――時は江戸
犬公方と言われた徳川綱吉の治世。
近江の国――現代で言う滋賀県――その北部長浜、琵琶湖がほとりにある城下町は最早今、
「祭りじゃ祭りじゃお祭りじゃ!」
「白姫様のお祭りじゃ!」
宴もたけなわさぁ騒げ! で、あった。
――今宵は満月、千本桜
太鼓の音も勇ましく、笛の音ピーヒャラ鮮やかで、まさに縁日という奴だ。夜店立ち並ぶ沿道には、桜繚乱、湖風にて花弁ひとつひとつを吹雪かせている。枝木の間には幾つもの提灯が張り巡らされて、天の月と地の明かりの交差をもって、立ち並ぶ桜を、ある場所では真白に近く華やかに、またある場所では色気漂う程妖艶に、所変わればの光量差によって、千変万化の姿を見せ、満場の人々を楽しませていた。
「やっほーい!」
「お、なんだその掛け声!」
「わかんねぇ! わかんねぇけどやっほーい!」
「わははは! やっほーい!」
未来を先取る歓喜の声が、出るほどに、
――金色の満月を隣に侍る長浜城
その足元に広がる桜の広場――
それが、今日の祭りの舞台であった。
「いやぁ流石俺等の町の千本桜! 年に一度の花見酒を楽しもうじゃねぇか!」
「なぁに言ってやがる、花見酒なら年がら年中だろお前は? そんなキレイなべっぴん侍らせて!」
「はは! 確かに、俺のかかぁは桜よりもキレイな花だ!」
ねじり鉢巻、さらし腹巻きの、屈強な男の一言に、すぐそばにいた着物姿の女性は、からかわないでよと頬を染めながら、旦那の乾したぐい飲みに酒を注ぐ。男はニカッと笑いながら盃満たしてもらった後、すぐ飲まず、徳利を女房から受け取ったならおっとっとっとご返杯。互いにぐいっと酒を飲み、七つの槍に数えられるが如き、澄み切った辛口にぷはぁっと似た者夫婦な息を吐き、目を合わせて、お手々団扇にケラケラ笑った。
そんな幸せな人間模様が、小川の蛍みたいにあちらこちら。
鯖素麺を初めて食べて、ほっぺたが落ちると大騒ぎする幼子。鮒寿司の濃厚な旨味に笑顔をくしゃりとしかめ、そこに辛口の酒をするりと流して、ほう、という溜飲と共に空を仰ぎ、月、提灯、桜のそろい踏みに、長寿の幸福を確かめる翁。少し人から外れた場所で、桜を見上げ物言わず、手を握りあう年の頃14くらいの男女。
今宵限りとはいえども、祭りの規模としては江戸にもひけを取らぬ豪勢。
さもありなんこの長浜は、湖という恵みと交通網を擁し、豊臣秀吉によって機能的に――碁盤目状の町割り、工業区の配置等――作られた、日本史上初の計画都市で、徳川5代目の治世に置いても、色褪せぬ隆盛を誇っていた。
また、いくら機構が整っていても、それを使う者達が愚鈍ではどうにもならぬが、そこはそれ、ここに多く住まうは天下一と言われる近江商人。
――人に良し、相手に良し、世間に良し
三方良しで知られるこの金言が、世に生まれるのはこれよりずっと後だが、その形になる前の理念は、既とくにとくりとこの頃の、北の近江の者達にも息づいているものだった。
己を犠牲にするという滅私奉公とも、世間知らずを食い物にする情弱搾取とも違う、助け合いという共生の道――単純長い目で見た場合、そっちの方が繁盛するだけである。滅私奉公は自分が滅びるし、情弱搾取は商売相手が死に果てる。
そう、つまりこの祭りというものも、
皆で仲良く暮らそう、その思いの集まりである。だいたい民という生き物は多数決的に、火事や喧嘩よりも平和の方が好きなんだから、そう、だから、
「わぁい!」
人を騙して稼ぐ金より、
「ようかんだぁ!」
人に喜んでもらって稼ぐ金が好き――例えば、子供に菓子を売るとか、だ。
丁稚羊羹、近江名物。
竹の皮に包まれた細長い羊羹。菓子売りから受け取った男の子は、食べていい? と、隣に居た父に許可をとってから、竹の皮をむいて、そこから飛び出した小豆の甘い香りが漂う棒状の練り菓子を、大口開けてさぁバクリ。
「んぅっ!」
顔が笑みで跳ね回る。
頬の裏、歯の根に染みる程の甘さ。小豆の香り柔らかく、もちりざくりとした歯ごたえも楽しく。うまいの語源があまいから来ているように、当時にとって甘味は大ご馳走だ。
