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お兄ちゃん奮闘記
吉田定理
現実世界現代ドラマ
2024年07月27日
公開日
102,020文字
完結
光太郎(こうたろう)は、ある日、父からとんでもないことを告げられる。

第1話

「突然ですが問題です。今日から光太郎こうたろうくんは何になるでしょーか?」

 ある朝、実の父親からこのように質問された十二歳の僕は、目を輝かせて勢いよく挙手、返答した。

「中学生!」

 桜がちょうど満開に咲いたころだった。

 新しい制服を身にまとい、新しいカバンに新しい教科書が詰まっていた。昨日買ってもらった靴を早くはきたくてウズウズしていた。

 僕じゃなくても純粋無垢な瞳をした十二歳の少年少女であれば、誰だってそう答えたはずである。ガネの奥で、細く切れ長の狡猾そうな目が光っていた。

「ナカノ・エアクラフト社の中野か」と手嶋が呟いた。

「いかにも」中野が言った。「キミはどうやらあの竜洞寺のご令嬢に興味がなさそうだが」

「ないですよ」と僕は緊張気味に答えた。

「竜洞寺グループのことは知っているだろう? 年間売上十兆円を超える巨大商社。この国の五本の指に数えられる一流企業だ。この国で竜洞寺となんの関わりもなく生活している人間はいない。インフラ、機械、食料、医療、金融、そこらじゅうに竜洞寺グループの息がかかってるのさ。そんな、この国の行く末さえ左右しかねない大企業グループの令嬢とお近づきになることの意味が、キミに分かるかい? これは一国の未来をかけた戦いさ。単なるごっこ遊びと思っているなら、ケガをしないように大人しくしておくのがいい。まあ、個人的には、あの魅力的なボディを流体力学的に研究してみたいと思うね」

 中野は流れるようにしゃべった。僕は最後のあたりは聞かなかったことにした。

「そうさ、これは遊びじゃないと、僕も思うんだ」

 と、また別の少年が割り込んだ。背が低く、ずんぐりと太った身体。

「この選抜試験は、有名な会社を、つぶすかもだし、無名の会社を、躍進させるかも。だから、僕はやる。それにしても、あの肌、一度でいいから、触ってみたいな」

「セキネ化学繊維産業の関根だ!」手嶋が目を見張った。

「その通りだぜ。これは遊びじゃない。まあ、勝つのはこの俺だけどな。そして俺は玲と連結合体し、玲を俺の歯車とするのだ!」とロンゲの野生的な少年。

「クニシダ・エレクトロニクスの國司田だ!」

「ワタシが勝利したあかつきには玲様との甘い日常を書籍化する。無論、年齢制限付きだ。フフッ」

「アサクラ出版の朝倉だ!」

「俺は純粋に己の欲望のために戦う!」

「クマダグループの熊田だ!」

 なんとなく危険人物が多い気がする! しかも中野くんから始まったこの国の未来の話が、どんどん尻すぼみになって、ついにただの個人的欲望レベルまで堕落した!

「やべえぞ、光太郎。やべえぞ」

 みながバチバチと火花を散らす中、僕と手嶋は人ごみから離れた。

「こりゃあ、死人が出るかもしれねえ」

 誰 かが名前を呼んでいる。

 肩を揺り動かされ、まぶたを半分開けると、ぼんやりとした景色が徐々に焦点を結ぶ。「こうちゃん、起きて」

 笹淵愛香 (ささぶちあいか)だった。ゆずりとは対照的に血色が良くて、暖かな雰囲気を持った幼馴染だ。幼稚園から同じで、真面目で面倒見がいい性格なので、時々ゆずりの面倒もみてもらっている。彼女が同じ高校にいてくれるのは、なんと心強いことか。

 愛香の表情から、なにやら自分は心配されているようだと察する。にわかに自分が置かれている状況を思い出した。

「うわっ、ごめん。僕、どのくらい寝てた?」

「一分も寝てなかったと思う」と愛香が言った。

 北校舎四階に位置する第二理科室。ここが軽音楽部に与えられた活動場所である。四十人分の机と椅子を並べても余裕のある広い部屋だけど、若干薬品か何かの独特のにおいが気になるのが玉にきずだ。

 今は学年ごとに数人でグループを作ってそれぞれがやりたい曲を練習している。僕は部活中だというのに完全に落ちていたわけだ。

「光太郎、こんなうるせーところでよく居眠りなんてできるな。どんな神経してるんだ?」

 同じく軽音楽部に入った手嶋てしまが部屋の向こう側で音を鳴らしている先輩たちを見やった。恐らく本当に『うるせー』演奏だと思っているのだろう。

 手嶋は小学校の頃からギターをやっていたらしく、最初からどの先輩よりも上手かった。

 知っていないとなかなか気づかないが、校則違反の銀のネックレスが着崩した学ランの胸元から見えている。ツンツンさせた髪や思い切り目にかかっている長めの前髪は、校則に敏感な教師陣によって入学そうそう注意、指導されていた。その場では反省した素振りを見せるが一向に改めないのが手嶋である。

「音がゴチャゴチャすぎて逆に気持ちよく落ちていけるっていうのかな。そんな感じ」

「そりゃあ才能かもしれねーけどな、寝るなら部活中じゃなくて授業中に寝ろよ?」

「手嶋くん! それおかしいから!」

 愛香が突っ込むけれど手嶋は「どうしてだ?」という顔。

「じゃあ笹淵はいつ寝てるんだ?」

「私はちゃんと夜十時から朝六時まで寝てます」

「夜の十時は夜とは言わない」手嶋がからかうように言った。

「言います!」

「おまえは規則正しい小学生か」

「規則正しい高校生」

「十時じゃ大人向けのムフフな番組はやっていない。だからどう考えても夜じゃない」

「ムフフな番組……?」愛香が首をかしげた。「ははあ。笹淵は見たことないんだな? ははあ、そうかそうか。笹淵は知らないのかぁ! いいか笹淵。大学入試ではなあ、大人の知識も問われるんだぜ?」

「な、なに言ってるの手嶋くん」秀才の愛香がうろたえている。中学時代の成績はトップクラスだったけれど、こっちの方面は弱いらしい。「し、知ってるし。私だってそれくらい……」

「へえ! じゃあなにを知っているか見せてもらおうか!」

 手嶋はネズミを追い込んで舌なめずりするネコみたいにニヤニヤする。愛香はおどおどして涙目になっている。手嶋がクラスの女子たちから『ゲス』と呼ばれているのは有名な話である。

 二人が話している間にも再び眠気が襲ってきて、まぶたが泥みたいに重くなって、うとうと。ついさっき意識が飛んだのも二人が舌戦を繰り広げているときだった。三人グループなので僕が止めないと、この不毛な会話が砂漠を歩くがごとく延々と続くのだ。

「あっ、こうちゃんがまた……」

「おいおい大丈夫なのか?」

 肩を叩かれて、はっとなる。「ご、ごめん」意識の半分は寝ていた。

「どんだけ夜更かししたんだ。確かに昨夜の『アイドルの巣』は、なかなかのモノだったが」

「えっ……」と愛香が汚らわしいものでも見るような目をする。

「そんな深夜番組見てないよ!」と僕は誤解を解かなければならなかった。「手嶋と一緒にするなよ!?」

 夜更かしというより疲労のせいかもしれない。睡眠は六時間程度取っているけど、高校生になって、この二週間、家事とバイトのせいで休める時間がほとんどなかった。

 掛け持ちしているバイトのうちの一つは居眠りや度重なるミスが原因でさっそくクビになった。自分の身体の許容量をオーバーしているのかもしれない。

「二人には悪いんだけど、僕、今日はもう帰るよ。休まないとダメそう」

「まあ、そうしたほうがいいんじゃねえか」

「うん。そうしなよ」

 手嶋も愛香も嫌な顔一つせず申し出を受け入れてくれた。部長のところに行って、体調が悪いので帰ることを告げた。

 二人のもとに戻ってくると手嶋が「譜面と椅子、片付けといてやる」と言うので、後片付けを任せた。礼を言って理科室を出る。

 中途半端な時間のせいか、廊下に生徒はまばらだった。歩きながら考える。帰って夕飯を作って、バイトまでに寝る時間が少しありそうだ。ゆずりが文句を言わずに食べてくれればいいけれど。それともスーパーに寄ってカルボナーラソースを買って帰ろうか。そうすれば麺をゆでるだけで寝られる……。

 階段にさしかかったときだった。

「こうちゃん、待って」

 後ろから愛香の声と足音。

「どうしたの、愛――」

 油断だった。振り向こうとして、降ろした右足に力が入らず、床面を滑った。踏み外した、と思ったときにはもう手遅れ。もう片方の足の踏ん張りまで利かないんだから。あれ、こんなはずじゃないのに……という、どこか他人事みたいな考えがよぎり、内臓がふっと浮き上がるのを感じた。

「危ないっ!」

 まさに危機一髪。

 駆けつけた愛香の手がギリギリ間に合い、僕は階段を転げ落ちるのを免れた。手すりを背にして、愛香に押し倒されるような格好で尻もちをついた。文字通り目と鼻の先、制服の真っ白な布が鼻に触れるか触れないかという距離に、愛香の胸のふくらみがある。大きすぎず小さすぎず、理想的な曲線を描いて、ほんのり甘い香りもする――って僕はなにを考えてるんだ!?

