前学期の試験は八月の第一週をもって終了した。初めての試験はそれなりに大変だったけれど、単位を落とすようなことはないだろう。
大学は夏休みに突入した。九月末まで講義はお休みである。小中高生と比べて驚くほど長い休みなのに宿題は一つもない。僕のような一人暮らしの大学生は門限もないし、遊び放題である。モラトリアム万歳!
そして夏といえばイベントだ。海水浴、花火大会、夏祭り、キャンプ、合宿。友だち同士で集まってワイワイ騒ぐ。若気の至りも何のそので、はっちゃける。これらのイベントこそ充実したキャンパスライフに必須の要素。夏を満喫せずして何が青春か。
「ただいまより、虫の輪、第三回ゴム銃王決定戦を開催します!!」
先輩が岩に片足を乗せてポーズをキメながら、高らかに宣言した。一同が「わーっ」と歓声と拍手を送る。
ここは静岡県北部に位置するキャンプ場だ。立ち並ぶログハウス、広々としたバーベキューの施設。セミたちの大合唱、清流のせせらぎ、生命力にあふれる森。そしてサークルのメンバーたち。これこそ僕が夢にまで見たリア充的光景だ。
「ルールを説明するので、よく聞いてください。特に集合時間! 夢中になりすぎて迷子になった人もいるので注意してください!」
先輩の今日の姿は、ガールスカウトか探検家のようだ。上下ともカーキ色の半袖で、腰には無骨なベルト。つばの広い帽子もかぶっている。アクティブな先輩のイメージにぴったりだ。
「今年はなんとチーム戦でやります。二人組みを三チーム。時間内に捕まえた合計のセミが一番多かったチームが優勝です。死んでいるのを拾うのはナシ。捕まえたあと死んじゃったのはカウントしますが、ズルはしないこと。で、ここから重要ですが、セミを捕まえるときは必ずゴム銃を使うこと」
先輩の指差すほうに簡易テーブルが一台あり、その上に木製の銃が並んでいた。片手で扱えそうな拳銃もあれば、長大なライフルのようなものもある。それぞれA、B、Cの札が貼られている。
「ゴム銃を使わずに捕まえるのはナシ。あと輪ゴムは極力回収すること。スタートは十一時。集合はここに置いてある時計で十二時きっかり。一分遅れるごとに一匹分マイナス。何か質問のある人は?」
「チーム決めはどうすんだ?」と斎藤さん。
「これから
「優勝賞品は?」また斎藤さん。「あれだけ集金したくせに、ないとは言わせんぞ」
「ミスター斎藤。よくぞ聞いてくれましたね!」
先輩がニヤリと口端をあげた。
「優勝賞品は、なな、なんと…………黒毛和牛のステーキ!! このあとのバーベキューで、とっておきの高級肉を食べる権利を差し上げます!」
先輩が足元のリュックサックから肉を取り出して、僕らの前に掲げた。「おおー!」と一同が驚きの声をあげる。一枚の肉が文庫本より大きい。こんなに大きくて分厚いステーキは食べたことがない!
「それは一人分なのか」またしても斎藤さん。
「いいえ。二人で一枚です。思ってたより高くて。でも正真正銘、超高級です」
みんな少し残念そうだけれど、それでもけっこうなボリュームがある。ごはん五杯は余裕でいけそう。
「さて盛りあがってきたところで、運命のチーム決め、いきましょー!」
先輩がテーブルの上に阿弥陀の書かれた紙を広げた。順に出発点に名前を書き込んでいき、残った最後の一か所に先輩が『いのまた』と記す。
チームが発表されていく。
「まずは……斎藤くん、Cチーム! そして……石橋くん、Aチーム! なんと次は……凜ちゃん、Cチーム! Cチームの名前は『ゲス』で決まりですね!」
「くだらねえこと言ってないでさっさと発表しろ」
先輩がBチームになった。残るは僕と須藤教授が、石橋さんのAになるか、先輩のBになるかだ。
「ええと、渡辺くんは……」
先輩が阿弥陀をたどる。
お願いですからBチームにしてください! と僕は祈った。たった一時間でしかないけれど、どうか先輩と同じチームに!
「おおっ!」と先輩が感嘆をもらした。
なんだ!? 願いが届いたのか!?
