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第8話 回顧と文化祭

「らっしゃい、らっしゃい~! そこのおにーさん、お一ついかが?」

 両手に唐揚げを持った純白のナース姿の先輩が、歩いてきた若い男性の前に立ちはだかった。……何を言っているか分からないと思うけれど、事実として先輩は今、白衣の天使なのである。

 十一月半ば。静岡大学の文化祭――静大祭が三日間にわたって開催されている。その初日、我らが虫の輪は、広場に並ぶ露店の一つでカイコの唐揚げを売っていた。朱雀で出てくるのはカイコのサナギの唐揚げだが、今日、僕らが売っているのは成虫の唐揚げである。自分たちで捕獲したのではなく、市販されている業務用冷凍カイコを使っている。

 広場は老若男女でごった返していて、これぞ文化祭という賑わいだ。先輩は、売るためには目立つ必要があると言って、ナースのコスプレ衣装を身にまとって売り子をしている。

 この衣装、公序良俗に反するほどではないのだけど、スカートは膝上20cmで、白のニーハイソックスが作り出す絶対領域に、ついつい視線が行ってしまう。さらに、先輩の体のラインもはっきりと出てしまっているので、全体的にお子様には刺激が強めなのである。僕にとっては嬉しいけれど、じろじろ見るわけにはいかないので、手が空いたときにチラ見する程度にとどめている。今日の先輩に、僭越にも点数を付けさせていただくなら、三百万点といったところだろう。

 ちなみに純白ナースを選んだのは、カイコの体や繭が白いことから連想したらしい。正直、その発想と行動力はよく分からん。

 ナースの先輩は手に持っている唐揚げ入りの紙コップを、通行人に差し出す。

「カイコの唐揚げ、たったの300円です! なんと味付けは、カレー、プレーン、黒蜜の選べる三種類!」

 見た目はコンビニで見かけるような、何の変哲もない唐揚げだ。油でこんがりと焼き上げて、竹串を一本刺してある。なので、カイコと言われても、たいていの人はピンと来ない。

 だから男性が聞き返したのも無理はないことだ。

「ええと、カイコって何ですか」

「もちろん白くて美しいです。今日の私のように」

「へ?」

 男性が理解できずにキョトンとしていることに気付いているのかいないのか、先輩はその場でひらりと一回転のターンをしてみせた。ナースキャップが落っこちそうになって押さえる。

「すみません、今、なんと?」

です! オカイコさんです! シルクを作ってくれるヤツ。触覚がこう、ぴゅるん、ってなってて、バサバサーッて羽ばたくキュートなヤツですよー」

 先輩がジェスチャーで必死に伝えようとしている姿は、脳内に永久保存したいくらい可愛かった。五百万点。

 しかしそんな微笑ましい光景に目もくれず、男性の視線は先輩が持っている唐揚げに注がれていた。羽や足は最初から、もぎ取られているのだけど、よく見れば虫っぽい模様が薄っすらと見えたりする。

「騙されたと思って、どうですか? 買いませんか? もちろん買うって飼育じゃなくて購入って意味ですけど~!」

「あ、ええと……すみません」

 男性は曖昧な笑みを浮かべて、買わずに去っていった。先輩はめげずに次の通行人に声をかけに行く。時には露店から離れて宣伝しに行くこともある。

 一方、斎藤さん、石橋さん、僕は露店の切り盛りをしている。斎藤さんと石橋さんがカイコを唐揚げのもとに付けてフライヤーで揚げる調理担当で、僕が注文を受けて商品を渡す担当。

「カレーとプレーンですね、600円です。熱いのでお気をつけください」

 お金を受け取って、商品の入った紙コップをわたす。お客さんは僕が想像していたよりも普通に買ってくれるし、おいしいと言ってくれる。中には冷やかしというか、面白半分で見に来るだけの人もいるけれど、露骨にバカにしたりする人がいなくてよかった。

 以前、みんなで試食したとき美味しかったので、今日も自信を持って「食べてみませんか?」と勧めている。鶏の唐揚げと比べたらさすがに勝てないけど、メスはお腹に卵が入っていて、それがプチプチとした食感でクセになりそうなのだ。オススメはカレー味。