 慌てて顔をそらした。二メートルほど下方に、愛香がいなければ自分が転げ落ちていた踊り場が見える。下手な落ち方をすれば骨折したり、頭を打てば命の危険もあったかもしれない。入院なんてしたら、今の僕とゆずりの生活は破綻する。

「気をつけてよ、こうちゃん」

 愛香は僕にまたがったまま、今にも泣き出しそうな声で言った。

 ごめん、と僕は謝る。

「考え事してたというか、ぼーっとしてたみたいで」

「危なっかしいんだから、もう。ケガしてない?」

「うん。大丈夫。愛香は?」

「ううん。こうちゃん、こんな状態で一人で帰れるの?」

「ホントに少し油断しただけだから大丈夫。ホントに。だから、その……」

 僕はなんと言えばいいか迷って口よどんだ。愛香の体温がじんわりと伝わってきて、ドキドキするのに安心感がある。僕の様子を見て、愛香はようやくお互いがとんでもない体勢で会話していることに気がづいた。

「ひゃっ! 私、そんなつもりじゃ……」

「とにかく降りてくれるとうれしいな」

「う、うん。重いよねそうだよね」

 とまた別の理由で泣きそうになっている愛香。だが言葉に反して、なぜかどいてくれない。

「あのー、愛香さん?」

「こ、腰抜けちゃったみたい……」

 仕方なく僕は愛香の下から自力ではいだして脱出し、愛香の手を引っ張って立たせた。

「そういえば、どうして愛香が?」

 ズボンのほこりを手で払いながら尋ねる。

「こうちゃんが心配だったから、仮病使っちゃった」

 愛香は恥ずかしそうに笑う。

「手嶋くんには悪いことしたかも」

「あとで僕がジュースでもおごっておく」

 たまにはこんな放課後もいいかと思いながら愛香の歩幅に合わせて歩いた。小中学生のときはご近所ということもあり、時々こうして一緒に登下校したものだ。体調が良い日はゆずりも一緒だった。

 校舎を出て、正門を抜け、静かな住宅地を進んでいく。

 愛香のうちが見えてくる。引っ越す前、僕とゆずりが住んでいた家も。今は売られて他の誰かが住んでいるはずだ。ろくな想い出はないけれど、それでももうあそこに戻ることはないと思うと胸が痛む。

 ゆずりと二人暮らしを始めたアパートはさらに先。別れる前に、愛香に言っておきたいことがあった。

 僕がなにか言いたげな顔をしていたのかもしれない。しかもきっと内容まで愛香にはバレていた。愛香は顔を曇らせたから。

「こうちゃん……?」

「愛香には言っておこうと思うんだけど。僕、部活やめようと思う」

「……いいの?」愛香は驚かなかった。

「うん」

 愛香は僕の意志を確かめるようにじっと見、俯き、黙ってうなずいた。

 ただ、なにかを言おうか言うまいか迷っているような素振りだったので、僕は少し待った。

「こうちゃん、私ね……」

 愛香は最初、やはりためらっていたが、のどの奥に詰まったものを吐き出すように一気に言った。

「こうちゃんちがすごく大変なこと、分かってた。だけど部活、できればやめないでほしい。だってこうちゃんと会って話せる時間が減っちゃう。別々のクラスになっちゃって、この二週間、部活以外でほとんど話してないし……」

 愛香の言うことも分かる。小学校、中学校のときと比べて、一緒に遊んだり会話したりする機会は格段に減った。中学のときなんか、名門の清華高校に合格するために、愛香は毎日のように僕に勉強を教えてくれた。

 僕はカバンのひもを握りなおした。言葉が見つからないまま、先に愛香が語を継いだ。

「でも、こうちゃんがそうしようと思うなら仕方ないね。そんなに大変なの?」

「ゆずりが高校行くこと考えたら、経済的な余裕はないし、実はこの前、コンビニのバイト、クビになっちゃってさ」

 僕はおどけるように打ち明けた。

「そっか。ところで、ゆずりちゃん元気?」愛香が意図的に話題を変えた。

「うん、あいつは元気だけど、相変わらず口は減らないというか」

「こうちゃん、また怒られてるんだ?」

「まあね」

「今度、会いに行こうかな。ついでに家の手伝いも」

「さすがに愛香を働かせるわけには」

「ついでだよ、ついで。それとも来るなって言うの?」

 愛香は冗談めかして言った。

「そんなことないよ。来てくれたら、ゆずりも喜ぶと思う」

 僕は申し訳なく思いながら、「ありがとう」と言った。

 しかし父は満面の笑顔で言った。

「ブッブー! ざーんねん! 甘いぞ光太郎くん! あまあまだぞっ!」

 その奇妙に高くてオカマっぽい声の、ふざけた『ブッブー』で当時の僕がどれほど傷ついたことか、想像していただきたい。だって入学式の日の朝ですよ? 『中学生!』が唯一絶対の正解だと思い、期待に胸膨らませていた僕の心を、この大人は微塵の罪悪感もなくもてあそびやがったのである。

 僕は自分の父親がつまらない冗談など言わない人間であることを知っていた。それはもう物心ついたときからさんざん思い知らされてきたことだ。

「お、お父さん、まさか、僕は中学生になれないの?」

「それは光太郎くんの努力次第だ!」

 通常誰だって時が来れば自動的に中学生になると思うじゃないですか! 中学受験という言葉は当時から知っていたけれど、万が一それに落ちたってどこぞの学校に入学していっぱしの中学生になることはできる。

 だがこの父の場合、『努力次第』というのは『努力次第』以外のどんな意味でもなく、『努力次第』なのである。つまり僕が努力をおこたれば僕は中学生になれない。そう理解した。

 だが一方で、とにかく周りのみんなと同じように中学生になれる可能性があるということが大事だった。『努力次第』ではなれる。「うん。なれないよ。なれるわけないでしょ?」などと返答されていたら、それは言葉の通り本当に『なれない』ことを意味するのだ。そして僕は実を言うと、そんな当たり前が当たり前じゃなくなるかもしれない恐怖を『ブッブー!』の一言を聞いた瞬間から想像していたのである。だからまずは中学生になれる可能性がゼロではないという点に安堵していた。

「さてじゃあ、もう一度だけチャンスを上げよう。今日から光太郎くんは何になるでしょーか?」

 父は満面の笑みを彫像みたいに維持したまま、もう一度僕の健全なる魂をもてあそび始めた。

 僕は慎重かつ迅速に、思いつく解答を述べた。

「掃除当番、ですか」

「それは元々でしょう?」

「夕食の当番……?」

「それも元々でしょう?」

「洗濯、アイロンかけ、ゴミ出し……」

「全然チガーウ!」

「下僕、奴隷、家畜、カモ、玩具、人形、傀儡、国家の犬……」

「やだなぁ、光太郎くん。そんな物騒な言葉、どこで覚えたの?」

 僕は何か言わなければと必死に答えを探したが、父が求めている解答を見つけることはできなかった。父の質問に答えられないとき、いつだって僕は見えないロープが自分の首を刻一刻と絞めていくかのような想像に駆られる。この人の笑顔は笑顔ではない。

「はーい、タイムアップ。時間切れでーす」

 僕は蒼白になり、カタカタと歯が鳴って両手が震えた。父の意に添えないとき、たいてい僕の身には『嬉しくないこと』が起こる。一週間犬小屋生活とか、一週間パンの耳生活とか、一週間きゅうり生活とかである。一体何をさせられるのかは想像もしたくなかった。だけどそれ以上にもう普通の中学生として学校に通うことは叶わないのかと考えて死にたくなった。

