「誰?」
ドアの向こうから、ナイフのように鋭いの声が返ってきた。
「お嬢様、わたくしでございます」
「入りなさい」
「失礼いたします」
銀二はそっとドアを引いて、タキシードをまとった長身痩躯を滑り込ませた。
部屋の主――竜洞寺玲は文机に座り、ノートパソコンを叩いていた。
「用事がなければ殴るわ、銀二」
玲は執事のほうを見ずに言った。
銀二は老体の背筋をふっと伸ばしたかと思うと、主人のそばで膝を突き、こうべを垂れた。
「ではお殴りくださいお嬢様。その神のごとく美しき御手にて」
「あいかわらず暇なようねっ!?」玲は作業を止めてわめいた。「確か温泉掘るんじゃなかったかしら?」
「ご冗談を。ホッホッホ」
執事は姿勢を正し、相好をくずした。
「ところでお嬢様、本日の学校生活はいかがでしたか」
「どうもないわ」玲はうっとうしそうに答える。
「充実しておりましたか」
「別に」
「お友達は……」
「いらないわ、そんなもの!!」いきなり玲が怒鳴った。
「そんなことございません、お嬢様。お友達は、素晴らしいものでございます。お嬢様、本日のお昼ご飯はどちらで、どなたと召し上がりましたか?」
「わたくしが、どこで誰と昼ごはんを食べるのも勝手でしょう!?」
「もちろんでございますとも。では、本日の体育、女子はテニスとうかがっておりますが、ダブルスをする際はどなたとペアをお作りになりましたか?」
「先生とよっ! 文句ある!? あんた知ってくるくせにいちいちわたくしに言わせるなんて、どこまで性格悪いのよ!?」
銀二はポケットからシルクのハンカチを取り出し、メガネを押し上げて涙をぬぐった。
「嗚呼! なんと嘆かわしい! お父様の学生時代をご存知ですか? それはそれは人望厚く、周囲には常にお友達があふれ……」
「その話は五百回聞かされたわ! あんたボケてんじゃないの!?」
玲が歯軋りして激昂した。
「一体なにが不満なのよ!? ちゃんとお兄様を募集してるでしょ!? 来月にはわたくしも周囲がうらやむようなランチタイムを過ごしてるわ」
「失礼ながら申し上げますが、お友達と兄妹は、別の種類のものかと」
「それがなんだって言うの!?」
「仮に来月からお兄様をお雇いになったとしても、体育の授業は男女別。準備運動のとき、お嬢様がぼっちになるのは必至でございます」
「うぐっ……」と玲は唇をかんだ。
「わ、わたくしは、あんな欲望丸出しのうっとうしい男子どもや、ギッスギスドロドロしためんどくさい女子どもなんかとは、絶対に友達になんてなれませんわ。みんな子供で阿呆で面白くもない……」
銀二は懐から手鏡を取り出すと、玲の顔の高さに持った。
「お嬢様、ご覧ください」
「なによ」
「鏡に映るお嬢様の顔は、どんなご様子ですか」
「普段のわたくしの顔よ! あんたなにが言いたいわけ?」
玲は鏡をはりとばした。カーペットの上に落ちた鏡を、玲はいらだたしげに踏みつけた。
「嗚呼、小生は鏡になりたい――おっと失礼、これは心の声でございました」銀二は咳払いを一つ。「この老いぼれが申し上げたいのは、つまり人は鏡であるということでございます。そのように周りの生徒たちを小馬鹿にし、強張った恐ろしいお顔をしていては、クラスメイトたちも寄ってまいりません」
「うるさいわ! わたくしは生まれつきこういう顔よ!」いまや玲は銀二の胸倉をつかんでいる。
「そんなことありますまい」
老紳士は苦しそうな素振りを見せることなく、続けた。
「その画面の中でほほえむ少女のような時代があったことを、この銀二の失われつつある脳細胞が、しかと記憶しておりますゆえ」
「黙れ死にかけ!」玲は激昂して、銀二を投げ捨てた。ノートパソコンを机から叩き落して雷のような破壊音を響かせ、部屋を出て行く。ドアは大砲のような音とともに閉じられ、沈黙した。
静寂に包まれた玲の部屋に、老紳士の痩躯が横たわっている。
真っ二つになったパソコンのディスプレイだけが、彼のそばに転がっていた。そこには薄っすらとほほえむ少女の写真が映し出されている。線が細く、儚げな印象の少女。肌は青い血管が浮き出るほど、白く透き通る。
画面には簡単なプロフィールも表示されていた。
町田ゆずり
ブラッドベリ・ケルセン症候群を発症。未だ原因も治療法も不明、100%の患者が二十歳までに亡くなっている。
***
僕はその週のうちに職員室に退部届けを持っていった。一応理由を聞かれたものの、あっさりと受理されて拍子抜けだった。なんとなくこういうとき顧問の先生は生徒を引き止めようとするものだとばかりに思っていたためか、どこか現実感が乏しかった。
放課後は真っ直ぐに帰宅した。バイトの時間まで余裕がある。今のうちに家事と宿題をやっておけばバイトから帰ってきてすぐに寝られるな、などと計算するのは、もうほとんど無意識でのことだ。
「ただいま」
「おかえり」とゆずりが答える。ゆずりは座椅子に背中を預けてドラマを見ていた。刑事のシリーズものだ。胸にナイフが刺さって絶命した老人が、西洋風の部屋に横たわっている。ゆずりがごくりとつばを飲み込んだ。相変わらずこっちを見ようともせず、そっけない言い方だったけど、これでもずいぶん機嫌がいい。
「学校はどうだった?」と僕は尋ねる。
「午前だけ」
「そっか」
自分で行って帰ってこられるだけいい方だ。体を起こしてテレビを見ていられるのも。
報告を聞いたところで僕はさっそく家事に取り掛かることにした。まずは洗濯物を取り込もうと南側の窓を開ける。
ドラマの刑事は遺体の隣にしゃがみこんで割れたメガネを調べていた。
「最近、帰りが早い」
テレビ画面を食い入るように見つめながらゆずりが言った。
「軽音部やめたからね。これからずっと早いよ」
「なに考えてるの?」
ゆずりは喜ぶだろうと予想していたのに、なぜか声にとがめるような色が含まれていた。僕は洗濯を取り込む手をとめた。ゆずりが仏頂面でこっちをにらんでいた。
「僕が考えているのは、モヤシスパゲッティからおさらばすることだよ。もうバイト中にうたた寝してクビになるわけにはいかないし。家のことだって、これからはもっと余裕持ってできるようになる」
ゆずりは部屋の隅に立てかけてある僕のギターをじっと見つめていた。ワインレッドのボディは光と影の具合で、たそがれ色に見えた。
「……なにかマズい?」
と僕は聞いてみる。でもゆずりはなにも言わないので、洗濯を取り込む作業に戻った。
「下着」
ゆずりがなにかぽつりと言ったが、僕には聞き取れなかった。
「え? なに?」
「それわたしの下着! 触るなヘンタイ!」
「触るなって言われても」
「妹の下着が触りたくて早く帰ってきたんでしょ! 下着ドロ!」
