきを見守った。
「まずは、本日はお忙しいところ、お集まりいただきましてありがとうございます。私が今日の会を主催した、植月進一郎です。みなさまには、本当に感謝いたします」
父は全員に向かって深々と礼をした。
僕の知っている父と違って、今日の父は真面目そのものだ。ただ、ショッキングピンクのTシャツは似合ってないし場違い感マックスだからやめてほしかった。いい歳して短パンもどうかと思う。
「この会の目的は、事前にお示ししたとおりですが、2020年に起こった大日航空28便墜落事故にまつわる新たな真実を明らかにし、明らかになった真実を、当人たちが認めることです。よって、嘘や不誠実は最も許されないことです」
よろしいですか、と父は尋ねた。みなが黙って頷いた。
「本題に入る前に、自己紹介がまだの方は、自己紹介をしましょう。竜洞寺さんは先ほど名乗っていただいたのでよいとして、まずは私。植月進一郎。そこにいる植月光太郎と、植月ゆずりの父です」
僕とゆずりに注目が集まり、僕らはぎこちなく会釈をした。
「娘のほうは、旧姓を町田と言いまして、養子です。彼女はあの事故の、生存者の一人です」
ゆずりがうつむき、居心地悪そうに身をよじった。
それから愛香が挨拶し、手嶋父子が挨拶し、銀二と松野さんが挨拶した。最後に父が連れてきたらしい、冴えないおじさんがしゃべった。
「わたしは、
佐久間さんのカミングアウトに、ほとんど全員がどよめいた。ただ、父と、老紳士と、玲だけが驚いていない。
どよめきがやむのを待ってから、佐久間さんは続けた。
「わたしには、今まで隠していたことがあります。本当に申し訳ないと思います。今日はそれを、話します」
佐久間さんは特に竜洞寺関係者のほうに向かって頭を下げた。
「では、事故の概要はご存知かと思います。我々が知りたいのは、事故が起こって、ゆずりと佐久間さんが救出されるまでのことです」
父が二人を順に見た。
「これは竜洞寺様の息子様の、最期についても含みます」
竜洞寺一家が厳しい顔で父を見ている。
「当時メディアでは、息子様が、ここにいるゆずり――実名はもちろん伏せられました――を身を
父がゆずりを見た。
ゆずりは当時のことを思い出しているのか、険しい色に染まっていた。
「待ってほしい」竜洞寺父がさえぎった。「息子は栄誉ある死を遂げた。それを今更むしかえそうと言うつもりか?」
「いいえ。ただ、あなたの娘さんは、未だに報道を信じていないらしい」
玲は反発するように言った。
「お兄様は殺されたんだわ。そこの、彼女に」
玲は真っ直ぐにゆずりを見ていた。ゆずりは下を向いた。
「ここには当人と、目撃者がいるんです。すべて語ってもらえばいい。――ゆずり」
父の言葉に、ゆずりがびくりと身をすくませる。
「覚えていることを話してもらえますか?」
ゆずりは答えず、ただ下を向いたまま、沈黙している。
「ほら! なにも答えないのが、お兄様を殺した証拠だわ! 自分が助かるために、他人を犠牲にする卑しい人間よ!」
玲が声高に言った。竜洞寺父が手をかざして娘を制止する。
ゆずりは苦しそうに口を開いた。
「覚えてない」
「なにも?」
「なにも」
「ゆずりは意識不明で、病院で目を覚ましたのでしたね?」
ゆずりがうなずく。
「意識を失う前のことは、どこまで覚えていますか?」
ゆずりがまた沈黙する。前髪に隠れて表情は見えないけれど、あえぐように息をしていた。
「揺れて、警報が鳴って、大きく、がたんと揺れて、急に真っ暗になって、……落ちたときは、もう分からない」
「充分です。ありがとうございます。あとは佐久間さんに語ってもらいましょう」
父は淡々と進行を努めた。
「佐久間さん、お願いします」
「事故が起こってからのことだけ、話します。詳細は、記憶違いもあるかもしれないですので、はっきりと覚えていることだけ話します」
佐久間さんもまた、どこかあえぐように、苦しそうに語り始めた。
「事故後、わたしが意識を取り戻したとき、すでに多くの方が亡くなっていたと思います。自分が生きていることが、奇跡だと思えるくらい、あたりは凄惨な状況だった。わたしは機体から離れたところに投げ出されていた。視界には燃えて溶けた機体の残骸、黒い煙。死体もあった。ひどい匂いだった」
佐久間さんは二、三度咳をして、続けた。
「煙が目にしみて、泣きながら、しばしわたしは呆然として、炎と煙を見ていた。それから生きている人を探した。身体中痛くて右足をケガしていましたが、動き回ることはできました。わたしは機体の残骸のまわりを歩き、あなたがたの息子さんと、彼女に出会った。彼女は生きていましたが意識がなかったので、当然わたしのことも、息子さんのことも、知らないはずです。息子さんは立派でした。機体がまたいつ爆発するか分からない。ここは危険だから、生存者を遠ざけなければならない、と言いました。わたしは彼に協力して、彼女を移動させることにした」
息子さんは立派だった、と佐久間さんはもう一度言った。
「彼女のそばには、彼女の両親と思われる男女が、すでになくなっていた。彼女を運び終わったとき、彼はわたしに唐突に言いました。僕はもう動けそうにないから、この子を頼みます、と。彼はかなり出血しているみたいでした。自分で応急的に手当てしたみたいでしたが。わたしは彼に大人しくしているように言って、ほかの生存者を探しに行こうとした。だが、そこで彼に止められました。彼は、僕の財産をあなたと彼女に譲ると言い出した。その旨を、彼は持っていた手帳に書き始めました」
「作り話だ!」
竜洞寺父が低く叫んだ。
僕の父が口を開いた。「この会において、嘘と不誠実は最も許されないと、私は言いました。佐久間さん、あなたの言っていることには嘘も不誠実もない。そうですよね?」
「誓って、わたしは嘘を吐いていない」
「なんて都合がいい話だ! 今頃になってノコノコ出てきて、バカバカしい!」
竜洞寺父が苛立ちをあらわにした。
「そもそもそんな手帳は見つかっていない!」
「では、竜洞寺さんにお聞きしますが、息子さんは常に手帳を携帯していたのでしょうか」
竜洞寺夫妻が言葉を交わすが、答えられない様子だ。二人が玲を見た。
「お兄様は手帳を常に持っていました。事故当時に持っていたかどうかは分かりませんわ」
「分かりました。続きを聞きましょう」
父が先を促した。
「彼が財産を譲ると言いました。これは誓って真実ですが、わたしは断った。第一、彼は二十歳になっているかどうかという印象でしたから、財産なんて持っていないと思いましたし、わたしは一緒に生きて帰るつもりだった。だけど彼はかたくなにそう言って、手帳を開き、挟まっていたペンで走り書きした。『この手帳を持つ者に、竜洞寺グループから特別の援助を。』と」
佐久間さんがくたびれたカバンをまさぐった。その手には古い手帳がにぎられていた。
「お兄様の……」
と玲が声を詰まらせた。
ススと焼け跡が生々しい当時の記憶を保持していた。佐久間さんがページを開くと、まさにその、遺言が僕らの前に現われた。佐久間さんは手帳を開いたまま、竜洞寺の関係者たちのところへ持っていった。
「銀二、どうなんだ!?」竜洞寺父が老紳士を問い詰めた。「これは、