「ねえねえ、黒蜜味が全然売れないんだけど」

 先輩が露店に戻ってきてぼやいた。

「だから売れねえって言っただろ。唐揚げに黒蜜かけて食うヤツいねーよ」

「試食会でも微妙な点数だったっすよね」

 斎藤さんと石橋さんが作業しながら冷たく答える。露店の申請を出す前にサークルメンバーで行なった試食会では、他にもいろいろなフレーバーを試したのだけど、ほとんどは却下された。例年、カレー味、プレーン、塩味などが生き残るらしく、今年も似たり寄ったりになったが、先輩が「こんなのじゃ去年と同じだから面白くない! だったらもうやらない!」と駄々をこねたので、デザート枠として黒蜜味が強引にねじ込まれたのである。しかもこれ、プレーンに黒蜜をかけただけの雑な仕様であり、考案者は先輩だ。

「僕は黒蜜味も、嫌いじゃないですけど」

 さり気なく先輩をフォローしておくが、正確に言えば、嫌いじゃないけど好きでもない。

「渡辺くんは違いの分かる男だね! こっちのおじさんたちはもうダメだ」

「誰がおじさんだ!」

 斎藤さんが吠えた。だが先輩はさらっと流して僕の隣に来る。

「渡辺くん、余ったら二人で黒蜜かけて食べようね?」

「は、はい……ぜひ」

 それは勘弁してほしい……けど先輩に言われるとYESマンになってしまう。僕、うまく笑えているだろうか……。

「あ、私、いいこと思いついた」

「なんですか?」

「黒蜜味だけ100円にすれば爆売れするんじゃない!?」

「ダメに決まってんだろ!」

 斎藤さんの怒号が飛んできて、僕ら二人はびくりと肩を震わせた。先輩は横目で斎藤さんをにらみ、不満そうに頬を膨らませる。

「じゃあ生クリーム乗せよう」

「できねえよ! 事前に許可とってねえだろ!」

 また怒鳴られてしまったので、先輩は僕に顔を近づけて囁く。

「斎藤くんってホント、ゲスだよね。それくらいいいじゃん?」

「たぶん斎藤さんは意地悪してるわけじゃなく、大学とか保健所とかのルールなので仕方ないんですよ。万が一、勝手なことして食中毒とか出たら、やばいでしょうし」

「そうだね、確かに。内定取り消しにされたらやばい」

 僕は先輩の甘い香りにドキドキしつつ、ちゃんと斎藤さんのこともフォローしておいた。というか、心配するの、そこかよ!

「でも、それだったら、隣のお店で売ってる許可済みのアイスを買って乗せれば、保健所的にも問題ないのでは? 私って天才?」

「普通に赤字になるんじゃないでしょうか」

「それが唯一の問題だね」

 根本的にダメだろう。

「ところで、これ、まだ売れてない?」

 先輩は、販売スペースの隅にさりげなく置かれている別の商品に目をやった。手のひらサイズの小さなビンのパッケージには、『名物 高級珍味 ざざむし』と書かれている。中身は何やら黒い物体なのだが、その正体は『ざざむし』という虫の佃煮である。虫といっても、川の石の裏などに住んでいるムカデみたいな生き物なのだが。

「さすがに、この小さなビンで2000円だと難しそうですよね。あまり聞いたこともないですし、文化祭っぽいかと言われると、ちょっと」

「そっかー。おいしいのになー」

 これは先輩がコネで仕入れてきたという、市販の商品なんだとか。その横には商品を紹介する手書きのポップ。先輩はざざむしの写真を掲示しておきたかったみたいだけど、唐揚げの売り上げが落ちかねない不気味さなので、イラストに変更された。

「分かってたけど、現実は厳しいね」

 先輩は表には出さないけれど、内心はちょっと凹んでいるのかもしれない。

 文化祭は僕らの活動や昆虫料理をいろいろな人にアピールする良い機会だ。わざわざ虫なんて食べる気がない人たちも、非日常のノリでちょっと食べてみようと思ってくれる。食べない人も、虫料理が売られているのを見て、何らかの形で興味を持ってくれるかもしれない。

「すみませーん」

 お客さんが来たので僕らは仕事に戻った。

「ナースさん、一緒に写真撮ってもいいですか?」

「写真はカイコの黒蜜唐揚げを買ってくれた人だけのサービスです!」

 そうなのかよ!?

