九月半ばになると、一部の学生たちは急に慌ただしくなる。夏休みは九月いっぱい続くのでまだ二週間ほど休みが残っているのだが、休みボケした脳みそを奮い立たせて大学へ向かうのである。
この時期に行なわれる特別な短期講座のことを集中講義と呼ぶ。他の大学や研究機関から特別講師をお招きし、さまざまな専門分野の講義をしてもらうのだ。朝から夕方まで、数日間で集中的に。これは単発の選択科目だから、普段とは違った講義内容に興味のある人、あるいは単位が足りなくて困っているような人が受講する。
ちなみに僕は前者のほうだ。一年生は単位不足による留年はないが、今のうちに多めに単位を取っておけば学年が上がってから楽だ、と斎藤さんや石橋さんから言われている。それにいろいろな分野の講義を受けておけば、三年次の研究室配属を決める上でも役立つ。僕みたいな人間は明確に「これがやりたい!」というものがないので、こうやって興味を広げようとしているわけだ。
僕は静岡大学のメインストリート――定年坂を登る。階段、坂、階段、坂。汗が噴き出る。
講義の行なわれる理学部B棟201講義室に入ると、クーラーがきいていて生き返った気分になった。僕はいつも通り、最前列の端っこに座った。
一年生のうちから受講する学生は少ないようで、見知らぬ顔がほとんどだった。
僕は暇つぶしにスマホをいじる。先輩からメッセージが来ていたらいいな、という期待ははずれた。未だに事務的な連絡くらいしかしない関係なのだから、当然だけど。
キャンプ、楽しかったな。海も良かったな。そういえば今週はまた、虫の輪の集まりがある。先輩と会えるぞ、なんて思いながら、須藤教授から送られてきたキャンプの写真を眺めていると、今日の特別講師が入ってきた。気を引きしめて勉強モードに切り替える。
遊んだ分、勉強、勉強!
昼食休憩となり、僕は快適な201講義室を出た。廊下はまだマシだが、建物から出ると凶悪な夏の日差しに打ちのめされる。学食は普段より空いているけど、友だち同士でワイワイしている人たちが多いので、一人では行きづらい。
一人の食事は寂しいけど、高校でもそうだったから別に気にしない。よく見ると単独行動している学生はけっこういるので、過剰に気にする必要はないと思っている。それでも、新学期が始まったら、ちゃんと勇気を出して、同じ学科の人と友だちにならなきゃ。
僕は生協で買い物を済ませて、両親が見たら「ちょっとは栄養を考えなさい!」と言いそうな昼食を手に、理学部棟に戻る。その道すがら、僕は思いもよらない人を見つけた。その人物は憩いの広場の片隅にある桜の木のそばにしゃがみこんでいた。この暑さにもかかわらず、汚れた白衣を羽織って。すそが地面についていることにも、おかまいなしだ。不自然に跳ねた髪が、肩の上でゆれていた。
先輩だ!
話しかけに行こうか悩んだ。このままB棟に戻ってスマホでYahooニュースでも読みながら一人で昼食を食べるか、あるいは先輩を誘って学食にでも行くか。学食に行く流れにならなかったとしても、少しおしゃべりするだけで午後の講義へのモチベーションは飛躍的に高まるに違いない。なにより、こういうときに話しかけるのをためらっているようでは、いつまでたっても先輩との仲は深まらないではないか。
行動しなきゃ変わらない。今が実践の時だ。分かってる。よし、声をかけよう!
なんて話しかけようかと考えながらのろのろ近づいていくと、先輩のほうが気づいて振り向いた。髪の毛がボサボサでも、やっぱり今日も可愛い……。また徹夜明けかな?
「ああ、渡辺くんか」
「先輩、十日ぶりですね」
しまった、口がすべった。僕は先輩に会えない日数を数えるのが日課になっているのだけど、普通の人はそんなことはしない。ストーカーのようで気持ち悪いだろうか!?