そして童は感情の表現を、言葉ではなく、叫声、あるいは四肢で行う事が多い。だからもうまるで小屋から逃げ出した鶏のようにあっちへこっちへバタバタ走って、この味覚の喜びにねずみ花火のように弾けまくって、
それが、いけなかった。
――ドシン、と
「きゃあ」
かわいらしい声をあげて、男の子は尻餅をついた。同時に、手から羊羹を零してしまう。
「あぁ」
得た物を零す悲しみに、今度はふわぁんと泣きじゃくりそうになる、その前に、
「――ぁ」
童は、息を飲んで、戦慄した。
鬼が居る。
腰を付いた状態で見上げるのは、自分がぶつかった相手である。
鬼が、居る。
逆月光、童からの視点では、相手は影によって塗りつぶされている。ゆえに形状が良く解る。鬼に見えたのは頭から何かが、角度的に、ニョキリと生えているかのようだった。
鬼、が、居る。
なんてことは無く、それはただの髷、総髪の後ろを括りさながら馬の尾のように下げているものであった。月代は剃っていない。元々は兜を被る為――今は身だしなみの為につるりと剃る部分が――その"男"には存在しなかった。そして、
背が高く。
江戸の平均身長5尺余り――現代で言えば155cmの時代において――その男の背丈は6尺、つまり180cmを越える。どんぐりの背比べの中に紛れ込んだ雨後の竹の子、その大きさが、童に泣き声を失わせる程の恐ろしさを与えたのだ。
童の喉からひっ、ひっ、という、その童自身も聞いた事の無いような声、いや、呼吸音。引きつけのように息ばかり吸い込んでしまう時生じる、命を縮める息の糸だ。
「あ、ああっ」
童の父親が切羽詰まった様子で駆け寄って、男の子を後ろから抱えるようにしゃがみ込んだ。そして、震えながらこう叫んだ。
「お許しをお侍様!」
長身のいでたちはそこらの町人と一線を画す、つまり、袴姿、そして、
腰に下げるのは刀一本。
童は、鬼の角が如き髷と、その体躯に恐れを覚えたが、親の方は、朱塗りの鞘に収まっているそれに対して我が子の危機を案じて戦慄した。
徳川綱吉の治世、天下の悪法――または先進的すぎた法律――生類憐れみの令が出されたこの時代になれば、江戸初期とは違い、けしてそう簡単に、斬り捨て御免がまかり通るような時代では無い。それでも祭りの熱気に人殺しの道具の相性はすこぶる悪い。だからともかく親は、息も侭ならぬ子に代わって謝ったのだ。
背丈の高い侍は――柳のようにしなやかに屈みながら、その手をするりと童へ伸ばし、
そして、
――そてり、と
頭を撫でた。
「……ふぇ?」
その男の掌の暖かさは、まるで魔法、当世風に言うならマジックのように、童の緊張をみるみる、雪に春光が如く溶かしていく。
「すまない」
声だ。
「俺の所為で、大事な羊羹を土に食わせてしまった」
落ち着きがあって、澄み切った、なんとも気持ちよい声である。
近づく事で逆月光で黒塗りめいてた男の顔が、薄くだが解ってくる。
若く――美しい男だった。
スキリとした目鼻立ち、口は真横一文字で笑いこそせぬが、根の優しさは隠しきれぬようにまるで気のように発している。感情なぞ本来表現せぬと雷のように伝播せぬものだが、そういう"印象"を受けるのだ。
声一つ、動き一つ、まばたき一つ、労り一つ、何よりも、
言葉一つで、
童も、その父親も、すっかり鬼とばかりに恐れた侍を、なんとまぁとんと良い人に思えた。
撫でていた手をひっこめて――裾の中に手をやって、
取りだしたのは、小銭である。それを、童に渡した。
「あの落ちたのは俺が食う、お前はこれで新しいのを買え」
「あ、ありがとう!」
「お侍様、そんな」
礼を言う童、恐縮する父親、侍はそれに関せず落ちた羊羹を拾い、裾の中に閉まってからくるりと父子の方へ向き、
高い背を折りたたむように、まるで文楽人形のよう美しく頭を下げて。そして、その場から去って行った。
――その時、周りからわっと声があがった
「よぉ、お侍様!」
「かっこいい!」