「違うってば! というか毎日僕が取り込んでるのに、なんでいきなりヘンタイ扱いされなきゃなんないの」
「うるさい! わたしがやる!触るな」ゆずりが僕を押しのけようとする。
「分かった。分かったってば。僕はやらないから」
ゆずりは機嫌がよくないらしい。ゆずりの気分は山の天気より変わりやすいな、と思う。
思春期だからというのも関係ありそうだけど、ゆずりに限っては些細なことで急に機嫌を損ねることも、これまで何度となくあった。
洗濯物はゆずりにまかせて見守ることにした。キッチンに退避した僕は早めに夕食の準備に取り掛かる。バイトから帰ってきたらすぐに夕食を食べられるように、下ごしらえをしておくのだ。
「あっ」とゆずりが声をあげた。
僕は包丁を持つ手をとめた。
「ゆずり? どうしたの?」
「あんたのパンツ、落ちた。必要なら拾ってきて」
「必要に決まってるだろ!」
なんせ新しいのを買う余裕などないのだ。僕はサンダルをつっかけて、急いで下まで拾いに行った。
パンツを持って戻ってくると、ゆずりは台所に立っていた。
「なにしてるの?」と僕は尋ねた。
「夜ごはん」とゆずりが答える。しかしゆずりは両手で包丁を胸の前に構え、ニンジンをにらんだまま動かない。つまりニンジンを切りたいのだろうか。
「えーっと、そのニンジン洗った?」
ゆずりが包丁を置いて、蛇口をひねった。水がすごい勢いで噴射したが、弱めることなくそこへニンジンを突っ込んだ。水しぶきが僕の顔にかかった。
「ちょ、待った! そんなことしたら洪水になるよ!」
僕は水の勢いを弱めて、ニンジンを洗った。
「はい」と手渡す。
「…………」
ゆずりはブスッとした顔で材料を受け取った。
「わああああ! 待った! 危ないってば!」
僕は思わず叫んだ。ゆずりが目の前にニンジンを置いたと思ったら、思いつめたような目をして、両手で包丁をしっかりと握って、切るというより刺す姿勢――もしこれで僕のほうを向いていたら怨恨殺人でも起きそうな感じ――で構えているのだ。
「包丁は右手。左手は猫の手。こうやってニンジンを支える」
実演してから包丁を返す。ゆずりは僕のほうをちらと見た。「…………」しかしなぜかまた両手でにぎり、怨恨殺人の構え。
「ぎゃあああ、待て待て待て! なぜそーなる!? ニンジンに恨みでもあるの!?」
結局僕はゆずりから包丁を取り上げて、夕飯の下ごしらえに取り掛かった。
「最ッ低」
という呟きが居間から聞こえた。
愛香が遊びに来たのは、僕が高校生になってから初めてだった。
予告もなくやってきたのでゆずりは目をまん丸にして、玄関で愛香に抱きついた。
「愛香ー!」
「ゆずりちゃん、久しぶり。元気そうでよかった」
愛香は春らしく薄着で、ショートパンツから伸びる足は年じゅう家にいるゆずりと対照的に、健康的な肌をさらしている。
「来るなら教えてくれればよかったのに」
ゆずりが横目でとがめるように僕を見た。
「僕も来るとは思ってなかった」
一応、人に会うときの身だしなみを気にしているのだろう。ゆずりは今日も白地に花模様のパジャマで、だいたいいつも通りなのだが、寝癖はそのまま。一日中テレビに噛り付いてごろごろしているつもりだったことがうかがえる。
ちょっと待ってて、と言ってゆずりは寝癖をいじりながら洗面所へ向かった。珍しく笑顔だ。
僕と愛香はテーブルを挟んで座布団に座った。
「けっこう広いね。あんまり物がないからかな」
「ボロいけど、二人で住むにはまあまあ快適だよ」
「まだ高校生と中学生なのに二人だけで暮らすなんて……」
愛香は「大変だね」と言おうとしてやめたのかもしれない。愛香の少し複雑な表情をを見て、僕は口を開いた。
「もしかして、本当に手伝いに来てくれたの?」
「それもあるけど、ゆずりちゃんのことでちょっと相談しようと思って」
愛香は洗面所のほうを見、声をおさえた。
「どんなこと?」と僕も声をひそめる。
「来月、ゆずりちゃんの誕生日でしょ?」
「そうだった。まだ一ヶ月近くあるけど」
「こうちゃんが忙しそうだったから、よければ私が企画して、ちゃんとお祝いしてあげようと思って。引っ越し祝いもしてなかったし」
「愛香が企画してくれたら、ゆずり、ぜったい喜ぶよ」
「そうかな? まだ時間があるから、詳細は、できればじっくり、二人で考えたいと思うんだけど……」
と愛香は少しためらいがちに提案した。
「うん、そうしよう」
僕がうなずくと、愛香の表情が明るくなった。そこに、くしを通して綺麗に整えた髪のゆずりが戻ってきた。
「なにをそうするの?」とゆずりは興味ありげに尋ねる。
「な、なにもしないよ」
「高校の話だよね」
愛香と僕はそろってはぐらかす。
だがすぐに「愛香、なんだかうれしそう」と指摘されてしまい、愛香は両手を頬に当てて、苦笑いで自分の顔を確かめていた。ゆずりは仲間はずれにされて一瞬機嫌が悪くなりかけたように見えたが、僕の杞憂に終わった。
「ねえ、愛香」とゆずりはゲストの隣に座る。「今日の夜ごはん作って? こいつの料理って、モヤシばっかりでいつもおんなじ味なの。ありえないでしょ?」
「こいつじゃなくて、僕には光太郎っていう名前が……」
「そうだね、それはちょっとひどいね」
僕の抗議は無視された。それに愛香が加勢してしまっては、僕に勝ち目はない。
「ねえ、お願い愛香」
愛香はちらっと許可を求めるように僕に目配せした。僕の答えは最初からオーケーだ。
「よし、じゃあ、今日はわたしが作ってあげる」
「やったあ!」ゆずりはこのアパートに来てから一番の笑顔で、愛香に抱きついた。
ゆずりの満面の笑顔を見るのは久しぶりだ。こういう姿を見ると、無邪気なただの女の子だなと思う。口が減って、いつも笑っていてくれれば、僕としても楽だし、可愛げも出てくるかもしれない。
「愛香の料理、わたしも手伝う」
どういう風の吹き回しか、ゆずりがそんなことを言い出した。よほど愛香が来てくれたのがうれしいのかもしれない。
「あれ? ゆずりが仕事を手伝うなんて言い出したの、初めてじゃないか?」と僕はゆずりをからかう。
「うるさい。あんたは地底で一生モヤシでも育ててろ」
軽い冗談だったのに、殺意すら含んだ目でにらみながらそういうことを言ってくるので、僕の繊細な心は傷ついた。泣きたい。
有言実行、ゆずりは体調が良かったこともあり、愛香を手伝って一緒に買い物に行き、夕食のカルボナーラを完成させた。後片付けはすべて僕が一人でやらされた。偉そうに「働かざるもの食うべからず」とのたまうゆずりは、今の植月家の状況が本当に分かっているのだろうか。
週末、僕と愛香は駅前の大型複合商業施設『クマダ・スクエア』へと出かけた。
待ち合わせて市営バスに乗ること二十分。去年大幅リニューアルされて話題性はあったのだけど、二人とも高校受験やらなにやらがあったので一度も訪れたことがなかった。