「はい、確かに」老紳士が静かに肯定した。玲も信じられないものを見る様子で、なにかのインチキの証拠か、逆に本物であるという証拠を見つけようと、真剣な眼差しを送っていた。
「これは、あなたがたにお返ししなければなりません。本当は、事故のあと、すぐに本来の持ち主に返すべきでした。だけどわたしは、今まで、それができなかった」
「なぜだ?」
竜洞寺父が言った。
佐久間さんは申し訳なさそうに玲を一瞥した。
「そこのお嬢さんが、わたしを尋問しに訪れたとき、彼女が殺人犯を探していたからです。兄は事故死ではなく、誰かに殺されたのだ、と。本当のことを話せば、わたしが疑わしいのは明らかです。わたしは怖くなった。それどころか、自分が疑われないために、『少女と話しているのを見たかもしれない』と嘘をついた」
申し訳ありませんでした、と佐久間さんはゆずりにも頭を下げた。
「作り話だわ」
玲が冷たく言い捨てた。
「この手帳も、お兄様の筆跡を真似て、あなたが書いたんじゃなくて? いくらでも研究、練習する時間はあったわ。あなたはお兄様が竜洞寺グループの関係者だと知って、混乱に乗じてお兄様を殺した。そして嘘の遺言をかたって、竜洞寺グループから利益を得ようとしている」
「そんなこと、考えたことはない! 生きているだけで充分だった! 信じてほしい!」
佐久間さんが震えながら懇願する。
「くだらないわ! お兄様は殺された! そこの女も共犯者だわ」玲がゆずりを指差す。「お兄様が命をかけて救った人間が、二十歳前に死ぬと決まっているだなんて、そんなのあんまりだわ! わたくしは認めない。お兄様はあんたたちに殺されたのよ!」
ゆずりが身をすくめて震えている。
「二十歳前に、ってどういうこと? ゆずりちゃんのことなの?」
愛香は初めて聞いたのだ。佐久間さんも驚いていたけれど、他は誰も驚く者はいない。手嶋でさえ、僕よりも先に知っていたのだ。だから沈痛な面持ちで、ただ視線を落としていた。
僕は小声で愛香に説明した。愛香は「そんなのひどいよ。なんとかならないの?」と言って泣いてくれた。
僕だって、ゆずりが二十歳までに亡くなるだなんて不条理を認めたくはない。
「現代の医学では手に負えないのだ」
と手嶋の父が呟いた。それが僕らが受け入れなければならない答えなのだ。
「すべて茶番なのよ!」玲が憎しみをあらわにして、ゆずりや佐久間さんをにらみつける。「証拠はなにもないわ!」
「もうやめなさい、玲。認めよう。手帳が戻ってきただけでも充分だ」
「お父様は黙っていて!」
玲は竜洞寺父に八つ当たりして、つかまれた腕を振りほどこうとする。彼女の手から手帳が落ちた。暴れる娘を複雑な表情で拘束している父親。抵抗していた玲が、開かれた手帳のページに目をとめた。
「これは……」
すると抵抗がおさまり、父親が手を放すと、玲は崩れるように座り込んで、ぼたぼたと涙を落とした。
これは後日聞いた話だけど、玲が手帳に見たものは、兄からのメッセージだったそうだ。その内容は、オムレツを焼くときのコツなのだとか。天下の竜洞寺グループの跡継ぎの少年が、妹に残すメッセージとしては、僕の想像の斜め上を行っていた。
竜洞寺玲は、その日語られたすべてを認めた。兄は事故現場の極限状況において、殺されたのではなく、自らの意志でゆずりという少女を救ったこと。しかしその少女は、短命で死を宣告された存在であったこと。
竜洞寺グループは兄の望みどおり、佐久間さんに金銭などの援助をすることを申し出た。しかし佐久間さんはそれを断った。
玲の兄は手帳に、もう一つの願いを書き残していた。
その内容はこうだ。
『彼女の健康と長寿、および社会への貢献のために、竜洞寺グループができる援助をしてほしい』
玲の兄が、ゆずりの難病を見抜いたとは思えない。ゆずりに聞いてみたら、ゆずりは「アメリカで手術を受けて帰国する便だったから、わたしの手術のあとを見て、直感したのかもしれない」と答えた。
僕はそんな傷は見たことがない。どこにあるの? と聞いたら、「死ねヘンタイ」と言われた。死にたい。
その後、竜洞寺玲は僕に付きまとうことはなくなった。学校ですれ違うとき、僕はいつも、ありがとうと言っている。
ほどなくして竜洞寺グループは、ゆずりのような難病・奇病の研究および治療法の確立のために、基金を設立すると発表した。ゆずりの寿命が延びる可能性が、少しだけ高まったことがうれしい。
そういえば、ゆずりが倒れた日は僕の誕生日だった。
病院で検査をし、特に問題はなかったので、翌朝僕らは帰宅した。
テーブルの上には松野さんが持ってきたというケーキと、奇妙なスパゲッティが、おそらく昨晩のまま残されていた。
それは妙なスパゲッティで、麺の上に焼き鮭がどーんと乗せてあるだけの、非常にシンプルかつ斬新なものだった。
「もしかして、僕のために、ゆずりが作ってくれたの?」
と尋ねると、代わりに愛香が「うん、全部一人でやったんだよ」と教えてくれた。ゆずりは赤面して顔をそむけていた。
「でも、どうしてスパゲッティの上に、しゃけ?」
僕が笑いながら突っ込むと、ゆずりは「これしかできなかったの!」と言った。怒ったのかもしれないけれど、そんな姿もなんだか微笑ましい。
僕らはスパゲッティを温めなおして食べた。それからケーキもいただいた。
「ねえ、ゆずり」
食後にリンゴジュースをちびちび飲んでいたゆずりが、目だけ僕のほうを見た。
「来年、ゆずりも高校生だよね。これ、僕の父親の受け売りなんだけど。高校生っていうのは大人なんだ。だから、自分の力で生きていかなきゃならない」
ゆずりが顔を伏せた。愛香が心配そうに僕を見つめている。
「だから僕とゆずりの二人で、あとたまに父さんも入れて三人でさ、みんなでバイトしたり、家事やったりして、ずっとこの家族で過ごしていきたいな」
ゆずりが顔を上げた。僕の言ったことがすぐに理解できないかのような、不思議そうな表情。
「その第一歩として、家事を分担したいと思うんだけど、どう? ゆずりが自分の力でできること。僕らの家族の中での、ゆずりの役割を決めるんだ」
「わたしの、役割……?」
「そうだよ」
しばし思案したあと、こくりとゆずりがうなずく。その仏頂面は心なしかいつもより和らいで、どこかうれしそうだ。
「だんだん増やしていく予定だけど、まずは干してある洗濯を取り込んでたたむのがいいと思うんだ。この前やってたし、爆発したり洪水になったりしなそうだし」
僕の冗談に反発するどころか、ゆずりは珍しく顔を輝かせて、こくり、こくりと何度も頷いた。
「でも、干すのは?」
「僕がやるけど?」
「そんなにあたしの下着触りたいわけ?」
「いやいやいや! なんでそうなるの!? 最初からたくさん分担させすぎると大変だからだ、って分かるよね!?」
愛香に同意を求めるけれど、愛香はただ笑っているだけだ。
僕は泣きそうになる。
ゆずりはニヤニヤして、意地悪く僕をにらんで、言った。
「最っ低!」
<了>。
だけど、もしこれだけのお金があれば、当面の生活は安定する。アルバイトが順調でない今、正直なところ生活費が苦しい。
「なにしてんの」
