静岡大学は山をまるごと大学にしたようなところだ。階段と坂ばかりで、学生や教師たちは日々登山をさせられる。山の天辺にある人文学部棟は『天空の城』と呼ばれているほどだ。
僕が歩いているのは、すっかり葉を落とした木々が寒々しい山中である。ここも大学の敷地内だから驚きだ。『マムシに注意』と書かれた看板がどのくらい世に貢献しているのか、僕は知らない。
新年一発目の活動は、冬山散策であった。狙うは冬眠中のイモムシたちである。
「こうやって朽ち木を割るんすよ」
石橋さんが軍手をはめた手で朽ち木の皮をはぐと、ずんぐりした幼虫が眠っていた。頭部は黄色っぽいが、胴体は白くつやつやしている。
「カブトムシですか」
「クワガタっすね。カブトの幼虫は土の中にいるんで、泥臭いっす。食うなら断然クワガタっすよ」
朽ち木のベッドからひょいとつまみあげ、仕切りのあるプラスチックケースにおさめる。
クモやハチや毛虫まで食った僕が言うと説得力がないかもしれないけど、このずんぐりした幼虫を食べるのは勇気が要りそうだ。
「成虫は正直うまくないんで無視でいいっす。幼虫はイケるんで即ゲットっす。一度朽ち木を割っちゃうと、元に戻しても死んじゃうんで、見つけたら捕らないとダメっすよ」
「了解です」
僕は石橋さんにレクチャーを受けながら転がっている朽ち木を見つけては、皮をはいだり割ったりして幼虫を探した。
今日、須藤教授の研究室の扉をたたくまで、僕は先輩や斎藤さんにどんな顔をして会えばいいか分からなかった。だがあんなことがあったのに、二人とも以前と変わらない様子だった。だから僕も何も変わらない、これまでの僕として振舞うことにしたのだ。ただ時折、斎藤さんが何か心配するような目で僕を見るのが気になる。
しばらくすると付近を散策していた斎藤さんが近づいてきた。
「石橋、レクチャーは終わったか?」
「だいたいオッケーっすね」
「そうか。渡辺、おまえ元気か?」
「まあまあ元気です」
嘘ではない。僕はもう吹っ切れたのだ。
「斎藤さん、年末のこと……すみませんでした。あんなに色々協力してもらったのに、関係ないとか言って。本当に、すみませんでした」
頭を下げる。
「いや、あれは俺のほうがすまんかった。あいつがあんな行動に走るとは、想像してなかった」
こんなにすまなそうにしている斎藤さんは初めてだ。
「いいですよ、別に斎藤さんは何か悪いことをしたわけじゃないですし」
「あのあと猪俣を探して家まで送り届けたが、それ以上は何もない。そもそも俺には彼女がいる。あいつもそれを知っていたんだが」
「一つ聞きたいのですか」
僕は思い切って尋ねてみた。
「斎藤さんは、先輩のことをどう思っていますか」
「どうも何も、今までおまえに言ってきたことと変わらん。当然、あんな告白は断った」
「そうですか」
内心ほっとした。両想いが成立してしまえば、さすがに僕の出る幕はないだろうから。
「斎藤さん、石橋さん、今までありがとうございました」
僕は改めて二人に頭を下げた。
「な、なんだ急に」
「まさか辞めるんすか?」
「違いますよ。これまで斎藤さんと石橋さんが協力してくれたおかげで、研究室の外でも、先輩とおしゃべりできるくらい仲良くなれました。すごく感謝しています。お礼を言っておきたかったんです」
「お、おう……」
「ここから先は、自分でケリをつけます」
斎藤さんも石橋さんもちょっと驚いていた。
「ケリをつけるって、どうする気っすか」
足元の枯れ草はカサカサ鳴り、葉を落とした広葉樹が寂しげな腕を寒空に伸ばしている。冬の寒さに、いつまでも身を縮めているわけにはいかない。
「僕、先輩に告白します」
「渡辺……」
「渡辺くん……」
「あれからいろいろ考えました。先輩の気持ちを考えても考えても、やっぱり分かりませんでした。それで結局、僕がどうこうできるのは、僕のことだけだって分かりました。だから告白します」
「そうか」
斎藤さんはそれ以上は何も言わなかった。「やめておけ」とも「いいぞ行ってこい」とも。石橋さんも同じ。だけど二人の目は「頑張れ」と言っている気がした。
「うっし。サボってねえで幼虫、探すか」
斎藤さんが太い肩をぐるんぐるん回した。
「俺はあっちのほうでも探して来やす」
二人とも行ってしまい、僕は一人で幼虫探しを始めた。
風が吹くたびに僕は首を縮めた。体が温まるように、わざとバタバタ走ってみたりしながら、いい具合に倒れている木を見つけ、根元の腐りかけている部分を「うーうー」言いながら割る。丸々と太った幼虫を発見し、少しの罪悪感と興奮を抱きながらつまみ出し、プラスチックケースにおさめていく。まるで宝探しのような楽しさ。
ひと仕事終えて顔をあげると、木の根元にしゃがみこんでいる女性の姿が映った。じっと何かを凝視したまま動かない。ほっそりとしたジーンズのズボン。グレーのセーター。汚れた白衣。丸みのあるシルエットの髪。
逃げるな、僕! チャンスだ!