ここを訪れたのはもちろんゆずりへのプレゼントを吟味するためだ。なにがいいかとあれこれ話しているうちに、この『クマダ・スクエア』の話が出て、考えるより足を使ってみようということになった。
全九階の一階フロアに降り立つと、僕たちは洗練された内装に目を見張った。足元ではピカピカの床の白いタイルがライトを照り返し、僕らの影を映している。案内板を見れば、あらゆる種類の専門店が詰め込まれ、レストラン街やスポーツ施設、図書館や貸し会議室などもそろっていた。どこも家族連れやカップル、ビジネスマンなど、ありとあらゆる人々で賑わいを見せている。
「すごーい! これ全部一日で回れるのかなぁ」
愛香は悩ましく、うれしそうだ。
「ダメだったらまた来ればいいよ。とりあえず一階から回ってみる?」
「うん! 行こっ」
僕らは首が痛くなるのもおかまいなしに、あっちこっちを見ながら歩いた。目をきらきら輝かせる愛香はなんだか子供みたいだ。
「こうちゃん! あれクマジローだよ! 一緒に写真撮れるみたい!」「あの服どう? よくない!?」「えっ、なにあれ? なにに使うの?」「ここはもう見たよ! 上行くよ、上!」「かわいい! あれ! めっちゃほしい!」「ちょっとだけ待ってて! 一分ちょうだい!」「ここにもクマジローいるよ! クマジローグッズほしい!」
「ああ生き返った」と愛香は大きく息をはいた。休憩エリアのベンチに腰かけてグレープジュースをぐびぐびと飲む。最初から興奮しっぱなしで、今も興奮がおさまっていない。途中からプレゼントうんぬんよりも自分が見たいもの優先になっていて、愛香自身が来てみたかったから来たんじゃないかと思えたほどだ。
ちなみにクマジローというのはこの施設を運営するクマダ・グループのマスコットであり、ゆるキャラのことだ。この施設には、ところどころに着ぐるみのクマジローがいて、子供に風船を渡したり記念撮影をしたりしていた。親しみやすくコミカルな可愛さで、全国的にも知名度があるらしい。
「もっと落ち着いて見ればいいのに」
僕も愛香の隣に腰かけて、コーラに口をつけた。
「落ち着いて見てたら陽が暮れちゃうよ」
「また来ればいいじゃん」
「毎週毎週来るわけにもいかないでしょ? こうちゃんはバイト忙しいから、これが最後かもしれないし」
愛香がなにか心配そうに言うので、僕は笑ってしまった。
「最後って、僕、もうすぐ死ぬかいなくなるの?」
「もちろんそんなことないけど。なかなかこんな機会ないと思って」
「必要ならまた休みもらうし、気にしなくていいのに」
「ほんと?」
愛香が興奮気味に顔を近づけてきた。
「なんでそんなに驚いてるの?」
愛香はぶんぶん首を振って立ち上がった。自販機の横のゴミ箱に空き缶を捨てて、また戻ってくる。
確かに生活は厳しくバイトに家事に忙しいけれど、部活をやめたこともあって少しくらいは余裕ができた。バイトを休んだら別の日に取り返せばいい。だから「また来ればいい」というのは口から出まかせじゃない。
だけどなんとなく愛香が気を遣っているのが分かった。はしゃぎすぎたことを反省しているのかもしれない。
ちょっと沈黙。でも居心地は悪くはなかった。
隣のベンチには若い大学生くらいのカップルがいて、体をくっつけあって、すごくいい雰囲気で笑い合っている。そして前方には家族連れがいて、ゆずりよりもずっと小さな女の子が、買ってもらったクマジローのぬいぐるみを袋から出して、うれしそうに両親に見せている。「大事にしようね」と頭をなでられている女の子は幸せそうで、僕も他人ながらほっこりする。なんだか、すごくいい風景だ。こんな風景が身近にあるのは、あのアパートには愛香が来てくれたときくらいしかないような気がして、うらやましいような、寂しいような気持ちになる。僕は留守番をしているゆずりのことを考える。
「こ、こうちゃん」と愛香が僕を呼んだ。
「なに?」
「あっ、えーっと……」愛香は緊張したようにうつむいた。「お父さんが、また昔みたいにうちにご飯食べにおいでって。ゆずりちゃんも一緒に」
「うん、もうちょっと余裕ができたらかな」
「わたしも、その、こうちゃんが来てくれたら……」
愛香の声は小さくなり、最後にはなにを言っているのか分からなかった。
またなんとなく沈黙がやってきて、さっきのカップルも家族連れもいなくなって、カラフルな喧騒から二人だけ取り残されたみたいになってしまった。
そろそろ散策に戻ろうかと思った矢先。
「こうちゃんは、竜洞寺さんのこと、どう思ってる?」と愛香は聞いてはいけないことを聞いてしまったとでもいうように、わずかな後悔をにじませた表情で言った。
「ええと、竜洞寺さんっていうと、入学式をジャックした竜洞寺さんだよね?」
「うん、でも、あのねっ! 別に、深い意味はないんだけど……」愛香は落ち着きなく左右の指先を合わせて動かす。「男子がみんな盛り上がってるから、やっぱりこうちゃんも、興味あるのかなって思って」
愛香はやたらとそわそわしている。なんで愛香がそんなこと聞くのか分からないけれど、最近じゃ竜洞寺って単語に過剰反応する女子もいるようだし、やっぱり意識せずにはいられないものなのだろうか。
そういえば、すっかり忘れていたけれど、来週は竜洞寺玲が予告したお兄様の選抜試験とやらが行なわれる。僕にとってはどうでもいいのだけど。
「僕はあんまり、かな。手嶋はすごく張り切ってたけど、竜洞寺って人とは話したこともないし、僕みたいな庶民とは住んでる世界が違ってそうだし。お兄様の選抜試験とかいうのも、妹ならゆずりだけで間に合ってるというか、むしろ手一杯で、これ以上妹が増えたら僕、過労で倒れるかもしれない」
「そ、そっか。そうだよね! あー、よかった」
「なにがよかったの?」
「え? あ、ち、違うのっ!」愛香は顔を赤らめる。「手嶋くんとか、クラスの男子とか、なんか目がギラギラしてて怖いから、こうちゃんもそんなふうになっちゃったらヤだなあって思って」
「手嶋とか、男子はなんか不気味だけど、いい影響もあるよね」
「そうだね。レディーファーストとか言い出したり、言葉遣いがきれいになったり、全体的に優しくて紳士的だよね。竜洞寺さんのおかげかも」
たまにやりすぎで気持ち悪いけど、と愛香は苦笑した。僕は残りの時間のことを思って、あふれる色の中に溶け込んでいけるように、声を弾ませた。
「さて! 二階は全部回ったし、次は三階か。それとも愛香がどこか気になるところがあったら、もう一回見に行ってもいいけど。どうする? それともおなかすいた?」
愛香は立ち上がり、明るく答えた。
「三階行こっ! ごはんなんて食べてる場合じゃないよ!」