「渡辺くんはAチーム! 前回優勝の石橋くんとです!」
僕は内心がっくりとうなだれた。石橋さんが「そういうこともあるっす。気にしない、気にしない」と僕の肩をたたく。悪気はないのだろうが、切れ長の目はいつも甘い笑みの形だ。
自然とBチームは先輩&須藤教授のペアに決定したわけだが、先輩がわめき始めた。
「私、石橋くんとがよかったのに! 私たち最弱じゃないですか!? 先生、去年ビリだし! なんで!? せっかく私が食べたいヤツを選んだのに! このキャンプ場に神はいないのかー!?」
司会者が司会するのを忘れて不満と裏事情をぶちまけるというのは、いかがなものか。
「そういう猪俣さんは去年、僕と一匹差だったじゃないか。大した差はないよ」
「だから絶望的なんですよぉ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ! 食べたかった! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛もうっ!」
先輩はしゃがみこんで枝で地面をガリガリと削りながら、奇声をあげている。おもちゃ売り場でダダをこねる小学生か。学部四年生だから二十一歳ですよね? 僕の三つ年上ですよね? でもそんな、すでに敗北したみたいに悔しがっている先輩も、なんだか微笑ましく思えた。あんなふうに周りを気にせず感情を吐き出せるのは、先輩の魅力の一つなのだ。
そう、僕はもう、斎藤さんや石橋さんや凜ちゃんや教授が軽く引いちゃうくらいのことでさえ、魅力的に見えてしまう境地に達していた。
「まあまあ、猪俣さん。今年はチーム戦なんだから何か起こるかもしれないよ。一緒にがんばろう」
須藤教授が温かい言葉をかけた。
「おまえの個人的な思い入れなんぞ、どうでもいい。さっさと司会をしろ」
斎藤さんは無慈悲だった。
半泣きの先輩は弱々しく立ちあがって話し始めた。
「ゴム銃はそこにあるんで、テキトーに取っていいから」
「おい司会が雑だぞ」
先輩は斎藤さんを反抗的な目でにらんだが、文句は言わずに司会を再開した。
「そこにチームごとに用意してあるので、振り分けられたものを使ってください。ぜんぶ石橋くんの私物なので取り扱いに注意。少し時間があるので、自由タイムにします。石橋くんにレクチャーを受けたり、チームで作戦会議をしてください。以上、一旦解散。十一時五分前に集合お願いします」
時刻は十一時を少し回ったところ。僕と石橋さんは清流のそばの林に沿って歩きながら、獲物を探していた。とにかくセミの声は四方八方から聞こえるのだが、発見するのはなかなか難しい。絶対にこの木にいる、と確信しても、全然姿が見えないのだ。
「石橋さん! いました。あそこ」
僕が指差す先を、石橋さんが細い目をさらに細めて見上げる。
「クマゼミっすね。いきなりの大物とは、ついてます」
ジイジイという太い鳴き声と、黒っぽくて太い体。まさにクマのように威厳のあるセミだ。
「令和のガンマンの腕が鳴るっす」
石橋さんがニタニタと歯を鳴らした。悪いことを考えている人のように見えて、ちょっと怖い。
いよいよゴム銃の出番だ。僕に与えられたのは小型の拳銃。『2014式ベレッタ92』という名前らしい。その意味は分からないけど、使い方は指でゴムを飛ばすのと同様、単純にゴムを引っかけて引き金を引くだけでいい。
「渡辺くんのはシンプルで扱いやすい半面、威力はたいしたことないんで、狙うなら小型か中型のセミにしといたほうがいいっす。今回は俺ので仕留めます」
「これ、弱いんですか?」
「弱いなんて、とんでもないっすよ!」石橋さんの声は普段より高くて、目の色も違う。「FPSも男女の仲も適材適所、臨機応変、当意即妙っす! 獲物や状況によって武器を使い分け、
「な、なるほど」
ちなみにFPSとは、主人公の視点で銃などの武器を使って戦うシューティングゲームのことである。
「ええ、そういうわけで、さっそく一匹目やります。セミが落ちたら捕獲してください」
石橋さんの銃は僕のより銃身が長くて大型だ。何やら複雑な内部機構が備わっているらしい。石橋さんが真剣な面持ちで両手に銃を構える。狙いをつける先には、クマゼミの黒い体。僕は息を飲んだ。
軽く木材のかみあうような音がして、数発の輪ゴムが発射された。それは狙いをたがわず獲物に命中し、クマゼミの歌は中断され、地面に落ちてきた。僕は素早くしゃがみこんでセミを手のひらで包んだ。……捕獲成功だ!