人の集まる祭りである、長身の侍に童がぶつかってからの一幕は、さながら歌舞伎の演目のように扱われていたのを、今、この男は知った。
侍は、なんともいえぬような顔になり、少し足早でその場を後にしようとした。その時、
『良イ男ブリダネェ』
――ドクンと
「……」
若侍の心臓が、跳ねた。
その声は、侍にしか聞こえない。
鼓膜でなく、魂に直接響くからである。
『デモ、オ前甘イ物ハ食エタカ?』
鈴の音ようにころりと高い、尚且つ、人の神経をつるりと逆撫でするような、なんとも心地悪い声であった。それに対し応えるよう――周囲に気取らぬよう、静かにぼそりと、
「苦手だ、だが、職人達が一つ一つ大切にこしらえた物だ、無駄にしたくない」
と言った。
するとまた声が、ヒッヒッヒッ、などと、お伽噺に出てくる化け物のように笑うのだ。
『オ前ガ甘味ヲ嫌ウノハ』
おかしそうに、
『幸セノ象徴ダカラダロウ?』
楽しそうに。
『本当ハ人ノ幸セガ苦手ダロウ? サッキダッテ幸セナ家族ヲ斬リタクテウズウズシテタロウ? 今デモコノ桜吹雪ヲ、鮮血ノ嵐ニ変エタクテ仕方無イノダロウ?』
きりきりくらくら、姿を見せぬ侭舞うように、若侍の心に語りかける。
『ヤッチャイナァ、ヒトキリヲォ』
気軽に人殺しを勧めてきた。
縁側から飛び降りるくらい容易い事だとばかり。
『殺ッチャイナァ! 殺ッチャイナァ! キレイサッパリザンバラリ! イクラデモ儂ガ力ヲ貸スゾ! サァ、抜ケヨ! 玉散ル殺シノ刃! サァサァサァ!』
狂気の押し売り、魔道への勧誘、それを、直接心に注がれた侍は、
口を開き、
「試さないでくれ」
そう、静かに言った。
――魂への声がぴしゃりと止んだ
騒々退散、凪のよう。
そうすれば侍は、静寂の中、まるで独り言のように、
「約束したはずだ」
侍は、
「俺が斬るのは、人では無く」
笑わぬ侭に、その眼に、
――祭りの笑顔を映しながら
「――人に仇なす」
そう言った瞬間、
「白姫様だ!」
誰かが声をあげ、そして、
「白姫様か!」
「白姫様だ!」
「ああ、白姫様だ!」
「白姫様ぁっ!」
名前呼びの連呼、遠景拡大、大盛り上がりの大広がり、先程まで思い思いに祭りを楽しんでいた民達は、一斉に一点を目指すように目を向けた。
長浜城の天守閣――その高台に現れた者。
侍は、目を凝らす。1町、現代で言えば110メートルもの距離がある。多くの者達にとって、遠くである。だが月の光が昼のように明るいこの場所において、城上に立つその姿は、さながら暗黒の河に落ちた一番星のように、輝き際立っている。
嫁入りの姿だ。
何故ならば、角隠しがある。
婚礼の際に女性が頭の覆うように被る、帯状、幅広の布。
白無垢姿の着物姿、夜の闇にすらふわりと浮かび、その白が下地であるから、角隠しから腰まで長く美しく伸びた黒髪も目に入った。
そこまではそう、遠くの者からもどうにか解る。
姫は、どうやら手を振ったようだ。その僅かな動きに人々は、爆ぜるように歓喜する。ワイワイガヤガヤ大合唱。
「ああ、今日も健やかだ」
「桜の色に、白姫様がとってもキレイだねぇ」
「何時までも我等の姫であって欲しいものだ」
「白姫様-! 愛してる-!」
正しく、熱狂である。この時代、偉い人は神のようなものなので、推しを神と言う現代文化から考えれば、別に間違っては居ないのだが。
ちなみに。
天守閣の高台に居るのは、この白姫と呼ばれる女性だけではない。右隣に着物姿の女性が、左隣に小柄で緑色の着物を着た男が居た。だが、その二人の存在も、正しく霞んでいる。
多くの者達が、月と提灯の明かり頼り、なんとか白姫とやらの身振り手振りを把握する中で、侍は、
――その笑顔を見ていた
「……」
侍の、視力は良かった。人の域を超えている。現代であれば刀よりも狙撃銃を得物にすべき程。
拡大縮小のような便利機能は無いが、見てる光景の内の人物を脳内で切り出し、注目する事は出来る。
それゆえ侍は白姫の姿と、表情を、より詳細に見て取れた。
――角隠しで嫁入り姿のこの姫は