「ただいま」
夕方帰宅するとゆずりが玄関で待ち構えていた。いつものパジャマ姿で、起き上がっているからには体調は良さそうなんだけど、機嫌のほどは知れない。
「変わったことはなかった? おなかすいてるなら、すぐ夕飯の準備するけど」
靴を脱ぎながら尋ねるとゆずりは犯罪者を見る顔つきになった。
「どこ行ってきたの」
「どこって、『クマダ・スクエア』に行くって出かけるときに言わなかったっけ?」
もちろんプレゼントうんぬんは伏せてだけど。
「だけ?」
「え?」
「クマダだけ?」
「うん、そうだけど」
「何したの」
「ひたすらお店見て回った」
「だけ?」
「え、うん」
「買った?」
「え、なにを?」
「なんでも」
「いいや、今日はなにも」
「正気?」
「それ、使い方間違ってない?」
「間違ってない。あんた正気?」
「正気だけど、なんで?」
ゆずりはあからさまに不機嫌な表情になり、奥に行ってしまった。質問に答えてくれないのも、向こうの質問の意図が全然分からないのも慣れっこなので、気にせず夕食の支度を始める。
ゆずりはテレビを見ているようだ。芸能人とリポーターの声がしている。
「次は?」ゆずりが言った。
「え? なんのこと?」
ニンジンを乱切りにしながら返した。
「出かける日!」
「明日はバイトで遅くなるよ」
「違う! 愛香と」
「特に決まってないけど」
「最ッ低」
「…………」
人生で何度目かすでに数えてすらいない『最ッ低』。たぶんゆずりは、僕やテレビや世の中に対して『最ッ低』と一日一回以上ののしらなければならない生き物なのだと思う。誰かゆずりの『最ッ低』をもう少し分かりやすい日本語に翻訳してくれないかと思う。
玉ねぎの皮を剥いて切って鍋に入れて火にかけて一段落し、居間に行くとゆずりはやっぱりまったく面白くなさそうな仏頂面でテレビに見入っている。大盛りグルメ特集とかいう内容で、僕は座って一緒にテレビを見て「うわ、安っ」とか「これどこから食べればいいんだろうね」とかコメントしてみるけれど、ゆずりは唇を真一文字に引き結んでなにも言わない。これが通常モードなのだけれど。
しばらくして番組が終わったので「そろそろ夕食にする?」と尋ねると、ゆずりは送る気もない視聴者プレゼントの応募方法に真剣な視線をそそぎながらうなずく。
夕飯は肉じゃがとサラダとご飯。どうせご飯は嫌だと言ってスパゲッティをゆでることになるかもしれないけれど、それだと日本で生きていくには色々大変なので和食にも慣れてもらわなければならない。
「味薄い」
肉じゃがを一口食べての感想がそれだった。こんなに味の薄い肉じゃがを作る野郎の頭の中は理解できない、とでも言っているかのような軽蔑のまなざし。
「コンロの下にしょう油あるけど」と僕は教える。
「持ってきて」
「それくらい自分でできるでしょ?」
と言い終わらないうちにゆずりがガシャンと、はしをテーブルに叩きつけた。今日はいつにも増して機嫌が悪いみたいだ。
「ゆずり?」
「一生いらない」
「え?」
「もういい」
それこそ毎回のように怒鳴るかわめき散らすかしてくれたほうがよかったかもしれない。ゆずりは突き放すように静かに拒絶し、立ち上がると、台所ではなく自分の部屋に行ってしまった。
何かがおかしい。僕は後を追ってゆずりの部屋に向かった。ドアは閉じられている。
「ゆずり? なんで怒ってるの?」
無表情なドアをノックしてみるけれど返事はない。
「愛香と二人で出かけたから? ごめん、別にゆずりだけ仲間はずれにしたわけじゃなくて。ゆずり?」
時間だけが過ぎ、僕はあきらめて居間に戻り、残りの夕食を終える。
食べ終わってもまだゆずりは出てこなかった。
月曜日の朝。登校してきた誰もが度肝を抜かれ、言葉を失くして天を仰いだ。清華高校の広々とした校庭は一晩のうちに巨大迷路アスレチックと化し、その真ん中には鋼鉄の建造物が出現したのだ。ちょっとしたテーマパークでも開園できそうな規模とクオリティ。その大部分は鉄板や鉄骨がむき出しの無骨なつくりで、まるで監獄を思わせる。僕らの身長をはるかに超える鈍い鋼色の壁が、日光を浴びて不気味に輝き、塔から伸びる長い影が校舎を押しつぶしそうに見えた。
生徒と教師たちがテレビ局のリポーターやら新聞記者やらに囲まれてマイクを向けられている。口々に驚きを口にするが、教師でさえ納得の説明をできる者はいないようだ。上空にはヘリまで飛んでる。
地上の巨大迷路の入り口と思われる場所には、黒服黒サングラスのいかつい男たちが整列し、道をはばんでいた。
「光太郎!」
手嶋が呆然としている僕を呼んだ。
「ついにこの日が来たみたいだな」
「どうしたのその格好!?」
僕は手嶋の変わりようにギョッとした。顔とか腕とかにいくつも生傷があるし、葉っぱとか枝とか泥とかがついている。制服も一部破れたり糸がほつれたりしていて、まるでたった今救出されたばかりの遭難者みたいだ。むさくるしい感じなのに、やけにすがすがしい表情をしている。
手嶋も首が痛くなるくらいこの建造物を見上げて驚いていたけれど、僕と違ってこの状況を楽しんでいる。
「ちょっと修行に行って、肉体と精神を鍛えてきた。修験道ってやつだ」
誇らしげに腕の傷を見せる手嶋。頬の肉が落ちて、ちょっと痩せたように見える。
「なんでまたそんなことを!?」
手嶋は「お前はバカか?」という顔をした。「すべては今日のために決まってるだろ?」
「なにか特別な日だっけ?」
「おいおい、選抜試験を忘れたっていうのか。ほかに誰がなんの目的でこんなイカレタものをぶっ建てるんだ? こいつが今日の試験の課題そのものだと考えるのが妥当だろ」
指摘されて僕はやっと思い出した。今日が竜洞寺玲の指定した選抜試験日だ。ゆずりの誕生日プレゼントのことやバイトのことでいつも頭がいっぱいだったから、忘れていたのだ。
いや、でもまさかそんなことのために学校にこんなもの建てるなんて、僕には彼女の頭の中はさっぱり理解できない。
「俺は今日、絶対この試験を突破する。そして竜洞寺玲と一緒にお風呂に入る!」
手嶋は自分に喝を入れた。そんなことのために山で修行するのもどうかしていると思う。
だけど周囲を見渡すと、登山帰りみたいな装備の生徒や、パワーストーンの数珠みたいなのをジャラジャラと身につけている生徒、上半身裸で筋骨隆々の肉体を晒している生徒、人だかりから離れてなにかの装置を組み立てている生徒などもいる。そしてなにか悟りを開いたような神々しい表情で、あるいは紛争地域へ向かうヘリに乗り込むような引き締まった表情で、もしくは人生の数々の修羅場をくぐりぬけてきたオッチャンのような表情で、建造物を見上げているのだ。こいつら一体なにしに学校来たんだよ!?