虫かごにおさめた獲物を見て、石橋さんは「うっし。この調子でガンガンいくっすよ」と歯を見せた。
「今みたいな感じで、渡辺くんもガンガンしとめてください。お互い見えるところで別行動するってことで、いいっすか」
「はい、たぶん、大丈夫です」
「小型は自分でバシバシ狙っていいんで、大型を見つけたら俺に教えてください。俺も小型を見つけたら呼ぶんで。そんな感じで」
「了解です」
「渡辺くん、どうせやるんだから黒毛和牛はうちらがかっさらいますよ」
「はい!」
それから僕らは互いが見える範囲をうろうろして、セミを捕まえていった。最初の三十分ほどで僕は二匹、石橋さんは七匹の収獲を得た。さすが昨年のチャンピオンだ。僕はとても心苦しい。
「まあ、初めてならこんなもんすよ。回収するのがめんどうですけど、輪ゴムを三個くらいまとめて撃ってみてください」
「了解です」
成果を報告し合っていたとき、視界に先輩と須藤教授が入りこんだ。向こうも僕らを見つけて近づいてくる。
「やあ、石橋くん渡辺くん。たくさん取れたかい?」
須藤教授が気さくに話しかけてくる。
「先生、しゃべってる場合じゃないですよ! はやく肉を捕まえないと」
先輩にはすでにセミが黒毛和牛に見えているのではなかろうか。
「猪俣さん、君はライバルの状況が気にならないのかい?」
「気になるけど知りたくありません!」
とか言ってそっぽを向きつつ、ちゃっかりと僕らの報告に耳をそばだてている先輩。僕らは合計九匹。先輩たちはそれぞれ四匹ずつで、合計八匹。ほとんど差がない。どう考えても僕が足を引っぱっている。先輩と会えて喜んでいる場合ではない。
現状を知った先輩は不満そうな顔から明るい笑顔に変わった。
「先生、これいけますよ! 和牛が目の前まで来てますよー! ところで渡辺くん」急に名前を呼ばれてハッとする。「申し訳ないけどね、我々は新人に決して手加減などしないのだ! がんばりたまえ! 先生、行きますよ、あっちです」
先輩は一人でずんずん進んでいき、須藤教授がやれやれという様子であとを追った。「先生、いた! これ先生のヤツで、しとめて! はやく!」と教授を急かす。僕らもうかうかしていられない。
「足引っぱってすみません」
「ここから挽回すればいいんすよ」
残りの三十分、僕らはスパートした。斎藤さんと凜ちゃんが、二人とも真面目な顔で何か話しながら林の周囲を歩いているのが見えた。凜ちゃんはなぜか今日も女子高生ルック――制服姿である。小太りで人相の怪しい斎藤さん――二十三歳だが四十三歳にも見える――と連れたって歩いている様は、妙に危険な香りのする光景であった。ここが駅前だったら絶対に警察に声をかけられると思う。
そもそもあの二人は仲が良いのだろうか。凜ちゃんはさらっとひどいこと言ったりするし、心をえぐるような目をしているし。斎藤さんもズバズバと遠慮せずに物を言うし、言い方もキツいし。二人が親しくしているところは未だに見たことがないし、想像もできない。
「あの二人は昨年の二位と三位なんで、要注意っすよ」
「仲はいいんですか」
「特別良くも悪くもないって感じですかね。チームワークも未知数っす」
「あの二人が仲良くしてたら、なんか怖くないですか。通報されそうですよね」
「笑わせないでくださいよ、渡辺くん」
石橋さんは盛大に吹き出している。
あの二人、どんな会話してるのかな。
「今の発言は、あとで斎藤さんに報告しておきます」
「それはやめてください!」
僕らは残り時間を気にしながらセミを撃ち落としていく。遅刻すると甚大なペナルティが発生するため、だんだん集合場所に近づくように移動する。他のチームも同じ考えらしく、集合場所の周辺にすべてのチームが集まってしまった。腕時計に目をやる。残り五分。セミの声は洪水のように四方から降り注いでいるのに、肝心の声の主がなかなか見つからない。額から汗が垂れる。上ばかり見ているので首も痛い。
「さすがに同じところをぐるぐるしてるようじゃ、効率悪いっすね。ここで足踏みするのはマズいっすよ」
石橋さんは首に巻いた濡れタオルで顔の汗をぬぐった。
「少し移動してみますか?」
「リスクも増えますけど、やむをえないっす」
そのとき先に斎藤さん&凜ちゃんが走った。集合場所から離れる動きだ。
「渡辺くん、俺らも」
「はい!」
小川の飛び石を跳んで、別の林へ。梢を見上げ、照りつける真夏の太陽を手で隠して目をこらす。汗ばんだシャツ、かすかに髪をゆらす風、腐葉土のにおい。こうやって夢中でセミを追いかけたのは小学生のとき以来だろう。
先輩はものすごく黒毛和牛が食べたそうだった。僕らが負けて先輩たちが勝利したほうがよいのではないだろうか。それとも僕らが優勝したら、先輩は僕のことをちょっとだけすごいと思うだろうか。
そんなことを頭の隅で考えていても、僕はあえて答えを出さない。それはなぜかといえば、僕はただこうやって無心で何かを追い求めている今が――この時間が好きだからだ。心と体が満ち足りているような気がするのだ。勝ち負けではない。報酬でもない。今こうやって自分の手足や五感を使って、汗をかき、息を切らしながら一生懸命に何かをしていることに、価値があると思うのだ。それは長らく忘れていた感覚だった。あの頃には、いつだって周りを見れば友だちがいた……。