「光太郎くんはマジ甘いなぁ。そんなんじゃいつまで経っても大人になんかなれないぞっ! あ、そんなにビビらなくていいよ。これはね、むしろ光太郎くんにとって嬉しい知らせなんだからね」

 ぶるぶる震える僕の肩に、父が手を置く。まるでゴムとプラスチックで作ったみたいな手だと思った。

「正解を発表するぞ! 今日から、ナナナ、ナント! 光太郎くんはお兄ちゃんになるのです!」

「わーい!」と言ったのは父であって僕ではない。僕は突拍子のなさすぎる解答が理解できずにキョトンとしていただけだ。父は笑顔のまま玄関のほうへ消えた。そして僕の前にすぐ戻ってきた。僕よりも一つか二つ年下と見える女の子の手を引いていた。

「光太郎くんは今日から、このゆずりちゃんのお兄ちゃんになります。ゆずりちゃんは光太郎くんの妹になりまーす。やったね!」

 父はそう言って気持ち悪いウインクをしてみせて、ゆずりと呼んだ女の子の背中を押して、僕の前に導いた。全く聞いたことない名前だし、会ったこともない女の子だった。

 こいつ、ついにやっちゃいけないことをやりやがったか!? 僕は110のナンバーを思い浮かべつつサッと固定電話を確認する。よかった電源が点いている。我が家にはケータイというものは存在しないのだ。僕は電話越しに状況を説明している自分の姿を想像して惨めな気持ちになった。

 当時ゆずりは十一歳。小学六年生に上がるところ。つまり僕の一つ下である。

 第一印象は近寄りがたいタイプだった。いつもクラスの端っこで一人で過ごしていて、笑顔も見せず仏頂面をしていて、同じクラスにいたとしてもなかなか名前も覚えられなそうなタイプだった。でもそれはいきなりこんなところに連れて来られたせいもあっただろう。

 ゆずりは色白で、長い髪の、線が細い女の子だった。小柄でほっそりした体。手足は海岸に転がっている流木のように見えた。細筆でさっと引いたような眉。小さな鼻と、きゅっと閉じられた唇。年齢より若干幼い。簡単に壊れてしまいそうな儚さを感じさせるが、それは彼女が事実病弱だったからだ。

 僕はこんな気持ち悪いおっさんに連れてこられてしまった彼女に同情しつつ、一応、社交辞令的笑顔を作った。すると彼女は少し目をつりあげて僕を目だけで威嚇した。その様は手傷を負った野生動物の拒絶の雰囲気と同じで、何だか痛々しかった。

 ゆずりは父や僕、その他自分を取り巻く全てを警戒しているようだった。「わたしに近づくな」と、つりあがった目が語っていた。

 僕は何も言わなかった。

「というわけで、光太郎くんは学校にいってらっしゃい」

 何がどう『というわけで』なのか不明だったけれど、僕は結局うながされるまま中学校へと登校した。僕は何を努力したわけでもないけれど、中学生になれるようだ。もしかしてさっきの『というわけで』は「通報するな」という意味なのか。それが僕に課せられた努力?

 今朝目覚めたときには胸いっぱいに詰まっていた期待とか興奮なんてもうどこにもなかった。学校にいる間にも、さっき紹介されたゆずりという女の子のことが気になって仕方がなかった。

 一体何者なのか。妹になるとはどういう意味か。今もうちにいるのか。何をしているのか。させられているのか。すぐにでも通報すべきか。通報したとして、その後、僕や父やゆずりの人生はどうなるのか……。

 とはいえ、だいたい父の言うこと為すことは常識に照らし合わせればおかしいので、あまり深く考えても仕方がない。いまさら誘拐と監禁程度で取り乱す僕じゃない。なるようになるだろう、というのが僕の経験則だった。ゆずりという女の子には不憫だけど、とりあえず新しい友達を作ったり、どんな部活に入るかというほうが僕にとって重要だ。

 学校から帰宅すると父は家にいなかった。気まぐれで帰ってこない日も多く、いつものことだ。その代わりさっきの子、つまりゆずりがいた。居間のソファで両膝を抱えて明かりもつけずにテレビを見ていた。

 僕が居間に入っていっても、ゆずりはぴくりともしなかった。電気をつけても反応なしだった。僕は自分の家なのに妙な居心地の悪さを感じた。知らない女の子が居間でテレビを見ている。しかも彼女が座っているのは僕がいつもくつろいでいた席だった。僕専用のふわふわクッションが、今はゆずりの小さな尻の下でつぶれている。

 僕は無言なのはどうかと思ったので、普段は言わないのに「ただいま」と言ってみた。ゆずりには聞こえなかったのか、全く無反応だった。僕は立ったままじっと彼女の横顔を観察した。見ているのはお笑い番組で、ブレイク中の芸人がネタを披露してもくすりともしない。なぜか不機嫌そうな仏頂面。軽蔑するような目でテレビを凝視している。まぶたが開いてなかったら、生きているのか死んでいるのかも分からないと思った。今朝は気付かなかったけれど、軽蔑するような目をしてなくて、かつ仏頂面でなく笑顔だったら、けっこう可愛いかもしれないのにと思った。

「あのさ……」

 僕は呼びかけてみた。返事はない。テレビに集中しすぎて聞こえてないのか。もう一度、今度はちゃんと聞こえるように声を大きめに呼びかける。

「そこのきみ……」

「なに」

 振り向きもせず若干苛立っているような声が返ってきたので、僕はどきっとした。

 何をこんなにびびっているんだ。ここは僕の家であってあの子の家じゃないぞ、と気を取り直す。

「なんでうち来たの?」

「来たくなんかない」

 僕は自分の質問とゆずりの返答を反芻した。会話、噛み合ってないような。いや、無理やり連れてこられたということなのか?

「あの……」

「なに!」

 さっきよりさらに不機嫌そうで威圧的な『なに!』だったから、またドキッとしてしまった。なんだか理不尽に思えてきて、僕も反撃すべく語気を強める。

「来たくないのにどうして来たの?」

「最ッ低」

 うん。素晴らしいほど噛み合ってないね!

 しかも、どうやら敵意が含まれているように思う。なにがどう最低なのか僕には分からなかったけど、敵意は当然か。いやもう全てが最低なのかもしれない。僕もあの父の側の人間――っていうか事実そうなんだけど――だと思われているのだろう。でもそんなふうに思われたくはない。

「もしよかったら警察に通報しようか?」

 僕は善意の提案をした。もし僕が警察に通報したことによって中学生を降板させられても、この女の子が受けた理不尽に比べればいくらかマシなんじゃないかと思った。それに通報は市民の義務だ。

「はあ?」

 ゆずりはテレビから目を離し、キッと僕をにらんだ。

「あんたこそ通報されたいの?」

「すみませんでしたやめてくださいお願いします……」

 あれ? なんで僕が土下座してるんだよッ!?

 しかもすでにこっち見てないし。テレビに見入ってるし!

 それにしても僕がなにをしたわけでもないのに、この女の子は不機嫌になっていて僕のこと通報するとか言って脅してくるし、僕の特等席を不法占拠してるし、僕はマジで泣きたい。

 こんな現実なにもかも見なかったし聞かなかったことにして今すぐ二階の自室のベッドに直行してそのまま眠ってしまおうかと思った。

 だけど今二階へ逃げたら簡単にここには戻ってこられないような気がした。それに特等席に座ってテレビを見る権利を永遠に剥奪されてしまうような気もした。なによりこのままだと僕の居場所がないというか、自分のうちなのに居心地が悪すぎる。だから僕は勇気を振り絞ってみた。

「そこ、僕の場所なんだけど……」

「だから?」

 振り向いたゆずりは汚らわしいものでも見るような軽蔑の目。ゴミクズを見るような目。理由もよく分からぬままにそんな目を向けられたのは僕にとって人生で初めてだったから、なんだかもう「死ね」とでも言われたくらいショックだった。僕はちょっとだけ泣いた。何も言えなくなってしまって突っ立っていたら、ゆずりはやっぱり僕を放置してテレビに向き直った。