校庭は群がる人、人、人であふれかえった。
「こうちゃん、手嶋くん、おはよう」と愛香が僕らを見つけて、のんきなあいさつをした。「竜洞寺さんのしわざだよね? なんだか楽しそう」
「だよな! さすが竜洞寺だよな!」手嶋は竜洞寺信者だ。
「ぜんぜん楽しそうには見えないけど」
僕は素直な感想を述べた。
「体調不良ってことにして帰ろうかな……」
回れ右するけれど手嶋に腕をつかまれる。
「光太郎、玲に興味がないなら俺に協力してくれ。俺は玲とお風呂に入れればそれでいい。願わくばそれ以上も望むが……。とにかく金銭の報酬はすべておまえに渡す。どうだ? バイトなんかしなくてよくなるぞ」
手嶋の提案は魅力的ではあった。もしこのバイト生活から抜け出して、もうちょっとマシなものをゆずりに食べさせてあげられるとすれば、僕は充分に満足だ。
「俺も妹とイチャイチャしたいんだ! どうか頼む! おまえだけが頼りなんだ!」
「前にも言ったけど、僕は妹と手嶋が想像するようなことはしてないから!」
僕はゆずりと僕自身の名誉のために訂正した。愛香が信じちゃうから、そういうこと言うのはマジでやめてほしい。
手嶋の情熱は、この件に関しては弱火になることはないだろう。帰ってもどうせ寝るか家事をするくらいしかやることはない。僕は観念した。
「できる範囲でいいなら、協力するよ」
「よっしゃあああ! それでこそ友達というものだぜえええ!」手嶋は青空に向かって雄たけびをあげた。僕は恥ずかしくなって下を向いた。この男がこの名門校に入学できた理由が本気で分からない。
騒動の主犯が登場したのは、一時間目の始業のチャイムが鳴ったときだった。
「ごきげんよう。清華高校のみなさん」
おさわがせ令嬢――竜洞寺玲の声は前触れもなく空から降ってきた。僕らは声の主を探す。誰かが上空を指差した。彼女は巨大アスレチックの中央にそびえる塔の上から拡声器で話していた。
「男子生徒諸氏はおそろいでしょうか。女生徒のみなさんは、授業でもなんでもお好きにどうぞ。さて本日の選抜試験の課題は、わたくしの目の前でオムレツを作り、ご馳走してくださることです。ちなみにわたくしは、ふわっふわのオムレツが大好きなの」
玲はそこで言葉を切った。あちこちでどよめきが起きた。課題は聞き間違いだったのではないか、と誰もが思っていたことだろう。
「コンロ、フライパン、卵以外の材料は最奥部のわたくしのもとに。卵は入り口でお配りします。説明は以上。始めてください」
選抜試験とやらの幕が切っておとされた。
迷路入り口に横一列に並んでいた黒服たちが左右にしりぞく。その手には卵。数人が走り出すと、残りのギラギラした目の男どもがいっせいに入り口に押しかけた。
「ついてこい光太郎!」
手嶋が叫んだ。僕らも入り口へ向かって走る。
「こうちゃんも手嶋くんも、ケガしないようにね」と愛香が弾んだ声で言うのが背中から聞こえた。
僕らは卵を一つずつ受け取って迷路に踏み込んだ。
「卵、どうしよう」
僕はびゅんびゅん進む手嶋の背中を追いかけながら聞いた。素手で持っていると、力んだ拍子に割ってしまいそうだ。
「ポケットにでも入れておくしかないだろ?」
手嶋は行き止まりで引き返し、別の道を進み、階段をのぼった。僕は学ランの上着に入れた卵のことばかり気にしていて、階段でつまずいた。
「なにしてんだ光太郎!」
「ごめん! 大丈夫、割れてない」僕はポケットを上から触って、ほっと息をつく。
「頼むぜ相棒。これ割ったら最悪失格か、それとも振り出しに戻るだけなのか分からないが、とにかく注意してくれよ」
「手嶋が僕のぶんも持ったほうがいいんじゃない?」
「いや、経済学的にはリスクは分散したほうがいいんだ。リスクヘッジの基本だ」
「リスク、へっじ……?」
僕は手嶋の口から経済学などという単語が出たことに内心驚いた。だけどそんなことに突っ込んでいる状況ではない。僕らより先に進んでいる生徒たちはいっぱいいるのだ。
二階に天井はなく、快晴の青空が広がっている。両側に迫る壁が開けて、小部屋に出た。先にたどり着いた生徒たちが、正面の壁に飛びついてよじ登ろうとしていた。
「この壁を登れってことか」
手嶋がゆうに二メートルはある壁を見上げた。つかめそうなでっぱりのない、つるつるした金属の壁だ。
「くそ!」
と挑戦していた生徒が悪態をついた。壁をよじ登ろうとして走ったり跳んだりしたせいで、卵を割ってしまったのだ。
「光太郎、俺を土台にして先に登ってくれ」手嶋が提案した。「卵は俺が持っておくから、思い切り飛んで大丈夫だ」
「分かった」
手嶋に卵を渡す。手嶋はポケットにしまうと、壁のそばで姿勢を低くした。「靴なんか脱がなくていいからな」
「ごめん、乗るよ」
手嶋の両肩に足をおいて立つと、壁の天辺に余裕で腕が届いた。手嶋に押し上げてもらって、なんとかはいあがった。すぐに手嶋から卵を受け取り、脱いだ学ランの上着に包んで横におく。次は手嶋を引っ張りあげる番だ。
「見ろ! あれはセキネ化学繊維産業の関根だ!」まわりにいた生徒たちが叫んだ。
「僕はッ! あの肌をッ! 手に入れるッ!」関根は奇妙なかけ声とともに自分の身体をたたき、気合を入れている。
「僕の会社が開発中の、新素材100%使用――フロッグ・シューズの力、見せてやる!」
関根は底がやたらと厚い変な靴を履いていた。肥満気味の巨体をゆらして壁に疾走する。
「アイ・キャン・フラアアアアアアアアイ!」と関根は渾身の力をこめて、跳んだ。壁のてっぺんに両腕でしがみつくほどの大ジャンプだった。壁が揺れて僕らはあやうく落ちかけた。
「さすがセキネ化学繊維産業だ!」
「あのBMI33の肥満体質、関根が跳んだぞ! 信じられない!」
「発売したら俺もほしい!」
僕らも一瞬見とれてしまったけれど、すぐに手嶋を引っ張り上げる。
「見ろ! あれはクマダグループの熊田だ!」また別の生徒が叫んだ。
「我が名はクマジロー。遠い北の森からやってきた、森の妖精だジロー!」
全身茶色のクマの着ぐるみをまとった熊田らしき人物が壁によじ登ろうとしていた。その着ぐるみは目元がかわいらしくデフォルメされており、グッズが若い女性から子供たちに人気らしいが、今回の競技における特別な利点はなさそうだ。登れそうな気配がまったくない。
「壁くらい楽勝だジロー! やってやるジロー!」
「さすがクマダグループの熊田だ!」
「壁は登れていないが、クマジローになりきっている! 宣伝命だ!」
「やっぱり登れてないな!」
「たぶんダメだろうな!」
僕らは再び競技に集中した。