 でもそのおかげで黒蜜味が売れた。お客さんたちと一緒に写真を撮っている先輩を眺めながら、ああ、僕もナースの先輩と写真を撮りたいな……なんて思う。言えないけど。

 お昼を過ぎて客足が落ち着いてきた頃、斎藤さんが「そろそろ順番に休憩するか。俺と石橋で店は回しとくから、遊んできていいぞ」と言ってくれたので、ありがたく休憩をもらうことにした。

「猪俣、おまえも一緒に休憩しとけ。一時間くらい休んだら、戻ってきて俺らと交代な」

「了解! 渡辺くん、何か食べに行こう!」

「はい!」

 斎藤さんと石橋さんにお礼を言って、僕と先輩は露店を離れた。これって文化祭デートみたいなものだよね!? 夕方までずっと仕事するのかと思ってたから、最高のご褒美だ。

 僕はナース姿の先輩と並んで歩きながら、広場の露店を見て回る。先輩を見て「可愛い!」「すごい美人!」なんて言っている人もいるので、僕は自分みたいな冴えない男がこうやって並んで歩いている事実に、恥ずかしさや申し訳なさを感じる。一方で、先輩を独占している優越感のようなものもあって、いろいろと複雑な気持ちだった。だけど先輩はそんなことを気にしない様子で、いつものように振舞っていた。

「渡辺くん、お腹空いてるでしょ? なに食べたい?」

「嫌いなものとかはないので、僕は何でも」

「じゃあ黒蜜カイコ買っちゃう?」

「それはちょっと……」

 いや、でも、買えば先輩と写真が……って、それはお客さんだけか。

 先輩は僕が困っていることに気付いて、くすくすと笑う。

「冗談だってば。私、チュロスがいいなー」

「あ、いいですね。でも昼ご飯がチュロスですか?」

「こういう日はあらゆる不摂生が許されるんだよ」

「そういうもんですかね。じゃあ僕も」

 二人でそろってチュロスを買った。

「渡辺くんも黒蜜かける?」

「え? あ、どうも……」

「どうせ余るから、いっぱいかけていいよ」

 持ってきたのかよ! というかお店に置いとかなくて大丈夫なのか……?

 それからフランクフルトや肉巻きといったジャンクフードを頬張りながら、広場以外のところにも行ってみることにした。

 共通棟で展示物を眺めたり、国際交流カフェでコーヒーを飲んだり、野外ステージでライブ演奏を聴いたり。やがて歩くのに疲れてきて、僕らは人の少ない屋外のベンチに座った。