僕は見つけた。緑がかった小ぶりな体に透き通った羽。リズムよく特徴的な音色を奏でるセミ――ツクツクボウシだ。
「渡辺くん、二分前っす! そろそろ行きますよ!」
蝉時雨を縫って、そんな石橋さんの声もちゃんと耳に届いていた。だが僕は左手をざらついた幹に突き、右腕を伸ばし、獲物に照準を合わせる。高い枝だ。厳しいか? いっぱい背伸びをして、限界まで手を伸ばす。ツクツクボウシは懸命に、短い命を生きる。僕は懸命に、その命を狙う。
――動くな。お願いだから動くなよ。
「渡辺くん、時間が!」
僕は引き金を引いた。
バーベキューの準備をしている間、先輩はずっと不貞腐れていた。野菜を切り、食器や飲み物を並べると、セミを調理する段になった。
「半分は唐揚げで、もう半分はエビチリでいいよな?」
皆が賛同を示したが、先輩は少し離れた自販機コーナーのベンチに腰掛けて明後日のほうを見ていた。
セミの唐揚げの手順はこうだ。まずコンロでお湯を沸かして、沸騰したところで弱火にする。そこへ生きたセミの羽をつまんで頭から熱湯に突っこむ。セミは最期の声をあげて痙攣するが、すぐに動かなくなるので、手を放して菜箸で鍋に沈める。熱湯で一分、中心までじっくりと加熱することで、雑菌などを殺すのだという。ちなみにこの過程をすっ飛ばして油で揚げてもよさそうに思えるが、その場合、外はカラリと揚がっても中心部分まで火が通らないことがあるため、食中毒の対策として不充分なのだそうだ。さて次に、絞めたセミの羽を、ぐりぐりとねじって取る。羽はあまりおいしくないらしい。羽を取ったセミに、唐揚げの
「あのう、斎藤さん」
「なんだ? おまえは向こうで待ってていいぞ」
「僕も、その作業、手伝っていいですか」
斎藤さんは少し驚いたようだったが、「ああ、やってみな」と僕の場所をあけてくれた。
僕がビビりながらセミの羽をつかむと、セミはブルブル震えて逃げようとしていた。言葉もしゃべれないし、表情もないけれど、自分が食われることを分かっているのだろうか。生への執着の振動が伝わってくるたびに、僕は胸の奥に小さな痛みを感じる。
「やめておくか?」
なかなかセミを熱湯に付けないでじっとしていたら、斎藤さんに優しい声をかけられた。
「いえ、やります」
僕ははっきりと答えた。
湯気の立ち昇る鍋にセミを浸すと、ほとんど瞬間的に死んだ。なんてあっけない死なのだろう。手を放すと鍋の中で衛星みたいに回っていた。茹で上がったセミを湯から上げて料理用のトレイに置く。
「羽はむしったほうが食感がいい」
僕は頷いて羽をねじり取った。
「それでいい」
セミを唐揚げの素の中に落とすと、肩に乗っかっていた重たい荷物が消えたみたいに体が軽くなった気がして、安堵のため息が出た。だけど完全にすっきりしたわけではなかった。
「なんというか、すごく複雑な気分です」
「そうだな。いい気分ではないよな。慣れちまうのは、それはそれで良いか悪いか微妙だ」
さらに自分で捕まえた分のセミを自分で処理した。
「まったく、あいつはいつまで拗ねてるんだ?」
ご馳走を油で揚げながら、斎藤さんが先輩を見やる。
「俺らに勝ったぶん、優勝を期待ちゃって余計にショックだったんすね」
ちなみに結果発表は、ABCの順で行なわれた。僕らのAチームがニ十匹。先輩たちのBチームが二十一匹。この時点で先輩はニッコニコ。もう優勝したつもりになってしまったのだろう。Cチームの斎藤さんが二十五匹と発表したとき、先輩は一瞬固まったあと、膝から崩れ落ちたのだった。
小気味良い音を立ててセミが揚がっていく。セミとは思えない香ばしい香りと、きつね色が食欲をそそる。
「石橋くん、こっちはもう焼き始めるよ」
「教授、了解です。お願いしまっす」
須藤教授と凜ちゃんが鉄板で野菜やウインナーを焼き始めた。バーベキューの開幕だ!
「さあ、飲むか。ビール冷えてるんだろ?」
「キンキンにしてあるっすよ」
石橋さんがクーラーボックスから缶を出して、須藤教授と斎藤さんに渡す。三人はプルタブを開けて、一気にあおった。
「くはーッ! やっぱ自然の中で飲むコイツは最高だ」
僕はまだその味を知らないので、三人がちょっと羨ましい。かわりにコーラを紙コップに注いで一気に飲み干すと、口の中と喉が痺れて熱い息があふれ出た。来る途中のスーパーで買った普通のコーラなのに、五臓六腑に染みわたるうまさだ。
「渡辺くん、これをどうぞっす」
石橋さんがまだ開けていないビールの缶を差し出していた。
「ぼ、僕は未成年なので」
「違いますよ」石橋さんが先輩のほうを顔だけで示す。「このチャンス、逃していいんすか? 常に狙ってないと」
僕はビールを受け取った。
「い、行ってきます!」
石橋さんは「まあ、がんばってください」と言い残して、揚がった唐揚げを教授と凜ちゃんのところへ持っていった。一個口に放り込んだ教授は「うまい。ばっちりだ」と絶賛する。凜ちゃんもこぶしを突き出して親指を立てた。僕も食べたい……!