「見ろ! あれはアサクラ出版の朝倉だ!」またまた別の生徒が叫んだ。
「フフッ。こんなこともあろうかと話題のマンガや小説、実用書などを持てるだけ持ってきたのだ!」
朝倉は本をきれいに積み上げて階段を作っていた。
「今、ワタシは人類の英知という名の階段をのぼり、立ちはだかる壁を越えていくのだ!」
「さすがアサクラ出版の朝倉だ!」
「見ろ、あれで五十センチは稼げたぞ!」
「やってることは地味だ!」
「電子書籍でいいじゃねーか」と、壁を登りきった手嶋が手のほこりを払った。僕らはその場をあとにした。
***
部屋とも言えないような小さな部屋だ。構造は鉄骨とガラスで、外から中が透けて見えてしまう。玲の腰掛けている椅子とテーブル、ガスコンロの置かれた調理台、オリーブオイルとフライパン、それからモニターがひとつ。
玲はモニターには目もくれず、なめるように紅茶を飲んでいた。
「お嬢様、なにやら協力し合っている者たちがおりますが」と銀二は報告した。
「こちらには、なにやら怪しげな道具を用いている者もおります。それから、ナカノ・エアクラフト社の中野殿の姿が見当たらぬようですが」
「かまわないわ。それより、あとどのくらいかかりそうなの?」と玲はあくびをかみ殺した。
「一番リードしているのは、クニシダ・エレクトロニクスの國司田殿でしょうか。二番目のトラップをこえて、三番目のトラップに向かうところでございます」
「そう」
玲はつまらなそうにカップに口をつけた。
「お嬢様、お気づきかと思いますが、この企画によって、お嬢様は多数の女子生徒たちから反感を買っておられます」
「それがなにか?」
「周りが敵だらけとなってしまっては充実した高校生活から遠ざかってしまうと、銀二は考えております。お父様の学生時代をご存知ですか? それはそれは人望厚く、」
カップがカシャンと音を立てた。
「その話は千回聞いたって言ってるでしょ!? あんた本気で大丈夫!? 検査してもらったら!?」
「お心遣い、感謝いたします」
「ののしってるのよ!」
「それはそれは、さらに感謝でございます」
執事は眼下の景色を見下ろす。とうに桜は散って、青々とした葉がしげっていた。
「木々はたくましく、つつましやかなものでございますね」
「あんたは下に行ってなさい。うっとうしいから」
「かしこまりました、お嬢様」執事は哀れみをこめて、主を見た。「花が散れば、葉をしげらせる。すでに彼らは来年の春を見ているのでしょう。我々はまだ、散った花のことばかり考えているというのに」
「で、あんたはいつ散るのかしら?」
「お嬢様という風次第でございます」
執事は一礼し、急な階段を降りてゆく。カン、カン、カンという足音の響きが、だんだんと小さくなっていった。
***
第二の障害は、丸太の一本橋だった。床のないテニスコートくらいの部屋に、連結された丸太が並んでいる。床はなく、丸太の道は三つだ。丸太の下方には落下者のためのマットが敷かれている。落ちると一階からまた再スタートということなのだろう。部屋の横の壁に窓らしき穴があって、あのごつい黒服たちがのぞいていた。
「嫌な予感がするな」と手嶋が勘ぐった。「光太郎はここで待機しててくれ。俺が先に行ってみる」
僕は背後の壁まで下がり、黒服と手嶋とを見守る。
手嶋が一歩、二歩と慎重に丸太を進んでいく。手嶋が三分の一ほど渡ったところで、黒服たちがいっせいに動いた。
「うおお!?」
手嶋の顔のすぐそばを剛速球が通過した。野球、バスケ、テニス、大小さまざまなボールが手嶋めがけて飛んでくる。手嶋が引き返して僕のところに戻ってくるまで、黒服たちは統率された動きでボールを投げまくった。
「なんてヤツらだ」手嶋がポケットの卵をチェックして、安堵した。
「まあ、予想通りだが、最悪イモムシみたいに丸まって卵を守りながら行くしかないだろう」
「それって、めちゃくちゃ痛いんじゃ?」
僕は暗に反対を表明する。
「その程度の痛みで、玲とお風呂に入れるなら安いもんだ」
そうだった、この男はお風呂のために命かけてるんだった。
「僕だけここで脱落するっていうのはどう?」
「ダメだ」
「じゃあ僕はここに残って妨害を……」
「いや、俺と来てくれ光太郎。ほとんどの参加者同士が敵対しあっている中、協力者の存在は千金に値する。この先もおまえの力が必要になるかもしれない」
両手をガシッと握って、真剣に訴えてくる。この上なく純粋な、
そのとき何人かの生徒たちが僕らに追いついてきた。
「見ろ! あれはクニシダ・エレクトロニクスの國司田だ!」誰かが叫んだ。
「一気に行くぜえええ! スペンサー!!」
長い髪を振り乱す野生的な男が飛び出した。近未来的なスケートボードのようなものを乗りこなし、尋常じゃないスピードでその乗り物ごと丸太に飛び乗る。そのまま滑走して、黒服たちが投げるボールなど置いてきぼりにして、一瞬のうちに向こう側に到達してしまった。
「さすがクニシダ・エレクトロニクスの國司田だ!」
「すごすぎるぜ!」
「しびれる!」
呆気に取られている僕らの周りには、丸太のこげた匂いとかすかな煙だけが残った。
「見ろ! セキネ化学繊維産業の関根も来たぞ!」別の生徒が叫んだ。
関根は制服の上になにかを着こんでいる。軍隊の装備のように見えるが、それよりも厚く、全身が覆われていた。
「僕の会社が開発中の、新素材120%使用――タートル・アーマーの力、見せてやる!」
関根は雄たけびをあげながら丸太に向かっていく。國司田を簡単に通してしまった黒服たちは、名誉を挽回すべくいっせいに関根に狙いをつけた。関根に剛速球が襲いかかった。
「無駄だ!」
関根の巨体はまるで風船をはじくようにボールをことごとく跳ね返した。激しいボール攻撃も関根の進行を止められない。
「さすがセキネ化学繊維産業の関根だ!」
「すごすぎるぜ!」
「汗くさそうだ!」
「今のうちに行くぞ」と手嶋が先立って進む。今なら関根に攻撃が集中しているからチャンスだ。僕も手嶋の後ろにピタリとついて、イモムシのように進んだ。
関根はそのまま無事に丸太を渡りきるかと思いきや、向こう側まであと二メートルというところで、ミシミシと嫌な音が響き渡った。次の瞬間、丸太が真っ二つに折れた。
「関根が落ちたあああ!」
「BMI33はダテじゃない!」
黒服の狙いが僕らに変わった。背中に激痛。尻に鈍痛。はやく向こう側に着いてくれ! 僕は頭を押さえ、卵を守りながら必死に進んだ。
「光太郎、耐えろ! 玲とのお風呂が待ってるぞ!」
それは手嶋の欲望だろ!