「そっか、フナムシから十日なんだ」先輩は幸いにも僕の失態を何とも思わなかったようだ。「ところで渡辺くん、君はいつもいいところに現われるね」
「そ、そうですか? 僕、運がいいんですかね?」
「いいよ絶対。これ見て」
先輩は手に持っていたスーパー『マム』のビニール袋を差し出した。中をのぞいた僕は背筋が凍った。たくさんの毛虫が
予想しておけよ、僕! 前にもこんなことがあったじゃないか!
「これ、なんなんですか」
「サクラケムシだよ。別名モンクロシャチホコ。この辺にいっぱいいるから捕ってたの」
桜の木の幹というのは、近くで見るとかなりゴツゴツしていて無骨だ。さらによく見ると、毛虫があちこち這っていた。若干の光沢のある真っ黒なボディに、黄金色の毛を無数に生やしている。頭部はフルフェイスのヘルメットみたいな形だ。幹だけでなく地面にもいるので、踏みそうになって慌てて一歩さがった。
「渡辺くん、どうして大学にいるの?」
「集中講義、とったんです」
「偉いね。一年生なのにまじめだ」
僕は少し照れる。「先輩は徹夜だったんですか?」
「よく分かったね。私は卒論があるから、ほぼ毎日来てるんだ」
そうとは知らなかった。四年生ともなると大変なんだな、と他人事のように思う。いずれ僕もそうなってしまうのか。
「この毛虫が卒論なんですか」
「違う違う、これは気晴らし。ねえ渡辺くん、私は思うんだけどさ、本業の質は気晴らしの質に大きく依存すると思うんだよねー。日本の労働生産性が伸び悩んでいるのは、そこに落とし穴があるからじゃないかな?」
先輩はまたしゃがみこんで毛虫を眺めている。僕もさりげなく隣にしゃがんでみた。……毛虫を踏まないように。
僕は毛虫ではなく先輩の横顔を眺める。
「働きすぎは良くない、ということでしょうか」
「そうだよ、それ!」笑顔の先輩が急に僕を見たから、ドキリとした。「なぜ人は働くのか。なぜ私は働くのか? いいや、いっそこの国が滅んじゃえば、働く必要もなくなる。どうだろうね?」
「今日の先輩、過激ですね。何かあったんですか」
「そういう日もあるもんだよ。人生には」
「そういうものですか」
「イエス。私の前頭葉に降りてこないかな、神様」
「降りる場所、具体的なんですね」
「全体的に降りてきてほしいけど、それは欲張りすぎだから意思と計画を司る一か所にしてみたんだよ。信心深さとは謙虚さである」
先輩が地面を這うサクラケムシに手を伸ばす。抵抗して身をくねらせるそれを素手でつかみ、ひょいと袋に入れた。
いつも思うけど、先輩ってセリフとシチュエーションが妙にちぐはぐしてる。
「っていうか先輩、危ないですよ! 毛虫に触ると真っ赤に腫れて痛くなるって、よくおばあちゃんが言ってましたし」
「大丈夫だよ、毛虫は毛虫でも毒はないから」
そう言って新たな獲物を見つけては、ひょいと捕獲していく。本当に大丈夫なようだ。だからといってケムシを素手でつかむのは乙女としてどうなのだろう……。
「これ、やっぱり食べるんですか」
「聞くまでもないことだね」
ああ、今週のメインは毛虫なのか……。スズメバチやらクマゼミやらフナムシやらを食べた僕が、今更何をためらうか、という感じだけど。でも毛虫はビジュアル的に辛いよな……。
「……手伝いましょうか?」
そこらじゅうにいっぱいいるので、捕まえるのは簡単そうだ。
「午後の講義は?」
「一時からなので、それまで暇なんです」
「暇なときは毛虫拾いに限るね!」
なんだそりゃ。
おっかなびっくり毛虫の毛に触れてみると、ふわっとしていて痛くもなんともない。ならばと、活きのいいヤツを親指と人差し指でつまんで、素早く先輩の持っている袋へ放り込んだ。ぶにゅっとしていて、もがかれると妙に不安な気持ちになる。
