『内定しました!!!』
そんなメッセージが虫の輪のLINEグループに送られてきたのが先週末。十月の、夏休みが明けて二週間ほど経った日のことだった。
『みなさんホントにありがとうございます! 余計なことをしゃべるな、とりあえず黙っとけ、というアドバイスのおかげです!』
就職活動とか面接とかいうものは、いかにたくさんしゃべって自分をアピールするかが重要なのだと、僕は思っていた。しかし先輩の場合は、そうではないらしい。確かにきっちりとスーツを着て、髪も整えて、椅子に座って膝の上で両手を合わせているだけなら、面接官は先輩に一目置くかもしれない。先輩がしゃべり始めるまでは。
虫の輪には二人の就活生がいる。学部四年の先輩と、修士二年の斎藤さんだ。さほど話題にはなっていないが、斎藤さんはかなり早い時期に志望通りの企業に採用が決まっている。それも一部上場していて、誰もが聞いたことがある有名企業だから驚きだ。それを自慢するでも誇るでもなく、「まあ、当然だろう。そんなことより……」と涼しく話題を流した斎藤さんは、いったい何者なのだろうか。とにかく先輩と違って、かなりの世渡り上手であることは違いない。
『見事に全員内定というわけだ。次回は二人のお祝いということでいいかい?』
ひとしきり賛辞が飛びかったあと、須藤教授の提案で内定祝いパーティーをすることになった。
それで今日。
須藤教授の研究室にいつものメンバーが集まり、いつものように本日の予定が発表された。
「では本日も虫の輪、始めます。本日の予定はだいたいLINEで連絡した通りなんですが、追加で最初に、サークル代表の交代を行ないたいと思います」
突然の発表にもかかわらず、僕以外は誰も動揺していなかった。しかし考えてみれば、先輩は来年三月に卒業するので、いずれこの日が来るとみんな知っていたのだ。
「えー、では、サークルの創設者にして代表者である私から退任の挨拶を」先輩はわざとらしく咳を打った。「このサークルは私が一年生のときに作ったので、四年目です。これほど長くサークルが存続しているのは、皆さんのおかげです。本当に感謝しています」
先輩にしてはマトモというか平凡な挨拶だ。こんなふうに話せるなら内定を取るのは難しくなかったんじゃないだろうか。だが僕はすぐに『余計なことをしゃべるな』というアドバイスの意義を理解することとなった。
「しかーしッ! 私にはやり残したことがある! たぶん何個かある! でも一番は斎藤くんッ!!」先輩が声を張り上げ、斎藤さんがびくりとした。「マダゴキちゃんの卵を私にちょーだい! お願いだから! 創設者の最後の願い! マジでお願いします! お願いします!」
創設者であり代表者であり司会者であり今日の主役である人物が、いきなり全員の前で平身低頭してマダガスカルゴキブリの卵を懇願したのである。テーブルに額をくっつけ、ひたすら「お願いします!」を連呼している。あまりに身を乗り出すので、テーブルがずるずると押され、それを反対側にいる斎藤さんが押し返す。どよめき、あきれる僕ら。
「見苦しいわ! 個人の欲を公の場で訴えるんじゃねえよ」
「最後の公の場だからこそ、私は訴える! もう三年以上ずっと訴えてきたように、私はあきらめずに訴える! マダゴキの卵を! 神の恵みを! どうかください! 卵! いいじゃん、ひとかたまりくらい。斎藤くん、お願いだから! 一生で一回のお願い! ホントに一回だけだから! 私のお願いを叶えて!」
