翌朝、登校した僕は昇降口のところで人だかりに飲まれた。生徒という生徒――特に男子――が僕の周りに群がり、口々に僕の名を叫ぶ。まるで芸能人になったみたいな気分だったけれど、いきなり肩をつかまれるし、「どういうことだ!」とか「いったいなにをした!」とか脅迫まがいの勢いで迫ってくるものだから、僕は怖くなった。いったいこの騒ぎがなんなのか、一番知りたいのは僕だ。
すべての原因は一枚の貼り紙である。昇降口の掲示板には、本日の日付で、『試験結果』なるものが掲示されていた。そこにはこう記載されていた。
お兄様選抜試験 合格者
本日より、竜洞寺玲のお兄様に就任いたしました。 竜洞寺玲より
最初はなにかの間違いだと思ったけれど、何度読んでも僕の名前だ。
「どう見てもイケメンじゃないぞ!」
「なんだお前のような奴が! 絶対に許さん!」
「貴様、玲たんになにをした! 吐け!」
なぜ僕なのか、僕が知りたい。
血走った目の男どもから解放されたのは、ホームルームのチャイムが鳴ったときだった。学校中が騒然としていて、ホームルームは遅れて始まった。納得できない連中が休み時間に教室まで押しかけて僕を問い詰めた。なにを聞かれても答えようがない僕は、ただただ疲弊した。
廊下で見かけた竜洞寺玲は、数多の男子生徒を引き連れていたが、そのどれもが納得のいかない顔で、玲に説明を求めているようだった。しかし玲は誰一人相手にせず、完全無視を決め込んでいるらしかった。
昼休み、僕らは授業が終わるとすぐに教室を出て、空き教室に隠れた。愛香の提案だ。
「こうちゃん、まだけっこう腫れてるね。痛そう」
と愛香が僕のケガの心配をしてくれる。
「竜洞寺さんって、なに考えてるか分からないよね。こんなひどいことしておいて、そのくせこうちゃんを選ぶなんて」
愛香はちょっと怒っているみたいだった。たぶん竜洞寺玲と、教室に押しかけてくる輩の両方に。
「なぜ俺じゃないんだ! アアアアア!」
手嶋が突然、焼きそばパンを真っ二つにへし折った。
「光太郎、俺にお前の名前をゆずってくれ! 俺は光太郎になりたい」
「さすがに無理だよ」
僕はぐったりして答える。昼食のパンの味もよく分からない。
「あの場には俺もいたじゃねえか! せめて両方合格にするのが筋だと思わないか!? なあ!? 俺は今、猛烈に入れ替わり能力がほしい!」
「僕に言われても。今の立場をゆずれるなら手嶋にゆずりたいんだけど」
そのとき部屋のドアが開けられた。
ここもダメなのか、と落胆しかけたけれど、立っていたのは僕が想像していた男どもではなかった。
優雅な金髪と、高校生離れしたプロポーション。キラキラと輝くオーラを放ちながら、彼女はにっこりと微笑んだ。
「お昼ごはんには絶好のお部屋ですわね、お兄様」
「竜洞寺玲!?」
僕ら三人がハモった。
「どうしてここに……?」という僕の質問は無視された。
玲はドアを閉めて部屋に入り、ずんずん僕らに近づいてくる。そして僕らが食べている購買のパンを見て、
「あらあら、なんとまあ。そんなものより、もっといいものを持ってきましたわ」
と言い、机の上にドサッと荷物を降ろした。僕が密かに楽しみにとっておいたアンパンは、哀れその下敷きとなった。風呂敷をほどくと五重の重箱があらわれ、一番上のふたを開けると、きらびやかなお弁当が詰まっていた。いいや、お弁当というかおせち料理くらいの豪華さで、たぶん僕が今まで食べたことのあるどんな料理よりも高価で、手が込んでいて、目がくらんだ。
「すごっ……」と愛香が目を釘付けにして固まっている。
手嶋も「さすが竜洞寺家……」と、それ以上言葉がない様子だ。
「よろしければ、お二人も召し上がる? そんなもの捨ててしまっていいわ」
と玲に言われて、手嶋と愛香は自分たちが手に持っている貧弱なパンを見た。葛藤している。
「ちょっと待って」
と僕は話の流れを切った。
「昼ごはんは一旦置いといて。竜洞寺さん、掲示板のあの貼り紙、どういうつもりなのか説明してほしいのだけど」
「あらお兄様。なにかご不満でも?」
玲はとぼけたように首をかしげる。
目の前にいるのは、竜洞寺グループの令嬢。まるでアイドルか芸能人とでも話しているようで、緊張するけれど、ここははっきりと言わなければいけないと思った。
「その、お兄様っていう呼び方、やめてほしい。僕は竜洞寺さんのお兄さんにはなれないから」
「代わりに俺がなる。そしてお風呂だ」と手嶋が口をはさんだ。
「お風呂?」
玲がつぶやく。
「話がややこしくなるから手嶋はちょっと黙ってて! 竜洞寺さんも手嶋のことはとりあえず無視しておいて! 置き物だと思って!」
愛香が手嶋を引っ張って離れる。手嶋は残念そうだ。
「もう一度言うけれど、僕は竜洞寺さんのお兄さんにはならない。申し訳ないけど」
「どうしてかしら?」
「どうしてって、僕はもう妹いるし。一人でも手がかかって充分大変だから」
「あなたの現在の家族構成など気にしませんわ。それに妹の世話が大変と言うなら、家政婦を送りましょう」
「へ?」
僕はマヌケな声を出した。
「家政婦ですわ。家事全般に加え、お兄様の妹の送り迎えや遊び相手もさせます」
「そんな人、雇うお金ないよ! バイトしないと来月の生活も危ないくらいなんだから!」
「いいえ、家政婦はうちから派遣しますから、お兄様からいっさいお金をいただくことはございません。それどころか、お兄様としてわたくしのそばにいてくださる限り、お給料をお出しします。アルバイトなんて不要ですわ。お兄様だけでなくそのご家族にも、相応の待遇を保障すると告知しておいたでしょう?」
「いや、でも、ゆずりが簡単に家政婦さんになつくとは思えないし、僕にだってよく暴言吐くし、言うこと聞かない我がまま娘だし……。それに、ゆずりは病気がちで……」
「こちらが用意するのはプロですから、手のかかる子、問題児、障害児、病人、すべて問題ありませんわ。なんなら看護師の経験者を探しましょう。万が一、相性が悪いようでしたら、他の家政婦を試せばいいのです。いくらでも用意しますわ」
「いや、でも……」
と僕はそれ以上なにも言えなくなってしまう。どうしてだか僕はみじめで、自分がちっぽけな存在で、ろうそくの火のように、誰かが吹けばあっさりと消えてしまうように思えた。
玲が僕の前に小さな包みを差し出した。
「これは……?」僕は玲の瞳をのぞきこんだ。
「ほんのささやかな、気持ちですわ。まずは昨日のことを謝らせていただきます。手荒なマネをするつもりはなかった、と言ってもいまさら信じてもらえないでしょうね」
僕はなにも理解しないまま、渡された包みを受け取った。大きさも重さも、少し細長くした文庫本みたいな感じだった。
「かばんにしまっておいて、家に帰ってから開けてくださいね?」
玲はわざとらしくウインクした。そんなもの演技だと見抜きつつも、僕はドキリとしてしまった。
それから、ふっと薄く笑って続けた。
「お兄様が心配することなど、なにもありませんわ。わたくしはあなたを解放してあげるのです。聞けば、母は他界し、父には見放され、それでも妹を養わなければならないせいで、学校とバイト先の往復。多忙と過労ゆえにミスが重なってクビになり、新しいバイトに打ち込むために部活までやめたとか。もうそんな生活をする必要はないのです。あなたの妹は竜洞寺グループが責任を持って管理しますわ」
そのときの僕は、なぜ彼女がそんなにも僕のことを詳しく知っているのか、疑問を持たなかった。彼女の言っていることは理解できた。だけど僕はゆずりを『管理』などしているつもりでもないし、ゆずりに嫌々ながら束縛されているつもりでもなかった。玲にそんなふうに言ってほしくなかったのだけど、僕は言い返せなかった。
「だから、あなたはわたくしのお兄様になったほうが、すべてがうまくいくのですわ」
「わたくしの部屋に住んでもよろしいのに」
玲は放課後、僕のクラスにやってきて言った。その一言のせいで現場は大混乱となった。
「植月くたばれ!」
「植月くんハレンチ!」
「植月になりてえええ!」
野次馬たちが騒ぐので僕は大声を出さなければならなかった。
「さすがに住むわけにはいかないよ! ゆずりをほっとけないから!」
「家政婦がいるのだから心配ありませんわ」
「でもとにかく一回帰るよ!」
まさか帰り道まで玲が着いてくる、なんてことはなかったので、僕はほっとした。
「ただいま」と言って玄関のドアを開けた。
すると足音が近づいてきて、目の前に現れたのはゆずりではなく三十歳くらいの女性だった。帰る家を間違えたのかと思ってうろたえる。
「おかえりなさいませ。光太郎様。ゆずり様のお世話をさせていただいております、松野と申します」
家政婦さんだった。玲の話をこれっぽっちも受け入れたわけではないのに、もう派遣されているなんて。清潔な白のエプロンをまとった、洗練されたたたずまい。後ろで髪をひとまとめにしている。落ち着いていて真面目そうで、どこか古風――メイドさんっていうより、やっぱり家政婦さんって感じだ。
僕はうろたえたのを誤魔化すように、「あ、えーっと、留守の間、ありがとうございました」とお礼を言った。
「仕事ですから」と松野さんは答えた。
僕は小さく「お邪魔します」なんて言ってヘコヘコしながら、靴を脱いで家に上がった。居間の様子はまったく変わっていない。テーブルとテレビと、ゆずりのクッション。ゴミもホコリも落ちていないし、洗濯物は綺麗にたたまれているし、キッチンをのぞけば食器はピカピカで棚に納まっていた。見覚えのないお皿もある。学校は落ち着く時間がなかったから、我が家ではのんびりできると思っていたのに、僕はそわそわした。
「ゆずり様はお部屋に」
松野さんに言われて僕はゆずりの部屋に向かった。ゆずりはこの事態をどう思っているのだろうか?