僕は半べそをかきながら、ついに丸太を渡りきったのだった。囮になった関根くんに陰ながら感謝した。
そして僕らは、泥沼をほふく前進し、荒れ狂う濁流にさからって歩き、素手で木をのぼり、ロープからロープへと飛び移った。
「くそっ、國司田のヤツ、予想以上にやりやがる」
ヘトヘトになって僕らは次のエリアにたどりついた。扉がいくつも並んでいる。國司田はすでにこのどれかの扉の中にいるはずだ。
手嶋が扉の一つに手をかけた。中はエレベーターくらいの広さしかない部屋で、パソコンが一台置かれているのみだ。僕らが入ると、部屋の扉が勝手に閉じた。
「手嶋、扉が開かない!」
僕は恐ろしくなって必死に扉をたたいたけれど、無駄だった。
「このパソコンに表示された問題に、答えればいいわけか。次は頭脳を試そうってか?」
手嶋はうろたえることなく問題を読み上げる。
「『遺伝子の均一性をたもつために同腹の子供同士の交配を何世代も繰り返していくことをなんと呼ぶか答えよ』……ふむ」
と手嶋はすぐにパソコンになにか打ち込んでいく。
「分かったの!?」
「ほらよっと」
手嶋がエンターキーをたたいた。
「うわああああ!」僕はわめいた。「心の準備くらいさせてよ!?」
しかし僕のびびりっぷりとは裏腹に、ピンポーンという効果音とともに画面に『兄妹交配:正解ですわ』という青文字が表示された。
「動物実験で使うネズミはよくこうやって作るんだ」
と手嶋はあたかも散々見てきたかのように説明した。
どこかで金切り声が響いた。國司田の声だった。遅れて水しぶきの音。
「これでおそらく俺たちがトップだ。焦る必要はなくなったな」きわめて冷徹に状況を分析する手嶋。
前方の扉が開いた。次の部屋もまったく同じタイプの部屋で、入ってきた扉は勝手に閉まった。
「手嶋、実は頭良かったりする?」
「普通じゃないか?」
「なんであんなこと知ってたの?」
と僕は素朴な疑問をぶつけた。
「ガキのころから親父の研究室に出入りしてたからな」
「手嶋の親父さんって、大学教授かなにか?」
考えてみれば僕は手嶋のお家柄についてはなにも知らない。僕が知っている手嶋は、ギターをかき鳴らし、校則違反を繰り返し、欲望丸出しで生きる、どこにでもいそうな高校生だ。
「手嶋病院の院長だ」
「へえ」
市内の大きな病院の一つだ。
「って、うぇええええッ!?」僕は思わず絶叫した。「なにそれ初耳なんだけど!?」
「聞かれたことないしな」
「平凡な庶民だと思ってたよ!?」
「いや、その通りだっての」
さっさと問題に答えるぞ、と手嶋が先を促すので、僕らはこの話題を一旦保留にした。
「『nを無限大としたときのフィボナッチ数列のn番目の項とn+1番目の項の比はなんと呼ばれるか答えよ』……ほう」
手嶋は問題を読み上げると、すぐにキーボードをたたき始めた。そして「ターンッ!」とエンターキーをはじいた。
ピンポーン。『黄金比:正解ですわ』という青文字が表示されて、次の扉が開いた。
「……僕、必要なくない?」と素直な気持ちを伝えた。
「たまたま問題がやさしかっただけだ」
「そういう意味じゃないよ!?」
「次、行くぞ」
手嶋はたいしたことないと思っているらしい。
「『ピザフリークスでシーフードスペシャルのLを一つ、カルボナーラのMを一つ、緑茶を二本、すべてWebから注文したときの合計金額を税込みで答えよ』……分からんな。スマホで調べれば……」
と手嶋が僕を見た。
「光太郎、ピザ屋でバイトしてるんじゃなかったか?」
「というかピザフリークスだよ!」
「でかしたぜ! 金額言ってくれ」
「税抜きで言うと、シーフードが4050円、カルボナーラが920円、ドリンクは一本150円」
「オーケー」
手嶋がキーボードをたたいた。『5797円:正解ですわ』
税込みの計算もあっという間だった。答えがあっていて、僕はほっと胸をなでおろした。そうしている間にも、不正解となった生徒の悲鳴がときどき聞こえてくる。僕らは次の部屋に進んだ。
ディスプレイには『最終問題』と示されていた。
「こいつをクリアすれば、玲とお風呂か!?」
手嶋が興奮をあらわにした。
「『2020年に起こった大日航空28便墜落事故の生存者の名前をひとり、フルネームで答えよ』……知らん。たしか死者が数十人単位で出たんだったよな? ネットで調べて分かればいいが、……光太郎?」
手嶋が心配そうに僕をのぞきこむ。
僕は震えが止まらない。
ピザフリークスの問題は、偶然のラッキーだと思っていた。だけどこんなラッキーが連続で続くだろうか?
「知ってるよ」僕は手嶋の顔を見なかった。「この問題の、答えを」
「さすがだ光太郎! さっそく頼む」
手嶋に肩を叩かれ、僕はキーボードの上に手を置いた。うまくキーが押せない。やっとのことで、その名前を打ち終えた。
いや、もしかしたら僕の勘違いかもしれない。手嶋には悪いけれど、答えは間違っているかもしれないじゃないか。なに自分は正解したつもりになっているんだ?