「やらねーよ! おまえには絶対やらねえ!」
「なんで!? 私の何が不満!?」
「ずうずうしくてしつこいところが不満だよ! ほかにも聞きたいか? 聞きたくなければさっさと司会しろ!」
「うぅ……」
厳しく叱責された先輩は捨て犬みたいな顔で「このゲス」と小さくつぶやき、司会を再開した。
「次の代表は、石橋くんなんで、がんばってください。じゃ、あと適当によろしく」
驚くほどそっけない言葉を残し、先輩は司会席からしりぞいた。だいぶ凹んでいるようなので、あとで励まそう。
教授を抜けば残るメンバーは僕、凜ちゃん、石橋さんなので、妥当な采配だろう。というか、他に選択肢がない。このサークル、存続できるのだろうか……。
僕の心配をよそに、司会席に座った石橋さんが意外としっかりした口調で話し始める。
「新代表に任命いただきました石橋です。サークルが盛り上がるように尽力していきますんで、つたない部分もあるかと思いますが、以後よろしくお願いしまっす。さて本日の予定ですが、このあとすぐ全員で外に出て、大学内でジョロウグモを採取。それから調理班と買い出し班にわかれて、宴会の準備。宴会会場はここ。二次会は各自でお願いしまっす」
たぶん事前に代表任命のことを知っていたのだろうけど、卒なくこなすところが流石だ。
それにしても先輩は新代表のことなどちっとも見ておらず、未練たらしく斎藤さんをにらんでいた。どこまでも己の欲に正直な人である。
「じゃ、行きますか」
一同はバラバラと立ち上がった。
土曜日の大学は学生もまばらで、平日の昼間とは空気が違う。天気は
「降るかもしれないっすね」
建物から出たところで、石橋さんが空を見上げた。
「降水確率四十パーセントだそうだ」
須藤教授はスマホで天気を調べている。
「降っても小雨らしい」
木が多くて絶好の採集スポットである憩いの広場周辺に向かった。石橋さん、斎藤さん、須藤教授、凜ちゃんが並んで前を行き、僕は傷心した先輩の隣に並ぶ。
「斎藤くんってゲスだよね」
まだそんなことを言っていた。
「びっくりするほどゲスだよね」
僕としては斎藤さんに協力してもらっている立場なので、全面的に肯定するわけにもいかない。
「確かにすごくキツい人ですけど、いい人のときもありますよね」
「どんなとき?」
「え? あー……」
先輩とお近づきになるために協力してもらっているとは言えなくて、言葉に詰まる。
「ああ見えて意外と器用で料理うまいですし……」
「それっていい人なの?」
先輩が小さく笑った。
「いや、あの、そうだ! 割とみんなのことをよく考えてくれてるというか」
「そうだねー。あれで意外とみんなのこと、よく分かってるんだよね」
広場に着いた。ベンチはどこも空席で、誰もいない。
「おー、いるわいるわ」
斎藤さんがさっそく一匹目のジョロウグモを捕獲しにかかった。
「いるねー」先輩も嬉しそうに、木々に近づく。「いい具合に染まってる」
「染まってるって、何がですか?」
僕が尋ねると、先輩は「お腹の赤色。きれいでしょ?」とクモの巣の真ん中にいる本日の食材を指差した。大きさは二、三センチ。黄色と黒のトラ模様で、長い八本の脚を持ち、ぷっくりとふくれたお腹には鮮やかな紅が入っている。まるで遊女のようにあでやかな姿をしたクモだが、まったく珍しくないので、たいていの人はまじまじと眺めたりしないだろう。
「春には見ないでしょ、このきれいな赤」
「言われてみれば、今まではいなかったような気がします」