僕は今、遅れてきた青春を堪能しているのだろうか。このクソみたいに暑い夏の日に、空腹を我慢し、桜の木の下で白衣の似合う素敵な女性と並んでしゃがんで、束の間の毛虫拾いに興じる。……これも青春と言えるのか? あっ、学食に誘うの忘れてた。
「卒論、大変なんですか」
「大変は大変だね。パソコンとにらめっこが多いよ」
「先輩って農学部ですよね。どんな研究なんですか」
「私のはね、年輪の研究」
「年輪って、あれですよね。木を切ったときに見える……」
「そう、それ。輪っかが何重にもなってるヤツ。あれはすごいんだよ。木の年輪を細かく分析すると、森のことが分かるんだ。木は過去の森の姿を、年輪っていう形で覚えているんだよ」
先輩が桜の木を見上げたので、僕も視線を追った。風はないようだが、桜の青々とした葉っぱは深呼吸をするように、少しだけ揺れている。
「年輪は木の記憶であって、森の記憶なんだ。百年も千年も前の記憶。まだ私が生まれていない世界のことが書いてある。一冊の本、とも言えるかも」
僕には先輩の意味することが、正直よく分からなかった。だけどなんとなく、それがロマンチックなことなんだということは分かった。
先輩は何ということのない街路樹のケヤキに、青葉を茂らせる夏の桜に、講義室の窓から見えるイチョウに、僕には見えない何かを見ているのだろう。先輩の瞳に映るものを少しでもいいから、僕も見てみたい。先輩の言葉の本当の意味を、理解できるようになりたい。そのために、たぶん僕は勉強するのだ。
「先輩はずっと、虫の研究をしているのかと思ってました」
先輩は口元に手をやって、くすくすと笑った。
「そうだよね。理学部の生物科も考えたし、農学部には昆虫学の研究室があるから、そこに入ることも考えたんだけど。なんかちょっと違うなーって思って」
「ああ、昆虫学の研究室って、この大学にもあるんですね」
「うん。だけど私は、虫を解剖したり、新種を見つけて功績を残すことは、それほど興味がなくて。昆虫料理は虫の輪でやれるから、研究はもっと違うことをしようって思ってね。それに虫というより森が好きなんだなー、私は」
ああ、こんなふうに、迷いもためらいもなく、飾らない言葉で、『これが好きだ』と言えたらな。
先輩の顔に、太陽の光と桜の葉影が、コラージュを映す。
綺麗だ。
「花が好き。木が好き。動物が好き」先輩が指折って数える。「鳥が好き。虫が好き。森を漂ってる空気が好き。湿った腐葉土の匂いが好き。葉陰を透かして見る太陽が好き。山が好き。川が好き。川の中の石をひっくり返して何かいないか探すのが好き。どこに繋がってるか分からない山道が好き。何も考えないで自然の中をただ歩くのが好き。草の上に寝転んでじっとしてるのも好き」
指はとうに足りなくて、先輩は数えるのをやめた。
「虫しか食べないわけじゃないよ。森にはいろんな食材があるから。山菜とかキノコはもちろんだけど、雑草とか木の実とか。実はね、土だって食べるよー!」
「つ、土!? おいしいんですか!?」
「渡辺くん、そこは『土は食わんやろ~!』って突っ込むところだよ」
「ええっ!? 先輩なら普通に土も食ってると思いましたよ!」
「いや、土なんか食べないでしょ普通は」
「僕の『普通』は皆さんに破壊されてますよ」
えっ、そうなの? という顔で先輩が僕を見た。僕はただ苦笑する。
「進路を選ぶのって難しいよね。農学部の森林学科を選んだけど、未だにそれで良かったのか分からない。研究室を決めるのも、けっこう悩んだっけなー」
今日は、今まで知らなかった先輩の姿を知ることができたと思う。そして同時に、なぜ僕が先輩を好きになってしまったかということも、よく分かった。それだけで僕にとってはお腹いっぱいの収獲だ。