「ふー、ちょっと疲れた」

「そうですね。結構いろいろ回りましたね」

「うん。やっぱり、いいよね。こういうの。お祭り。全部がキラキラしてる」

 先輩は澄み渡った青空を見上げている。その横顔は見つめる先の快晴のように、すっきりとしていて、僕は見惚れてしまった。

「いいですよね……」

 先輩と写真が撮りたいとか、そういう邪念さえ吸い込まれて消えてしまいそうな、綺麗な秋空。空が綺麗だと感じることが、幸せってことなのかもしれない。

「先輩と一緒なら、どこへ行っても、何をしても、きっと楽しいんだろうなって思います」

「渡辺くん……?」

 呼ばれて横を向くと、先輩が不思議そうな顔をして僕を見つめていた。それでようやく、恥ずかしいセリフを言ってしまったと気付いた。

 ほとんど無意識のうちに、素直に今、思ったこと、感じたことを呟いていたのだ。だって、面と向かってそんなセリフを言えるわけないから。

「あっ、いや、特に、深い意味は……!」

 顔をそむけて誤魔化したけど、頬は燃えるように熱い。文化祭のせいで僕のテンションはおかしくなっているのかも。

「ええと、あの、ざざむしの佃煮、よく食べるんですか?」

 唐突だとは分かっていたけれど、話題を変えるしかなかった。

「小さい頃はよく食べてたよ。あれ、地元で有名だから宣伝しようと思って」

「先輩って、確か長野出身でしたっけ」

「そ。長野の山の中で生まれた田舎者」

 自虐だけど卑屈さは感じない。たぶん先輩は田舎の自然も大好きなのだろう。考えてみれば、僕は先輩の生まれや過去について、ほとんど何も知らない。

「あのざざむしの佃煮って、もしかして、まさか先輩の実家で作ってたりとか……?」

「惜しい。実家じゃなくて、うちのじいちゃんが働いてる地元の会社から送ってもらったの。身内割引で」

 なるほど、長野の田舎と、そこでざざむしの佃煮を作るおじいちゃん。少しずつ先輩のルーツが分かってきた。

「あれ? でも先輩、ウォーターサーバーの会社に入るって。おじいさんのところにコネがあるのに、こっちで虫とは関係ないところに就職して、いいんですか?」

「まあね。私は長野に戻るべきじゃないから」

「えっ?」

 なんだか先輩らしくないセリフのような気がして、僕の胸の中は少しさざ波が立った。

 先輩はまた空を仰いでいる。その横顔に何か先輩の秘めた思いを感じた。ナースキャップから零れた髪が風に揺れて、先輩のしなやかな指が、その髪を耳にかける。

「何か理由があるんですか」

 聞いてもいいのかどうか分からなかったけれど、思い切って聞いてみた。たぶん今ここで聞かなかったら、二度とチャンスがないような気がして。

 先輩は「大したことじゃないんだけど」と前置きしてから、話し始めた。

「中学のときにね、私、そのざざむしの会社と協力して、新しい商品を作ったの。ざざむしって真冬に川の中に入って捕まえるんだけど、それがけっこう大変で、じいちゃんもやってたし、なんかこう、私なりに応援したくなったというか、地域貢献したくなったわけだよ。それで、生まれた町のため、じいちゃんのいる会社のため、それから私の興味もあって、チャンスをもらって、商品開発をした。その新作のざざむし商品が道の駅とかで売られて、新聞に載ったり、テレビ局が取材に来たりしたんだ」

 すごいですね、と言おうとしたけれど、僕は何も言えなかった。先輩が全然嬉しそうじゃなかったから。

「私はすごいことをしたと思ってた。意味のある、立派なことができた、って。でもそれは私の気のせいだって後から気づいた。商品が売れたのは数週間だけ。最初は物珍しさとか好奇心で買う人がいたけど、すぐに売れなくなった。現実を思い知らされたというか、まあ、商売は遊びじゃないってことだね。私のしたことが無駄だとは思わないけど、どのくらい意味があったかは分からない」

「なんだか、残念ですね」

 そういう僕も、虫料理をわざわざ買うかというと、買わない人間なわけで。コメントしてから、僕って白々しいなと自己嫌悪にとらわれた。

「うん、残念だった。あの町は虫を食べる文化が今もあって、それは私にとって当たり前だったけど、他のところでは昆虫食はゲテモノ扱いされてる。それであの町とか長野が嫌いになったわけじゃないけど、外に出なきゃいけないって思うようになったの。私の見ている世界は狭い。外の世界はもっと広い、って。だけど東京とか名古屋とかに一人で飛び込んでいく勇気もなくて、その真ん中にあるハンパな場所――静岡に落ち着いちゃった。ああ、もちろん、ここは大好きな場所になったよ。だからここで就職したし」

「その気持ち、分かる気がします。僕も東京は自分に合わないような気がして、ここに」

「東京、怖いよねー」

「ですよね。なんとなく勇気が要りますよね、東京って聞くと」

 意外にも先輩が僕と同じ小心者だと分かって、おかしくて笑ってしまった。先輩も笑っていた。

「虫のこと、自然のことは、全部じいちゃんに教えてもらったんだ。じいちゃんは長野で頑張って虫食いの文化を守ってる。私はこっちで頑張って、虫食いの文化を広めたい。せっかく居心地のいい地元を、決意して飛び出してきたんだから、簡単に帰るわけにはいかないんだ。でもまあ、ここでの活動も、意味があるかどうかなんて分からないけど……」

「意味はありますよ!」

 自嘲気味に微笑んだ先輩を励まそうとして、声に力をこめた。

「少なくとも僕は先輩に会わなかったら、死ぬまで虫なんて食べなかったはずです。カイコの唐揚げを買ってくれた人たちだって、きっとほとんどの人は初体験ですし、あんなの絶対記憶に残りますし、その影響でいつかざざむしの佃煮も食べてみようって思うかもしれないじゃないですか」

 『かもしれない』は、根拠のない推測や希望だ。でも実際の商売はそれじゃ済まないし、遊びでもない。僕らはカイコの唐揚げが全く売れなくても笑い話で済むけれど、ざざむしの佃煮を作っている会社は死活問題だろう。

 僕の言葉が軽々しいのは分かっている。だけど、今の僕はそういう言葉しか持ち合わせていないから、何もない僕にできるのは、お粗末なセリフでも、とにかく気持ちを伝えたり、励ましたりすることだけ。

「先輩のやっていることは無駄じゃないです。おじいさんの会社や虫食いの文化を守るために、貢献していると思います。一つ一つは小さいことだとしても……僕はそう思います」

「……ありがとね」

 その感謝の言葉は、今までの先輩のどの言葉よりも、優しく響いた気がした。

 僕の拙い言葉で、少しでもいいから何か先輩に届いてくれていたら、と思う。

「渡辺くん、君は優秀な人材だよ」 

 先輩が僕の肩に手を置いたので、僕は動揺してしまう。いちいち意識するな僕!