しかし、どうやって先輩に声をかけようか。先輩は自販機コーナーのベンチに腰かけてつまらなそうにしている。僕はシミュレーションしながら、そちらへ足を向けた。
「あの、先輩、ビール飲みませんか。好きですよね?」
先輩が僕のほうを向いた。泣いているわけでも怒っているわけでもない。でも大人しい。
「ありがと、渡辺くん」
先輩は缶を受け取った。ベンチ――先輩の隣はあいている。その空間は何かによって埋められるべき空間であるように見えた。まさか先輩が、誰かが来るのを見越して端に座ったわけでもあるまい。途端に心拍数が上がるのを感じた。近すぎないように、そして変に遠すぎないように気をつけて、スペースに腰をおろす。
先輩がプルタブを開ける。いや、カチカチ爪が鳴るだけで開かない。
「あけましょうか?」と言うべきなのだろうか。男として? 僕が迷っていると、プルタブはプシュッという音を立てて開いた。
「はい、渡辺くんカンパイ」
先輩はさっきよりも柔らかな、だけどちょっと疲れたような表情で、缶を持っている。「はい。カンパイです」と僕は紙コップをつけた。コーラは少ししか残っていなかったので、一口で終わってしまった。先輩は細く綺麗なのどを本当にごくりごくりと鳴らして、息継ぎもせずに缶を傾けていく。缶の底が飲み口よりも高くなり、僕は唖然としてその飲みっぷりに目を奪われていた。このまま一気に飲み干すかと思ったところで、先輩はいきなり僕に背中を向けて、下を向いてゲホゲホと咳き込んだ。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫、見苦しくてごめん」
振り向いた目じりに涙が光っていた。
「あ、これ違うからね? いま咳き込んだからであって、黒毛和牛が食べられないからじゃないからね?」先輩が指先でその光の粒をぬぐった。「私、泣いてない」
「大丈夫です、さすがに分かってます」
先輩は脱力したように背もたれに体を預け、足を投げ出し、澄んだ青空を見上げた。
「なんで私、負けたんだろう? だって、けっこう頑張ったんだよ? そりゃ、みんな頑張っただろうけど。ここだけは絶対に一番を取りたいってときに、取れないんだよなー。三チームの中ですらダメだなんて、なんかもう自分に幻滅するわー」
僕が足を引っぱったせいで、僕のチームはビリだったけれど、僕はもうビリだったことにほとんど何の感情も抱いていない。悔しいとか、落ちこむとか、そんな感情も最初はあったけれど、今はもう結果は結果だと思って割り切っている。だが先輩はそうではないらしい。
唇がビールの缶の縁に触れる。
「いやー。ビールおいしいわー」
いつもの先輩らしい、すっきりした顔に戻っていた。肩の上で揺れる髪。化粧っ気がないのに、可愛い顔。今の先輩の、少しばかりの憂いに彩られた横顔を、絵画にしてずっと残したいと思った。
「向こうにセミの唐揚げがありますよ。揚げ立てのが」
「もう味見した?」
「まだです」
「あれはねー、おつまみにいいんだよね。カリカリ具合が、絶妙にね」
「食べに行きましょうよ」
「そうだね、行こうか」
カラになった缶を握りつぶして先輩が立ち上がった。
先輩を連れてみんなのところへ戻ってくると、須藤教授が「猪俣さん、このセミはうまいよ。食べなきゃ損だ」とお皿を差し出してきた。
「渡辺くんはもう食べたかい?」
「まだです。やっぱりちょっと怖くて」
「臭みがなくて食べやすいよ、ほら」
唐揚げの素で包まれているため、見た目は虫っぽくないのだが、ところどころ足が飛び出ていたりする。言われるがままに一個、小さいのを選んで口へ放りこんだ。噛むとカリカリ、バリバリしていて歯ごたえがよく、中はジューシーだ。嫌な風味はまったくない。
「これ、おいしいですね、普通に」
僕はもう一個食べてみた。やっぱりおいしい。セミとは思えない。先輩も口をもぐもぐしながら「私が捕っただけあって、うまい」とか言っている。ビールも二本目だ。
「エビチリできたぞ」
斎藤さんが大皿をドカンと置いた。
「エビチリきたー!」
先輩が先輩らしい歓声でエビチリを迎えた。鮮やかな紅のチリソースが食卓に彩りを添える。立ち昇るアツアツの湯気までうまそうだ。中身はたぶんというか絶対に、エビじゃなくてセミなんだろうけれど。斎藤さん、並たいていの料理スキルではない。
僕らはテーブルの周りに集まって、エビチリ――もといセミチリに殺到した。熱い! 辛い! うまい! やっぱりセミだけど!