当然といえば当然の流れで、先輩が質問してくる。
「渡辺くんはどうして地球科を選んだの? 化石とか恐竜が好きな人が集まるイメージだけど、渡辺くんは?」
「ええと……僕は……」
恐竜や化石に興味はない。
実を言うと、僕は答えるための理由を持っていなかった。だから何も言うことができない。しいて言えば、僕が理学部地球科学科などという、何をするのかよく分からない学科を選んだのは、何をするのかよく分からない学科だったからだ。つまり、何をするのかはっきりしている学科は、当時の僕には選べなかった。数学科は、数学をやりたい人が数学をやる。化学科は、化学をやりたい人が化学をやる。僕にとっては、それでは困るのだ。
黙りこんだ僕を、先輩はそれ以上、追求しなかった。
「サクラケムシはね」
先輩が秘密を囁くように告げた。
「サクラの香りがするよ」
どうしてだと思う? と先輩が尋ねた。
「サクラの葉っぱを、食べたからですか」
「きっとそうだね」
先輩は自分のスニーカーをのぼろうとしている一匹を、じっと見つめている。愛情さえこもった
と、急にケムシたっぷりのビニール袋に顔を突っ込んで、スーハースーハーと息を吸って吐いてを繰り返した。
「あー、桜を感じる! 渡辺くんもやってみる?」
「遠慮します」
「第二の可能性としては、サクラの木に住んでいるからかもしれないね」
先輩の細くてしなやかな指が、毛虫の背中をなでる。毛虫は進路を変えてさっきよりも速く前進する。僕は生まれてこのかた、毛虫をそんなふうに優しく撫でる女性を見たことがない。
「大丈夫。渡辺くんもそのうち、いい香りがしてくるよ」
先輩の包み込むような笑顔に、僕は入学式の日に見た満開の桜を重ねていた。なぜ僕はここにいるのか? それは、決意をして実家から離れ、クラスメイトがほとんど進学しないこの大学を選んだから。胸を張れることなんて、何ひとつないけど、少し自分を打ち明けたくなった。
「先輩……ちょっと聞いてくれますか」僕はスニーカーの毛虫に語り掛けるように言った。
「うん、聞くよ」
毛虫はスニーカーの側面を回って、つま先へと向かっている。
「僕の場合、好きなものがないから地球科に来ました。地球科って、他の学科と比べたら何をするところなのかパッと分からなくて、なんか曖昧だなと思って、それで選んだんです」
「なるほどね。確かに何してるのかなって感じ」
先輩の指は、毛虫とおしゃべりするように戯れる。
「君って、大学に来て正解だよ」
「え?」
「正解も正解。大正解。私はね、知りたいっていう気持ちと、好きっていう気持ちは、本質的に同じものなんじゃないかって思うんだ。そうすると、学問をするってことは、愛するってことだよ。自分の『好き』が分からないなら大学で学問をやったらいい。『好き』を見つける旅をするのが、大学っていう場所。だから君は大正解。集中講義なんて打って付けだよね。お見合いみたいなもんじゃない?」
確かにこれは学問とのお見合いかもしれない。
そうか、何も『好き』がはっきりと決まってなくてもいいんだ。「ティラノサウルスの研究がしたくて地球科に来ました!」なんて言えなくても、申し訳なく思う必要はないんだ。堂々と「夢中になれるものを探しに来ました」と言えばいい。
僕は先輩の言葉に救われたような気がした。今までは同じ学科の人たちに対して、なんとなく引け目を感じていたが、これからは少しだけ対等に接することができるかもしれない。
「僕、明日の集中講義も出てみようと思います」
「いいね。そういう青春もアリだよね」
「ところで、先輩はその格好で暑くないんですか」
「死ぬほど暑いよ。ちょっとその辺で冷たいものでも飲もうか」
「はい、ぜひ!」
学食には行かなかったけれど、自販機の前でお茶をすることはできた。