「そ、そうですかね?」

「うん、非常に優秀です」

「それは、ええと……ありがとうございます」

 真っ直ぐに見つめてくる先輩と、視線が合わせられなくて若干挙動不審になる。この程度のボディータッチで、このザマとは情けない。

「カイコってね、飛べないんだ」

「え? 立派な羽が付いてるのにですか?」

「そうだよ。ペンギンと同じだね」

 僕は吹き出した。カイコとペンギン、全然似てないと思うのは僕だけか?

「実は木にも登れない。寿命もセミみたいに短い。人間に長く飼育されすぎて何もできなくなっちゃった究極の家畜がカイコなんだよ」

「へえ、退化したってことですか」

「そうそう。我々も、居心地いいところで、ずっとぬくぬくしてると、きっと退化しちゃう。私はカイコみたいになっちゃいけないと思うんだ。常に飛ぶことを忘れちゃいけない」

「あー、なるほど。だから先輩は黒蜜味が必要だ、と」

「やっぱり君は賢いね!」

 先輩に言われると、まんざらでもないから不思議だ。心の中でガッツポーズを決める。

「さあ、同士、渡辺くん。いざ、黒蜜味を食べに戻ろうか」

「はい、もうお腹いっぱいですけど……」

 僕らは広場に戻る道すがら、妙な人に出会った。ビジュアル系バンドみたいに派手な服装で、首から看板をぶら下げている男性だ。手にはお金を入れる箱。

「絶叫代行~。たったの10円で、あなたの代わりに何でも叫びま~す」

「渡辺くん、なにあれ面白そうだよ!」

 先輩はその人を見つけるなり目を輝かせて駆け寄っていった。

「なんて叫びましょうか? 拙者が覚えられる長さでお願いします。あと誹謗中傷や卑猥な言葉はNGなんで」

「渡辺くん、何にする?」

「特に、思い浮かびませんが……」

 ここで気の利いたアイデアを出せないのが僕である。

「んー、じゃあ、『斎藤くんのゲス!』にしようかな」

「それは誹謗中傷だと思いますが」

「じゃあゲスだけで」

 先輩、ゲスって好きだなぁ……。

「申し訳ないけどゲスだけでもダメなんで」

 男性に断られて、先輩が舌打ちした。

「あ、じゃあ、広場で虫料理売ってます、とかどうですか?」

「面白くはないけど、一回目はそれで」

 何回もやる気なのか? まあ10円だから懐は痛まないけど。

 先輩が箱に10円を入れると、男性は大きく息を吸い込んで、体を直角にのけぞらせて「広場で虫料理売ってまああああああす!!!」と絶叫し、その直後ゲホゲホとむせていた。驚いた周りの人たちがこっちを見るので恥ずかしい。先輩はその様子がツボに入ったのか、お腹を抱えて笑っていた。

「次は、内定しましたイエーイ! でお願いします」

 先輩が10円を箱に入れ、男性が「内定しましたイエエエエエエエイ!!!」と絶叫し、また激しくむせた。それを見て爆笑する先輩、縮こまる僕。

「もう一回!」

 10円、絶叫、そしてゲホゲホ。もし箱に1000円札をねじ込んだら、この人は死ぬと思う。

「一組、五回までで、お願いしゃす」

 男性は喉をさすりながら、ガラガラの声で言った。

「次、渡辺くんいいよ」

「ええと……まだ考え中です」

「じゃあ、凜ちゃんマジ美少女、天使すぎる愛してる、で」

「凜ちゃああああああん!!! マジ美少女天使すぎる愛してるううううううッ!!!」

「……何ですか、今のは?」

 振り向いたら、訝しむような顔の凜ちゃんと須藤教授がこちらに向かって歩いてくるところだったので、僕は戦慄した。凜ちゃんはいつもの制服姿で、スカートは短いけど、黒タイツで防寒している。須藤教授はニット帽にコートも羽織って真冬の格好。

「凜ちゃんへの溢れるほどの愛を全く無関係な男に叫ばせてました」

「気持ち悪いのですが?」

 凜ちゃんは先輩と絶叫代行の男性を氷点下の視線で串刺しにした。

 ……彼に罪はないのでは?