ゆずりが勝手に部屋のドアを開けて顔を出した。僕は慌てて包みを布団で隠した。
「な、なにもしてないよ」
ゆずりは僕と部屋の様子を、怪しむようにジロッと見た。
「最ッ低」
「なにが!?」
ゆずりは僕のリアクションに応対せず、去りかけたけれど、思い出したように口を開いた。
「晩ご飯」
「あ、もうそんな時間か。まだ用意してなかった」
急に空腹が強く感じられた。立ち上がるとすると、ゆずりが
「じゃあ私作る」
「いいよ、休んでなよ。僕がやるから」
なぜかむっとするゆずり。
なんなんだ? そんなに料理がしたいのか、僕の作ったのを食べるのが嫌なのか。
「休まない」
「そんなこと言って、また具合が悪く……」
「ならない!」
また今日も我がままが始まった。頭痛がしてくる。
「とにかくすぐ夕飯の用意しちゃうから、おとなしく待っててよ」
「イヤ」
悪臭を放つ生ゴミを見るような目を向けているゆずりに気づかない振りをして、僕はキッチンに向かった。
冷蔵庫を開けるとほとんど食材が残っていなかった。朝からドタバタしていたせいで買い物するのをすっかり忘れていた。
「空っぽ」
僕の背中越しにのぞきこんできたゆずりが言った。それから大きなため息の気配。僕もため息がつきたい気分だ。
「ごめん、買い物行ってこなきゃ」
「三分以内」
「無理だよっ!」
「…………」
ああ、不機嫌だったゆずりの顔が、今度は失望に染まっていく。ないものはないんだから仕方ない。胸にしまいこんだはずのため息が出てしまった。
「おなかすいた」
ゆずりが僕をにらんだ。
なんだかもう、なにもする気にならなくなった。これから買い物に行って、帰ってきたらゆずりに「遅い」と文句を言われて、作った夕食も「まずい」と評価され、またため息を吐きながら洗い物をすることを思うと、すべてが面倒になった。なんでこんなことになっているんだろう? いったい誰のせいだ?
「ねえゆずり、たまには出前でも取ろうか」
僕は愚かな提案をした。
「バカなの?」
ゆずりが予想通りのことを言った。
「本気だよ。今から買い物して作るんじゃ時間かかるし」
「お金ないんでしょ」
「大丈夫。最近、いいバイト見つけたから。なに食べたい?」
「…………」
僕に向けられている疑いと警戒の眼差しは当然といえば当然だ。だって今まで節約に節約を重ねてひもじい料理ばかりに耐えてきたのに、急に出前なんて言い出したんだから。
「そういえば、駅前の新しいイタリアンって、スパゲティとかピザの宅配できるんじゃなかったっけ?」
ゆずりの片眉がぴくりと動いたのを僕は見逃さなかった。
「確か前にチラシが入ってたような気がするけど、捨てたんだっけ?」
ゆずりが身を翻して居間に向かった。僕も続くと、ゆずりがゴミ箱からまさにその広告を引っ張り出していた。目が輝いている。
「うわ、けっこう高い。でも本格的だな」
お値段を見て僕が驚くと、ゆずりは肩を落とした。バイトがうまくいっていたときでさえ、ためらってしまう金額だ。ゆずりにもそれが分かるのだろう。
僕は彼女の頭に手を置く。
「高いけどさ、たまにはこういうのもいいと思うんだ。どう? 食べたくない?」
ゆずりは僕の目を見て反射的に口を開きかけたが、しかし目をそらしてうつむいた。
遠慮しているのかな。
「本当にいいんだってば。これにしよう? ゆずり、食べてみたいんでしょ? 僕だって食べてみたいんだからさ」
手の下でゆずりが、ゆっくりと頷くのが分かった。
ゆずりは体調がいい日、中学校の制服に袖を通し、僕と一緒にうちを出る。方向は逆だからアパートを出たところで別れるのだけど。
「帰りは?」
と珍しくゆずりに聞かれた。
「迎えに行けたら行くけど」
「来るな! 時間!」
「え? 今日はバイトないから、まっすぐ帰ってくる」
てきとうに答えると、ゆずりはあからさまに怒った。
「何時なのか聞いたの!」
「何時って、ええと、今日は六時間授業だからたぶん四時くらい?」
でもどうして? と聞こうと思ったら、ゆずりはもう反対方向へ歩き出していた。変なやつ。なにを考えているのかあいかわらず分からない。小さな背中を少しの間見守ってから、僕も学校に向かった。
玲は毎日ではなく、ときどき唐突にやってきて一緒に登校しようと言う。帰りも一緒に下校したいらしく教室に来ることがある。僕はバイトがなくて余裕があるときは、基本的に応じるようにしていた。応じなければいけない、という強迫観念があった。
あの日のイタリアンの出前に、僕は玲からもらったお金を使った。バイト代で補充すれば、元通りきれいに返せる額ではある。だけどもう手をつけてしまった、という罪悪感がどこかにあったのかもしれない。
午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、僕は席を立った。廊下を歩いていると目的の人物が向こうから歩いてきた。
「ごきげんよう、お兄様」
竜洞寺玲が僕に柔らかく微笑みかけた。
「お、おはよう」
僕はぎこちなく挨拶した。周囲にいた生徒たちが騒いだりヒソヒソ噂したりする。僕は気にせず彼女を図書館へと誘った。教室に来られると大変迷惑なので、先回りというわけだ。とはいっても、僕らをはやしたてる男子たちにも、すぐに不機嫌になる女子たちにも、けっこう慣れてきた。
彼女は喜んでついてきた。誰も彼もが、この高貴な令嬢と貧乏少年の組み合わせはなにかの間違いだと思っている。僕もそう思っている。
「お兄様のほうから、わたくしを迎えに来てくださるなんて」
書架の間で玲は照れたように言った。
教室に来られるといろいろ面倒だから、というのは言わないでおいた。
玲は豪華なお弁当を開いて、これはどこぞのレストランのシェフが作ったのだとか説明して僕に勧める。
僕は手をつける前に切り出した。
「いつだったか、竜洞寺さん言いましたよね? 僕が竜洞寺さんのお兄さんとして振舞えば、ゆずりをなんの不自由もなく面倒を見てくれるって」
「ええ。言いましたわ」
「それって本当なんですか? それでゆずりを……」
僕はその先をなんて言っていいか迷った。出前のスパゲッティを夢中で頬張る昨夜のゆずりが頭をよぎった。興奮して頬を紅潮させ、珍しく笑顔だったゆずり。
「ゆずりを……ずっと幸せにしてくれるんですか?」
「もちろんですわ」
玲は自信たっぷりに答える。
「じゃあ、わたくしのお兄様になってくださるのね?」
僕は「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。
「おなかがすきましたわ。いただきましょう?」
玲が弁当を広げる。
僕が玲の兄として振る舞えば、すべてがうまくいく。ゆずりはなんの不自由もない生活を送れるようになる。だけどまだ僕は迷っていた。本当にこれでいいのかどうか。
「食欲がないのですか?」
玲が僕の顔をのぞきこむ。
「そんなことないよ。いただきます」
どれも高級そうで気がひけるけれど、一回目よりは多少遠慮も緊張も減った。
「前回お兄様がおいしいと言っていたサーロイン、今日はたっぷり入れてもらったのに。全然食べないのね」
「まだこういうの、慣れなくて」
玲は僕を見て、おかしそうに笑った。