「先輩、何を見てるんですか」
近づいていくと、先輩は座ったままこちらを見あげた。
「渡辺くん、いいところに来たね」
いつか聞いたようなセリフに、僕は思わず笑ってしまう。
「あれ、どうかした?」
「いいえ。ただ、前にも言われたような気がして」
「そうだっけ?」
「覚えてないんですか。三回は言われた気がするんですけど」
「覚えてないねー。でも言われてみると、言ったような気もするね」
「その中に、何がいるんですか?」
木の根元には、
「何もいないんだよねー」
「何もいないのに見てたんですか」
「そうだよ」
あいかわらず面白い人だ。
「僕も一緒に見ていいですか」
「もちろん」
先輩の隣にしゃがみこむ。洞の中にじっと目をこらすが、影が差していて何かいたとしてもよく見えない。クモとか毛虫とか、何かいそうな雰囲気はすごくあるのに、何もいない。これが面白いかと問われると、疑問である。たぶん僕らは同じものを見ていながら、違う世界を見ているのだ。
「渡辺くんは幼虫、捕れた?」
「三匹だけです。本当はもっと捕れそうなんですけど、可哀そうなので」
「だから捕らない?」
「はい。ちょっと味わえればそれでいいかなと思います」
「渡辺くんは偉いね」
「へ?」
「君はこのサークルの理念をよく理解してる! 私も実は三匹しか捕ってないよ。命をいただくってのは、そういうことだよね! 意味もなく殺生をしないとか、食材を無駄にしないとか、そういうのって当たり前だけど意外とないがしろにされちゃうんだよ! 捕ること自体が楽しくなって、そういう大事なことを忘れちゃうんだよ! だけど君はちゃんとその点を理解してる! 素晴らしいよ! 私は嬉しい!」
先輩の熱弁が聞けて、僕はほっとした。これがいつもの先輩だ。
「そう言ってもらえると、自信がわいてきます」
「幼虫って、暖かくなったら成虫になって、大空へ飛び立っていくじゃない? なんか私と同じだなって思ったら、そっとしておきたくなってね」
「そうですね。先輩ももうすぐ卒業ですもんね」
「うんうん。あと三か月で卒業とは、感慨深いよ」
「さて、焼くか揚げるか。どっちがいい?」
須藤教授の研究室。斎藤さんはみんなで集めた幼虫を前にして僕らに意見を求めた。
どれがいい? と言われても幼虫を食べたことのない僕には何と答えていいか分からない。
二十五匹ほどの生きのいい幼虫が、プラスチックケースの小部屋の中でうねうねと動いている。
「焼きで!」と先輩が答えた。
「渡辺くんもいることだし、どちらも試してみるのはどうっすか。ちょっと手間っすけど」
新代表が提案した。教授と凜ちゃんも頷いている。
「はいはいはいっ! 焼きがいいでーす!」と先輩が手を挙げた。
「そうだな、両方試すか」と斎藤さんは先輩を無視する。「渡辺もそのほうがいいだろ?」
「ええと……」
僕は答えあぐねてメンバーの顔色をうかがった。先輩が僕を見つめ、真剣な顔で口をパクパクさせて、何か伝えようとしている。たぶん本気で『焼き』がいいと思っているのだろう。
だけど僕は正直な自分の気持ちを言うことにした。
「できれば……いろいろ試してみたいです」
「じゃ、決まりだな」
先輩が床に崩れ落ちた。……また白衣が汚れるよ。だけど、こういう大袈裟なリアクション――『大人になるほどできなくなること』ができるのは、先輩のすごいところだと思う。
「焼きがよかったのにっ! このゲス!」
床に寝転がったまま先輩が斎藤さんをにらんだ。
「やかましいぞ猪俣。ンなことやってるからお前の白衣は汚くて臭いんだろうが」
「汚いけど臭くはないし! 月一回は洗濯してるし!」
「もっと洗濯しろ!」
「ねえ渡辺くん洗ってくれない?」
「自分で洗えよ!」
先輩と斎藤さんが怒鳴り合っている間に、僕らは幼虫の調理に取り掛かった。
僕は『揚げ』の担当になった。担当といっても石橋さんのレクチャーを受けながらである。
まずは幼虫を水で洗って、くっついている木屑を落とした。それからキッチンペーパーで一匹ずつ丁寧に水気を拭き取る。爪楊枝で体にブスッと穴を開けて準備完了。ちょっと残酷だけど、こうしておかないと油に入れたとき幼虫の体が破裂するらしい。……ぞっとする。