「次は和牛いくぞ」
斎藤さんの声に先輩がわずかに反応する。分厚い黒毛和牛が鉄板の半分を占拠した。ジュウジュウと焼かれている高級肉を、全員が見守り、つばを飲む。極上の香りが漂い始めた。
「このサイズ、半分に分けても、凜ちゃん一人じゃ食べきれないんじゃないかな……」
先輩があざといことを言い出した。すぐさま斎藤さんが「リンタロー、何があってもこの女にだけは施しを与えるなよ」と忠告する。「そのほうが面白いからな」
……リンタローというのは斎藤さんが凜ちゃんを呼ぶとき限定で使われるあだ名である。あの凜ちゃんと教授がよく許したものだ。
「ラジャッ」
凜ちゃんが真顔で親指を立てた。今日は妙なタッグができあがっているようだ。
「なにそれ斎藤くんマジ外道! やっぱりゲスじゃん! 化学科でゲスといえば斎藤くんを指す、っていう説は真実じゃん!」
「やかましいわ」
焼き上がったステーキを斎藤さんが半分に切り、一枚は凜ちゃんのお皿へ。もう一枚は斎藤さんのお皿へ。そして鉄板の上には肉汁の痕跡がわずかに残るばかりとなった。
勝者たちが敗者たちの前で、栄光にかじりつく。「おおっ、これはうめえ。なんだこの食感は! とろけるぞ!」斎藤さんが目を丸くして実況している。凜ちゃんは小さな一口をよく噛んで味わった後、そっとまぶたを伏せて一言、「美味です」と呟いた。それを見ていた先輩が再びわめいた。
「凜ちゃん! いいえ凜サマは心優しく慈悲深い女の子だよね!? だってこの、須藤大先生サマの一人娘だし。……施しを! どうか救いを!」
「ルールはルールなので」と凜ちゃんは先ほどまで黒毛和牛の乗っていた鉄板を指さした。そこにはわずかに肉から染み出た汁が干乾びて小さな塊になっている。「このカスは猪俣先輩に差し上げます」
「凜ちゃんまでゲス化してる!?」先輩が青ざめた。「この邪悪なおっさんに脅迫とかされてない!? ねえ、大丈夫!? 教授、このままだと娘さんが屈折しちゃいますよ!?」
「誰が邪悪なおっさんだコラ」
「急がないと肉汁が蒸発しますよ?」
凜ちゃんに指摘された先輩は、慌てて箸でピーマンをつかむと、ほとんど跡形も消えつつある肉汁にゴシゴシと擦りつけた。
「このタマネギおいしい! なにこれ、すっごくおいしい! このタマネギどこ産!?」
先輩、それ、ピーマンです……。ガチで大丈夫だろうか?
「よかったな、猪俣。おまえは幸せ者だ」
斎藤さんのコメントがさらなる哀れみを誘った。
石橋さん、須藤教授、僕は、平和な場所に移動して三人を見物しながらセミ料理を楽しむことにした。
「先輩、完全に二人に翻弄されてますね」
「あのタッグに挑んでも、勝ち目なしっすよ」
「凜ちゃんって、かなり容赦ないところがありますよね」
「凜はうちでもあんな感じだよ。悪気のないときと、あるときで、あまり区別がつかないのが問題だが」須藤教授は苦笑している。「でもこのメンバーでいるときのほうが楽しそうだな。たぶん同年代の子といるより、年上といるほうが好きなんだろうねぇ」
「そういう人もいるんですね」
「ああっ! 凜ちゃん待って! 考えなおして! あっ! あ゛!? あぁ…………」
最後の和牛が凜ちゃんの胃袋に消えると同時に、先輩の声も消えていった。
「みんな、今年も写真、撮っておこうか」
言い出したのは須藤教授だ。首から大きいカメラをさげている。僕はついにこのときが来たと思ってドキドキした。須藤研究室の壁に貼ってあった、憧れの写真を思い出す。このサークルに入って本当に良かったと思う。
「うーし、撮るか。猪俣の絶望を永久保存するぞ」と斎藤さんが立ち上がる。他のみんなも先輩のそばに集まってきた。
「猪俣さん、撮るよ? 元気出して、顔上げよう」
うなだれている先輩を囲んで、斎藤さん、石橋さん、凜ちゃんはポーズを取った。温度差がひどいので、僕はどっち側に合わせようか迷った。
「時間差でいくよ。ジュウ、キュウ……」
教授がカメラをテーブルの上にセットして、みんなのところに加わった。結局僕は間を取って、何もポーズを取らないことにした。さっきから腕が誰かの体に当たってしまうので、見ると凜ちゃんが僕の腕に抱き着くようにしている。……なぜっ!? いや、しかし下手に動くと逆に余計なところにまで触れてしまいそうで……。
そのままシャッターが切られた。
撮った写真はカメラの画面ですぐにチェックすることができた。画面の中の先輩は昔の不良みたいにカメラをにガンを飛ばしていて案の定一人だけ場違いな印象だった。斎藤さんはそれを見て爆笑したが、僕としては複雑だ。僕の顔もちょっと引きつっている。仲間たちと記念撮影できたのは最高に嬉しいのだが、何かが違う……?