僕は自嘲気味に笑い、エンターキーを押した。
ピンポーン。
『町田ゆずり:大正解ですわ』
息苦しいほど小さな部屋を出ると、目の前に銀髪の紳士が立っていた。年齢は六十代以上だろう。細くすらりとした身体にタキシードをまとい、僕らに、年齢に相応しい落ち着いた表情を向けている。
「お待ちしておりました。この上にお嬢様がお待ちです」
老紳士は僕らを先へうながした。
僕と手嶋は階段をのぼっていく。最後の部屋があり、竜洞寺玲が座ってティーカップを傾けているのが見えた。
「失礼するぜ」
手嶋がノックもせずにドアを開けた。
竜洞寺玲がカップを音もなく置き、僕らを見た。
「ご苦労さま。あなたたちがきっと一番に来てくださると思っていたわ」
玲は一点のくもりもない笑顔だった。初めて間近で見る彼女は、映画の世界から抜け出してきた大女優のようなオーラを放っていて、輝いていて、美人で、大人びていて、まともに目も合わせられなかった。同学年であること、同じ制服を着た同じ高校の生徒であること、実際に会って話のできる人間であることが、全部現実感がなかった。竜洞寺グループの価値や影響力を僕はよく理解していないけれど、少なくとも僕が同じ土俵に立ってなにかをしていい相手じゃないというのは、よく分かる。経験してきたことが違う。見ているものが違う。生きている世界が違う。
「卵は無事かしら?」
「もちろんだ」
手嶋がポケットから取り出す。
僕は緊張のあまり手を滑らせて卵を落とした。卵は三人の前で割れて、破れた黄身が流れ出た。
「す、すみません」
なんとも惨めな気持ちで謝った。
「かまいませんわ。ひとつで充分。そこにコンロとフライパン、材料がありますので、わたくしにオムレツを作ってくださる?」
「ふわっふわのでいいんだな?」
「その通りですわ。あなたはこちらへ」
僕は玲の向かいの席にいざなわれる。手嶋が慣れた手つきで野菜を刻み、コンロに火をつけ、油を敷く。僕は着席しても申し訳なくて玲を見ることができず、仕方なく手嶋のほうや外の景色を見ていた。視界を横切っていく、巨大な鳥のようなもの。それが空中でターンして真っ直ぐこちらに向かってくる。
「この勝負、待ったああああああ!」
パラグライダーが滑空し、わめきながら突進してくる。
「ナカノ・エアクラフト社の中野か!?」手嶋が言った。
「銀二」と玲は落ち着いて執事を呼んだ。いつのまにか老紳士が僕らのそばまに来ていた。
「たたき落としなさい」
黒服たちがいっせいに二階にあがってきて、中野の突っ込んでくる軌道上に並んだ。まさか本当に飛んできた彼をみんなでたたき落とすのだろうか。
中野のパラグライダーがぐんぐん大きくなる。玲はカップを置いた。僕も手嶋も衝撃に備えた。
中野は待ち構える黒服たちの巣に突っ込んだ。部屋全体が大きく揺れて、玲のカップから紅茶がこぼれた。オリーブオイルのビンが床に落ちて耳障りな音を立てた。中野の身体は黒服たちにはじき返されて落ちたが、パラシュートが建物の屋根の部分にひっかかったおかげで地面までは落下せしていないようだった。僕は壁に寄っていって中野くんを探した。彼は壁の外にぶらさがった状態で落ち着いていた。なんとかよじ登ろうとしていたけれど、黒服たちがひっかかったパラシュートをはずして放り投げると、その重さが加わったためか、苦しそうなうめき声が聞こえるようになった。
「もういいわ。下がりなさい」
黒服たちはまたたく間に退散した。
「ギミだぢには、負けない……」と中野の必死の声が聞こえる。。
「やべえ!」手嶋のフライパンから目玉焼きが焦げ臭い匂いを発している。「よそ見してた!」
中野くんは鉄骨むき出しの壁にしがみついて、顔を真っ赤にしている。のぼってくるどころか、落ちないように耐えるだけで精一杯らしい。
僕は身体を乗り出して、思い切り手を伸ばした。
「つかまって!」
「ギミのダズケなど、いらない……」と死にそうな顔で強がる。
「そんなこと言ってると落ちるよ!?」
「ウウウぐぐ……」
「放っておきなさい」と玲が冷たく言い放った。「落ちたって死にはしないわ」
「骨折くらいはするよ!」と僕は反論した。
「銀二、彼を座らせなさい」
玲が宣言すると、黒服たちがやってきて僕の身体をつかんだ。
「なにするんだ!」僕は抵抗した。「なんで助けちゃいけないんだ!」
「黙りなさい!」
玲が怒りをあらわにした。
「おい、光太郎、やめとけ」と手嶋がなだめる。
だけど僕は抵抗を続ける。このままでは中野くんはいずれ真っ逆さまだ。僕は壁から引き剥がされ、両手両足と頭を床に押さえつけられた。床は痛いぐらい冷たかった。中野くんのうめき声がかすかに耳に届いてくる。
「さっきは、すまなかった……。助けてくれ……。限界なんだ……」
一分以上たって、中野が弱気なことを言い出した。
玲は変わらず椅子に座って紅茶のおかわりを飲んでいる。僕は首をねじって一瞬だけ彼女の楽しむような笑みを見た。
「お願いだから放してくれ!」僕は再度の抵抗をこころみた。しかし大人数人がかりで押さえ込まれているので、まともに身体が動かない。
「あとで罰でもなんでも受けるから! 竜洞寺さん!」
「黙らせなさい」
玲が言うと、叫ぼうとする僕の口を大きな手が襲う。だけど僕は必死で首をそむけて、しゃべり続けた。パンチが飛んできて、僕はまともにそれを食らった。鉄っぽい味が広がった。
「あなたなら助けられるじゃないか! なんで助けないんだ! 立派な企業の人じゃなかったの!? こんなの、どうかしてるよ!」
「おい、やめろ!」と手嶋の声が言った。誰に言ったのかは分からない。ドタドタという振動が床を伝わってくる。「それ以上、手を出すな!」
「あなたが助けないなら、僕が助ける! だから邪魔しないで! あなたは誰かに助けられたことはないの? あるでしょ!?」
太い腕が僕をねじり上げ、殴る。身体の表面が熱を持ち、痛み、自分がどっちを向いているのかも判然としない。
「あなたにだって、あなたを助けてくれた人がいるでしょ!?」
「銀二」玲が呼んだ。「帰るわ」
僕を拘束していた重みがなくなった。身体が自由になると同時に、痛みに顔をしかめた。
「光太郎、大丈夫か?」
手嶋が僕を抱き起こす。
十分前は立派な卵だったものが、踏まれに踏まれて、無残な姿と成り果て、床に染みのように広がっていた。
「あいつら、ひどくやってくれたな……」
「中野くんは?」
手嶋の顔にはあざができていた。視界には竜洞寺玲の姿はなかった。空っぽの椅子と紅茶のカップ。彼女は黒服たちがぞろぞろと列を成す、その先頭にいるのだろう。
「おっと、そうだった。助けてやらねえとな」
僕らは二人で中野くんを引き上げた。中野くんは床に手を突いて荒く息をした。卵は彼の上着の中でグチャグチャになっていた。手嶋の目玉焼きは焦げてしまったから、もうここに卵はない。
なによりも、それを所望した本人が退場してしまった。
ほどなくして、試験終了を告げるアナウンスが鳴り響いた。