あとはフライパンに少量の油を入れて揚げるだけ。揚げる時間は三分くらいじっくりと。どんな虫を食べるときでも、寄生虫が怖いので生食は厳禁だ。
とりあえずそこら辺にいる虫たちは何でも素揚げにしてしまえば食える。素人だった僕にもそういう新常識が定着しつつあった。
一方、先輩のお気に入りの『焼き』は凜ちゃんが担当した。焼き鳥みたいに幼虫を串に刺して、コンロの火であぶるというものだ。
「カリふわが至高です」
美人女子高生が全神経を集中して最高の焼き加減を実現すべくこの作業に没頭している姿はどこか哲学的である。先輩はというと……ソファに座って漫画を読んでいる。自由な人だ。
今日のお品書きはカナッペと呼ばれるフランス料理だ。須藤教授がフランスパンをスライスしてお皿に並べ、僕と石橋さんはその上にチーズや小さく切ったトマトを乗せていく。さらにそこへ、揚げたり焼いたりした幼虫をちょこんと乗せれば完成である。幼虫のカナッペ――見た目がオシャレで写真映えのするレシピだ。
毎度ながらサバの缶詰とかポテチといった酒の肴もテーブルに並び、先輩や斎藤さんの席にはビールも置かれた。
「では、食材に感謝していただくっす」
石橋さんが音頭を取り、全員が『いただきます』と唱和した。
「写真撮るからまだ食べないで!」
「あ、じゃあ僕も」
「私もです」
先輩、僕、凜ちゃんがカナッペの写真を撮り終わると、みんなが一斉に手を伸ばした。
僕はまず先輩のオススメである『焼き』を試してみる。幼虫をまじまじと眺めてから、パンごと一口でパクリといただく。焦げた部分はカリッとして、噛むと香ばしい香りが広がった。豆のような味だ。
「渡辺くん、どう?」先輩はハムスターみたいにパンを頬張りながら尋ねてきた。
「思ってたより食べやすくておいしいです。まだ見た目にはちょっと抵抗がありますが」
「凜ちゃんの焼き加減が絶妙だよねー」
「ですね」
凜ちゃんは耳元で僕だけに聞こえるように「渡辺さんのために頑張りました」と囁く。女子高生のナマの吐息が耳に触れて、僕はブルッと震えた。
「あれっ、焼きだけもうないの?」
教授がどれを取ろうかと手を彷徨わせる。
「おい猪俣! そればっかり食うな」
「いいじゃん別に。まだこっちあるし」
「猪俣に食われる前に自分の皿に確保しといたほうがいいぞ」
僕はとりあえず揚げた幼虫のカナッペも自分の皿に一つ確保した。
ひょろっとした虫だと、揚げたとき身がスカスカになりやすいが、でっぷりと太った幼虫は身が詰まっていて充分に食べ応えがある。噛むとプリッと弾けて、中からクリーミーなエキスが溢れる。
僕は一匹ごとの味をできるだけじっくりと味わった。その後は、残ったチーズやサバ缶と一緒にフランスパンを食べてお腹を満たした。
「先生、卒論の発表会、一週間延期できませんかねー? 先生のお力で、ちょちょいと」
「ははは、無茶を言うねぇ。僕は農学部のことに口出しなんてできないし、世界は君を中心に回ってるわけじゃないんだよ」
赤ら顔の先輩が須藤教授としゃべっている。教授は何を言われても穏やかな表情を崩さない。
「斎藤さん、卒論の発表会っていつなんですか?」
「理学部は二月十四日で、農学部は十五日だったっけな」
つまり先輩は来月――二月の十五日まではすごく忙しく、その後はもしかしたら少し余裕ができるかもしれない。
「おまえ、見学にでも来るつもりか?」
「いえ、そうじゃないですけど」
ぼちぼちお開きの時間になった。
「私、お皿洗うー」
「酔っ払いは皿割るんだからゴミでも集めろ」
「斎藤くんだって酔っ払いじゃん!」
「俺はテーブル拭くんだよ。皿洗いは石橋とリンタローに任せとけ」
「了解っす」
「渡辺さんとがいいのに」
「ぼ、僕はゴミ集めを手伝いますね」
凜ちゃんがさらっと何か言ったような気がするけど、聞こえなかった振りをして先輩と一緒に空き缶やお菓子の袋を集めていく。ついでに研究室のゴミ箱のゴミもまとめて、袋の口を縛った。