「やあ、二人とも。猪俣さん、似合ってるね。お蚕さんみたいに真っ白だ。だけどお店は?」

「でしょでしょ~? 教授、分かってますね!」

 なんで教授は一目でナース=カイコのイメージだと見抜けるんだ?

「お店は斎藤さんと石橋さんがやってくれてます」

「先生、凜ちゃん、何か叫びたいことありますか? この人が代わりに叫んでくれるので」

「ないなぁ」

「ないです」

「えー、じゃあ渡辺くんに言ってやりたいこととか」

 なぜそうなる?

「はい」と凜ちゃんが小さく挙手する。……おい。

「何?」

「渡辺さんは今日も素敵ですね」

「お兄さん、ラストお願いします」

「渡辺さんはァァアアアアアッ!! 今日もマジ素敵ですネ愛してるうううううううううアォッ!!!」

 ひときわ高い声でキャンパス中に響き渡る、無関係な他人が叫ぶ愛。嬉しくない。ゲホゲホと、爆笑と、頬を赤らめて恥じらうように顔を伏せた凜ちゃんと、複雑な表情の教授。

「いやいやいやっ! セリフ違いますし!?」

「ザービズ、じどぎまじだ……」

 男性はガラガラの声で言うと、やり切ったという顔で親指を立てた。

 余計なサービスだよ……。

「じゃあ、お二人とも、お店に案内しますね」

 僕らは絶叫代行の男性と別れ、広場に戻った。これからお店を回すのは僕と先輩。凜ちゃんと須藤教授は遊びに来ただけなので、カイコ唐揚げを買っておしゃべりをした後、他のところを見に行ってしまった。斎藤さんと石橋さんも飯を食ってくると言って消えたので、やっぱり僕と先輩の二人だけになった。とはいえお客さんのピークが過ぎていたので、僕らはおしゃべりをする時間も、つまみ食いをする余裕もある。

 そんなとき、招かれざる客がやってきた。きっとそういう心無い人も少しはいるだろうな、と予想していたけど。

「すげっ、マジで虫、売ってる」

 そう言ってお店をのぞき込んできたのは、二十代後半くらいの男女のグループだった。先輩が前のほうでお客さんの対応をしていて、僕は奥のフライヤーのところにいたのだけど、変な人たちが来たのはすぐに分かった。

「これ、ホントに虫が入ってるの?」

「ホントにカイコの成虫が入ってます! 足と羽は取ってあって――」

「どれよ? 一匹まるごと?」

 その客は先輩の説明は聞かず、唐揚げ入りの紙コップを勝手に手に取って調べ始める。その後ろで女がスマホのカメラを向けていた。

「すみませんけど、買わないなら触らないでもらえますか? あと写真とか動画もやめてください」

 先輩が毅然と注意すると、彼らは「買わないって言ってなくね? 客なんだけど?」と気分を害したように表情を曇らせた。

「でもどうせまずいんだろ?」

「おいしいかどうかは人によります」

「まずかったらタダにしてくれる?」

「返金はできません」

「それはないだろ?」

「なくないです」

 さすが、先輩は毅然としているが、雲行きは怪しく見えた。僕は先輩を心配する一方、自分が店の奥にいるときで良かった、なんて思ってしまった。かっこ悪いって分かってるけど。

「これも売ってんの? ざざむしって?」

 彼らにとって、いかにも文化祭にそぐわないざざむしの佃煮は格好のターゲットだった。

「こんなのが2000円とか高すぎ」

「ありえねえだろ。ぼったくりかよ」

「てか、このイラスト、超うけるんだけど~」

 買う気ないなら、さっさと帰れよ。僕はただ、そう願いながら先輩の後ろで黙っていることしかできない。

「こんな気持ち悪いもの作って売って、迷惑だと思わないのか?」

 先輩の右手がぴくりと動いて、こぶしにギュッと力がこもったように見えた。先輩がどんな顔をしているのかは見えないけど、もしかしたら客を殴るのではないか。しかしそれは杞憂だった。