「大きくてお腹がふくれてて赤色が入ってるのがメスね」
「えっ、赤いのは全部メスなんですか」
「そうだよ。この時期はジョロウグモの恋の季節だからね。メスのお腹が赤くなるの。赤はジョロウグモの恋の色。でもなんで赤なんだろうね? 人間も赤い糸って言うよね」
「そ、そうですね……」
その理由は知らないが、それよりもこの流れのまま「先輩は恋愛に興味あったりしますか」とか「好きな人はいますか」とか聞いてみたくてたまらなかった。だけど聞く勇気はない。
「あれ? でもそうするとメスばっかりでオスはいないんですか」
「オスはこっち」
先輩がクモの巣の端っこのほうを指差した。目を凝らすと、薄いクリーム色をした小さなクモがいる。かなり地味だから存在に気づかなかった。
「これ!? ちっさ! それにむちゃくちゃ弱そうじゃないですか」
「弱いんだよ。下手すると嫁に食われちゃうよ、文字通り」
「
「超厳しいね。人間はフラれても命まで取られないからねー。彼らは告白からすでに命がけだ」
ジョロウグモと比較すると、人間の僕が告白するのは簡単なことのように思えてくるが、そんなのは錯覚である。僕には当分できそうにない。僕みたいなのがジョロウグモのオスに生まれていたら、ためらっているうちに絶対メスに食われている。
先輩は巣の真ん中に陣取っている大柄なメスを指でつまんで捕まえ、持ってきたビンに入れた。ためらいも恐れもないのは毎回のことだが、いちいち感心してしまう。
「たった今カップルを離ればなれにしたわけだよ。そう考えると、なんだか心苦しいよね」
「そうですね。お嫁さんが怪物に取って食われるんですもんね」
「我々は怪物なんだね。いや悪魔かも。やだなー」
人間は食うために何かを育て、子を産ませ、それをまた育て、また子を産ませる。そして最後にはやっぱり食う。その過程で愛情をそそぐことはあれど、やはり食う。食われるほうからすれば、まさに怪物、悪魔に違いない。
「ジョロウグモって、毒、ないんですか」
「毒は弱いから大丈夫なんだけど噛むよ。ちょっと痛いかな。軍手持ってこなかった?」
「いちおう持ってきました」
「さすが渡辺くん。たぶん他に誰も持ってきてないよ。せっかく私が連絡したのに」
そういう先輩も素手なんですが。
「まれにセアカゴケグモっていうのがいて、ちょっとジョロウグモに似てるんだけど、そいつは毒が強いから絶対触っちゃダメね。ジョロウグモより小さいけど、見た目はいかつい感じだから、渡辺くんならこれは違うなって分かると思う」
「分かりました。気をつけます」
僕らは適当に散らばって移動しながら、ジョロウグモを一匹一匹採取していった。凜ちゃんでさえ素手で取っていたが、僕は素手で虫を触ることに今も抵抗があるので軍手をはめた。透明なビンの中に集めたトラ模様のクモたちは、やっぱりカニの味がするんだろうか。初めて食べたアシダカグモのことや、先輩との出会いのことを思い出す。もう半年が経った。あと半年で先輩は卒業してしまう。内定した企業は、僕にとって幸いなことに県内だという話だけど、引っ越しは必要なのか、それとも今のところに住み続けるのか、それすら聞けていない。物理的な距離も心配だし、学生と社会人という立場の大きな違いが、僕と先輩との距離を余計に遠ざけてしまいそうで不安だ。
早く告白すべきなのだろうか。だが大学を去る相手に告白するなど、迷惑ではないか。どうして僕は最初から先輩の卒業について考えておかなかったのだろう? どうするのが正解なのか……?