「お兄様ならきっとすぐに慣れますわ。初めから全てが、そうであったみたいに」
結局僕は和牛サーロインも大きなエビも煮物も天ぷらも、最後には綺麗に細工された和菓子も食べた。ゆずりに内緒でこんないいものを食べていることに対して、罪悪感はある。だけどこれがゆずりのためになるのだと自分に言い聞かせた。
「お兄様は今日の放課後、なにか用事がありますか」
「特になにもないけど。どうして?」
「お兄様のお誕生日を祝いたいと思って。ささやかなお食事会を考えています」
僕は、はっとして今日の日付けを思い出す。僕の誕生日だった。
「自分でも忘れてた」
「私は忘れませんわ」
というか彼女に個人情報を教えたことなんてないのだけど、調べるくらい簡単なことなのだろう。
そういえば最近愛香と会ってない。僕のことなんて忘れているかもしれない。
「駅前に父が懇意にしているお店があって、そこを貸し切りにしてあります。静かで、夜景が綺麗で、きっとお兄様も気に入ってくれると思いますわ」
「貸し切りなんて、そんなすごいことしなくていいよ! もっと普通ので」
「あいかわらず謙虚ですわね。でももう化し切りは前から決まっていることですもの。お兄様が来ないとスタッフが暇になるだけですわ」
玲が僕を夕食に誘う。僕には想像もつかないような計画を、次々と語り始める。それらは現実離れしていて空想のようで、しかし全て自分のために用意された物に違いなくて、聞いていて不思議な気持ちになった。まるで唯一彼女だけが僕の誕生日を知っている人のように思えるのだった。
「分かった。行くよ」
僕は観念して了承した。
玲が僕の両手を取った。
「うれしいですわ。お兄様がお兄様になってくださって」
玲のまぶしい笑顔が、すぐ目の前にあった。
***
放課後になった。手嶋基樹は、光太郎がやけに段取りよく帰る準備を整えていたことを知っていた。
「光太郎、消しゴム忘れてるぞ」
手嶋は光太郎を呼び止めた。床から拾い上げるふりをして、袖に隠してあったものと入れ換える。光太郎が礼を言って受け取る。
「愛香がなにか用があるって言ってたぞ」
「わかった、あとで連絡してみる。ありがとう」
「おい、今日もバイトか? それともまさか玲か!?」
光太郎は「バイトだよ」と言ってそそくさと教室から出ていった。
手嶋は確信していた。今日の光太郎は不自然である。本人は何気なく振舞っているつもりのようだが、できるだけ早く帰ろうとして気持ちが急いている。
手嶋はケータイのSNSに素早くメッセージを打ち込んだ。
『ターゲットが教室を出た。バイトに行くと言っていたが、恐らく嘘だ。発信機は渡してある。追跡を頼む』
すぐに『KUNI』という名前の人物が、『了解』と返信を入れた。『GPSは問題ないぜ』
『ドローンはすでに飛ばしてある』別の人物が書き込んだ。『竜洞寺のリムジンは捕捉済みだ。ライブ配信スタート』
手嶋は表示をSNSから動画配信画面に切り替えた。上空から街をとらえた動画だ。そこには生い茂る木々――おそらく裏門を出たあたりだろう――と黒のリムジンが映し出されている。ほぼ真上からの映像で、かなり距離も遠いので、ナンバーや車内の様子までは分からない。
手嶋は動画を注視する。数分後、誰かがリムジンに駆け寄り、乗り込んだ。おそらく光太郎だろう。
『ターゲットは裏門から敷地外へ出たみたいだ』
KUNIが報告した。
『間違いない。映像でもたった今誰か乗り込んだ』
手嶋も状況を実況する。
『玲は?』
『こちらセッキー。まだホームルーム中。もうすぐ終わる』
『ラジャー』
それからおよそ十分後、竜洞寺玲がリムジンの近づくのが映った。リムジンが出発した。
『どうやら竜洞寺の屋敷へ向かってるみてえだな』
『さすがに屋敷周辺で飛ばすのはマズイと思うが、どうする?』
『ドローンはここまでにしよう』
手嶋がすぐに指示を出した。
『俺が現場に張りこむ。動きがあったらまた連絡する』
『了解!』
手嶋はかばんを引っつかんで教室を出た。
***
竜洞寺家のお屋敷に僕は恐縮しまくってお邪魔し、玲の部屋でも身を落ち着ける場所がなくて困った。
「恥ずかしいので、あまり細かいところまで見ないでくださいね」
と玲は言った。
棚もテーブルも傷一つなくつややかな木の表面を光らせている。出された紅茶とお菓子を持つ手が震え、このソファにこぼしたらいくら弁償するのだろうなどとハラハラしていた。女の子の部屋に二人きりでいるという事実よりも、なにか壊したりしないかという緊張のほうが勝っていた。僕らは彼女が好きだという映画について話したり、彼女の宝石のコレクションを見せてもらったりした。彼女は幼少からバイオリンを習っているらしく、プロ並みの腕前なのだそうだ。有名なクラシックの曲を弾いてくれた。
夕食の予定時刻が近づくと、再びリムジンに乗ってレストランに移動することになった。僕はその前に小用を済ませようと思い、老紳士に廊下の案内を頼んだ。
「本当に僕なんかが、ここにいていいんでしょうか」
僕はまだふわふわとしている自分自身の感覚を、率直に口にしてみた。
「玲さんと僕じゃ、住む世界が違いすぎるような気がするのですが」
老紳士は歩みをゆるめ、僕に並んだ。
「お嬢様は素敵でしょう?」
いきなりそんなことを言うので、「はい、もちろんです」と答えることしかできなかった。才能もお金も地位もあり、美人で将来有望で、まあいろいろ強引だったりするところもあるけれど。
「実を言うと、もしかしたら光太郎様が選ばれるのではないかと、予想しておりました」
「どうしてですか。僕はなにも特別じゃないのに。あえて僕を選ぶ理由がないと思うんです。それに友達でも恋人でもなくて、お兄さんだなんて……僕にはよく分からないんです」
僕は「そんなことない。きみは特別な人間だ」とか、耳に心地よい言葉を言ってほしかったのかもしれない。あるいは逆に「これは今世紀最大の勘違いだったのだ」とでも言って、すべて元通りにしてほしかったのかもしれない。いずれにしても僕は未だに、現実を受け入れることができないでいる。
老紳士は数秒間沈黙を返したが、「かつて、お嬢様にも、兄と呼んでいた方がおりました 」と静かに告げた。
「料理がご趣味で、特にあの方の作るオムレツは逸品でした。すでにもう、おりませんが」
僕はなんと言っていいか分からなくて、それから、知るべきではないことを知ってしまった気がして、老紳士の顔を見ることもできず、黙々と歩いた。老紳士もそれ以上なにも言わなかった。
リムジンは三度目なので少し緊張しなくなった。これだって車は車だ。
流れていく景色を見ていると、リムジンが赤信号で停まった。
「銀二」
これから行くレストランについて語っていた玲が外を見、意味ありげに呼んだ。
玲の側の窓が開く。僕はなにげなく視線をやった。
僕が以前バイトしていて今はクビになった、ピザ・フリークスの店舗の前だった。
一人の少女が退屈そうにぶらぶらしていた。見覚えのある中学の制服。見覚えのある横顔。でもここにいるはずのない人物。目を疑った。
「ごきげんよう。町田ゆずりさん」
玲の声にびくりと反応して、ゆずりがこちらを向く。こんなところでリムジンの中から名前を呼ばれたら、驚くのも当然だ。