「高いと思うなら買わなくていいですし、誰かに迷惑をかけているとも思いません」

「は? こっちは迷惑してるって言ってるんだが? 気持ち悪いもの売るなって言ってるのが分かんないの? 一般常識ないのか?」

「それは、じいちゃんの……」

 先輩は何かを言いかけて黙った。こぶしは強く握られたままで、その背中を見ているのが辛くて、僕は胸がヒリヒリする。斎藤さん、石橋さん、早く戻ってきてくれないか……。

 先輩が黙ったのを見て、男は勝ち誇ったような余裕を見せ、先輩の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

「分かればいいんだ、おねえさん。こういうものは他人を不快にさせるんだから」

 こんなのは間違ってる。買わない商品を勝手に触ったとか、ざざむしの佃煮をバカにしたとか、先輩の肩に汚い手を置いたとか、他にもいろいろあるけど、全部が間違ってる。店の奥に居られて良かったと思う僕もバカだ。いいことなんて一つもないじゃないか。自分の好きな人があんなふうに言われて、こんなことをされて、好きな人の好きなものまで踏みにじられて、それをただ見ているしかできないなんて、それ以上の苦しみがあるか?

 僕は店の外に飛び出して、客の側に回った。足が震えて、理性が「やめておけ」と言っている。だけどこの胸の激しい痛みを放っておくくらいなら、どんな無茶をすることも、どんな愚行に走ることも、大したことではない。

「あ、あの、謝ってください!」

 僕が横やりを入れると、男女がこちらを見た。僕は早口でまくし立てる。

「ざ、ざ、ざざむしは真冬の川の中で捕まえるんだ。捕る人が少ないから高くなるに決まってるし、第一、気持ち悪いと思ったら黙って通り過ぎればいいじゃないですか、その人に謝ってください」

「は? 何、おまえ?」

 相手の男のほうが歳も上だし身長も高いし体格もいい。殴られたら絶対痛いし、喧嘩したら絶対に勝てない。そんな想像をしただけで息が詰まって、うまく呼吸できなくなる。先輩がどんな顔をしているかまで見ている余裕はなかった。ましてや周りの状況なんて、もっと分からない。

「僕はどうでもいいので、商品をバカにしたこととか、その人に謝ってくださいって言ってるんです」

「すみません、文化祭実行委員の者です。何かトラブルですか」

 ハッと現実に戻されて振り返ると、実行委員の腕章を付けた人が近づいてきた。

「あ、いや、その……」

「俺たち、何もしてないですよ。急にこいつが、わけの分からないことを」

 何もしてないなんて嘘だ。だけど僕は気が動転して、あたふたしている間に、男女のグループはどこかへ去ってしまった。先輩が僕に代わって実行委員の人に、商品のクレームを言われただけだと説明し、深く追及されることもなく、この事件は終わった。

 僕は脱力して店の奥のパイプ椅子に腰を下ろし、先輩はテキパキと次のお客の対応をしていた。きっと僕はどうかしていたのだ。文化祭の非日常の空気に当てられて、おかしくなっていたに違いない。

 ……何をやっているのだろう。

 お客がいなくなると、先輩が僕の隣にやってきた。珍しく気の抜けたような、とろんとした表情をしている。

「さっきは、ありがとうね」

「いえ、なんというか、勝手なことをして、すみませんでした。せっかく先輩が我慢してたのに」

 たぶん先輩は、問題を起こすと来年は出店させてもらえなくなるとか、そういうことを考えていたのだろうと思う。危うく僕のせいで、先輩の努力を無駄にしてしまうところだった。

「ううん、渡辺くんが、あいつらに、謝ってくださいって言ってくれたとき、すごく嬉しかった」

「結局、あの人たち、謝りませんでしたけど」

「いいよ、あんなヤツら」

「今も、ちょっとムカムカしてます」

「私も」

 この広場で、僕と先輩だけが、すでに文化祭の後夜祭にいるような、変な感覚だった。楽しそうな声も、お客さんを呼ぶ活気も、遠くで聞こえる音楽も、何もかもが嘘のような気がしてしまう。まだ文化祭は続いているのに。