「ゆずり? 僕だけど」ノックするとすぐにドアが開いた。
お気に入りの白のパジャマを着た、仏頂面の女の子が立っていた。
「ええっと、久しぶり」
僕はぎこちなく挨拶した。じーっと僕を見つめるゆずりはまるで僕が偽者じゃないかと疑ってるみたい。
「あんたバカ? 何しに来たの」
「帰ってきただけ、だけど」
「なんで」
「なんでって……」
その質問はちょっとひどくないだろうか? だってここが僕の家だし。ゆずりのことは心配だし。他に理由なんて必要なのだろうか。
「帰ってきたかったから、帰ってきたというか。ただそれだけだよ」
「あっそ」
ゆずりは言い捨ててドアを閉じた。まあ、分かってたけど。
「あのー、ゆずりはずっとこんな感じですか?」
松野さんに聞いてみた。
「ええ、お変わりありません。言葉足らずで尊大で気難しくてご機嫌斜め。とはいえ、それも安心の裏返しと受け取って、お世話させていただいています」
「はあ」
松野さんがなにを言っているのかよく分からないけど、ゆずりのことをよく理解しているみたいだ。
僕は松野さんと今後のことについて話した。それから竜洞寺玲の兄になるのは荷が重いと思っていることを相談した。僕はちゃんと僕のうちに住んで、家事をして、バイトをして、今までどおりの生活に戻るつもりでいた。だけど玲はそれを望んでいない。
「できることなら、光太郎様には、お嬢様のそばにいてあげてほしいというのが、わたくしの希望でございます。もちろんその際は、わたくしが光太郎様に代わって家事やゆずり様のことをお世話いたします」
竜洞寺グループは普通の高校生がバイトで稼ぐ額の何倍もの給料を僕に与えるに違いない。そうなれば将来への不安はなくなるだろうし、ゆずりにいいものを食べさせてやることもできるだろうし、部活に復帰することができるだろう。
だけどそれはなにかが違う気がする。
その日、夕食は僕が作った。いつも僕が作っている節約レシピだ。
「わたくしが持ち込んだ食材を使ってくださってもよろしいのに」
松野さんはゆずりに随分豪勢な食事を作るつもりだったようだ。でも竜洞寺グループの世話になるわけにはいかない。
食卓についたゆずりは眉をひそめた。松野さんが食材を持ち込んだことを知っているのだろうが、ゆずりはなにも言わずに全部食べた。
僕はうれしくなって、「ゆずり、どうだった?」なんて聞いてみたのだけど。
「まずかった」の一言。うん、ちゃんと予想してた。悲しいけど。
「こんなんだったら、わたしが作ったほうがマシ」
ゆずりは僕から顔を背けた。
「次は、わ、わたしが、作る」と小声で言った。
そういうふうになったらうれしいけれど、なかなか難しいのが現状だ。
「うん、鍋とか爆発させないようにね」
もちろん冗談なのだけど、ゆずりがすごい形相で僕をにらんでいた。
「ゆ、ゆずりは無理しなくていいんだよ!? 僕が作るから寝てればいいよ」
あとそんな簡単に殺意を振りまいちゃいけません!
それから三人でテレビを見て、ゆずりは僕のコメントをことごとく無視して、松野さんは哀れみつつ返事をしてくれて、夜になって松野さんは帰っていった。
「明日、学校は?」
尋ねたけれど、ゆずりは何も答えず自室に引っ込んでいった。
相変わらずのゆずりに僕はやれやれと溜め息を吐いて、ドア越しにおやすみを言った。
せめて一言くらい返してほしかったけど、まあしかたない、などと思っていると、
「あんたなんか永遠におやすみ」
僕は喜べばいいのか、泣けばいいのか。
「 そういうわけで、最近、異様にムードが悪いというか」
昼休み、僕は愛香にゆずりの言動について相談した。例の空き教室である。
あの日の『あんたなんか永遠におやすみ』に始まり、今日まで数々の罵詈雑言が僕に浴びせられている。
「返事してくれないのは前からなんだけど、なぜか食事も僕がいない間に勝手に食べてるみたいなんだよ。ゆずりの分は作らなくていいとか言うんだ。かつてないほどに嫌われてるとしか思えない」
「今までもいろいろあったけど、今回のパターンは初めてだね」
愛香は真面目に分析した。
「うん。なんかもう、僕、いつかゆずりに後ろから刺されるんじゃないかって思う」
「こらっ。家族をそんなふうに言っちゃダメでしょ。ゆずりちゃんに失礼だよ」
「でも本気でそんな感じなんだよ!? 僕を見る目がやばいんだよ」
「目つきがちょっと……なのは、元からでしょ? 笑えばちゃんと可愛いのにね」
「そうなんだけど、僕のこと明らかに気づいてるのに無視するし、目が合ってもセミの死骸を見るような目するし、僕もう勝手に口から敬語が出てくるレベル」
「んー。なんでゆずりちゃん、急に怒っちゃったんだろ?」
「分かれば苦労しないんだけど……いや、分かっても苦労はするか」
「家政婦さんにはなにか聞いた?」
「一応。だけど意味深なこと言うだけで教えてくれない」
「なんて?」
「ゆずりもゆずりなりにいろいろなことを考えているんだ、とか言ってた」
「いろいろなこと?」
「それが重要なのに、それは教えてくれない」
あの人、ときどきうちに来て家事やらゆずりの世話やらしてくれるようになったのだけど、肝心なところはそんな感じで、敵なのか味方なのかも分からない。いつの間にかうちの合鍵まで作っていたくらいだから、僕が玲に抗議しても、通い続けるのだと思う。
「一番思い当たるのは、僕と愛香が二人でクマダに行ったことくらいだよなぁ。仲間はずれにされたと思ったんじゃないかと思う」
「そのことではゆずりちゃん、怒ったりしないと思うけど」
「どうして?」
純粋に愛香の見解が聞きたくて尋ねたのだけど、愛香はどういうわけか少しうろたえた。
「えっ、あ、ちょっとそんな気がしただけで……」
なんだろう。愛香らしくない。
「でも他に思い当たることが、ホントにない。松野さんのことは、案外気に入ってるみたいだし」
愛香はなにか考えている顔だ。
「本当にゆずりちゃんは、クマダに行った話をしたときも怒ったの?」
「うん、帰ってすぐ、玄関で」
「そう……」
思案を続ける愛香の表情がくもっていく。なにかよくない未来について考えているような気がする。
「愛香?」
「ううん、大丈夫。このことなんだけど、私が直接聞いてみようか?」
この申し出はありがたかった。僕は机の上に何気なく置かれていた愛香の手を両手で包み込んだ。
「悪いけど、お願いする。ホント愛香だけが頼りだよ。愛香がいてくれてよかった」
「こ、こうちゃんってば大袈裟」
愛香は顔をわずかに赤らめて周囲に視線を泳がせた。
僕が手を放すと、「ゆずりちゃんもきっと色々悩んでるんだと思うよ。難しい時期なのかもね。まだ中学生だし、高校受験の年だし、二人暮らしで親もいなくて……」と言って、はっと口を押さえた。
「ごめん。こんなこと、言うべきじゃないね」
「いいよ、事実だし。ゆずりも僕も分かってるから」
ゆずりは変わり身の速いやつで、接する相手によって態度が全然違う。
「おーい、ゆずり? 愛香が来たぞ」
愛香の来訪を告げると、それまでなにを言っても無視だったゆずりが部屋から出て来た。目はあわせてくれなかったけど。
「おじゃましまーす」
「愛香っ!」
靴を脱いでいる愛香に、ゆずりは吸い寄せられるように飛びついた。僕と二人きりのときは絶対に見せない笑顔。なんだか複雑な気分。
「なになにどうしたの?」
「会いたかったの。寂しかった」
「こうちゃんがいるじゃない」
「ううん。あいつ、いつも私をほったらかしでひどいの。私の下着を盗もうとするし、お風呂をのぞこうとするの」
「そんなこと一度たりともしてないってば!」と僕は事実を告げる。
「それ本当?」
愛香は真面目なので鵜呑みにしそうで怖い。
「うん。本当」
僕に冷たい視線が二対注がれる。ゆずりのやつ、愛香がなんでも信じやすいのを利用してやりたい放題しやがる。
「したことない! 絶対してない!」