 僕はとにかくこの居心地の悪さと理不尽が早く去ってくれることだけを祈った。涙をぬぐって精神的に落ち着いてから、もう一度話しかけた。

「いつ帰るの? 帰らないの? あの人、今ならいないけど」

「あんた、お兄ちゃんづらする気? 本気でわたしのお兄ちゃんになったと思ってるわけ? うざいんだけど」

 僕はまた泣いた。というか質問を無視しないでほしい。これじゃなに一つ問題が解決しないじゃないか。僕は未だになにひとつこの状況を理解できていない。

「僕の質問に……」

「うざい」

 結局僕は自室に逃げ込んでべそをかいて眠った。なにあの女の子、マジこわい……。

 目が覚めると陽は沈みかけていた。僕は部屋の片隅に立てかけてあったアコースティックギターを手に取り、たそがれと僕の心境を映したような寂しいメロディを奏でた。僕は唯一の趣味に没頭することで現実逃避をしたのだ。

 やがて夕食の準備を始めるにぴったりの時間になり、のそのそとキッチンへ向かう。

あの女の子もう帰ってたらいいな、と淡く期待したのだけど、居間をそーっとのぞくと同じ場所にゆずりがいて同じようにテレビを見ている。こわかったけれど、もう誰もいないことにしてキッチンで夕食の用意を始めた。手始めにニンジンを切る。

「スパゲッティ」

 いきなりゆずりが口を開いた。僕はそれが独り言ではなく今晩のメニューのリクエストだということに気づくまで数分かかった。僕はそのリクエストを無視した。無視してやった。スパゲッティのストックはあるけれど昨日炊いたご飯がまだ炊飯器に残っているのだ。僕が明らかにスパゲッティじゃない夕食を準備しているのを、ゆずりがのぞきにきた。

「聞いてなかったの!? わたしはスパゲッティが食べたいの!」

「いつ帰るの?」

「カルボナーラを作りなさい」

「…………」

 絶対にカルボナーラだけは作ってやらないと僕は神に誓った。いきなりやってきて勝手に特等席に座ってテレビを見て夕食にまでありつこうだなんて、どれだけずうずうしいヤツなのか。いや、この子、うちの父親が誘拐してきたんだっけ? じゃあ僕が責任持って面倒見なきゃならないの? 僕は「とにかく早く帰れ」と胸中で念仏のように唱えながらネギを刻んだ。

 とはいえ、おなかが空いているらしいゆずりの目の前で自分だけが夕飯を食べるのはさすがに性格が悪い。一応ゆずりのぶんも作ってやるつもりだった。

 三分ごとにわめくゆずりを完璧に無視して、僕は夕食をこしらえた。煮物に焼き鮭、サラダ、味噌汁。父は帰ってくるのか分からないけれど三人分。

 それをダイニングテーブルに並べていると、ゆずりがまた近づいてきた。夕飯のラインナップを見るや、皿を指差し、僕をにらみつけた。

「なにこれ」

「しゃけ」

「そんなこと見れば分かるの! わたしのスパゲッティはどこか聞いてるの!」

 ゆずりはフローリングを思い切り踏み鳴らして怒鳴った。大人しそうなヤツかと思ってたけど、とんだじゃじゃ馬だ。黙って座っていれば深窓の令嬢とも見受けられるのに。

「そんなものないよ」

「ない? 今、ないと言ったの? わたし、スパゲッティがいいって言ったでしょ? あんたのこの耳は飾り? それともこの頭? このすっからかんの頭が悪いの?」

 義理もないのに――いや、あるのか?――親切で夕食を用意してやったのに、ひどい言われようだった。僕もカチンときて言い返した。

「気に入らないなら食べなければ?」

「人をあれだけ待たせておいてその態度はなに。わたしは今日スパゲッティしか食べないって決めてるの! 今すぐスパゲッティを作りなさい。おなか空いたからさっさとして! 早く! 一分で!」

 わめくゆずり。僕は無茶苦茶な要求を聞くことなく席についた。耳元でキンキンとやかましいけれど、いちいち相手をする気にもならない。「いただきます」と言っておはしを取ったとき、突然ゆずりが激しく咳き込み始めた。

 最初は少し静かになってよかった、くらいにしか思っていなかった。だけど咳はだんだん痛みとか苦しさとかを伴っているたぐいの咳になり、しかもいつまで経ってもやまず、ゆずりは胸元をぎゅっと握り締めて床の上にうずくまってしまった。

「どうしたの!?」

 さすがに無視できなくなった。父は不在。なにかあっても頼れる人はいない。依然として苦しそうに咳をするゆずり。僕は青ざめて我を見失いつつも、ぎこちなくゆずりの背中をさする。

「ねえ、大丈夫なの!? 薬持ってる? 救急車呼んだほうがいい?」

 ゆずりは咳き込みながら首を左右に振った。拒否だった。本当に呼ばなくていいのか? どうしていいか分からないまま、ゆずりの背中をさすっていた。数分で咳は落ち着いた。

 ゆずりは目も合わせず、ソファの特等席に戻っていった。僕はゆずりの目尻にたまった透明で宝石みたいな涙の粒を見た。

「もう大丈夫なの?」

「わたしに優しくして、いい人ぶる気? 最ッ低の偽善者ども」

 傷ついたけれど気にしないようにして僕は夕飯を食べ始めた。煮物を口に運びながらゆずりの様子をうかがうと、やはり蔑むような目でくすりともせずお笑い番組を見ていた。

「夕飯いらないの?」

 返事すらしてくれなかった。

「もううちに帰ったほうがいいんじゃないの? なにしにうち来たの? なんで来たの? あの人とどんな関係? 誘拐されたの?」

 鉄壁の無視だった。これ以上相手をするのも疲れるので、僕は食器を洗って風呂を沸かして入って洗濯機を回して洗濯を干して、明日の授業の準備をして部屋で音楽を聞いて、もう寝ようと思ったけど最後に居間に戻ってくると、ゆずりはまだいる。ダイニングテーブルの上には、二人分の食事が手付かずで残っている。

「うちに泊まる気なの? 帰り方が分からないの?」

 他人がうちの中にいる状態で寝てしまうのは防犯的にいかがなものか。僕は迷う。

 だけどゆずりは質問に一切答えてくれないし、黙ってテレビを見ているだけだし、放っておくことにした。この家の中に取られて困るものなど、たぶんない。だから父もほったらかしているのだ。それにしても父の脳内は全く理解不能。せめてこの状況を説明するメモかなにか残してくれればいいのに。

「僕、もう寝るよ」

 分かっていたけど返答はなかった。

 中学生初日の夜はふけていった。

 ***

 如月銀二きさらぎぎんじは優雅な物腰で、赤茶色のつややかな樫のドアをノックした。

「だれ?」

 ドアの向こうから、凛とした少女の声が返ってきた。

「お嬢様、わたくしでございます」

「入りなさい」

「失礼いたします」

 銀二はそっとドアを引いて、タキシードをまとった長身痩躯を滑り込ませた。

 広々とした部屋には天蓋付きのベッド、テーブル、棚、どの調度も一級品で、細かな意匠が施されている。色調は全体的に入り口のドアと同様、赤茶色で統一されており、ヨーロッパの古風な館のような風情があった。

 シルクのパジャマに包まれた少女が窓際に立って窓外を眺めている。銀二がすでに四十年以上仕えている竜洞寺りゅうどうじ家の令嬢、竜洞寺玲れいである。

 ウェーブのかかった豊かな金髪がひらりと踊った。

「何の用かしら、銀二」

 遺志の強そうな瞳が銀二を射抜く。

 若干十二歳、中学生になったばかりだというのに、日本人離れした美貌とスタイルを兼ね備えている。銀二はこの少女から神々しささえ感じていた。出るところは出て、引っ込むところは引っ込み、街を歩けば男という男が振り返る。偉そうに組んだ腕の上に乗っかっている二つのふくらみは、並みの女が束になっても勝負にならない代物である。これでまだ成熟し切っていないのだから末恐ろしい。