ビンの中を歩きまわるジョロウグモたち。その姿に同情のようなものを覚えてしまう。オスと引き離され、こんなところに閉じこめられて、もう二度と外に出ることはできない……。
小雨が降り始めた。傘は持っていないが、気にするほどの強さでもないので、次のジョロウグモを探す。
「渡辺くん、戻ろう」振り返ると先輩がいた。「濡れちゃうよ」
「このくらい、大丈夫ですよ」
「でもみんな、戻るってよ。もうけっこう捕れたし」
僕はおとなしく、先輩と一緒に建物のロビーへ戻った。
「俺と石橋で買い出ししてくる。クモの処理は頼んだぞ」
斎藤さんが石橋さんを連れて出ていこうとしたところを、先輩が呼び止めた。
「私も行きたい! 選びたい!」
「LINEでリスト送ってこいよ」
「見て選びたいんだってば」
「行くなら荷物持ちするんだぞ?」
「それはイヤ」
先輩はいつだってはっきりしている。
「じゃあ料理な。渡辺に教えてやれよ?」
「うー……」
先輩は反論するでもなく素直に返事をするでもなく、変にうなるのが妥協点だったらしい。子供みたいに駄々をこねる先輩はいつも可愛い。
「じゃあ絶対ねぎま買ってきてよ、ねぎま。あとチョコ」
「へいへい」
僕は心のメモ帳の『先輩の好きなものリスト』に二つを書き加えた。
先輩には気の毒だけど、斎藤さんは最初からこういう人員配置にするつもりだったのだろう。何回ごはんを
僕ら料理班は研究室に戻り、ジョロウグモの下準備だ。本日のメインはジャガイモとジョロウグモのピザ。
僕もだいたいの流れが理解できているので、積極的に作業を手伝う。流しの下から鍋を出し、湯を沸騰させ、クモをゆでる。基本的に虫を食べる際は、加熱して病原菌や寄生虫を殺すことが必須だ。逆にたいていの虫は、きちんと加熱さえすれば食べても問題がないらしい。見た目はアレだけど、肉や魚と同じく立派なタンパク質である。
かわいそうだと思いながらも、熱湯の中に生きたクモを投入する。セミと違って叫びもしないけれど、クモたちの悲鳴が聞こえる気がした。このサークルに入らなければ、日常で豚肉や牛肉を食べるとき、自分の代わりに悪魔になってくれている誰かの存在や、その痛みを考えることもなかっただろう。
ゆであがった大量のクモは不気味だが、黄色、黒、赤の三色が鮮やかで彩りが良い。毒牙の部分――頭を一つ一つ丁寧に取り除いたら、ピザの具としての下準備は完了だ。
たくさん捕れたので半分は素揚げにすることにした。すでに加熱殺菌されているので、油で短時間、カリッと揚げる。塩を振りかけて完成!
「味見してみる?」
先輩に勧められて、一匹かじってみた。脚がサクサクしてうまい! スナック菓子みたいに食べられる。
「いい感じです。カニの味はしないですけど、おいしいです」
「渡辺くん、躊躇しなくなったね」
「あ、そういえばそうですね。さすがに半年経つので、慣れたみたいです」
「素晴らしい!」
ついに僕もこちら側の人間になってしまったか、と嬉しいような怖いような気持ちになった。
「渡辺さん、私も味見がしたいのですが」
凜ちゃんがそう言って僕の前で口を『あ~ん』した。
「なんで僕が食べさせるの!?」
「誰か指名するなら、渡辺さんがいいです」
「誰も指名しなくていいよ!?」
「うーす、戻ったぞー」
タイミングよく斎藤さんと石橋さんがマムの袋をたずさえて戻ってきたので、僕らは仕事を再開した。
僕はピーラーで、凜ちゃんはナイフで器用にジャガイモの皮をむいて先輩に渡す。先輩がスライスして、水にさらし、お皿に並べてレンジで加熱する。一旦レンジから出し、ジャガイモの上に輪切りのウインナー、チーズやピザソース、そしてゆでたジョロウグモを散らして、再びレンジでチンすると、本日のメイン――『ジャガイモとジョロウグモのなんちゃってピザ』の完成だ。生地がいらないから簡単で早い。
斎藤さんと石橋さんが買ってきたビールや焼酎、ジュース、お茶、ポテチやチョコ、やきとりやチータラを並べ、須藤教授がお皿や箸を置いていく。そして全員が席に着き、内定祝いパーティーが始まった。「おめでとう」と「かんぱい」のコール。
「それで猪俣さんはどんな会社に行くことになったの?」
教授に尋ねられた先輩は「お水の会社です!」と説明した。「ウォーターサーバーの天然水、売ってます」