しかしゆずりは瞳をうるませてさらにすがる。
「ねえ愛香。あいつね、やたらと私の下着を洗いたがるの。気づかない振りして一緒に洗おうとするの。私の部屋に入って、何か探してるの。絶対、気持ち悪いこと考えてるの」
「うわっ……」
愛香の視線が痛い。ゆずりは愛香の後ろに半分身を隠して、意地悪くニヤけていた。
「昨日は本当に気づかなかったんだってば! 愛香、信じてないよね? ゆずりもなんでそんなこと言うんだよ!?」
「放っておいて私の部屋行こ?」
「そうだね、行こうか」
愛香はちらと僕に目配せし、ゆずりの部屋に消えた。ドアが閉じられ、一人仲間はずれの僕は居間で、頭を抱えて座り込んだ。
愛香はゆずりの悪意ある法螺話を見抜いたようだけど、突然あんなあることないこと発表されるのは困る。今もゆずりが愛香になにか良からぬことを吹き込んでいるのではと思うと、こっそり部屋をのぞきたい衝動に駆られる。でもそれをやっちゃうとゆずりの思う壺だ。僕は愛香という友達すら失うことになりかねない。
愛香ならうまくやってくれる。というか、お願いだから騙されないでうまくやってくださいお願いします。
僕はゆずりの部屋に向かって土下座をした。
「なにしてんの」
ゆずりがちょっとだけ隙間を開けて、海に漂うゴミを見る目で僕を見下ろしていた。
「いや、なにもしてないよ!」
僕は逃げるようにテレビをつけて、興味がありそうなふりをした。ゆずりが部屋のドアを閉めた。
ゆずりの拒絶行動は最近激しく加速していた。洗濯も自分でするとか言い出して、洗濯機の使い方も分かってないくせに洗濯を始めた。スタートさせないで水浸しのまま一日放置してしまったり、洗剤の代わりに石鹸をそのままぶち込んだり、洗剤をボトル一本入れようとしたりという有り様だった。これまで通り僕がゆずりの分も洗濯してあげようとしたら激怒し、僕の手に握られていたパンツをひったくってその日一日中「変態」と呼び続けた。というか「変態」以外の言葉をなにも口にしないという徹底ぶりだった。「ゆずり? そろそろ夕飯にする?」「変態」「麦茶飲む?」「変態」「ごちそうさまでした」「変態」「おやすみ。明日は学校行けそう?」「変態」これはもういじめだ。
学校に行けるのは相変わらず不定期で、体調が悪くて学校を休んだくせに洗濯やら料理やらはやろうとする。でも途中で当然体調が悪化して咳き込んでしゃがみこんでしまって、ハラハラさせることも一回や二回ではなかった。ちゃんと父に言われたとおり、月の頭に病院には行かせている。僕はいつも入り口か受付のところで「来るな」と言って追い返されるけれど。
なにがゆずりの気にさわるのか、なにが不満なのか、どうして不機嫌なのか、僕にはなにも分からない。これまでもそうで、今もそうであり、これから先もそうなのかもしれないと思ってしまう。
兄妹は兄妹でも、ゆずりとは元々血の繋がりはない。三年前に突然引き合わされて、兄妹にさせられただけの言わば他人。望んだわけでもなく、僕かゆずり、どっちかの意志が働いたわけでもない。
相互理解などとはほど遠い関係だ。
三十分くらい経って、やはり気になって冷たい麦茶を出しにのぞいてみることにした。グラスを二つお盆に乗せて持っていくと、愛香がドアを開けて「ありがとう」と受け取った。その後ろではいぶかしげな目を向ける仏頂面のゆずり。
愛香が小さくウインクしたのを見て僕は少しだけ安堵した。有力情報を得たか、あるいは順調に話が進んでいるのだろう。
密室でどんなふうに話が進んだのか分からないけれど、とにかくその後、愛香はゆずりの部屋から出て来た。なにか収穫があったという顔ではなくて、肩の力が抜けたような、穏やかな顔をしていた。
「じゃあ、またね」と愛香がゆずりに手を振る。
僕は早く結果が聞きたいのを我慢して、愛香と一緒に靴を履いて玄関を出た。ドアを閉めて外付けの階段を降り、振り返ってゆずりが付いてきていないのを確かめて、ようやく切り出した。
「カウンセリング、どうだった?」
「ばっちり」
隣を歩く愛香は言葉を選ぶように少し間を置いて、話し始める。
「聞きたいことは全部聞けたんだけど、実はちょっと問題があって」
「 問題って?」
愛香は立ち止まって、がばっと頭を下げた。
「ごめんこうちゃんっ。私、ゆずりちゃんと約束しちゃったんだ。こうちゃんには話さない、って」
「えええっ!? 何それ。なんでそんな約束しちゃったの」
愛香は手のひらを顔の前で合わせた。
「仕方なかったの。そういう条件でなら、全部教えてくれるって言うから。とにかく私はこうちゃんに教えられないの。役に立たなくてごめん……」
本当に申し訳なさそうに何度も謝る。
そんな約束、こっそり破ってもたぶんバレない。だから話してよ、とは言えなかった。だってこれは愛香とゆずりの間の問題で、それを僕がどうこう言うのはおかしいし、もし愛香がそんな約束をしたことさえ隠して滔々と全てを語っていたら、僕は愛香を軽蔑したかもしれない。期待していた当てがはずれて、僕としては残念だけど、仕方がないことだ。
「うーん、ダメならダメであきらめるけど、これからどうしたらいいんだろう僕」
収穫ゼロの伸展ナシだ。ゆずりの拒絶がこれからも激しさを増すと思うとそれだけで頭痛がしてくる。
「こうちゃん、私は今日ゆずりちゃんから聞いたことをなにも打ち明けられないんだけど、ヒントみたいなものなら、言っても約束を破ったことにならないと思う」
と愛香は言った。でもちょっと迷いとためらいがうかがえる。
「いや、いいよ。僕が未練たらしいのが悪かった」
「違うの、そういうわけじゃなくて。私も本当はゆずりちゃんの気持ちをこうちゃんに知ってほしいから」
「ゆずりの気持ちを、僕に……?」
愛香はこくりと頷いた。
ゆずりの気持ち。
あのひねくれ者が考えていること、思っていることを、僕なんかが理解できるんだろうか。
「世界中でこうちゃんにしかできないこと。ゆずりちゃんが求めているのは、そういうものなの。それが一番のプレゼントになると思う。今日、ゆずりちゃんが言ってたこと、思い出してみて」
それ以上愛香はこの話題に触れなかった。選抜試験のせいで今の今まで忘れていたけれど、ゆずりへのプレゼントを用意しなければならない。まだなににするか決まっていない。
僕にしかできないことってなんだろう。
小学校で一番の成績を取っても中学に上がればもっとすごい人たちがいて。描いた絵が入選しても、ずっと才能のある絵を描く人たちがいて。高校には、竜洞寺玲などという常識はずれの世界に生きている人がいて。こんな狭い学校という場所でさえ、僕は自分が特別だとは思えない。本当に「世界でその人にしかできないこと」ができる人なんて、数えるほどしかいないんじゃないだろうか。それこそ、玲のような人物だけ。
だから愛香が言っていることは、なにかの間違いか、僕を買いかぶっているかだ。ゆずりは今日も僕に罵詈雑言しか言ってない気がするし。
一体僕になにができるだろう。
それでも僕は一応悩んでみた。僕にしかできないことを探してみた。愛香にこれ以上聞くわけにはいかなかった。だけど分からないから、普通の方法でゆずりへのプレゼントを探し始めた。
バイト帰りに駅前のさびれ気味な商店街を歩いてみた。雑誌やインターネットで女の子の喜ぶものを調べてみた。
「もらってうれしいものと言えば、愛だ」
手嶋はそんな意味深なことを発表した。
「手嶋って彼女いるの?」たぶんいないだろうと思いながら僕は尋ねた。
「そう、あれはもう、五年くらい前の秋のことだった」
「僕の質問スルーしていきなり回想入るの!? それ僕が聞かなきゃいけないの!?」
ああ、もうすでに手嶋は遠い目をしている。
「木枯らしの吹きぬける寒い日だった。チョー寒かった。そりゃあもう、秋じゃなくて冬だったんじゃないかと思うぐらい寒くて、死にそうだった」