「ゴミ出しに行ってくるねー」
先輩が一人でゴミ捨てに行こうとしたので、僕はすかさず「一緒に行ってきます!」と後を追った。
廊下に出ると薄暗くて空気がひんやりとしていた。僕と先輩はゴミ袋を一つずつ持って、並んで歩く。
「うー、寒い。酔いが醒めちゃった」
「そうですね、まだまだ寒いですね」
「一人でも持てたのに、ありがとね」
「いえ。お酒飲んでたから、ちょっと心配で」
僕らが宴会をしていた研究室は理学部C棟の五階。一方ゴミ捨て場は建物の外にあるので、けっこう面倒なのである。だから女性に一人で行かせては、男として気が利かないと言われてしまうだろう。それに何より先輩と二人きりになれる。
「渡辺くんは優しいね」
「そんなこと、ないですよ」
もちろん先輩から誉められて内心は嬉しい。
建物の裏の駐車場の隅に、倉庫のようなゴミ捨て場がある。プレハブの扉を開けてゴミを投げ入れた。
「よし、戻ろうか」
先輩は両手を白衣のポケットに入れて白い息を吐く。
「はい」
とだけ僕は答えた。
それから僕らは黙ってエレベーターのところへ戻る。せっかく二人きりなのに、会話のきっかけがない。もっと会話があれば、流れで『あのこと』を言い出せるかもしれないけど、無言の中に唐突に『あのこと』を切り出すのは不自然な気がして自信がない。
どうして肝心なときに限って、会話が続かないのだろう。先輩は僕のことをどう思っているのか。あまり興味がないのだろうか。二人で過ごすには退屈な相手だと思われているかもしれない……。
エレベーターに乗り込み、鉄の扉を見つめたまま、この最大のチャンスを活かせずにまた惨めな気持ちになりつつあった。
「渡辺くん、どうしたの?」先輩が尋ねた。「難しい顔してるね」
僕はハッとして先輩のほうに顔を向けた。僕が先輩を心配して付いてきたはずなのに、先輩のほうが僕を心配してくれるとは。
会話が続かなかったのは、僕が考え事をしていて、先輩との会話を盛り上げようとしていなかったからで。
つまり僕はバカだ。
「いえ、あの……」
なんと答えていいか分からなくて言葉に詰まった。
もう心に決めたじゃないか。今になってあれこれ悩んだって仕方がない。悔いを残さないために、やらなければ。話題を切り出す流れとか、タイミングとか、そんなものはもうどうだっていい。カッコ悪くたって仕方がない。
何もやらずに逃げるより、いいじゃないか。
エレベーターが停まってドアが開く。
五階の廊下に出た。暗いが、須藤教授の研究室だけ明かりが漏れ出ている。
……今しかない。
「せ、先輩」
「ん?」
僕が不意に立ち止まったので、先輩も立ち止まってこっちを見た。
あっ……。僕は余計なことに気付いてしまった。
「髪の毛に、ホコリ付いてます……」
「え? どこ?」
バタバタと手で髪を払う先輩。食事の前に床に転がっていたからだ、絶対……。せっかくサラサラの綺麗な髪をしているのに、残念な人なのである。
「もっと、こっち側に……」
「んー! どう?」
「ええと、まだ……」
うまく伝わらなくて申し訳なくなる。
「取ってくれる?」
「あ、え?」
僕はその場に凍り付いた。女性の髪に触るなんて、そんな罰当たりなことは未経験である。ましてや先輩の髪に!? いや、髪に触れないようにホコリだけ取ればいいのか。
先輩が待っているので、息を止めて恐る恐る手を伸ばし、ホコリをつまみ取った。
「……取れました」
「ん、ありがと」
先輩が微笑みを残し、また歩き出そうとする。
――って、そうじゃない!
「先輩!」
僕はもう一度、先輩を呼んだ。
「どうしたの?」
僕は息を吸って吐いて、自分を落ち着けて、それからぎゅっと拳を握り締めて、先輩の目を見る。様々な感情が胸の内側を駆け巡ったけど、意を決して口を開く。
「卒論の発表会が終わって、少し時間ができたらでいいので、一緒に二人だけで、遊びに行きませんか」
――言えた。
先輩はちょっと驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「うん、いいよ」