 銀二は老体にふっと力をこめ、背筋を伸ばした。

「これといって用事があるわけではございません」

 玲はいぶかしむように、見下すように片方の柳眉の端を持ち上げた。

「ずいぶん暇なようね。仕事がないなら自分の墓でも掘ったらどう?」

「すでに掘ってありますので、次はお嬢様のために温泉でも掘ろうかと思っております」

「あらそう。期待しているわ」

 玲は全くこれっぽっちも期待していないような調子で言った。

 とうに陽は落ち、外灯が西洋風の庭を淡く照らし出している。高い鉄柵の向こうには一般道が走っており、人々の羨望の視線には事欠かない。

「ところでお嬢様、登校初日はいかがでしたか」

「どうもないわ」

「楽しかったですか」

「別に」

「お友達は何人くらいお作りになれそうですか」

 その言葉に動揺したように、玲が視線を彷徨わせた。

「と、友達なんて、どうでもいいことよ」

 銀二はそこからほとんど全てを察することができた。といっても、事前に玲の学校の生徒らに周到な聞き込み調査を行なったからでもあるが。

「そんなことございません、お嬢様。お友達は、大切なものでございます」

「いらないわ。私を理解して友達になれる者などいないでしょうし。庶民にすり寄る気もないわ」

「ではお嬢様、お昼ご飯はどちらで、どなたとお召し上がりましたか?」

 玲がさらに激しく動揺した。

「お昼ご飯は、お昼ご飯は……」

「それから、体育の準備運動で二人組みのペアを作るときは、いかがなさいましたか?」

「うっ……なぜそれを」

「やはりお一人でしたか! お寂しい!」

 銀二はポケットからハンカチを取り出し、金属フレームのメガネを押し上げて涙をぬぐった。

「嗚呼! なんとお寂しい! お父様の学生時代をご存知ですか? それはそれは人望厚く、周囲には常にお友達があふれ……」

「黙りなさいこの老いぼれじじい!」

 玲が歯軋りして激昂した。しつけの悪い犬のようになりふり構わずわめくそのさまは、美人も形無しである。

「一体何様のつもりなのよ!? この竜洞寺玲様に向かって、そのような口の利き方が許されると思ってるのかしら。あんたなんか自分の髭に絡まって息ができなくて死ねばいいんだわッ!」

 お仕えするお嬢様こと玲からブラックな冗談を浴びせられるのは、日課のようなものである。まあ、たまにというか、時々というか、九十パーセントくらいは冗談でなく本気のようだが。

「失礼ながら申し上げますが、充実した楽しい学校生活を送るためには、お友達は必須と言ってよろしいかと」

「何が『失礼ながら』よ!? あんた私を鼻で笑ったでしょ!?」

「いえいえ、この銀二、そのようなことは決してございませぬ」

「鏡見て物言いなさい死にかけ! 口が笑ってんのよ!」

「おっと、わたくしとしたことが」

「今度その不愉快な顔を見せたら、あんたをミンチにしてブタのエサにしてくれるわッ!」

「その際は、ぜひお嬢様ご自身の手でお願いいたします。――いな! 足でお願いいたします」

「なんでもいいからくたばってくれる?」

「お嬢様がお望みなら今すぐにでも。嗚呼、こうしてお嬢様のお膝元にて我が一生の幕を降ろすことができるかと思うと、それだけで銀二は、銀二は……トキメキで胸が張り裂けそうでございます」

「さっさと張り裂けろ」

「ありがたき御言葉。お嬢様にお仕えし、罵られ、罵倒され、侮蔑され、虐げられたこの十二年間、銀二は最高に幸せでございました。さあ、お嬢様、わたくしを踏んでくだされ。わたくしの心臓がその役目を終えて最後の命の一滴を吐き出す瞬間まで、どうかわたくしを踏み続けてくだされ。ただ、これだけは申し上げておきますが、しっかりとお友達をお作りくださいませ」

 と銀二は両膝を突いた。

「そんなもの要らないと言ってるでしょう!」

「そうおっしゃらず、お友達との青春を謳歌なさってはいかがですか」

「うるさいッ! あんたの望みどおりあの世に送ってやるわ」

 ひざまずく銀二に、げしげしと蹴りを食らわせる玲。

「嗚呼、お嬢様! もっと激しく、愛と憎しみをこめてくだされ!」

「ええい早く地獄に落ちなさいヘンタイ白髪ゾンビ!」

「お嬢様! 上半身だけでなく下半身も! まんべんなく!」

「くたばりなさい、くたばりなさい、くたばりなさいッ!」

 最後の一発を食らわせ、銀二が動かなくなると、暴虐王女は息荒く頬を蒸気させて部屋を出て行った。

 部屋には靴跡だらけの銀二が無様に横たわっている。暴走機関車のように鼓動していた心臓が次第に、だが確実に落ち着いていく。

 嵐のような興奮が去った後、銀二は床に大の字になったまま天井を見上げ、大きく息を吐いた。豪奢なシャンデリアが走馬灯のように無数の光の断片となって、視界に散らばった。

「独りは寂しいものでございます 、お嬢様」

 そして神に懺悔ざんげするように呟いた。

「この老いぼれは、今日もまた生き延びてしまいました」

 ***

 翌朝、わがまま少女がいなくなっていることを祈りつつ居間に降りてきた僕は、ソファで眠っているゆずりを見て深い溜め息を吐いた。

『今日から光太郎くんはお兄ちゃんになります』

 昨日の父の言葉を思い出した。この言葉はつまり、ゆずりがこれからずっとこの家で生活するという意味なのだろうか。というか、そう簡単にお兄ちゃんってなれるものなのか。

 昨晩、ベッドの中でいろいろ考えた。だってバカ親はいないし当のゆずりもなにも教えてくれないのだから考えるしかない。ゆずりは父や自分とどういう関係の人間で、どういう経緯でここに来たのか。ゆずりが望んでここに来たわけではないのはなんとなく分かる。行く場所もないのかもしれない。隠し子か、養子か、家出娘か、誘拐か。どれもありそうだと思ったけれど誘拐されたのなら昨日のうちに逃げなかったのは変だ。

 僕は寝ているゆずりをのぞきこんでみた。二人がけのソファに体を丸めてすっぽりとおさまり、静かに寝息を立てている。表情は穏やかでこう見ると邪気のない純粋無垢な少女に見える。染み一つない病的な白い肌は薄暗がりのせいか向こう側が透けて見えるかのようだった。

 不意にゆずりが身じろぎ、薄目を開けた。一瞬だけ目が合うが、まだ眠いのか、腕で顔を覆ってしまった。

「ヘンタイ」

 むにゃむにゃしているくせに侮蔑だけはしっかりと乗せた『ヘンタイ』だった。

「ごめん。おはよう」

「…………」

 ゆずりは器用に寝返りを打って顔を背けた。寝ているとき以外は不機嫌な人種なのかもしれない。

「きみ、名前、ゆずりだったっけ? 確認だけど、誘拐されたわけじゃない?」

「だったらなに」

「もし万が一誘拐なら、息子として、バカ親を自首させる義務があると思って」

 『バカ親』の部分は強調しておいた。でも昨日の調子だとまともな返事が返ってくるのは望み薄なので、僕は適当にキッチンに行ってお湯を沸かす。しばしの間があって、ゆずりが起きた。髪の毛に変なくせがついている。

「自分の父親のこと、そんなふうに思ってるの?」

 彼女のほうからまともな質問をしてきたのは意外だった。

「まあ、うん。あの人の頭の中、脳みその代わりにマヨネーズが詰まってるから。あ、僕があの人の悪口言ったこと、ばらすなよ?」

「ぷっ……」

 ゆずりが小さく吹き出した。年相応なところもあるんだな、と僕は和やかな気持ちになる。

「なんだ。普通に笑うんだ」

「笑ってない」

「でも今……」

「笑ってない!」

 ゆずりはまた仏頂面に戻って、不機嫌をあらわにした。

 ほんのりと頬を赤らめて、そっぽを向いている。もう面倒なので笑っていないことにして、僕はミルクココアを二人分いれた。今朝も父は帰っていない。

 父がゆずりにとってだけでなく、僕にとってもある種の敵――というか憎むべき存在――だという共通認識ができたこと。つまり僕が父側ではなく、ゆずり側の人間なのだと分かってもらえたこと。さらには僕が言った悪口が、二人にとってのささやかな秘密の共有になったこと。それらの事実によって、このとき初めてなにか二人のあいだに絆のようなものが生まれたみたいだった。

 これが二人の共同生活の始まりだ。

 そして僕はお兄ちゃんに。ゆずりは妹になった。

「ココア飲む?」

 返事はなかったが、テーブルにコップを置くと、ゆずりはのそのそと寄ってきた。口をつけるのを躊躇っているらしいので、「冷めるよ? 飲まないなら僕が飲むけど」と助け舟を出してやる。それでようやく椅子に腰かけて飲み始めた。

「誘拐されたんじゃないなら、あの人とどういう関係?」

「知らない」

「じゃあどうしてうちに来たの?」

「パパもママも死んだから」

「ごめん」

 僕はそれ以上、質問をするのをやめた。あとで分かったのは、父とゆずりの関係は、遠い遠い親戚だということ。僕は父が善意だけで厄介ごとを引き受けるような人物ではないと思っている。なぜもっと近しい親戚ではなく、父がゆずりを引き受けることができたのか、それは分からない。ゆずりは親戚や父をさんざん偽善者と呼んだ。彼女が大人たちを軽蔑しているのは明らかだった。父と親戚たちの間で、なにか取り引きがあったのだと僕はにらんでいる。