「そういうのいいから」
「俺は路上でギターをかき鳴らしながら歌っていた」
小学生の頃からすでにストリートで歌っていたとは驚きだ。手嶋病院の跡取り息子がなにしてんだろう。
「しかし誰も足を止めなかった。誰一人、見向きもせず足早に通り過ぎた! 俺は身も心も冷え切っていた。あらゆる希望を失いかけていたんだ!」
手嶋は声を荒らげたかと思えば、百物語をするようにささやいた。
「しかしそんなとき、一人の美少女が俺に声をかけてくれた」
「……なんて?」
「うせろ」
「すごいのと出会ったね」
「そして彼女は去っていった。俺はうせた」
「素直に言うこと聞いたの!?」
「もちろんだ。俺は彼女から愛をもらったんだからな」
「自信満々に言う根拠が分からないんだけど」
「『うせろ』は早く帰れという意味だ」
「まあ、そうだね」
「光太郎、そのあとなにが起きたか分かるか? いきなり土砂降りだぜ? あのタイミングで帰ってなけりゃ、どうなってたことか」
「そんなの偶然でしょ?」
「いいや、偶然じゃない。なぜなら『うせろ』ってのは、ダブルミーニングでもあるからだ。つまりだな? 『うせろ』というセリフは、『そんなのじゃまだまだダメだ。練習して出直して来い。そしてあなたがメジャーデビューを果たしたとき、私を迎えに来て』と解釈できる。俺の比類なき才能を見抜いた上での発言だったというわけだ」
「どんだけポジティブな解釈だよ!? そういうところは尊敬するよ!」
「プレゼントなんて考えるな、行動で愛を示せ」
「できるわけないでしょ! 相手は妹だよ!? しかも誕生日プレゼントだよ!」
「なんだ、そういうことか。しょーもないヤツだな。真面目に考えるなら、スイーツ、かわいい小物、キャラクター物、カバン、アクセサリー、現金……。そもそもどんな妹なんだ? 一回会ってみないことには……」
下心が透けているので会わせるのはなし。万が一、手嶋とゆずりがタッグを組んだら、もう僕の手に負えない。ゆずり一人でも扱いきれないのに余計な問題を増やすわけにはいかない。
ゆずりは一体何が不満で、どうしたら喜ぶのだろう。
幹線道路沿いのチェーンのレストラン。その厨房で泡立てたスポンジと皿を手に考える。
ゆずりが喜んだ姿なんて、愛香が来たときくらいしか見られない。面倒見のいいお姉さんみたいな愛香がいればそれでゆずりは幸せなのかもしれない。
帰ってきて「ただいま」を言っても返事はない。
ゆずりは居間でテレビをつけっぱなしにして寝ちゃっていて、風邪をひいたり体調が悪くなったりしないように毛布をかけてやる。寝ているゆずりは仏頂面じゃなく、純粋無垢のあどけない少女の顔をしている。
テレビを消そうと思ってリモコンを手に取り、画面に目が止まった。愛犬特集と題されて、飼い主さんが小柄な犬を抱きかかえ、頬ずりをしてみせた。『私が帰ってくると、車の音で気づいて玄関に走ってくるんですよ』
「ペットは……」
ひらめいた、と思ったがこれはダメだ。アパートでペットは飼えない。
ゆずりは僕も愛香もいない間、大部分の時間を一人でテレビを見て過ごしている。学校に行くのもまばらだから、あまり親しい友達もいない。だからこそ愛香を特別に慕っている。
ゆずりが今日も一人過ごしたこの部屋は、ひどくさっぱりしている。さっぱりし過ぎている。色あせた無地の壁、乾いた光を投げる電灯、特徴のないテーブルとカーペット、隅の角のところにたまったホコリが薄っすらと見える。物が少なくて、目を引くものもなくて、まるで誰も見向きもしない古い商店街みたいな寂しさで。
そうか。
ゆずりは寂しいんじゃないだろうか?
孤独なんじゃないだろうか?
あんな歳で一人ぼっちで他人同然の人間のうちに連れてこられて。
そうだ、確かあの日、愛香に「寂しかった」とかなんとか言ったような気もする。
ペットは無理だけれど、なにかゆずりの孤独を紛らわすものがあれば。
翌日には学校のパソコンにお世話になって、うってつけの物を探し出した。ちょうどクマダ・スクエアにも支店がある。値段はピンキリで、高いものはそれこそ新車なんかより高くって手が出せないけど、安いほうのならバイトを増やせばなんとかなる。
僕はパソコンのディスプレイに映る候補の中から、一つに絞り込んだ。これから稼がなければならない目標金額が決まった。
せっかく部活をやめたんだ。やってやる!
「僕が、クビ……?」
閉店後のレストランのホール。話があるから、と店長に呼ばれた僕は、突然回顧を言い渡された。
「どうしてですか。僕、なにかまずいことをしたんでしょうか」
「そういうわけじゃないんだがね」
店長は俯きがちで、しっかりと目を合わせてはくれない。机を挟んでパイプ椅子に座り、両手の指を組み、じっと視線を落としている。白髪の目立つ顔はいつにも増してくたびれて見え、苦しげな色が浮かんでいた。
「すまない。理由は言えないんだがね、とにかく今週限りにしてもらいたい。決定事項だ」
「そんなのおかしいじゃないですか」
僕は抗議したけれど、店長はそれきり黙りこんでしまう。
壁の丸時計がコチ、コチ、と無機質な音を刻む。
それ以上は尋ねても無駄だった。理不尽さに怒りが込みあげたけれど、追及しても店長の顔のしわが深まり汗が落ちるだけだった。
僕はあきらめて裏口からレストランを出た。
なぜ突然に、という思いと、来週からどうしよう、という焦りが半分ずつ渦巻いていた。
深い闇の中にぽつり、ぽつりと頼りなげな街頭の灯かりが浮かんでいる。どういうわけか人も車も、ネコ一匹さえ通らなかった。
「あら、お兄様」
そんな道で僕の前に不意に現れたのは竜洞寺玲だった。スカートの部分に斜めにひらひらのついたワンピース姿で、リボンつきの大きな帽子もかぶっていた。これでスーツケースを引いていたらハワイにでも行くのにぴったりの格好だと思ったけれど、彼女は特別じゃないときでもそういう格好をするのかもしれない。
「お兄様、明日は一緒に学校へ行きましょう? それからお昼ご飯は屋上のガーデンで、二人だけで」
こんな時間にこんなところでばったりと出くわすような相手じゃない。彼女は僕を待っていたに違いなかった。
「竜洞寺さん、うちのお店になにかした、なんてことはないですよね?」
予感だった。彼女はふっと微笑んだのを見たとき、予感は確信になった。
「嫌ですわお兄様、そんな怖い顔をして。一度お食事させていただいただけですのに」
まあ、あまり誉められたものではなかったですけれど、と彼女は付け加えた。
「僕のこと、そういうふうに呼ぶのはやめてほしいんですが」
「お兄様はお兄様ですわ」
僕のお願いを聞いてくれるつもりはないらしい。
「以前、あなたからもらった包みなんですが、困ります。受け取れません」
「あら、なんのこと?」
「昼休み、空き教室でのことです。愛香と手嶋も一緒にいました。そこで僕に、大金を渡しましたよね」
「そうだったかしらね」
「あんな大金、僕が持っているわけにはいかないです。あとで絶対に返します」
「もらっておけばいいのに」
と玲はつまらなそうに夜空を見上げた。
「どうして僕なんですか。あなたのお兄さんになりたい人だったら、いくらでもいるじゃないですか」
「あの方々はお話になりませんわ」
玲は三日月のように笑った。
「だって私欲の塊でしかないんですもの。その点あなたは献身的で、真面目で、打算では動いていない。妹がいるという意味で、お兄様としての経験も充分。理想的な、唯一のお兄様ですわ」
なにがおかしいのか、くすくすと小さく笑みをこぼす。僕はその三日月の唇の、怪しい光沢に目を奪われる。死んだように沈黙するこの街の街路樹も、雑居ビルも、信号機も、カラスも、人々も、あらゆるものに、すでに彼女の魔力が組み込まれていて、彼女の口づけ一つで、蘇りもすれば滅びもする。そんなバカげた想像を呼び起こす。
この人は、一体なにを考えているんだ?