「いいじゃないか。日本の自然が生み出す水は、これからもっと価値が出るね」
「ですよねー! さすが教授、分かってる!」
先輩はウォーターサーバーのマシンじゃなくて天然水のほうに魅力を感じたのだろうか。もしそうなら、先輩らしくていいかもしれないな、と思った。
「猪俣から水を買うヤツなんぞ、おらんぞ。こいつは水と焼酎の区別もつかないからな」
「さすがに分かるわーい!」
先輩が恰幅のいい斎藤さんの土手っ腹をベシンッとたたき、みんなが笑う。先輩、今日もテンションが高い。お酒もぐいぐい飲んでいる。
「ピザうまっ! 作ったの私だけどー」
「うむ、うまい」「いけるっすね」「さすが猪俣さんだ」「美味です」
「めっちゃ、おいしいです!」
やはり見た目はアレなんだけど。ジョロウグモは枝豆みたいな味で、ピザに乗せるなら個人的には脚がついていないほうが食感がいいかなと思う。
「焼酎プリーズ!」
ビールを飲み干した先輩がグラスを突き出したと同時に、斎藤さんが焼酎のボトルを僕に手渡してきた。僕はその意味をすぐに察する。
「先輩、おつぎしますよ」
「渡辺くん、君はホントいつもナイスなところにいるねー」
はい。いいところにいるようにしているので。
僕が先輩のコップにお酒をつぎ、それを先輩が飲んでくれるだけで、すごく意味のあることをしたような気がしてしまう。だけど実際は僕の思い過ごしにすぎない。
僕らはおおいに食べ、飲み、語り合った。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
おおかた食べるものがなくなり、そろそろ終わりの雰囲気が漂ってきた。酔っ払い三人と須藤教授には引き続きおしゃべりに花を咲かせてもらい、僕と凜ちゃんがぼちぼち洗い物を始める。
「私が洗いますので、渡辺さんは拭いてください」
「うん、オーケー」
「つまり共同作業ですね」
「そ、そうだね」
先輩と同じくこの女子高生も見惚れるほど美人なのだけど、どこか変わっている。素朴な黒髪ロングで理知的なオーラをまとっているのに、言動はたまにおかしい。相変わらず距離感が分からん……。
凜ちゃんがお皿を洗って水ですすぎ、僕にパスする。
「凜ちゃんって、休みの日とか何をしてるの?」
「いろいろ、平凡なことです」
「趣味とかある? スマホでゲームやったりマンガ読んだりする?」
「禁止」
「え、マジ?」
「されてません。します」
なんだよ、そのフェイント……。
「渡辺さんは?」
「前はけっこうゲームしてたけど、今はやってなくて、代わりにマンガ読んだりとか。凜ちゃんはどういう系をするの?」
「脱出ホラー系」
「へー」
「の、実況動画を見ます」
またフェイントかよ!?
いろいろ聞いてみると、ふつうに今どきの女子高生っぽい趣味の持ち主であった。話題の少年マンガとか、CMやってるようなゲームとか、有名なユーチューバーを知っていた。
「渡辺さん」
「うん?」
「これ、見てください」
凜ちゃんが洗い物をする手を止めて、ケータイの画面を見せてくれた。
恐竜の骨格の模型だろうか。何の恐竜だか分からないけど、マンガとかに出てくるドラゴンみたいなものもある。
「恐竜だよね? プラモデル?」
「骨です」
「うん、骨だね」
「骨アートです」
「骨アート?」
「手羽先などを食べて、骨を分解して、洗って、乾かして、組み立てます」
「じゃあこれ、全部トリの骨!?」
「トリだけじゃないです」
「す、すごいね……。すごすぎて、すごいとしか言えない……」
クオリティが高すぎる。趣味というより芸術だ……。飲み会で骨付きチキンの骨を大事そうにお持ち帰りしていたのは、このためか。やっぱりこのJK、ただ者じゃない! さすがは生物学科の教授の娘だ……。
凜ちゃんはケータイを上着のポケットにしまい、僕の耳元で囁いた。
「渡辺さん、猪俣先輩と仲がいいですね」
「へ?」
僕は動揺して、持っていたコップをぶつけてしまった。割れはしなかったが、その音で酒飲みたちが一斉にこちらを見た。
「だ、大丈夫です! 失礼しました!」
それ以上興味を示すことなくおしゃべりに戻る酒飲みたち。
まさか斎藤さん、石橋さんに続いて、凜ちゃんにもバレているのか!?