「写真の渡辺くんと凜ちゃん、妙に近いっすね?」
「そうですね……ハハハ、なんででしょうね」
「渡辺さん」
「はいっ!?」
ドキッとして返事をすると、凜ちゃんが背中をつついてきた。
「ひぃっ!? な、なに!?」
「いい写真でしたね」
「え、えっと……うん……そうだね……」
この女子高生、なんか怖い。なに考えてるか分からない。あとで高額な慰謝料とか請求されないよね?
「斎藤くんなんて、沼に落ちればいいのに。ね?」
今度は先輩が話しかけてきた。
「ぬ、沼ですか」
「うん、沼。落ちるがいい……ふふっ……うふふふふっ……」
かなり本気でそう思っているらしい。なんなんだ、その笑いは。
陽が沈み、キャンプ場の街灯にも明かりが灯った。声をひそめたセミたちに代わって、名前も知らぬ虫たちが第二楽章を奏でている。気が済むまで遊び、飲み、食った僕らは、思い思いに時間を過ごす。先輩、斎藤さん、石橋さんはログハウスの中でテレビを見ている。僕、凜ちゃん、須藤教授はベランダで足を投げ出して座り、雑談していた。
「小学生のうちから研究室に出入りしてたなんて、すごいですね」
「まあ、何が何だか分からなかっただろうけどね。年上に対して物怖じしないのは、この環境のおかげだろう」
「凜ちゃんの将来は研究者とかですか?」
「さあ、どうだろう。あまりオススメはしないけれど」
教授が凜ちゃんを見る。凜ちゃんは目も合わせず、ポテチを一枚つまんで食べた。
「渡辺くんは、将来はこれがやりたいとか、もう決まってるの?」
「僕はまだ何も……」
この話題になると、僕は必ず落ちこむ。自分には何もないし、何も決めることができない。
「結局のところ、やってみなきゃ分からないっていうのがあるでしょ? 僕もなんとなく生物学をやっているけど、たまたまだと思ってるよ。何かが少し違っていれば、別のことをやっていたとも思う。そんなものだ」
教授の言葉は励みになる。こんなに立派な専門家になった人でさえ、最初からその道に行こうと思っていたわけではないらしい。だから僕が迷って何も決められずにいるのも、仕方のないことだと思えてくる。
「渡辺くん、そろそろ出かけるよー」
夜、先輩が僕らを呼んだ。いつもの先輩に戻っている。
今夜はホタルを見ることになっているのだ。ピークは五月から七月らしく、過ぎてしまっているのでダメ元である。
僕らはキャンプ場の人工の光からどんどん離れていく。あたりは暗くて心細いが、目が慣れれば月明かりでも充分だった。林の中の少しひらけた場所に出ると、生い茂る緑に囲まれた小さな池があった。
時間がゆっくりと流れるような静けさの中、思い思いに歩き回ったり、草の上に寝転んだり座ったりした。かすかな風が熱い体を冷ましてくれる。
「何もいないね」
先輩がつぶやいた。闇の中にぼんやりと浮かび上がる先輩の輪郭に向かって答える。
「八時になりましたね……」
「ダメかー。時期外れだもんね」
先輩は草の上で仰向けに寝転んだ。あちこちで鳴く虫の声に耳を澄ませて、風を感じているだけで癒される。
僕も寝転んでみた。草のチクチクする感触が心地良くて、こんなことをしたのはいつ以来だろうかと懐かしい気持ちになった。
「星が綺麗だね」
「そうですね。こういうところ、いいですよね」
「だねー。悩みも忘れるよ」
「先輩にも悩み、あるんですか」
「もちろんあるよ」
先輩が口をとがらせる。その声はしかし、笑っていた。
「渡辺くんはある?」
「ありますよ、たくさん」
互いの顔がよく見えないせいだろうか。僕は普段なら絶対にしない話を先輩にしていた。
「僕、存在感、薄いですよね。もっと目立って、他人の目に留まれたらいいなって思うんですけど」
「ホタルみたいに?」
「はい」
「そんなに存在感ないかな?」
「ないですよ」
だって僕は、一番僕を見ていてほしい人に、充分なアピールができていない。やっとこうやって自然に話をすることができるようになったけど、それではただの友だち、知り合いで終わってしまう。このままではダメなのだ。
「ホタルはさ、夜はすごく綺麗だけど、昼間見ても綺麗には見えないよね」
「そうですね」
「渡辺くんが自分の存在感が薄いと感じるのは、昼だからかもしれない。まだ夜になってないからかもしれない。本当はもう、ちゃんと光る準備はできてるのかも」