「久しぶりね?」
玲は親しい口ぶりではなく、相手をさげすむように言った。ゆずりは殺人鬼にでも出会ってしまったかのようにおびえ、目を白黒させた。それから、僕と目が合った。
「あ……、あ……」
と声にならない声が漏れ、ゆずりの視線が僕と玲とを往復した。ゆずりが手に持っていた鞄がどさりと落ちた。
ゆずりは状況の理解が追いついていないという様子で、ただ本能的に後ずさる。
僕はなにか説明しなければならないと思った。
「ゆずり……これは……」
だけど言葉にならない。
「その様子だと、覚えていてくれたみたいね。晩ご飯はピザなのかしら?」
ゆずりは落とした鞄をつかみ直し、顔を背け、逃げるように走り出した。
「ゆずりっ!?」
僕は身を乗り出そうとしたけれど、車が動き出し、ゆずりの背中は後ろへ流れていく。すぐに見えなくなった。
「あんなに慌ててしまって。かわいそうに」
玲がくすくすと怪しく笑う。
学校がとっくに終わって、普段なら家でテレビを見ている時間なのに……どうしてゆずりがこんな場所――僕のかつてのバイト先――にいたのだろうか。
「さあ、お兄様。降りてください」
玲に言われて目的地に着いたのだと知った。立派な身なりのウェイターとシェフに迎えられ、店内に足を踏み入れる。壁やテーブルが淡い明かりでぼんやりと照らされている。客は僕らしかいない。窓際の席に向かい合って座る。宝石箱みたいに赤や黄や白の夜景が散らばっていた。いつもの黒服の男たちや老紳士は見当たらない。
シャンパンがグラスに注がれた。
「それではお兄様、誕生日おめでとうございます。お兄様の新しい一年が、素晴らしい一年になるように祈っていますわ」
微笑む彼女にありがとうを言った。前菜が運ばれてくる。シェフが料理の説明をしている。玲が「さあ、いただきましょう」と言う。だけど僕は食欲がなかった。玲と二人切りなのが不満だからでもなく、テーブルマナーも知らずに高級レストランに来てしまったプレッシャーのせいでもない。さっき見たゆずりの、裏切られたというような表情が頭から離れない。
「あなたとゆずりは、知り合いだったんですか」
僕は聞かずにはいられなかった。
「ええ、そうですわ」
「どういう関係なんですか」
「ちょっとした知り合いという程度ですわ。もう数年も会っていなかったので、驚きました」
僕は否定する。玲はあのとき、驚いてなどいなかった。彼女は嘘をついている。
「フレンチは、お口に合わなかったですか」
「そんなことないよ。おいしい」
僕は機械的に手を動かして料理を口に運んだ。真っ白のお皿の上の真っ赤なソースが、血のように見えて吐き気がした。
僕は改めて店内に目を向けた。落ち着いたクラシック音楽がBGMにぴったりの、紳士淑女の社交場という感じだ。知的な雰囲気が漂っている。だけどここはまるで廃墟か深夜の工事現場みたいで、食事をする場所特有の血の通った感覚が欠けている。
「僕みたいなのが来るところじゃないかも。本当にここに座ってていいのかな」
「お兄様が座ってはいけない席なんて、この世にありませんわ。それとも、あまり気に入らなかったでしょうか」
「いいや、そういう意味じゃなくて。すごくいいです、料理も雰囲気も最高。最高なんですけど……」
「あの子のこと?」
そう問いかける玲は、怒っているわけでも呆れているわけでもなく、嗜虐的な笑みを浮かべている。
「松野が今日も行っていますわ。松野は完璧でしょう?」「はい、松野さんにはいつも感謝しています」
「任せておけばいいわ」
「うん、だけど……」
「なにも問題はないですわ。これからは別々に暮らせばいいんです。もともとあなたとあの子が一緒に暮らす必然性なんてなかったんですから。あなたの嫌いなお父様の気まぐれのせいで、望んだわけでもないのに、ある種義務的にこうなっているだけでしょう? それはお互いにとって幸せなのかしら?」
玲の言うことは、まったくその通りだ。
「もう忘れましょう? 今日はお兄様の誕生日ですわ」
僕は玲から目をそらした。やっぱり楽しい気分にはなれない。玲のため息が聞こえた。
「お兄様。実はとびきりのケーキを用意していますの」
玲がシェフを呼びつけた。すると突然、照明が落ちて真っ暗になった。
「停電!?」
僕が慌てていると、マッチの炎が一つだけ灯った。どこからともなくピアノとバイオリンのメロディが流れてきた。銀髪の老紳士が優雅な手つきで、その炎を次々とロウソクに移していく。するとだんだん増えていく灯かりが、特大のケーキタワーの姿を闇に浮かび上がらせた。
「でかっ! もしかしてこれを食べるの!?」
「もちろんですわ」
僕が唖然としているうちに生演奏が終わり、静かになった。ケーキが台車ですぐそばまで運ばれてきた。ロウソクが照らす玲の微笑み。僕は立ち上がって、一生懸命にロウソクの炎を吹き消した。
盛大な拍手と同時に照明がついた。僕らを囲むように黒服たちが立っていた。僕は恐縮して椅子から立ち上がり、方々に頭を下げまくった。
銀髪の老紳士がケーキにナイフを入れ、僕と玲の前に置いた。
「お兄様は謙虚すぎるわ。なににも縛られず、思い通りにしようと思わないの?」
僕には答えられなかった。そんな生活、そんな人生、考えたこともなかった。いつも絶対に逆らえない父がいて、父がいなくなってからは守らなければならないゆずりがいて、目の前の厄介事に対処するだけで僕にはいっぱいいっぱいだった。
というか今の状況だって、僕は玲に縛られているも同然と言えるのではないだろうか。
ケーキは何層にも重なったクリームがおいしくて、食べたことのないフルーツが入っていて、ゆずりの誕生日にもこんなのが用意できればよかったのになと思った。
僕は首を振る。いや、もう忘れよう。ゆずりはこれからは竜洞寺家から派遣される敏腕家政婦に保護され、愛され、不自由なく暮らしていくのだ。僕の出る幕なんてないかもしれない。ゆずりは僕を嫌っている。ゆずりにとっては、そうするのが一番いいのだ。
「バンドをなさっていたのでしょう? お兄様の演奏、まだ一度も聞いたことがないですけど」
「聞いてもがっかりするだけですよ。前にギターやってたけど、僕の演奏なんて下手くそで、聞く価値ないです」
「ほら、また謙虚ですわ。今度、なにか一緒に弾いてみるのはどうかしら?」
「本当に下手なんだってば。それにもうギター売っちゃったし」
僕の未練を見抜かれてしまったのか、玲は「楽器がお好きなら、どなたかプロの方に個人レッスンをしていただいたらどうかしら?」などと、とんでもないことを言う。
そりゃあ、できることなら愛香や手嶋とずっと部活もやっていたかったけれど。
「今度、ギターのプロを呼んでみることにしますわ。どなたがいいかしら」
「いいってば、そんなの。僕なんかがプロに教わるなんてありえないよ」
「気に入らなければやめればいいですし、ギターなら新しいのをプレゼントしますわ」
「困るよ! 本当に、遠慮してるわけじゃないから!」
必死にお断りしてなんとか話を取り消してもらう。
「そう? 残念だわ」と玲は本当に残念そうにしていた。
なんだか先が思いやられる。僕はこれから一体、どれだけ『お断り』を頑張らなきゃならないんだろう?