僕は平静をよそおいつつ凜ちゃんの真意を探ろうとするが、凜ちゃんはいつものようにどこか物憂げで、表情の読めない顔をしていた。
「ど、どうして急に、そんなことを……?」
「分かります。分かりやすいです」
まあ、斎藤さんと石橋さんには初日にバレたしな……。
「凜ちゃん、そのことは、先輩には絶対、言わないようにしていただけますでしょうか」
「どうして敬語ですか?」
「重要なことなので……」
凜ちゃんの形の良い細い眉が、わずかに寄った。
「渡辺さん、まさか、先輩のことを本気で――」
「うわあああああッ! それ以上は禁止! 言わないでください!」
「お主ら、怪しい話をしておるな~?」
よりによって先輩が興味を示してこっちへ来た!
「し、してませんよ、何も」
「分かるよ、お酒が飲みたいっていう気持ち。禁止されると求めてしまうのが人間の
勝手にアルコールの話になってくれて助かった。先輩は頬がほんのりと紅い。
「そ、そうなんですよ、僕らも早く飲みたいって話してたんですけどね!」
「じゃあ今日だけはいいよ! 私が許す」
「いや、よくないですよ!」
「まあまあ。片付けなんて明日やればいいから、二人ともこっちおいで。私の膝の上があいてるよ」
連行される僕と凜ちゃん。先輩につかまれている肘のところが、なんだかちょっとむずがゆい。
「明日は日曜だぞ。誰が来てやるんだよ」
斎藤さんが冷静なツッコミを入れた。
「ハイッ! 私がやる」
「猪俣さんは絶対に来ないと思う」
「先生、私を信用していないようですね」
「飲んでいるときの君はなおさらね」
「ですよねー!」
先輩、機嫌よさそうに笑っている。だいぶ酔っているみたいだけど、大丈夫だろうか。
それからほどなくして、内定祝いパーティーは閉幕した。すでにかなり飲んでいるため二次会はなく、みんな帰るらしい。先輩も「一人で帰れます。もう三年半も通った道なので」と言って一人で帰ろうとしたが、念のため僕が付き添ったほうがいいということになった。女性一人の夜歩きは避けたほうがいいし、僕なら
僕らは大学の坂を降りきったところで二人きりになった。大学周辺の道は狭く暗く、街灯は心もとない。古いアパートや裏道が多く、ひっそりとして、すれ違う相手の人相も距離があるとよく分からないほどだ。
「私、大丈夫だと思うのになー」先輩はそう言いつつも、むしろ嬉しそうだった。「短距離走、速いし。中学の時はリレーの選手にも選ばれたし。変質者が出ても逃げられるよ」
「先輩、スポーツやってたんですか」
「ぜんぜんやってない。吹奏楽部だったから」
「意外ですね。吹奏楽は予想してなかったです」
「ピアノもやってたよ。両親はいつも泥だらけで男子みたいに走りまわる私を、少しおとなしくさせたかったみたい。……あ、降ってきたね」
一度はやんでいた雨が、またぱらぱらと降り出した。傘なんていらないくらいの弱い雨。
「ちょっと待って」
と先輩が立ち止まってカバンをまさぐる。折りたたみ傘。夜道に真っ赤な花が開く。
「入りなよ、渡辺くん」
「いや、でも、どうせ帰りに濡れるので」
小心者でアホウな僕は先輩の好意を反射的に断った。そう、単なる好意なのだ。心理学の講義で教授が「男性諸君は女性の好意と愛情を誤解しないように気をつけましょう。私のように痛い目を見ますからね」などと釘を刺していたではないか。恋愛感情と結びつけているのは僕のほうだけだ。僕のような人間にとって、相合傘はある種の特別な恋人イベントだけど、今の先輩にとってはなんでもない、知人友人として当然の申し出なのだろう。