冷たい闇が背筋に触れる。
「とにかく、お兄さんになるつもりはないです。僕に構わないでくれますか」
僕は彼女を残して家路を急いだ。
いつまでも彼女のくすくすが耳から離れなかった。
面接を四回受けて全部落とされた。履歴書を見せただけで、面接相手が不自然に動揺したこともあった。こんなふうには思いたくないけれど、学校周辺の飲食店やコンビニは竜洞寺グループの圧力が加わっているのかもしれない。
五回目の面接でようやく日払いの土木工事のアルバイトにありついた。これは自給が高くてなかなか良かったけれど、一週間もしないで突然「もう来なくていい」と言われた。理由を聞いても現場のリーダーは口を閉ざした。
ゆずりの誕生日が近づいていた。まだプレゼントを買うための目標金額には届かないどころか、このままアルバイトにありつけなければ生活自体が危うくなってくる。
竜洞寺に屈する気はなかった。なんとしてでも新しい仕事を見つけてやる。多少遠くたってどこへでも行ってやる。朝でも夜でもだ。自給が安いなら勤務時間を増やせばいい。僕は町を縦横に走り回り、引っ越しの荷物運びスタッフも、郵便局の手紙の仕分けも、本屋の店員も、なんでもやった。
その日も僕はいつクビになるか分からないバイトを終えて深夜に帰宅した。
驚いたことに、まだ灯かりが点いている。鍵は開いていた。
「ただいま……?」
そっと玄関に入ると、荒れたキッチンが目に入った。焦げ付いたフライパン、散らかった野菜の切りくず、コンロの周りには鍋が吹き出したのか、ベトベトしたものがへばりついている。松野さんは、来ればいつもきれいに掃除して帰るので、つまり今日は来なかったのだろう。
ゆずりのやつ、また出来もしないのに料理をしたのか。
どっと疲れが増したような気がした。片付けは明日の朝することにして、キッチンの惨状から逃避。居間へ移動する。ゆずりがテレビを見る姿勢のまま、膝を抱えて寝息を立てている。寝るときは自分の部屋のベッドで、といつも言っているのに。
僕はテーブルの上にある三つのお皿に目を留めた。スパゲッティの麺のみ、不恰好な野菜がごろごろした野菜炒め、具のない味噌汁?
麺は乾いて固くなってくっついてるし、どれも冷めちゃってる。ゆずりが作ったのだろうけど、これってつまり、僕のぶん?
いいやまさかそんなことは……としばし立ち尽くしてしまったけれど、事実そこに僕のぶんらしき夕食がある。こんなのゆずり以外に誰が作る?
眠っているゆずりは可愛らしい。邪気がなく、罵詈雑言も吐かなければ殺意も向けてこない。ただの、ちょっと線の細い、中学三年生の女の子だ。じっとその横顔を見る。陰影のせいかもしれないけれど、ここが吹雪の雪山の中の小さなコテージで、彼女はたった一人で救助を待っている遭難者のように見えてくる。
僕はゆずりの部屋に行って毛布を持ってきて、かけてやる。そうしたら僕もなんだか暖かな気持ちになった。
テーブルの上にあった夕食をレンジで温めなおして食べた。見た目よりはおいしい。味がなにもついてなかったから、塩を振ったのだけど。食べながら明日の授業とか宿題とかのことを考えていて、壁に画鋲で刺してあるカレンダーを見て、もうゆずりの誕生日が明後日に迫っていることに気づいた。最近はバイトばかりで家に帰ればすぐ寝てしまうような生活だった。ゆずりとの会話も、もともとあってないようなものだったけれど、減っていた。
嫌われていないといいんだけど。
それから、プレゼント、喜んでくれるといいな。
僕はいつの間にか、ゆずりの隣で眠っていた。
「ごめん!」
僕が大急ぎで帰宅したときテーブルの上には二つのケーキ――僕と愛香で用意したのと、松野さんが持ってきたのとで二つ――が並んでいた。すでに吹き消されたロウソクがかすかな残り香を漂わせている。
結局、なんのサプライズもなく、平凡なお誕生日会になったけれど、当初の予定と違うことが二つ。僕がバイトのせいで遅刻したことと、松野さんが参加してくれたことだ。招待したわけではないけれど、松野さんはちゃんとゆずりの誕生日を知っていて、ケーキを持ってやってきた。
「こうちゃん、遅いよ。でもいいタイミング。もう食べちゃおうかと思ってたところなんだから」
愛香が僕に着席するように促し、松野さんが会釈した。
「お邪魔しています」
愛香と松野さんの間で、ゆずりは僕にとがめるような視線を向けていた。
「あいつにはケーキなし」
「まあまあゆずりちゃん。これ、こうちゃんと私の二人で選んで買ってきたんだよ。チョコ好きでしょ?」
「うん、大好き。ありがと愛香と松野」
僕も頑張ったんだけど……。僕にはなぜかじーっと非難の視線をくれるだけ。
遅刻した理由は二つ。バイト先がだんだん遠いところになって、それに伴って移動時間もかかるようになっていたこと。近場でバイトを見つけても、何者かの力が働いてすぐにクビにされるのだ。どちらが先に根を上げるかの戦いだった。
もう一つはプレゼントの準備に手こずったのだ。
「ごめんゆずり。本当にごめん。遅れたけど、誕生日おめでとう」
ゆずりは不貞腐れたようにそっぽを向いた。超機嫌悪い。大事なときにしくじった。
僕は助けを求めて愛香と松野さんに目配せする。
「さあさあ、こうちゃんも帰ってきたことだし、ケーキ食べよっか。わたし切っちゃうね」
「ゆずり様、飲み物はなににいたしますか」
「ん、りんご」
愛香と松野さんが気を利かせて動く。僕はようやく腰を降ろして松野さんから炭酸の入ったグラスを受け取った。ささやかな誕生日会が始まった。
「ゆずりちゃん何歳になったんだっけ?」
「十五」
「もう大人だねー! 来年は高校生だし」
『大人』『高校生』という響きに反応して、心なしか誇らしげに背筋を伸ばすゆずり。
「まだまだ性格は子供っぽいけどね」
あと体もちっちゃいけれど、それは言わないでおく。
「うるさい」
すかさず鋭い殺意が僕に向けられた。
「ゆずり様、お口にクリームが」
「自分でふくから!」
松野さんが伸ばした手からティッシュを引ったくって後ろを向き、口をふいている。
「これからはゆずりも立派な大人の心得を学んでいかなきゃな」
「ふん、松野が教えてくれるもん」
「ええ、まずはおへそを出して寝ないことです」
「松野ぉっっ! バカにしてるでしょ!?」
ゆずりは赤面して涙目で松野さんをぽかぽか叩く。温かな笑みがこぼれた。
ケーキがおおかた四人の胃袋に収まったころ、僕と愛香は互いに目を見合わせた。本当はゆずりがロウソクを吹き消したあと、ケーキを食べる前にプレゼントを渡す予定だったのだけど、僕がいなかったから愛香が気を利かせて後にしてくれたのだ。
「はーい注目! ここで私たちからゆずりちゃんにプレゼントがあります!」
愛香が高らかに宣言し、ゆずりが期待に目を輝かせた。
愛香はカバンから手のひらサイズの箱を取り出した。
「私からはこれ。ゆずりちゃん、お誕生日おめでとう」
「あ、ありがと愛香」ゆずりは泣きそうな顔をしている。「開けていいの?」
「うん、開けて」
ゆずりは小さな箱の形を崩さないように、丁寧に蓋を開けた。箱の中にはキラキラと光るものが収められていた。
「かわいい。これってブレスレット?」
「うん、そうだよ。おしゃれして一緒に出かけたいなー、と思って」
ゆずりは手に取ってまじまじとそれを眺めた。それから思い付いたように自分の手首につける。ハート型に加工された銀色のチェーンが連なり、淡いピンクの宝石がひとつ、優しげにきらめいている。
「愛香、ありがとう。大事にする」
次に松野さんがきれいにラッピングされた包みを渡した。平べったい。松野さんからもプレゼントがあるなんて、僕も愛香も予想していなかった。