「渡辺くんって――」

 時間が止まったような世界で、先輩が、僕を見つめている。いや、本当は目が合ったのは一瞬で、それが僕にとって長い時間のように感じられただけかもしれない。

 先輩が「なんでもない」と言うと、僕らを包んでいた薄い膜が弾けて、賑やかな文化祭の広場が鮮やかに戻ってきた。

「なんかね、今日はいろいろ思い出したよ」

「おじいさんのことですか?」

 何事もなかったかのように話し始める。

「とか、大学に入ったばっかりのときのこと。虫食いの文化を広めるために、すごいことやろうと思ってたのに、今はこうしてみんなで集まっておしゃべりしてるだけで楽しくて、満足しちゃうっていうか。なんか、大志を抱いてた過去の私に申し訳ないというか」

「だけど先輩はまだ目的を諦めたわけじゃないですよね」

「そうだね。まだ諦めてない」

「先輩、就職しても静岡にいるんですよね? だったら、このサークルを続けたら、新しいチャンスとかが……」

 先輩が社会人になってもサークルに来てくれる、というのは僕の個人的な淡い願いだ。現実的には難しいだろう。

「そうだね、それが正解なのかな」

 先輩は卒業した後、サークルに顔を出すとか出さないとか、そういう話は一切していない。もし、卒業してもまた来るね、なんて言ったとしても、たいていの場合、社交辞令なのかもしれないが、どちらにしても、あと四か月ほどで先輩との繋がりが消えてしまうと思うと、恐ろしくなる。

 居心地のいい場所にずっと留まっていれば、カイコのようにやがて退化する。先輩にとって、地元から飛び出したように、次はこのサークルから飛び出すことこそが、本当の正解なのではないか? そんなことが頭をよぎるけれど、正直なところ、分からない。

 先輩と、ずっと一緒にいたい。

 僕にとっては、こんな、何でもない時間でさえ、楽しくて幸せだと思う。先輩は僕のことをどう思っているのだろうか。ただの同じサークルの後輩としか思わないのか。知りたいけれど、そんな質問は実質告白みたいなものだし、先輩の突飛な言動を恋愛感情に結び付けて分析するのは難しい。

「すみません、まだ売ってますか?」

 不意に僕らに声をかけてきたのは、絶叫代行の男性だった。

「先ほどはご利用どうもです。虫料理って、これですか」

「そうなんです!」先輩は一瞬でいつものテンションを取り戻す。「カイコの唐揚げ売ってます! オススメは黒蜜味!」

 男性は店のポップを見て、「この、ざざむしっていうのは? 売り物ですか?」と聞いてきた。

「高級珍味ざざむしの佃煮に目をつけるとは、お主、なかなかですな」

 先輩の目の色が怪しげなそれに変わった。2000円の佃煮を売りつける気だろうか……。

「酒に合いますか?」

「合いますとも」

「じゃあこれ、いただきます」

「2000円です! 私とのツーショット写真を撮る権利付きで!」

「え、いいんですか? やった」

 マジかよ、2000円の佃煮が売れるなんて……。

 ついでにカイコの唐揚げカレー味も一つ買って、先輩とツーショット写真を撮って、絶叫代行の男性は去っていった。今晩、パーッと打ち上げでもするのだろうか。

 接客を終えた先輩と僕は、また椅子に腰かけて怠け者の店員に戻った。

「佃煮、売れてよかったですね」

「やっとだよ! あ、そうだ、渡辺くん、お店の前で写真撮ってくれない? じいちゃんに送りたいから」

 唐突に先輩がそんなことを言い出した。

「いいですけど」

「こっち来て。一緒に撮ろう」

 店を背景にして先輩の隣に並ばされる。腕と腕がくっついても、先輩は気にしない。いいのか? しかも僕のケータイで。

 先輩が笑顔でピースし、僕は初めてのカップル版自撮りの難しさに苦労しながら、腕を伸ばしつつシャッターボタンを押した。いい感じにお店と僕らをフレームにおさめるのが大変だった。恋人や夫婦っていつもこんな高度なことしてるのか?

「それ、私に送ってね」

「いま送りました」

「ありがと。……なんか渡辺くん、難しい顔してない?」

「実際、難しかったので、そのような顔に……」

「まあいいか。じいちゃんに報告っと」

 そんなこんなで、僕は思いがけず先輩のコスプレ写真を手に入れたのだった。

 その後、斎藤さんと石橋さんが戻ってきて、終了の時間になったら片づけをして、四人で夕飯を食べに行った。

 僕らが出店するのは初日だけなので、これで一段落。先輩のコスプレも見納めだ。

 そして気が付けば、あっという間に冬がやってきた。

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