背丈は、この時代の女性にしては少し高く5尺余り、先述のように155cm程度。その身にお人形のように来ているのは、彼女の名前の由来であろう、所々金刺繍が施された真白の着物である。繰り返してる事であるが、長い黒髪はまとめあげず、美しく下へ流して、さながら黒曜の滝といった風情。
何よりもその浮かべる笑顔は、少女のあどけなさから大人の美しさへと、今まさに生まれ変わらんとせんばかりの過程、まぜこぜ、良いとこどり。幼年が見れば憧れを、同い年ならば恋を、老年が相対すれば優しさを覚えるかのような、"その者が今もっとも求める感情を与える笑み"を携えた少女だった。
二度目だが、ちなみに。
右隣の着物の女性は、なんとも柔らかで、おかめ様のような優しそうな笑みを浮かべる、ふっくらとした初老の女性であり、左隣の袴の男性は、まるでひょっとこのように愛嬌のある風体で、体は少し痩せ身ながらも、背筋は凧の骨のようにピシャンとしっかりな、初老の男性である。
姫の両親であろうか。となれば、この長浜を治める者達だ。
だがそれを"差し置いて"、姫は歓声を受けている。
……もしそれがこの容姿、笑顔だけで為している事であれば、
『――化ケ物ノヨウダナァ』
そうつっこみたかったので、
黙り込んでいた魂の声が、再起動する。
『アノ長浜城ノ主ダッタ豊臣秀吉公モ、人垂ラシノ天才ト言ワレテタラシイガ、笑顔一ツデノ人心掌握ナド、オオ、コワイコワイ、ダ』
楽しそうに愉快そうにころころころりと、
己の中に響く声を、
「一つ目」
そう呼び、そうして、
「目だけでは、聞こえないのか?」
溜息を吐きながら、そう言った。
「ありがたやありがたや、この前姫様は儂の挫いた足を、愛しむように撫でてくださった」
『……ハレ?』
笑顔だけじゃない、評判が聞こえてくる。
「良く町に降り、良く町の声を聞いてくれる!」
「大湖寺の和尚様に、これからの長浜を相談したとか」
「おいら、姫様と通りゃんせやった!」
「治水には、知恵どころか手も貸してくれたよ、白魚のような手が汚れるのも厭わずだ」
「うちの宿六を一喝してくれてねぇ、何時までも、あると思うな親と金って」
姿形だけでなく、行いもどうやら白姫は美しい。
それを聞いた、一つ目と呼ばれた、未だ侍にだけにしか聞こえぬ存在は、
『ツッマンナーイ!』
全力で、未来の女子風につまんないをした。
『完璧超人スギルジャーン! 何コイツ欠点無シッテ! ナンデモデキルッテ事ハオモシロミネージャン! 人トシテノ魅力ガ落トシ物リスト入ッテマセンヨ!?』
「りすと――」
侍にとって聞き慣れぬ単語、だが、
「いや、良い」
『アア!? イイカ、リストッテェノハ!』
「良いと言ってる、騒がないでくれ」
魂が騒ぐ中でも続く周囲の白姫賛歌。何せ祭りが行われる程の支持率である。笑顔の姫に対して、母親らしきおかめ様もにっこり笑い、父親らしきひょっとこ殿様は、何やら白姫に話しかけている。
「……」
なんとも、素晴らしき家族だ。見てるだけでとても、
(羨ましい)
そんな風に思う中で、
「――なぁ、にしても」
声がまた飛んできた、しかし今度は、賛美では無い。
「姫様は何故、角隠しの嫁姿なんだい?」
若侍の近くに居た行商人らしき男が、そう言った。
それはそう、まず最初に覚えるべき疑問だ。今から誰かと結婚するのか? そんなはてなを頭上に掲げるような面をした奴に、
「ああ、あんたは旅の人か」
回答役は地元の、小太りの男であった。
「おう、京から下ってきたばかりなんだが、あの白姫様とやらは誰かと結婚するのかい?」
「いや、一応聞かされてる話はあるが……、先に眉に唾をつけてくれ」
その言葉に習い――行商人は自分の眉を、ぺろりと舐めた人差し指の腹で軽くなぞった。小太り、よし、と確認してから、
「白姫様が十二の頃、病で倒れ、死にかけた事があったんだ」
医療進化中の江戸時代、風邪すら命取りの世にあって、人の命は儚いものであった。昨日の友が今日ころりなんて日常茶飯事である。
「だが、見事病を克服されて再び姿を現したんだが、その時から角隠しだ」
「病気が治ってから?」