「わたくしからはこちらを」
ゆずりはありがとう、と言って受け取る。
「開けていい?」
「どうぞ。お気に召すとよいのですが」
包装を解くと可愛らしい水玉模様があらわれた。透明のビニールを剥がしてゆずりは立ち上がり、それを広げた。エプロンだった。紺色の地に白の水玉模様。いつも淡い色のパジャマしか着ないゆずりが着たところを想像すると、新鮮だ。
「わあ、松野、ありがとう」
ゆずりはぎゅっとエプロンの布を握り締めた。
「ええと、じゃあ、最後に僕から……」
と切り出すと、ゆずりの微笑みがさっと引いていつもの仏頂面になった。無言のプレッシャーをひしひしと感じる。
僕はおもむろに立ち上がって皆に背を向け玄関へ。プレッシャーから逃げたのではなく、僕のプレゼントは玄関に置いてあるのだ。かなり大きいので宅配便で送ってもらう予定だったけれど、資金が足りなくて、今日の誕生日会に間に合わせるために自分で運んできた。一旦ここに置き、愛香と松野さんの協力を得て、ゆずりを近づけないようにしてもらったのだ。
持って帰るのはひどく大変で、そのせいで遅刻もした。しかも人目を引いて恥ずかしかったけれど、ゆずりが絶対に驚くという自信がある。僕は自分の腰ほどもある『それ』を抱きかかえ、周りにぶつけないように運ぶ。
居間ではぽかんとした顔の三人が待っていた。
「これが僕からのプレゼント!」
「でかっ!」と愛香がもらした。僕はゆずりに渡した、というよりそばに置いた。
僕のプレゼントは大きなクマのぬいぐるみ。特大のテディベアだ。どうしてもこの味気ない部屋に、ゆずりの話し相手を作ってやりたかった。この部屋はゆずりが一人で日々を過ごすには広すぎる。だから大きな大きなこいつじゃなきゃダメだった。
ゆずりは自分より高い位置にあるテディベアのつぶらな瞳を、しばし呆然と見上げていた。そして彼の手を握り、肌触りを確かめるように優しくなでなでし、もう一度目を合わせた。それから僕を見て、しかしすぐに目を逸らし、「ありがと」とかすかな声で言った。
「ゆずり、誕生日おめでとう」
ゆずりはこくんと頷いた。目は合わせてくれなかったけれど、なんだかその頷きだけで全部通じた気がした。少しは喜んでくれたみたい。僕はすごく充実した、さわやかな気分だった。
「それにしてもおっきいねー、この子。ゆずりちゃんよりおっきいんじゃない?」
「腹が出てるからね」
と僕が言う。
「デブみたいに言うな」
友達をけなされた、という剣幕でゆずりが僕にかみつく。
「これ、こうちゃんが一人で運んできたの?」
「まあ、ね」
「わたくしに連絡してくだされば、車をお出ししましたのに」
松野さんはそんなことを言っているけれど、そんなにお世話になるわけにはいかない。ただでさえバイトで留守が多い僕に代わってゆずりの面倒を見てもらったりしてるんだし。
ゆずりはテディベアの背中に手を回して、抱きしめた。ふわふわの茶色い毛並みに頬をすり寄せる。僕たち三人はそれを見守っていた。ゆずりは小さくて、そして孤独だ。僕は少しだけ胸が痛かった。
「いいな、ゆずりちゃん! 私にももふもふさせて」
「ん」
とゆずりは頷いて愛香と交代する。愛香がぎゅっとテディベアを抱きしめるのを眺めていた。なんだか愛香がそれ以上のことをしないように見張っているようにも見えた。
幸せな時間が流れた。僕らはおしゃべりして笑ってジュースを飲んで、また笑い合った。この世界から切り取られたような小さな部屋は、相変わらず物が少なくて寂しい部屋だけれど、ぬくもりで包まれていた。ゆずりはテディベアをクッションにして終始そこから離れようとしなかった。体調もよく、ころころと表情を変え、しゃべった。
そうして終わりの時間がやってきて、松野さんと愛香は食器を洗い、僕はゴミを片付けてテーブルをふいたりした。ゆずりもなにか仕事をすると申し出たけれど、主役がするような仕事はなく、僕がテーブル周りを片付けているのを残念そうに眺めていた。それでいつの間にか眠ってしまっていた。
キッチンを片付け終わった二人が戻ってきて、テディベアに体を預けて小さく寝息を立てているゆずりのそばに集まった。
「ゆずり様、今日は疲れたのでしょう」
「はしゃいでましたもんね。さて、じゃあ私はおいとましようかな」
「では、わたくしも。あとは光太郎様にお任せしてよろしいでしょうか」
残っている仕事といえば、ゆずりをベッドに連れて行くことくらいだ。
「はい、大丈夫です。松野さん、今日はありがとうございました。愛香もありがとう」
「ゆずりちゃんのためだもの。喜んでくれてよかったね」
「うん、ほんとに感謝してる」
「来月はこうちゃんの番だね」
「もちろん光太郎様の誕生日もお祝いさせていただきます」
二人がそんなこと言うので、僕は気恥ずかしくなって「別にそんな、いいですよ」と言った。
「じゃあこうちゃん、また学校でね」
「光太郎様、おやすみなさい」
「うん、またね。おやすみ、気をつけて」
手を振って二人を見送り、部屋に戻る。人類最後の夜みたいに、静けさが際立つ。ゆずりはまだ眠っている。
起こすのは気がひけるけれど、僕はゆずりの肩をゆすりながら声をかけた。
「ゆずり? またこんなところで寝ると風邪ひくよ」
「ん……」
みじろぎして顔を背ける。もう一度ゆすると、眠そうな目を開けた。「ギター……」
「え? ギターがどうしたの?」
「…………」
ゆずりの視線を追うと、いつも僕がギターを立てかけていたあたりを見ていた。彼女の鋭さに僕は内心驚き、打ち明けた。
「うん、もう部活やらないから、売っちゃったよ」
「…………」
「ほら、自分の部屋のベッドで寝なきゃダメだってば」
ゆずりは横になったままで頷いてみせたけれど、分かっているんだか。よほどテディベアを気に入ってくれたのか、頬を押し付けたままもぞもぞ身じろぎするだけで起きる気配はない。
「ほら起きて。部屋に持ってってあげるから。これからはこいつが僕の代わりだと思えば、一人でも大丈夫でしょ?」
僕がテディベアを持ち上げようとすると、ゆずりは抱きついたまま首を振って拒否する。
「ゆずり?」
ゆずりは一際強くぎゅっと握り締めて、離すまいとしているように見えた。まるで遠い外国への船に乗り込む家族に、別れを惜しむかのような。押し付けたままの顔は長い髪にも隠れている。
「どうしたのさ? 苦しいわけじゃないんでしょ?」
ゆずりは曖昧に頷く。
「じゃあ、早く寝よう」
「寝ない」
僕はいつだってゆずりの我がままが理解できなくて途方に暮れる。ゆずりはなにも語ってはくれない。短い言葉を吐き捨てるだけだ。
「なんで? そんなこと言ってるとまた体調悪くなるよ」
肩に触れた瞬間、ゆずりは「イヤ!」と声を荒らげた。
僕を見ず、首を振って拒否を示し、テディベアをありったけの力でつかんで抵抗している。そうやって力いっぱいつかんでいないと、消えてしまうとでも言うように。
僕は手を離し、ため息を吐く。こうなってしまってはもうなにもできないと思った。
「早く寝なよ? 僕は先に寝るから」
「ダメ」
「ダメって言われても、明日だっていろいろあるんだから」
「ダメなの!!」
ゆずりはイヤイヤをするように何度も首を振る。そんな無茶苦茶な。
「我がまま言ってないでちゃんと寝ること。電気も消すよ? おやすみ」
僕は自室に戻ってベッドに横になった。ゆずりはちゃんと部屋に戻っただろうか。それから、去り際にゆずりが言った言葉は、僕の聞き間違いではなく、彼女の本音なのだろうか。
「『こんなのいらなかった』か……」 聞き間違いならいいのに、と僕は何度も思った。それは僕の胸に突き刺さって、なかなか眠らせてくれなかった。