途切れた会話の合間に、僕はなにげなくケータイを見た。愛香からの着信がに七件も入っている。それからSNSメッセージも。
その内容が目に飛び込んできた瞬間、窓も開いていないのに冷たい風が僕の背中をはっていったような気がした。
『ゆずりちゃんが大変なの。すぐ電話ください』
「ところでお兄様、お兄様がこういうの、お好きかどうか分からないですけれど ……」
玲は話し始めたけれど、僕がいきなり音を立てて立ち上がったのを見て、口をつぐんだ。
僕ははっと我に返って、目の前のちょっと驚いているような玲の顔を見、それから周囲に顔をめぐらせた。黒服の男たちと老紳士は表情一つ崩さずに整列していた。
ゆずりになにかあったのだろうか。ゆずりは、愛香は今、どこにいるのだろう? レストランに向かう車中から見たゆずりの姿が、頭の中に蘇ってくる。なぜ一人でゆずりはあんな場所にいたのだろう? すでになにかが起きていたのか? あの後、なにかあったのか?
僕はケータイをズボンのポケットにしまった。
「すみません、ちょっと……」
「お兄様? どうなさったのです?」
「いや、別に。その……トイレに」
納得していなそうな表情の玲を残し、何十もの視線の槍を背中に感じながら、僕はそそくさとトイレに向かった。
曇り一つない大きな鏡に映った僕は動揺して情けない顔になっていた。僕は愛香に電話をかけた。
「あ、愛香? ごめんずっとマナーモードにしてて、さっき気づいたんだけど……」
僕の声は愛香のひどく取り乱した声によってかき消された。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、私がいたのに、私が馬鹿だから……」
愛香は泣いていた。何度も謝罪を繰り返した。
明らかに愛香は僕以上に動揺していて、そのことが逆に僕をいくらか落ち着かせたみたいだった。
「落ち着いて愛香。なにがあったの? 今どこ? ゆずりもそこにいるの? 分かってること順番に教えてもらえる? ゆっくり、ひとつずつでいいから」
僕はなんとか愛香に深呼吸をさせて、状況をひとつずつ確認していった。
「いま私もゆずりちゃんも病院で、まだほんの少し前に着いたばかりで、私もゆずりちゃんの状況が分からなくて、松野さんが今、ゆずりちゃんと一緒で……」
そうか、松野さんもいるんだった。それを思い出して少しだけ安心する。病院と聞いてすぐにでも聞きたいことが山ほど
「それで、ゆずりになにがあったの?」
「うん、ゆずりちゃん、倒れたらしくって、それで救急車で運ばれたんだって」
「……悪いの?」
「お医者さんが診てるけど、まだ私は全然容態が分からなくて……もし倒れたときに頭を打ったりしてたら、よくないかもしれないって」
かすれて消えていく愛香の語尾を、僕は無言のまま噛み締めるように聴いた。ここで愛香に詰め寄っても、ゆずりについてこれ以上のことは分からないだろう。そんなこと分かっているけれど、気持ちが急いて息が苦しかった。ふと鏡に映る自分の顔が目に入り、僕は自分を見失わないよう大きく深呼吸した。
『倒れたらしくって』というのはつまり、愛香は直接ゆずりが倒れたところを見ていないということだろうか。けれど愛香は最初、酷く取り乱しているとき、自分がゆずりと一緒にいたようなことを言っていたような気がする。確か『私がいたのに』とか。だから愛香が責任を感じて取り乱しているのだと思っていた。
愛香が僕の知らないところでゆずりと会って遊んだりすることは、たまにある。二人は互いに電話番号も交換している。ただ、ゆずりの健康のことがあるので遊ぶ場所はたいていというか絶対に我が家なのだ。
でも、あの狭い我が家に一緒にいたとしたら『倒れたらしくって』などと不確かなことを言うだろうか? それに松野さんもうちに来ていたなら、愛香がそんなに責任を感じる必要もないのではないか。
「愛香、今日ゆずりと一緒にいたの? 松野さんも三人で?」
「ごめんなさい。こうちゃんには言ってなかったけど」
「謝ることじゃないよ、むしろありがたいし」
「ううん、私、バカだよ」
「そんなことないってば。愛香、今日うちでゆずりと遊んでたんだね?」
「うん、三人で、遊んでた、というか、こうちゃんの誕生日祝おうと思って準備してて」僕は自分の愚かさを知った。愛香が僕の誕生日を忘れるわけがないじゃないか。「ゆずりちゃんの話では、こうちゃんは四時に帰るって言うけど、こうちゃんが帰ってこないし、電話しても出ないから、ゆずりちゃんが、探しに行くって言い出して。心配だからどうしても行くって……」
愛香はことさらに申し訳なさそうに言った。
僕はゆずりがなぜピザ・フリークスの店舗前にいたのか納得した。僕の行きそうな場所と言えば、学校かバイト先かスーパーくらいだ。そういえば、今朝ゆずりは、僕が帰ってくる時間をしつこく聞いてきた。あんなに分かりやすいヒントに気づかない僕はよっぽどバカだ。
「実は僕、夕方ゆずりが一人でピザ・フリークスの前にいるのを見たよ」
「そのときだよ。私が全部悪いの。ゆずりちゃん、今日は元気だったから、ちょっとだけ一人にしても大丈夫だと思って。私がお店に聞きに行ってる間に、店の前で待っててもらったら、いなくなっちゃって……」
また愛香が自分を責め始めたので、愛香が悪いわけじゃない、ゆずりはきっと大丈夫だから、と励ました。なんとなく状況が分かった。ゆずり自身、愛香の言うとおり今日は体調がよかったから、愛香と一緒に外に出たのだろう。ゆずりが倒れたのは、不意に僕らと出会ってしまって、ひどく動揺したためと、無理に走ったためだ。
「愛香、僕にも責任があるよ。いや、僕のせいだ。僕、ゆずりを見たというか、会った」
自分の鞄をひっつかんで走り出すときのゆずりの顔。同じ顔を僕は以前にも見たことがある。それは、ゆずりが植月家に初めて連れて来られたときのこと。なにもかも失って、たった一人になって、僕の父に引き取られてきたときの、傷つき、見捨てられた子猫のような――。
「僕、今すぐそっちに行くよ」
「うん。こうちゃんが来てくれたら、ゆずりちゃんも喜ぶ。でも大丈夫なの? こうちゃん、どこにいるの?」
「ほんとごめん。僕、自分の誕生日を忘れてて、ちょっと駅のほうでご飯食べてたんだ。それより愛香、ゆずりのこと、いつもありがとう」
僕は愛香から搬送先の病院について聞いて、電話を切った。
入り口の横の壁に、いつからいたのか、銀髪の老紳士が背中を預けるようにして佇んでいた。その隙のない立ち姿は、僕の行く手を阻む重厚な門扉のようにも見えた。
「お嬢様が待ちくたびれております」
「すみませんが、これから行かなければならないところがあるんです」
「ゆずり様は命に別状なく、じきに快復なさるでしょう。ですから、光太郎様が駆けつける必要はございません」