「うちに着いたら、この傘、貸すよ。そしたら、渡辺くんも濡れないでしょ?」
先輩が少し困ったように僕を見ているので、僕は「すみませんお願いします!」と声をうわずらせて傘の下に入った。選択肢は二人とも濡れるか、二人とも濡れないか、なのだ。
先輩の傘の下で控えめに寄り添う。体が触れないように気をつけていたけど、先輩がふらつくたびに体が触れ合ってしまう。いいんだろうか? いいだよな? それくらいは、友だちの範囲ということで。だって先輩はまったく気にした様子もなく、歩いているし。
僕の片方の肩は濡れてもいいから、僕のせいで先輩が濡れることだけはないようにしなければならない。それにしても距離が近い。先輩の香りがする。だが鼻を鳴らしてそれをかいではいけない。変態と誤解されるような言動は慎まなければ。自分の鼻が微動だにしないように、強く顔面に意識を集中する。あれ? さっきから無言だな……。僕はつとめて首を正面に固定しているため、先輩がどんな顔をしているのか見えない。でもすぐそばに先輩の存在を感じながら、歩調をしっかりと合わせている。なぜ会話がないのだ? さっきまで何を話していたっけ? ――ああそうだ、ピアノだ。だけどこの沈黙の中に、いきなりピアノという言葉を投げこむ勇気が僕にはない。途切れた会話を再開するための足掛かりが、ピアノである必然性はあるのか? ピアノという一語から有意義かつ楽しい会話になるという保証はあるのか? ――ない。だからといって沈黙したままでいいのか? 唐突でもいいから何か話さないと……。でも、どうして先輩は何もしゃべらない? 先輩は何を考えているのだろう?
僕は正しい会話の作法に、まるで自信が持てなくなっていた。いや、そもそもそんなものが存在すればだが。
冴え冴えとした三日月が出ている。月がきれいですね、とでも言ってみようか。いや、気取った気持ちの悪いヤツだと思われかねない。ダメだ。それよりも先輩が持っている傘について考えよう。力仕事は男がすすんで引き受けるべきだという気がするが、相合傘の傘を保持するという行為は、男が肩代わりすべき力仕事に含まれるのか? 前提として傘の所有者は先輩だ。自分の所有物を気軽に他人に触らせるのは、もしかしたら嫌かもしれない。しかしこの腕の体勢は、一人で傘を差すのと比べて疲れるのではないか。疲れるなら、やはり代わるべきか。もしほとんど疲労を伴わないとすれば、僕が余計な申し出をすることで、変な気を遣わせることになってしまうではないか。ああ、どうしたらいい? 僕は相合傘の保持者にかかる肉体的精神的疲労について、あまりに無知である……。
考えているうちに先輩のアパートに着いてしまった。「傘、持ちますよ」の簡単な一言も言えないような甲斐性なしだと思われていたらどうしよう。みじめな気持ちでいると、先輩は「ありがとうね。この傘、使っていいよ」と差し出してきた。だけど僕が曖昧な態度だったためか、「これじゃ恥ずかしいよね」と苦笑して引っ込める。僕は慌てて「そんなことないです、ありがたく借りさせていただきます」と受け取る。「じゃ、おやすみ」「おやすみなさい」
そして僕は一人、家路に着いた。
先輩の赤い傘を差して夜道を歩きながら、さっき別れ際に言い合った「おやすみ」は、今までとは違ってちょっと特別な「おやすみ」だったような気がして、幸福感に包まれた。そうか、日本語の「おやすみ」という挨拶には、「さよなら」寄りのときと、真に「おやすみ」寄りのときがあるんだ。
『赤はジョロウグモの恋の色。でもなんで赤なんだろうね? 人間も赤い糸って言うよね』