「昨日、何も食べなかったの?」

 ゆずりはソファに膝を抱いて座って、テレビを見ている。

「あんたのせい。あんたが無能だから」

「カルボナーラじゃなくてもいいなら、作るけど」

 ゆずりはテレビを注視したまま何も言わない。けれどカルボナーラという言葉にぴくりと体が反応していたのを見逃さなかった。よほどおなかがすいているのだ。

「僕、そろそろ学校行こうかな」

 ゆずりがはっとして時計を見た。まだ八時前で本当は余裕がたっぷりあるのだけど、ゆずりには僕の芝居が見抜けなかったようだ。

「今すぐ作り始めれば、まだ間に合うんだけどな」

「い、今すぐ作りなさい!」

 ゆずりは真剣な面持ちで時計と僕を交互に見る。

「命令されると作る気がなくなるなあ。どうしよっかなあ。人に物事を頼むときは、言い方って大事だよなあ」

「作って。早く」

 ゆずりのおなかが、グウと鳴った。

「あ、もう間に合わないかも。やっぱり学校に行こうかな」

「待って! 作って、くだ、くだ、くだ……スパゲッティ……お、おね、がい……」

 ゆずりは目尻に涙をいっぱいためて、屈辱と空腹の狭間で揺れながら、悔しそうに声を絞り出した。最後のほうは蚊が羽ばたくような声ではあったけれど、ちゃんとお願いできたので、僕はスパゲッティを作ってあげることにした。

 わかしたお湯の残りを鍋へ。昨晩の残りの煮物や鮭を使って、しょう油ベースの和風ソースを作ってみた。これをゆであがった麺にからめる。ゆずりは今や台所まで来て、僕の一挙手一投足を大袈裟な視線で見守っていた。

「はい、できた」

 僕がお皿に盛り付けると、ゆずりは瞳を満天の星空よりも輝かせた。

「どう? おいしい?」

 無言で黙々と食べるゆずりに尋ねてみた。

「あ、あんたっ、料理できるからってお兄ちゃんづらする気?」

 空腹の危機から脱したためか、強気なゆずりに戻っていた。

「そんなつもりじゃないけど。あと僕いちおう、光太郎っていう名前なんだけど」

「うるさい。おいしくなんかない!」

「文句言うなら食べなければいいのに」

「まずくも、ない」

「ありがと」

 僕は快調に動くゆずりのフォークを見て、にこりと笑った。

 ゆずりは顔を赤らめて、フォークを口にくわえたまま、

「こんなことでわたしのお兄ちゃんになったと思ってるわけ!? おめでたい頭!」

 と憎まれ口を叩いた。

 僕とゆずりが家族になり、父が家族を抜けたというか失踪したのは、この日からだったと言っていい。

 父が何日も家に帰って来ないのは、今に始まったことではないけれど、少なくとも僕は高校生になるまで、再度父と顔を会わせることはなかった。

 失踪中、父は二度、手紙を送ってきた。

 一通はアメリカからの国際郵便で、形式的な短い挨拶と、ただ一言、

『毎月一回、必ず、ゆずりを手嶋病院に連れて行くこと』

 と書かれていた。

 それから時は過ぎ、

 僕は高校生になろうとしていた。

 ゆずりは中学三年生になろうとしていた。

 高校生は大人である。ゆえに自分の力だけで生きていかなければならない。

 そして大人は家族を養う義務を有する。だから妹の面倒はしっかりみるように。

 これが父の主張だった。

 しかし大人になったからといって、いきなり路上に放り出されても困ってしまう。これはさすがに厳しすぎる。だから住むところくらいは用意してやる。というわけでアパートだけは父が借りてくれた。今まで住んでいた自宅は、資金調達のために売り払うのだそうだ。いったいどこでなにをやってるんだか。

 これが父がくれた二度目の手紙の内容だ。

 父は僕とゆずりを養う義務を半ば放棄した大人なんじゃないだろうか?

 自分はわけあって身を隠さなければならない、とかいう説明もされていたけれど、どこまで本当なのだか怪しいものだ。

 一見無慈悲な父の対応は、しかし僕にとっては大歓迎だった。父の面倒をみなくていいぶん、仕事が減る。父に怯えずに勝手気ままに生きていける。なんと素晴らしいことか。

 実際、ゆずりとの二人暮らしは父との二人暮らしより楽だったから、父がこのまま失踪していてくれればいい、なんて親不孝なことを思っていた。

 ゆずりがこれらのことについてどう思っているか、僕には分からない。

 いずれにせよ、僕らは新居での生活を始めた。

「 なにこれ」

 ゆずりはスパゲッティの皿から半透明でひょろっ、くたっ、とした物体を摘み上げた。

「モヤシだけど」

 僕は今週すでに三度目のセリフを繰り返した。

「そんなこと見れば分かる! なんで今日もスパゲッティの具がモヤシなのか聞いてるの! あんたの頭がモヤシなんじゃないの!?」

 ゆずりの怒鳴り声がボロアパートに響く。フォークを握ったままこぶしを何度もテーブルに叩きつけて、不満をあらわにしている。ソースが飛び散るのもお構いなし。

 いつものことだ。

 父から離れて兄妹二人で始めた新しい生活は、順調といえば順調だった。もともと住んでいた家から一キロも離れていない場所にある築二十五年のアパート。その二階の階段をあがってすぐの部屋だ。アパート自体は水色の外観で可愛らしくもあるが、中はボロい。こんなボロい家には住みたくないと、文句を言うゆずりを説得するのは大変だった。雨風のしのげるところに住めるだけありがたいと思ってほしい。

 壁が薄いからお隣さんにはゆずりの怒鳴り声がよく聞こえてしまっている。

「もう少し静かに。この前も言ったけど、それ近所迷惑だからやめてよ。あとうちはお金に余裕がないから」

「なんで余裕ないの!」

 ゆずりが声を抑えてくれないのもいつものこと。苦情を言われてヘコヘコするのは僕の役目なんだから本当にいい御身分だ。

「なんでって、ゆずりが来年高校行くこと考えたら貯金しないとやってけないの。少し我慢してよ」

「イ、ヤ! わたしは我慢っていう言葉が世界で一番嫌いなの」

「おとといは、一番は節約だって……」

「うるさい! どっちもおんなじ! とにかくこんなの食べられない」

 ゆずりはフォークで皿をテーブルの端に押しやる。僕はやれやれとため息を吐いた。

 これまでは全部父のおかげで一応不自由なく生きてこられたけど、二人暮らしを始めてすぐに経済的な問題に直面した。父の援助はあくまで衣食住の住に限ったことだけで、二人分の食費、衣類やその他日用品などの費用までは援助してくれない。実子である僕の高校の入学金やら授業料やらは全部払ってくれたみたいだけど、ゆずりのぶんまでは出してくれるか怪しいのだ。『高校行きたきゃバイトしろ』っていうのは病弱なゆずりには無理な話だから、必然的に『高校行きたきゃ光太郎にバイトさせろ』っていうふうに変換されるわけで。

 当初父はいくらか貯金を残してはくれたが、それもすぐに尽きてしまうのが見えていた。だから今は僕がバイトをかけ持ちして生活をやりくりしつつ、ゆずりの高校進学のために貯金もしている。ちなみに僕の高校の入学式は明日だから、まだ高校生ではないのだけど、経歴をすっとぼけて高校生として雇ってもらっている。

「部屋は汚くて狭くてボロいし、ご飯はまずいし。最ッ低」

 人の気も知らないで、ゆずりは食事中だというのに寝転がってぼやいた。お行儀が悪いのは集団生活を回避しちゃってきたせい? ゆずりは病弱ゆえに学校も休みがちなのである。

 僕は味気ないモヤシスパゲッティを口に運び、ぺらぺらとめくっていた求人情報誌からゆずりへと視線を移した。

 あいかわらず病的に白い肌と華奢な体。髪は出会ったときより長く、色あせた畳の上に放射状に散らばっている。手入れをしているところは見たことがないけれど、ゆずりほどサラッサラの髪をした女子はいない。不思議なものだ。床屋や美容院に行きたがらない――というか外出自体嫌がる――ので、「僕が切ってみようか?」と提案したら「気持ち悪い、死ね」って言われた。死にたい。