それは僕にとって驚きであるとともに、喜ばしい報告だった。だけど僕は、それを鵜呑みにするほど人がよくもない。
「どうしてそんなことが分かるんですか」
「分かりますとも」
老紳士は表情を変えなかったが、僕には彼が内心では不敵に微笑んでいるかのように感じられた。
「我々は竜洞寺グループですから。恐らくあなた様が想像するよりも、何倍も早く、多くを知っていると言えるでしょう」
たぶんこれは誇張でも虚勢でもなく、事実なのだろう。
「すみません。それでもやっぱり、失礼します」
彼の横を通り、トイレから出た。彼はなにもしてこなかった。フロアに戻ると、玲が立ち上がって僕を迎えた。
「お兄様、どうしたんです? もし体調がすぐれないのでしたら、残念ですが、今日はこのあたりでおうちに帰ることも……」
彼女が僕を気づかってくれる。僕は「うん、ごめん。風邪引いたみたいだから、そうさせてもらうよ」と答えた。彼女に嘘を吐くのは忍びなかったけれど、そうするのが一番早いと思って、乗っかったのだ。すぐに返してくれそうで助かった、と安堵した僕に、玲が冷や水を浴びせた。
「お兄様、嘘はよくありませんわ」
玲は微笑んでいるが、笑っていない。さっき老紳士が言っていた『我々は、竜洞寺グループですから』というセリフが、凍りついたような沈黙の中、僕の脳内で響いた。だけど、誰であっても人の心の中、考えていることまで全てお見通しなんてこと、あるはずがない。
「嘘って……そんなことないよ。本当に、気分が……」
「お兄様?」
玲がなめるように僕を呼ぶ。ここには僕しかそう呼ばれる人間はいないはずなのに、僕はなぜか彼女の言葉が僕ではない誰かに向けられたもののように思えて、気味が悪くなった。まるで人形にでも話しかけているかのような響き。そして自分が蝋人形になってしまったのではないかという錯覚が、僕を震えさせた。
「あの子でしょう?」
汗が額から伝い落ちた。彼女の瞳が紅く光った。竜洞寺の家系は魔女かなにかなのだろうか。
僕は首を縦に振るべきか、横に振るべきかで逡巡した。まるでのど元に刃物でも付きつけられているかのような緊張の中、壁時計の針の音が妙に近くで時を刻んでいる。結論を出せずに硬直していると、玲が口を開いた。
「行かないで」
打って変わって、弱々しい声。
「ここにいて。お兄様はここにいて。ずっと。わたくしのそばに」
まるでさっきまでの魔女の人格が引っ込んで、年相応の少女の人格が現れたかのようだ。演技なのか、それとも二重人格なのか、判断がつかない。
「お願い。お兄様。玲のそばにいて。お願いだから。プレゼントを受け取って、ここで開けて?」
玲の手には、きれいに包装されたリボンつきの小箱があった。僕はこれを、受け取るべきなのか?
わざわざ彼女が用意してくれたものだ。受け取らないのはどう考えても失礼すぎる。だけど僕は受け取るのが怖かった。彼女が僕に差し出しているそれが、本当に僕への贈り物なのか、確信がない。彼女が見ているのは、老紳士が語ったようにかつての『兄と呼んでいた』誰かなのではないか?
「すみません、僕、確かに嘘を吐きました。そのことは謝ります。ごめんなさい。プレゼント、ありがとうございます。だけど、今すぐに行かなきゃいけないところがあるから、あとで開けさせてもらいます」
僕は彼女の差し出す小箱を受け取った。
「僕なんかのために、本当にありがとうございました」僕は出口へと歩く。
「あの子がそんなに気になるというの!? どうして!? 放っておけばいいじゃない!」
玲がまた、人が変わったみたいに怒鳴った。僕は驚いて足を止めた。
彼女は髪の毛をかきむしって、突然テーブルをひっくり返した。皿が割れ、フォークが吹っ飛んで甲高い耳障りな音を立てた。料理が床にぶちまけられた。
僕は壁際に立っている銀髪の老紳士を見た。彼は驚いた様子はなく、憐れむような色を瞳の奥深くに宿していた。黒服たちも誰も彼女を止めようとはしない。
「代わりにあの子が死ねばよかったのに!」
玲が吐き捨てた。床に散らばった花を踏みつける。細い首が折れ曲がり、花びらがにじんだ。表情は垂れ下がった髪に隠れて見えない。血の気の引いた僕はその奇行から目を離すことができなかった。
代わりに?
死ねばよかった?
彼女の言葉がなにを意味するのか正確なところは分からないけれど、今までの流れから察すると、ゆずりに対する憎しみなり敵意なり侮辱なりを含んでいるのだろう。
「あの子のせい! あの子が、死んでいれば!」
玲は何度も何度も、過剰なまでに花を踏みにじる。
僕は恐る恐る尋ねた。
「竜洞寺さん……? どういうこと?」
玲がぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと顔をあげる。乱れた髪の向こうの紅い目が僕を射抜く。三日月のように、彼女は唇を歪めた。
「町田ゆずりが、お兄様を殺したんですわ」
「……ありえないよ」僕は自分に言い聞かせるように呟いた。「ありえない。ゆずりは病人だよ? 体力も力もない。なにかの間違いだ……」
「そう思うのでしたら、本人に聞いてみてはいかが?」
玲の自信と余裕に満ちた態度は、口から出任せを言っているわけではないと見えた。
だけど僕は何度も胸の内で否定する。ゆずりが人を殺した? そんなバカなことがあるわけない、と。
「ゆずりをそんなふうに言ったこと、あとで謝ってほしい」
「謝るのは、あなたになるんじゃないかしら」
玲の自信は変わらない。
「とにかく、帰らせてください。ゆずりが心配なので」
「お兄様の考えは変わらないのね? どうせ長くないのに、無駄なことですわ」
あたかもゆずりが早死にするのが決まっているかのような口ぶり。僕は激しい怒りがこみ上げてきた。
「あなたたち」
玲が呼びかけると、店外へ出る通路に黒服たちが城門のように立ちふさがった。
「どういうつもりですか?」
「しばらくここで頭を冷やしなさい。さあ、パーティーの続きを楽しみましょう?」
黒服たちがじりじりと迫ってくる。こんなムキムキの人たちとまともに戦って勝てるわけない。逃げなければ。
だけどここは二階だ。脱出経路は、黒服たちを正面突破するか、背後の窓。二つに一つ。僕は窓際に立ってその高さを目測した。ここから飛び降りたとして、その後まともに歩けるだろうか? 自信がない。
僕があたふたしている間にも、黒服たちが距離を詰めてくる。
「う、動くな!」
僕はとっさに足元のナイフを拾い上げて彼女の首に突きつけた。黒服たちが停止した。「お嬢様!」と口々にわめく。玲は悲鳴をあげないどころか抵抗一つしなかった。彼女の髪から甘い芳香が香った。
っていうか僕はいったいなにをしてるんだ!? これじゃあまるっきり犯罪者だ!