持ち手に体温が残っている。明日からいつでも、この傘を返すことを口実にして、先輩に会いに行くことができる。一回限りだけど。
先輩を見かけた日は、幸運な日だ。
その日は天気もよく、憩いの広場には友だち同士で昼食を食べる学生たちがあふれている。そんな中、先輩は隅っこの茂みで何かを観察していた。
「先輩、何をしているんですか」
思い切って話しかけると、先輩は集中を解いてこちらを見た。
「ああ、渡辺くん。ジョロウグモを見てたの」
あれだけたくさん捕っても、ジョロウグモはどこからか現われて巣を作っていた。
「今日は捕らないよ。見てるだけ」
何か面白いことがあるのだろうか。僕には分からないが、一緒になって観察してみる。黄色と黒の縞模様。ぷっくりとふくれたメスのお腹は赤く、巣の片隅に小さくて地味なオスの姿もある。
「ジョロウグモって、二つの説があるんだよね」
先輩が独り言のように呟いた。
「どんな説なんですか」
「うん、一つは
「ああ、僕は、てっきり女郎だと思っていたんですが、うーん、どっちでしょうね……」
赤、黒、黄の三色と細長い脚は、華やかだがどこか怪しく、着物をまとった遊女を連想させる。それで女郎グモなのだと思っていた。だが昔の人々は、このクモに高貴な女性の美しさを見たのだろうか。そんなこともあっていいと思うけれど、現代人の僕は、クモと聞くと怪しく妖艶なイメージがつきまとう。
「おいらんのほうが、しっくりくる感じです。マンガやゲームの影響ですかね? クモのモンスターって定番ですよね」
「だよねー。私もおいらんに見える」
実はカバンの中に先輩から借りた折りたたみ傘が入っている。先輩と会う口実になる便利アイテムだけど、会ったのに返さないというのは変な話だ。先輩、なくて困るかもしれないし。
「先輩、この前は傘、ありがとうございました」
「あ、持ってきてくれたの。ありがと」
僕らをつなぐ赤い糸を返した。これで足掛かりはなくなってしまったけど、それでいい。僕には運がある。便利アイテムに頼らなくても先輩に会えたのだ。
「この傘、ちょっとけばいよね。ジョロウグモみたいで」
僕はわずかに逡巡し、
「そう……ですね、けっこう派手ですよね」
「やだなー。買ったときは貴婦人だと思ってたのに」
「だけど先輩は、何を使っても立派な貴婦人ですよ」
「なにそれ。渡辺くんっておもしろいね」
先輩がからからと笑う。
しまった、マヌケなことを口走ってしまった、と思ってももう遅い。恥ずかしくて先輩の顔が見られなかった。ああ、もし周りの人に聞こえていたらと思うと、消えてしまいたい……。
「まあいいや。渡辺くん、もうお昼ご飯食べた?」
「ま、まだですけど」
これはまさか、僕が期待した展開なのか!? 心拍数が上昇する。
「じゃ、学食でも行かない?」
「はいっ! お供いたします!」
「君は家来か!?」
先輩がまた笑った。
落ち着け自分! 理性だ! ありったけの理性を動員するんだ!
「期間限定のラーメン食べた? 今、北海道フェアやってるでしょ?」
「いや、食べてないです。いつもお弁当か、おにぎりなので」
「食べなきゃダメだよ! 今週までなんだから」
カバンの中には生協で買って温めたばかりののり弁が入っているが、そんなことはもはやどうでもいい。僕は先輩と一緒に学生食堂で、先輩のお気に入り――札幌味噌ラーメンを食べたのだった。
「食べてるときって幸せだよねー。もうずっと食べてたいよ」
そんな先輩の言葉に、単なる冗談以上の意味が込められていたことに、僕は気づきもしなかった。