僕が起きたとき、居間ではあのテディベアだけが行儀よく座っていた。ゆずりは何時に寝たのだろう、とぼんやり歯をみがいていると、キッチンのほうから物音がすることに気づいた。
まさかこんな早朝から松野さんが来ているとは考えにくい。だとすれば他にこの家にいるのは一人しかいない。まさかとは思ったけれど、僕はキッチンへ足を向けた。
果たしてゆずりが立っていた。昨日松野さんからもらったエプロンをつけて――紐がちゃんと結べてないけど、危なっかしい手つきでフライパンを振るっている。
「ゆずり、なんで料理なんか」
僕が呼ぶと、ゆずりはびくりと身をすくませた。いつもなら寝ているはずの時間だ。
「朝ごはん作るの」
見れば鍋では味噌汁らしきものがぐつぐつ、フライパンではキャベツやらニンジンやらモヤシやらの野菜に卵を絡めたものがジュージュー言っている。相変わらずニンジンの皮やらフライパンから飛び出たモヤシやらで周りは汚れているし、包丁やらキャベツの残りやらがごちゃごちゃっと散らかっている。
「いつも僕が作ってるじゃないか。昨日は何時に寝たの? 今日起きたのは? ちゃんと寝た? うわ、焦げてるよ! こんなに火強くしなくても平気だってば。ほら、どいて。僕がやるから」
鍋とフライパンの火加減を調節するためにゆずりを下がらせようとするけれど、ゆずりはどこうとせず、頑としている。
「自分でできる」
「全然できてないじゃん」
「うるさい! 松野に教わったの! 分かってるの!」
「だったらこんなことにならないって」
僕は野菜クズの中からサイコロ型のニンジンを拾い上げて、ぼやいた。
「し、仕方ないの! どっか行け!」
かなり不安だったけれど僕はほとんどなにもせず、後ろに下がった。一応、火だけは弱めたから、すべて黒コゲになるのは避けられるだろう。でも周囲は散らかったゴミやら出しっぱなしの調味料やら道具類やらでひどい状況だったので、耐えられなくなった僕はそれらを順に片付けていく。不機嫌なゆずりが僕の行動を逐一観察している。
二十分ほどして、
野菜炒めも味噌汁もちゃんと食べられるものだったけれど、炊き上がったご飯はベチャベチャしていた。
僕は「うん、もう一息かな」とか「これは悪くないんじゃないかな」とか言ってみたけれど、ゆずり自身口に入れてみて、出来栄えに納得できなかったようで、相槌の一つも打ってくれない。
「でもなんで急に朝ごはんなんて作る気になったの? そんなにエプロンもらったのがうれしかったの?」
ゆずりは首を振った。うつむいたまま無言。こうなってしまえば、僕はもうこれ以上ゆずりに近づくことができない。いつもそうだったように、これからもずっと僕らの関係はこうなのだろうか。それでいいのだろうか。
僕は「ごちそうさま」と言って自分の食器をキッチンへ運ぶ。ゆずりは食べるのが遅いから、まだ食べている。制服に着替え、今日の持ち物チェックをしているとき、呼び鈴が鳴った。
「どちらさまですか」
「わたくしですわ、お兄様。鍵を開けていただけますか」
って、竜洞寺玲!? まさかというか、ついにというか、直接家まで押しかけてくるとは。
僕はなんだか怖くなった。簡単にドアを開けてはいけない気がした。
「こんな朝からなんの用ですか?」
僕はドア越しに尋ねた。
「嫌ですわ、そんな質問をして」竜洞寺玲の芝居がかった声。「まずは、おはようございます、お兄様」
「僕にはもう構わないでって言いましたよね?」
「ええ、聞きましたわ。でもわたくしはそれを了承したわけでもないですし」
「それ言ったら僕だって兄になることを了承してないからね!?」
「じゃあお互い様ということですね」
「ぜんぜん違う!」
「ところでわたくし、お兄様のお顔を見ながらお話したいんですけど」
「僕はこのままでいいです」
「あらそうですか。ところでアルバイトのほうは順調ですか?」
「なにも問題ないです」
強がりだった。本当は今の仕事がいつクビになるか心配だった。
「目的はなんですか? そんなことを確かめに来たわけじゃないですよね?」
「ええ。今日はお迎えにあがったんですわ。兄妹は一緒に登校するのが当然ですもの。さあ、学校に行きましょう?」
「あの、僕、今日一緒に学校行く約束でもしてましたっけ?」
「してないですわ」
「ですよねー。じゃあ僕のことなんて待ってないで行っていいですから」
「いいえ、待ちます。もうお兄様と一緒に登校すると決めましたので」
「いやいやいや。そんなこと言われても僕はする気ないよ!」
「わたくしはここで待ちますわ。お兄様が出てくるまで、今日一日ずっと」
「それストーカーだから! それに近所迷惑だから!」
僕が大きな声を出したからだろう。ゆずりがやってきて「誰?」と尋ねた。「愛香? 松野?」
「違う違う誰でもない。ゆずりには関係ないから。とにかく帰って! じゃ、さよなら!」
僕はゆずりの背中を強引に押して、居間に戻った。ゆずりが不審がっている。
「あんた、なに隠したの」
「別になにも。ただの宗教勧誘だよ」
「じゃああのすごい車はなに?」
窓の外を指差すゆずり。アパートの前の道には平穏な住宅地には不釣合いすぎる黒のリムジン。その圧倒的すぎる存在感が僕に頭痛をもよおす。
「い、いやあ、なんだろね。新型のバスかも」
僕は窓を閉めた。ゆずりが窓を開けた。
「じゃああの馴れ馴れしい人たちはなに?」
リムジンから黒服にサングラスの屈強な男たちが五人六人と出てきて、僕らを見上げて手を振っている。なに考えてるんだ!?
「あれはそう、たぶん映画とかドラマとか撮ってるんじゃないかな!」
「カメラは?」
「素人には分からないところにあるんだよ」
「光太郎殿! ご無事ですか?」「光太郎殿! 先日は申し訳ありませんでした!」
黒服たちが口々に「光太郎殿!」と僕を呼ぶ。僕は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あんたのこと呼んでるけど?」
「そ、空耳、じゃないかな?」
「ていうか『殿』ってなに」
「たぶん僕もゆずりもまだ寝ぼけてるんだよ!」
こんな住宅地の真ん中で自分たちのビジュアルと言動が周りからどう見えるか、考えてほしい!
僕はカーテンを閉めて最悪の現実をシャットアウトした。かなり手遅れだけど。
「誰が来たの? あんたなに隠してるの」
「いや、だから全然どうでもいい人なんだってば」
「だったら教えて」
「ゆずりに教えるほどの人じゃ……」
「教えろ」
ゆずりがすごむ。
「ゆずりには本当に関係ないから。知らなくていい! この話は終わり! さあ学校行く準備しよう!」
ゆずりのイライラがだいぶ溜まっている。汚らわしいものを見る目で高圧的に僕をにらんでいる。この場にハサミ一本、竹串一本でもあったら、なにをされるか分かったものじゃない。
僕を救ったのはチャイムの音。またかよ、と思うよりも今はこの場を離れられるのがありがたかった。
「大丈夫、僕が出るから。それから学校も行ってくる。じゃ、ゆずりも元気だったら学校行きなよ?」
「ちょっとー!」
ゆずりの手をひらりとかわし、カバンを引っつかんで僕は外へ飛び出した。制服姿の竜洞寺玲と、その後ろに白髪の老紳士が立っていた。のんきにお辞儀をする老紳士を無視して僕は怒鳴った。
「ホント困るってば! ご近所さんがびっくりするよ!」
「なんのことを言ってるのかしら? とにかく行きましょう」
玲が「お兄様」と囁いて僕の手を取る。
「ねっ? 早く」
いい香がして……、だけど僕は反射的に手を振りほどいた。
「一緒に行くとは言っていないです」
「一緒に行ってくれないのなら、わたくし、ここから一歩も動きませんわ」
いったいなんなんだ、この人は!?