まさかあの父親より先に刑務所のお世話になるなんて、と自分でやっておきながらかなりショックを受けた。自分のバカさ加減に陰鬱な気分になる。でもしっかりとナイフを突きつけたまま、抵抗しない玲を引きずるように窓辺まで後ずさる。もう逃げ場はここしかない。僕は片手を伸ばして鍵を開け、勢いよく窓を押し開いた。夜風が舞い込み、蒼い花びらを踊らせた。
いざ飛び降りようと思うと、たったの二階なのに急にむちゃくちゃ高く思えてきて、震えた。ナイフを振り回して黒服たちを威嚇しつつ、玲を片腕で抱きかかえたまま、半身を乗り出す。どこか安全に着地できる場所はないか。伝って降りられるものはないか。あそこ停まっている車の荷台までジャンプする? 右手に見える植え込みに届かないだろうか? 街路樹は遠すぎる。一体どうすれば……。
どれも無理だ、とあきらめかけたときだった。見覚えのある人影に気づいたのは。
歩道に立って僕を見上げている。その憎らしい顔の男は、両手を大きく広げて、僕を受け止める体勢になった。
僕は疲れているんだろうか。
「光太郎くん、さあ! 遠慮なく飛び込んで来たまえ! これはきみだけに許された特権ですよ」
目をこすったら別の顔に変わってることを期待したのだけど、それはやっぱり父親だった。
「なんであんたがいるんだ!? というか今までどこにいたの!?」
「大雑把に言えばアメリカとか日本の各地とかだ! そんなことより、さあさあ! パパの胸にカモーン!」
迷っている時間なんてなかった。黒服たちがすぐそこまで迫っていたのだ。
僕は玲を解放すると同時に、覚悟を決めて跳んだ。まさかこの父親、実の息子を避けるとかしないよね? とちょっとだけ懸念したのだけど、彼はそんなことしなかった。
二人とも衝撃でアスファルトに倒れ、低くうめいた。父親が受け止めてくれたけど痛かった。父親のほうも相当痛かったらしい。当たり前だ。
僕は足がビリビリしてすぐには立てなかったけど、痛みをこらえて立ち上がった。骨は折れていない。父親はいつまでも地面に転がっている。立てないらしい。
「ハッピバースデー・トゥーユー……」と父親ははいつくばったまま歌いだした。顔をしかめている。痛いのをまぎらわそうとしているのかもしれない。「ハッピバースデー・ディア……光太郎……くん……んんっ……うおおおお! 腰がああああ!」
「無理しなくていいよ! でもなんで……」
「光太郎くんの、様子を見に来たんだよ。そりゃ、わたし、父親ですから」
レストランから次々と黒服たちが出てきた。
「積もる話は、また今度にしましょーか。ようやく役者を整えられたのでね。というわけで、ここはわたしに任せて、先に行け!」
「わけ分からんけど、ありがとう」
父親はぐったりとアメーバみたいに脱力した。僕は父を置いて走り出した。
***
「待て光太郎!」
手嶋基樹は走る光太郎の前に飛び出した。その後ろには、國司田、中野、関根、朝倉、ほか数名の男子生徒たちが続いた。
「手嶋に……みんなも?」
どうしてみんなまで? という疑問にかぶせるように、手嶋が状況を尋ねる。
「いったいなにがあった? 尋常じゃないぞ!?」
「僕、手嶋病院に行かなきゃなんだ。妹が緊急入院してて」
光太郎が説明している間に、レストラン入り口からぞろぞろと黒服の男たちが吐き出されてきた。一人が光太郎を指差した。いっせいに向かってくる。
「やばい、逃げなきゃ! 妹に会うんだ!」
こちらに向かってくる黒服集団の威圧感に押されて、手嶋たち一向も光太郎と一緒に並走した。
「我々はなにもしていないぞ!?」中野が青ざめてわめいた。「なぜ逃げるんだ!?」
「分からん! なんとなくだ!」
「ヤツら俊敏だぜ、このままじゃ追いつかれる」
國司田が振り向きつつ報告する。
「一旦うちに逃げ込め!」熊田が先頭に立った。「次のブロックにクマダ・スクエアがある! ヤツらも
一向はクマダ・スクエアに飛び込み、熊田の誘導で関係者以外立ち入り禁止の控え室に身を潜めた。
「ありがとう、助かった」
光太郎が一同に礼を言う。
「でもなんでみんなそろって……」
「おまえが過ちを犯さないよう、見張っていた」手嶋が説明した。「まあ、みんな玲とおまえの関係が気になるわけだ」
一同が真顔でうなずく。
「ヤツら、ここまで入ってくると思うか?」
「分からないけど、スタッフには中に黒服の連中を入れないようにって頼んでおいた」
熊田は周到だ。
「っていうか、なんで、僕らまで!」
関根は額に汗を浮かべてゼイゼイとうなった。
「これから、どうする?」
「とりあえずドローンを飛ばして、入り口付近を監視しよう」
中野が提案し、さっそくスマホを操作している。
「よし任せた。で、光太郎はうちの病院にいる妹に会いたいんだよな?」
「そうだよ! これじゃ病院に行けない……」
「ヤツらが建物内まで入ってこなかったとしても、建物を出たところで捕まるだろうな」
國司田が見解を述べる。
「変装、したら?」
と関根。
「カツラも、服も、売ってるでしょ?」
熊田に視線が集まる。
「いや、変装よりも面白いことを考え付いた」
「なんだ?」
「いいか? 耳を貸してくれ」
一向は熊田のもとに輪になって額を寄せ合った。囁き声で計画を話す。
「それでいこう!」手嶋がパチンと指を鳴らした。「光太郎、いけそうか?」
「うん、だけど……」光太郎はためらいがちにみなの顔を見渡す。「みんなを巻き込んじゃうことになるけど……」
「わたしたち、どのみちもう巻き込まれてます」
中野が苦笑した。
「それにわたしは、植月くんには借りがある」
「まあ、なにもかも竜洞寺の思い通りってのは、気に食わねえよな?」
國司田が不敵に笑い、肩眉をつりあげた。
「植月クン、キミは朝倉書店にバイト応募してただろう?」朝倉がメガネを押し上げた。「店長が理由も告げずにお断りしたのは、竜洞寺からの圧力がかかっていたとはいえ、申し訳ない。ワタシも、キミには借