そうだったらいいな、とは思う。先輩には、僕の小さくか細い光は見えているのだろうか。それとも今は、そういう時期ではないのだろうか。
「たぶん僕はもっと変わらないとダメなんです。今はまだ、いてもいなくても変わらない人間です」
「いてもいなくても変わらない、かー。私は今の渡辺くんも充分いいと思うけどな。私が落ち込んだら慰めに来てくれるし。私にひどいこと言わないし、気を遣ってくれるし。渡辺くんは誰とでもうまくやっていけそう。虫にも人にも優しい人に見える」
まあ、慰めに来たのは石橋さんが気を利かせてくれたからで、僕が優しいわけではないけど黙っておく。
それにしても、僕が誰とでもうまくやっていけそうだなんて、現実は真逆なのに。先輩は僕を買いかぶりすぎているのではないか。
「それにさ、今日は自分で虫を捕まえるところから料理して食べるところまで、全部挑戦したよね? よくやったと思うよ。今日から渡辺くんは新人の渡辺くんじゃなくて、虫の輪の選抜メンバーの渡辺くんになったんだよ」
先輩が僕の挑戦や頑張りを見ていてくれたことが、すごく嬉しかった。そう、僕は今日、初めて全ての過程に自分で取り組んだのだ。だからこそセミの唐揚げは忘れられない味になった。
僕が進んでいる方向は、一応間違っていないみたいだ。あまり焦らなくていいのかもしれない。先輩は僕の小さな一歩を見ていてくれるのだから。
「過去の僕は人と関わることがうまくできなくて、引きこもりになる一歩手前だった。両親にもすごく心配をかけた。友だちはいつの間にか誰もいなかった」と先輩に言ってしまおうかと考えた。言ってしまっても大丈夫、先輩なら「へえ、そうなの。意外だね」なんて言って、あっさり受け入れてくれるんじゃないかと思った。
優しいのは僕じゃない。先輩のほうだ。僕が先輩の、いや、みんなの優しさに救われているんだ。
過去を否定して、塗りつぶして新しく生まれ変わらなきゃいけないと僕は思っていた。でも必ずしもそんなことをしなくても、受け入れてくれる人たちはいる……。
「そろそろ帰ろうか」須藤教授の声が少し離れたところで響く。「この時間に見られないなら、もうダメだろうし」
僕らはのそのそと起き上がった。
先輩は池の周りを散歩している斎藤さんのほうを見て、「ゲス落ちろ~、ホタル出ないならせめて片足落ちろ~」と呪いをかけようとしていた。沼って、これかよ……。
しかし努力は実らず、斎藤さんは無事に水場から離れてしまった。先輩は「ちっ」と悪い顔で舌打ちする。僕らはみんなで歩いてきた道を引き返そうとした。そのとき――。
「あっ」
先輩が息を飲んだ。
「あれ! そうじゃない?」
池の上をゆらゆらと漂う、黄色とも緑とも見える小さな光。たったひとつだけの弱々しい光。みんなが歓声をあげた。
「ホントにいたんだ……」
僕は幻を見ている気分だった。こんな時期外れに現われたのは、ほとんど最後の一匹なのではないか。僕らはなんと幸運なのだろう。
「よかったね」
先輩の表情は見えなかったが、僕には笑っている顔が見えた気がした。
「よかったです。来てよかったです」
「私、日ごろの行ないがいいからなー」
ついさっき斎藤さんを呪っていたのはノーカウントなのか? まあ落ちなかったのだからいいか。
僕らは夏の夜のサプライズに、時間も忘れて静かに見入っていた。
僕にもいつか、光輝くときが来るのだろうか。先輩が僕だけを見てくれる日が、来るのだろうか。
不意に、ボチャン、という嫌な音がした。
「いやあああああっ!?」
なんと先輩が池の周りのぬかるみに片足を突っ込んでふらふらしている。
「助けてっ! たおれるっ!」
「先輩っ!?」
とっさに僕が手を伸ばし、先輩がつかまる。引っ張って助け出すと、先輩は勢い余って僕の方に倒れ込んだ。
「ぎゃはははは! 猪俣がやりやがった!」
斎藤さんの爆笑が夏の夜に響き渡った。
「いたたっ……ごめんごめん……」
先輩に押し倒された僕は、ゼロ距離で先輩とまともに目を合わせてしまった。先輩の驚いた瞳の中に僕の顔が映っている。意外と長いまつ毛。ビールの缶の縁に触れていた、大人の唇。それらが、何事もなかったかのように遠ざかっていく。
その夜はドキドキしすぎて眠れなかった。