 たいていいつもなにかしらに不満があって、不機嫌なのがゆずりだ。顔立ちは整っていて美人の素質があるのに、常に仏頂面で性格もこんなだから友達も多くない――というかいない?――みたいだ。

 特に目は「わたしはあなたを軽蔑しています」と饒舌に語っていた。もうこの目でにらまれることに慣れてしまったけど、普通こんな目を向けられてお友達になりたいだなんて思うのは特殊な性癖の持ち主くらいである。ゆずりの将来が心配でしかたない。

 ゆずりはほとんどの時間、パジャマでうちにいる。白地に小さな花の模様が散らしてあるのがお気に入りの一着だ。

「そんなところでヘソ出して寝てると、また具合が悪くなるよ」 

 僕が忠告すると、ゆずりはさっとおなかを隠してそっぽを向いた。

「見るなヘンタイ」

「見たくて見たわけじゃないんだけど」

「見たことには違いないでしょ! だったらヘンタイ確定。それとも兄妹だったらなにしても許されるとか思ってるんじゃないでしょうね」

「僕とゆずりがなにするっていうの?」

「なっ、なにって、なにもしないに決まってるでしょ!? 誰があんたみたいなモヤシと……」

「ほらほら興奮するとまた咳が……」

「興奮してないっ!」

 テーブルが下からガコンと蹴り上げられた。僕はふっとんだフォークを空中でキャッチして、ゆずりの皿の上に戻す。

「この調子なら明日の始業式、行けそうだね」

「うるさい」

 またフォークが宙を舞った。

 僕は求人情報誌に目を戻す。頭の隅で考えているのは、明日の朝食と昼食の弁当のメニューをどうするかだ。なんとか工夫してゆずりにモヤシを食べさせなければならない。

 時計に目をやる。

「やべっ。のんびりしすぎた」

 急いで残りのスパゲッティを口に放り込み、食器を片付ける。胸に三角のピザのロゴと『ピザ・フリークス』という文字が刺繍されたバイト用の制服に着替え、かばんの荷物をチェック。それを横目に見ていたゆずりが「今日もなの?」とぼやいた。

「たぶん十二時過ぎるから、ゆずりは寝てていいよ。明日学校行くんでしょ? お弁当は何がいい?」

「モヤシ以外」と普段なら言うのだけど、ゆずりは向こうを向いてしまって顔を見せず、何も答えない。

 僕はもう一度時計を見、慌てて玄関を出た。

 桜が満開に咲きほこり、ピンク色の小さな花びらがひらひらと舞う。

 僕は私立清華せいか高校の立派な校門を通り、入学式会場の体育館へと歩を進めていた。

 三年前の、中学校の入学式を思い出す。あの日に比べたら、なんて平和な日なのだろう。知らない女の子がいきなり家に連れ込まれたり、知らない女の子に罵倒されてベソをかくこともないのだ。

 求めるのは平和で平穏な日常だ。僕の人生は脳みそマヨネーズの父のせいで波乱ばかりだった。しかしもう父はいちいち干渉してこない。

 僕は緊張しつつ、晴れやかな気持ちで体育館に到着した。受付を済ませ、中に入る。やたらと広いし綺麗だし、相当な金がかかっていると感じた。それもそのはず、清華高校はここらじゃ有名な金持ち学校で、社長令嬢とかボンボンとかそういう人たちもけっこう通っているのだ。ちなみに僕は生粋の庶民なのだけど、父が「そこにしろ」というので「そうします」と答え、諸々の試験などを通過して入学した。

 僕は荘厳な空気に圧倒されながら、ほかの新入生たちと合流し、指定の席に座った。

「やたらと緊張してるけど、大丈夫か?」と隣の少年が言った。

「大丈夫じゃない。来るところ間違ったかもしれない」と僕はぎこちなく答えた。

「そうか? お家柄はあまり気にしないほうがいいぜ。そんなもの、マジくだらねえからな」

 少年は足を組んであくびをした。見るとシャツはズボンからはみでているし、髪の毛はツンツンとがらせていて、どちらかというと不良学校にいそうな印象だ。折り目正しく立派な生徒が多い中、悪い意味で目立ちそうだ。

「俺、手嶋基樹てしまもとき。おまえは?」

植月光太郎うえつきこうたろう

「よろしく頼むぜ、光太郎」と手嶋は右手を差し出した。

「うん、よろしく」と僕らは握手をした。

「光太郎からは金持ちの匂いがしない。俺はそういうヤツのほうが好きだぜ」

「ははは……、ありがとう」

 いきなりすごいことを言う人だな、と僕は苦笑した。どちらかといえば僕も、お金持ちのボンボンよりもこういうタイプの相手のほうが安心できる。

 自己紹介もそこそこに、手嶋はキョロキョロして後ろを振り向いたり身を乗り出したりしていた。

「手嶋くん、だれか探してる?」

「ああ。手嶋でいいぜ」彼はしたなめずりした。「俺たちの同級生に、ちょっとした有名人がいるって話だ。まだ来てないみたいだが」

「ますます場違いな気がしてきた」

「ところで光太郎、おまえ、兄弟姉妹はいるか?」手嶋が尋ねた。

「中三の妹がいるよ」

「マジか!?」手嶋の大声が体育館に響いた。「おっと、俺としたことが取り乱した。で、妹は美人か?」

「そんなこと聞かれても困るけど。普通くらいじゃない?」

「その普通はイコール美人とみた」手嶋は真面目な顔になる。「俺は、この学校で、純愛――つまりピュアーラブを探したいと思っている」

「は?」僕は聞き返した。

「純愛だ。裏表も下心もない、純粋な愛だ」

「さっき僕に兄妹いるか聞いてきたのは下心じゃないの!?」思わずつっこむ。

「違う! 勘違いしないでくれ」手嶋はせきばらいを一つ。「俺は可能性の話をしているに過ぎない。俺と、おまえの妹が結婚するという可能性の話だ」

「そんな話だったの!? 一気に飛躍したよ!」

「あのう、隣、いいですか」と手嶋の反対側にやってきた女子生徒が言った。

 お互いに名前だけ自己紹介して、少女座る。

「ところで、きみ、彼氏いる?」と女子に尋ねる手嶋。

 女子はすでにひいている顔だ。「いますから」と言って逃げるように椅子をずらした。

 手嶋がこっちを向いて、ささやいた。

「光太郎、なぜか警戒されたぞ? 金持ちのお嬢様には振っちゃいけない話題だったか?」

「というか初対面の相手に振る話題じゃないよ!」

『みなさま、ご静粛にお願いいたします』

 そのときマイクの声が大きく響き渡り、僕らは雑談をやめた。

『まもなく第四十六回、清華高校入学式を開会いたします。――開会の言葉』

 グレーのスーツをまとった初老の男性が、正面の壇上にあがった。気がつかないうちに会場に並べられた椅子という椅子は、新入生と保護者たちで埋めつくされていた。静けさの中に興奮したようなざわめきが流れ、ついに入学式が幕を開けようとしていた。

 僕はこの瞬間がおだやかに迎えられたことを、心の底からうれしく思った。今日という一日だけはこのまま何事もなく、平凡に過ぎていくのだ。

 壇上にあがった男がマイクをセットし、軽くたたく。

「えー、ただいまより第四十六回――」

「お待ちなさい!!」

 鋭い一喝が、開会の言葉と僕の愛する平凡な日常を一刀両断した。女生徒の一人がどこからともなく現われたかと思うと、優雅な金髪をなびかせて壇上にあがる。それを阻止しようとした教師たちは、いつのまにか僕たちを取り囲んでいた黒服黒サングラスのゴツい男たちに押さえつけられる。謎の女生徒はうろたえる司会からマイクをひったくった。

「ただいまを持ちまして入学式を開催いたします。そして、ただいまを持ちまして、終了いたします」

 全員がわけも分からないまま、うろたえ、困惑し、震えていた。

「うおお、竜洞寺グループの令嬢だ!」手嶋だけは目を輝かせた。

「みなさん、クソくだらない入学式ご苦労様でした。自己紹介がまだでしたわね。ごきげんよう。わたくしは今日からこの高校に入学いたします、竜洞寺玲りゅうどうじれいと申します。以後、お見知りおきをお願いいたしますわ」