僕はもうすべてが面倒になって言い捨てた。
「だったらもう一日そこにいればいいよ!」
「誰? そこにいるの?」
と家の中からゆずりの声と足音がして、とっさに竜洞寺玲の手をつかんだ。
「分かったから! 今日だけ一緒に行ってあげるから、早くこっち来て!」
階段を駆け下り、道に出て黒服たちが待機していたリムジンに乗り込む。隣には竜洞寺玲。
「早く出発して! 早くしないとゆずりが来る!」
こうして僕は初めてリムジンで竜洞寺玲と登校した。
この迷惑きわまりない、そして腹の底の知れない令嬢は、しかし大人しく座っていればこの上ない美人で、アイドルか映画女優みたいで、僕は正直ドキドキしっぱなしだった。彼女が僕の膝の上に手を置いてくるものだから、そこへ意識が集中しないようにするのに一生懸命で、途中でなにをしゃべったかなんて覚えてないし、どの道を通ったのかも分からない。気づいたら校門の前で降ろされて、生徒や通行人の注目から逃げるように一目散に昇降口を目指していた。たぶん玲は車の前に置き去りだっただろうけど、いまさらそんなこと気にしていられなかった。
教室の自分の席に座って、ふっと大きく息を吐き出した。
「今朝、植月が竜洞寺玲の車から出てきたぞ!」と誰かが吹聴した。「なんだと本当か!?」「まさかもう玲様と禁断の関係に!?」「なんてうらやましいやつだ!」殺到してきた男子どもの妄想と誤解を粉砕するのも途中から疲れてしまって、チャイムが鳴るまで僕はもみくちゃにされた。
授業が始まってようやく落ち着いた時間がやってくると、僕はあることに気づいた。
自分の手に、白の封筒が握られていた。
いつの間に拾ったのだろうと思って、中をちょっとのぞいてみると、それは一万円札の束だった。僕はそれを持っていること自体が重罪であるかのようにビビって嫌な汗をたらしながら、しかし素早く机の中に放り込んだ。
なんだこれ、また大金だ。
きっとこれも、竜洞寺玲なのだ。
授業にこんなに集中できなかったのは初めてだった。大金の入った封筒は誰にも見られないようカバンに押し込んだけど、生きた心地がしない。犯罪者になってしまった気分だ。
昼休みになって教室がざわめいた。竜洞寺玲が来たのだ。迷惑なことに、どんどん積極的になっている。
「お兄様、一緒にお昼ご飯を食べましょう?」
最初は無視していた。でも男子の嫉妬や冷やかしが鬱陶しく、女子たちがあからさまに不機嫌になり、教室の空気が尖ってきた。目に見えないなにかがドロッとしたものが教室に充満していき、チクチクと背中をつつかれるみたいで、息苦しさに耐えられなくなって僕は席を立った。
わき目も振らず教室後方のドアを抜けると同時に悪魔の白い手を取り、ずんずん歩いた。
「お兄様ってば、積極的」
なんて玲は照れたような調子で言っているけれど相手にしない。
「いいから速く歩いてよ!」
誰にも見られていないのを確かめてから図書室のドアを開けて中に滑り込んだ。カウンターの前を通り、奥へ奥へ。
読書をしている生徒がぽつぽつと座っているけれど、ちょっと顔を上げただけでまた本に目を落とした。ここには僕らをはやし立てたり嫉妬に狂うような人はいない。それが救いだ。
一番奥の隅の書架の陰に隠れて、僕は小さな声で怒った。
「僕に付きまとわないでって言ったじゃないですか! それに前も言いましたけど、あんなものもらっても困ります!」
「あんなものとは、なんのことでしょう?」
玲がとぼけた顔をしたので「封筒です!」と語気を強めた。直後僕は「あっ……」と嫌なことを想像した。
封筒は今、教室のカバンの中だ。なんで僕はあれを置いてきてしまったのか。玲に返すチャンスだったじゃないか。もし誰かが悪ふざけで僕のカバンを開けたら? 誰かがぶつかってカバンが落ちて、札束が床に散らばったら? ちょっとした事件になりかねない。
自宅の机の引き出しにいれてある、もう一つの包みのことも頭を過ぎった。今朝、あれを返してしまえばよかった。とにかく一つでもいいから、返せるものを早く返さなければと思う。
「ここで待っててください。すぐ戻りますから」
「わたくしも行きますわ」
「ダメです、ここにいてください絶対動かないで。お願いだから」
「わたくし、おなかがすきました」
「僕の話聞いてる!?」
僕は泣きそうになった。
そしていきなり僕の心臓は跳ねた。
「なななっ、なに!?」
玲が僕にもたれかかってきたのだ。書架と書架の間の、すれ違うのも厄介なほどの狭いスペースで、僕らは密着した。いやまあさっきまで彼女の手を握って引っ張っていたのだけど、それとこれとは大きな意味的隔たりがあるわけで。厚さ数ミリの制服の布ごしにひしひしと伝わってくる玲の体温と、やわらかさ。ほのかな香水の香りが鼻腔をくすぐり、僕の頭は混沌とする。
「せっかくの二人だけの時間を楽しみましょう?」玲が上目遣いで僕を見る。顔が近い近い近い!
「ね? お兄様の分のお弁当もちゃんとありますから」
確かに玲は無駄に大きな弁当箱らしき包みを持っている。
「い、いや、弁当じゃなくて、それよりお金だよ! 全額返すから」
「そんな必要ないですわ」玲は僕の首筋にその綺麗な指をはわせる。「今朝のお礼はお兄様への正当な報酬なんですから」
「う、あ、あんな大金、正当なわけないよ! 僕はなにもしてないのに」
「これからのぶんも含めた前払いですわ。あれはもう、お兄様のもの」
玲はいまや片足を僕の両足の間に踏み込み、絡み合うように密着度を高め、どう考えても不順異性行為をはたらいている図にしか見えない状態となっていた。
「わたくしにとって、お兄様の価値は、本当はあんなものじゃないですわ。お金を超えるもの。だったらどんな大金を受け取ることも、充分正当。当然でしょ? 人間の価値って、そういうものじゃなくて?」
人間の価値がお金なんかで釣り合うものではない、というのは同意できる。家族、友達、恋人――そういう存在をお金で手に入れることができたら、いくらでも支払うという人もいるだろう。逆に、いくら大金を積んでも本当の意味で手にいれることのできない存在でもある。
だけど僕は納得できない。「なんでそんなに僕を……。僕には妹がいるから、あなたの妹にはならないって言ってるのに」
「わたくしにはお兄様が必要だからです」
「説明になってないよ、やっぱり」
「お兄様」
玲が僕の胸に顔をうずめた。心臓の鼓動の速さを嫌でも意識してしまう。いろいろマズイ。理性とか、そういうのも含めて。僕は動けない。
もし誰かが来たら言い訳できない。
そのままどのくらいの時間が経ったか。
幸い誰かが僕らを目撃してしまうことはなかった。玲が僕から離れたとき、図書室は静謐な時間の流れを保っていた。
「わたくし、おなかがすきました」
玲が呟いた。彼女は足元に置いてあった包みをテキパキと解いていく。高価な着物にでも使われそうな包みから漆塗りの弁当が現れて、ふたが開けられるまで、僕は黙って彼女の動作を見ていた。
図書室が飲食禁止だということは知っていた。だけど僕らは結局、そばにあった小さなテーブルを引き寄せてその上に昼食を並べて、立ったまま食べた。
デパートの高級食材をなんでも詰め込んだみたいな豪華なお弁当は、やっぱり味がしなかった。
「お給料はあとでちゃんとお支払いしますわ」
弁当のふたを閉じて包み直すと、玲が言った。
「前払いって言うなら、これ以上払わないでください。それに、こんなにすごいものご馳走になったんだし」
「お兄様は謙虚ですわね」
「生きてる世界が違うだけです」
僕らは書架の森から出た。カウンターの時計は午後の授業開始十分前を示していた。
「明日のお昼も迎えに行きますわ、お兄様」
去り際、彼女が言った。
「お願いだから、構わないでください……」