 竜洞寺玲は気品たっぷりに述べ、お辞儀をしてみせた。笑顔だが、有無を言わせぬ迫力がある。

 ウェーブがかった鮮やかな金髪。僕らと同じ制服を着ているが、まとっている雰囲気は全然違う。なんというか、その輝かしいまでのオーラは、もう生きている世界の違いを強烈に突きつけてくる。制服の上からでもはち切れんばかりのスタイルやあでっぽさは大人顔負けだ。興奮した聴衆があちこちでざわめき立つ。

「さて、ここでわたくしからみなさんに、素敵なお知らせがありますので、聞いてくださいます?」

 玲はそこで言葉を切った。会場は沈黙で答えた。

「反対のかたがいないようで、うれしいですわ。では続けますね。わたくし、竜洞寺玲は、この学校のみなさんの中から、わたくしのお兄様を募集することにしました。ああ、年齢や血筋なんてものは関係ありませんわ。素質、才能、能力――あなたがたが有している、素晴らしいものも、ゴミクズみたいなものも、全てを見た上で決めさせていただきます。これから一ヶ月にわたって、男子生徒のみなさんには、わたくしのお兄様として相応しいかどうか判断するために、いくつかの試験を受けてもらいますわ。試験にパスした方は、晴れて私のお兄様になってもらいます。お兄様になったからには、当然ですが私と一緒の登下校はもちろん、家族として生活していただきます。あなたがたに選択権などありませんわ。もちろん、お給料は支払いますし、ご家族にも悪いようにはいたしません。素敵なお知らせは以上となります。詳細を昇降口のところに貼り出しておくので、男子諸君は必ず確認しておきなさい? それではみなさん、わたくしの良きお兄様になれるよう、尽力なさい」

 玲はそう説明し、締めくくった。きらめく金髪をなびかせて壇上を降り、台風のように去っていった。黒服の男たちも玲と一緒に消えた。

 その場にへたりこむ教職員たち。四方から「うおおお!」だの「生きてて良かった!」だの「玲様が俺の妹! 冷様が俺の妹!」だの聞こえてくる。

 無茶苦茶な話だが、要するに竜洞寺玲のお兄ちゃん役をするアルバイトみたいなものらしい。男子は浮かれまくり、女子は険悪になり、教師は狼狽し、体育館は混沌と化した。

「聞いたか光太郎!? ドSで金持ちのお嬢様が巨乳でつまり俺の妹は一緒にお風呂だッ!」手嶋が鼻息荒く雄たけびをあげた。

「軽く日本語が崩壊してるよ!?」

 僕は泣きたい気分だった。僕が楽しみにしていた平凡なありふれた入学式はどこへ行った?

 生徒たちは興奮した様子で、先ほど発表された前代未聞のイベントについてあれこれ語り合っている。教師陣が思いついたようにこの場を収めようと声を張り上げるが、もはや威厳がなくなった彼らの声に耳を傾ける生徒はいなかった。ある生徒たちは教室に帰っていき、ある生徒たちは詳細とやらを見に昇降口へ向かい、ある生徒たちはその場にとどまって竜洞寺玲の兄に採用されたらどんな生活が待っているか、どうしたいか、どこまで許されるかなどなど熱く語り始め、またある生徒たちは竜洞寺玲に嫉妬して悪態をついた。

 僕と手嶋はまるで文化祭と体育祭が一緒にやってきたみたいな喧騒から離れて、昇降口へ向かう一団に加わった。

「よく分かんないけど、入学式が終わったみたいだから帰るね」

 僕は憂鬱な気分で手嶋に告げた。

「おまえ、竜洞寺玲のお兄ちゃんになれるかもしれないってのに、興奮しないのか? あの美貌と、あのけしからん身体を自由にできるんだぞ?」

「僕、妹いるし。これ以上増えても困る」

「くそおおおっ! 俺もおまえみたいに、妹と毎日ニャンニャンしたいんだよおおお!」

「してないよッ! というか純愛はどこ行ったんだよ!?」

「頼むから、俺が竜洞寺玲のお兄ちゃんになるために力を貸してくれ! ちょっと協力するだけでいい。そこらじゅう敵だらけだからこそ、おまえみたいな存在は心強いんだ」

 確かにギラギラした目の男どもがそこかしこにいた。こいつら、竜洞寺玲のお兄ちゃんに採用されるためなら多少の死人には目をつぶるのもやむなし、とか思ってそうで結構怖い。

「光太郎、お前だけが頼りなんだ」

 手嶋が一世一代の大勝負みたいに真剣だったので、仕方なく手伝うことにした。僕らは人だかりをかき分けて竜洞寺玲の貼り紙までたどりついた。

【お兄様選抜試験】

 竜洞寺グループ社長令嬢、竜洞寺玲のお兄様になってくれる素敵な男性を募集します。

 採用予定人数は一名です。男子は全学年とも全員強制参加です。

< お兄様としての振る舞い >

 竜洞寺玲のお兄様として、日常的に、

・一緒に食事する(朝・昼・晩)

・一緒に登下校する

・一緒に映画を見る

・一緒にテスト勉強する

・一緒にコンサートに行く

・一緒に料理を作る

 など。

 また、必要に応じて、

・妹の誕生日に一緒に遊園地に行って一生心に残るプレゼントをする

・妹をさらった悪の組織と、命を賭して戦う

・未曾有の大事故から妹を抱きかかえて奇跡的に生還する

 など。

< 竜洞寺玲が求める理想のお兄様像 >

・成績優秀、運動神経抜群、品行方正

・高身長、スタイル良し、センス良し

・可能ならばイケメン(ダンディ系、さわやか系など問わず)

・優しくてジェントルマン、よく気が利き、周囲からの人望厚く、ユーモアもあり、リーダーシップが取れるが、たまにおっちょこちょいなところを見せる。

・常に妹の幸せのみを考えている

*注:以上の内容は竜洞寺玲の気分によって変わることがあります。

<待遇>

 竜洞寺グループの力をもって可能な範囲で、望むものを何でも与えます。お金、車、マンション、土地、名誉、地位など。気軽に相談してください。同居している家族にも同等の待遇を用意します。

一年二組 竜洞寺玲より、素敵な未来のお兄様へ。

「見ろ光太郎! すげえ! すげえよ! これは現実なのか? 奇跡だッ! 奇跡以外の何物でもねえぜ! なんせあの玲様とお風呂で背中流しっこしたり、一緒のふとんでお昼寝したり、休日にはプールでイチャイチャしたりできるんだからな!」

「そんなこと一言も書いてないよ!?」

「なに言ってんだ。兄妹なら当然のイベントだろ」手嶋は自信満々に言った。

「僕、妹とそんなのしたことないけど」

「そういえば光太郎の妹、ええと名前は……」

「植月ゆずり」

「そうだ。ゆずりちゃんはどんな感じの娘なんだ? 性格は? 玲様みたいなSを希望するんだが」

「んー、痩せ型で病弱で、わがままで手に負えないタイプ」

「今夜は絶対ぜーったいお兄ちゃんと一緒に寝るんだもんっ! 一緒に寝てくれなきゃ、わたし、怒っちゃうぞー、ぷんぷんっ! ――みたいな感じだな?」

 手嶋は女声で奇妙なジェスチャーもつけて、謎の妹を演じた。

 僕はそれをゆずりに置き換えてみたら寒気に襲われた。

「いいや全然。手嶋の妹像って歪んでない?」

「これがグローバルスタンダードだろ?」

「そういうものなの?」

「おまえ、リアル妹いるのに世界の妹事情を知らなすぎだろ」

「世界の!?」手嶋の話は僕の理解をはるかに飛び越えていく。

 そんなこと言われてもゆずりはいつも仏頂面で口を開けば文句ばっかり言うから、僕にはなんとも言えない。

「ん、ちょっと待てよ?」手嶋は腕を組んで真面目な顔になった。「ゆずり……植月ゆずり…………なにィ!? 植月ゆずりだとォ!?」

「なんでそんなに驚いてるのさ?」

「い、いや、こっちの話だ」

 そういうことか、と手嶋が漏らすのがかすかに聞き取れた。

 いったいなんだろう? 妙に煮え切らない。

「おまえの事情はよく分かった。とにかく!」と手嶋は心臓に右手を当てた。「俺は玲様と禁断の関係になる。この命に賭けても」

「そんな不順異性交遊に命賭けるなよ!」

「キミはこれが、ただの不順異性交遊だと思っているのかい?」と誰かが横から割り込んだ。

 まるで風でも吹いているかのように後ろへなびく形で固まっている髪形。シルバーフレームのメ

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