「そして、病気が治る前、白姫様の親、つまり殿様と奥方様は――伊吹山に足を運んでいた」
「伊吹山、っていやぁ」
「ああ」
伊吹山、
現代の滋賀米原と、岐阜関ヶ原をまたがる標高1377メートル越えの山であり、そして、
「――酒呑童子が根城にしていた山だ」
として有名である。
人間の領域を郎党共々荒らし回った怪異。
ただし酒呑童子伝説に関しては、京都大江山の方を住処にした話もある。どちらかが間違いなのか、どちらとも正しいのかは、現代においてもハッキリとはしない。
「でだ、死にかけた姫様はな、かの金時公に首を刎ねられた酒呑童子に、地獄で嫁にされそうになったのを、伊吹山にある鬼達が住む地獄へ通じる道へ、助けられて戻って来たんだとよ。そんでもって」
そこで小太りはこう歌う、
――鬼の腰巻き良い腰巻き、強いぞ強いぞ
と。
「なんだその妙な歌と、妙な踊りは」
「……で、鬼の腰巻きと一緒で鬼の角隠しも強くて、強すぎて、外れぬままなんだと」
ここまで聞いて行商人は、
もう片方の眉にも、唾を塗った。
「なんだそのホラ話? あとその歌。一体誰が言い出した、そして歌った」
「殿様だよ、我が藩藩主長浜火ノ介様が」
「殿様!?」
「地獄から白姫様を助けたのも殿様、そして奥方のお亀様だとよ」
「殿様と奥方様が!?」
「あと歌って踊ったのも殿様だ」
「殿様なんで!?」
その後も地元の人間は、殿様自身が語った事を、身振り手振り大げさに語った。白姫を奪還した地獄の一丁目で、殿は刀を奥方は長刀を振るいながら、迫る地獄の鬼達相手に奮戦したとかなんだとか。
かの伝説の酒呑童子から、我が娘を救う為の大立ち回り。
「はぁ」
商人は全く信じなかった。
「流石にそりゃあ盛りすぎじゃないかい?」
「だよなぁ、なんでも火ノ介様は火を噴いて、お亀様は回転しながら空を飛んだらしいが」
「なんだいその大道芸は? ……まぁ一国を治める方の言葉、大嘘だなんて誰も言えないか」
「まぁそのホラでもしかしたら――白姫様の額か何かに、病で出来た痣やらを、隠す理由を作ってるのかもしれないが」
美は、暴力的な程、強さである。それに疵あらば価値は無し――と言いがかりを付けてくる藩は存在する。徳川家が豊臣家に"国家安泰"は徳川転覆の呪言じゃねーかと言いがかりつけたみたいな。
加賀百万石、捨て奸の薩摩、そして、白姫の長浜。この時代諸国にとっては、肩書きそのものが一種の防衛機構であり、なんとしてもこだわる必要があった。
九十九万石になった途端、加賀は舐められる。
媚びへつらい命乞いすれば、薩摩は舐められる。
白姫に疵があるとすれば、長浜は舐められる。
二位じゃ駄目なんですか? な理由として、国というのは、舐められれば、殺されるのだ。
祭り興じる民を道連れに。
「それを隠す為の大袈裟な大嘘か」
「藩主が大嘘つきと大評判たっても、白姫様の大美しさは保たれるもんな」
――そんな
そんな長いやりとりだった。それを、若い侍はじっと聞いていた。そして、
答えを得る。
何かを隠す為なのは事実だ、ただしそれは、疵などと言う物では無い。その証拠に先程から、若侍の魂にしか聞こえぬ声で先程から、
『――殺セ』
聞こえてくる、
『殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ殺セ』
殺しの、
『アノ姫ヲ!』
教唆、
『殺セェッ!』
侍は、
「……嗚呼」
目を細めた、
「――解っている」
その瞬間、
ふうよるどう、と、
汚泥のように生温き風吹いた。
「!?」
「ひっ」
「ひいいっ!?」
祭り囃子がぴしゃりと止まる、代わり、ざわりだ、ざわざわと。
つららを首裏に当てた時のような、いやもっと深く、脊髄を素手で逆撫でされたかのような怖気が、この祭りの会場の者達全て奔った。笛も太鼓のバチも手元から落ちて、音楽の代わりに流れるのは人々のざわつきである。
「な、なんだ、今のきもっちわるいのっ!?」
「"今の"じゃない、"今でも"だ! のたりねったり肌這い回ってやがる、でけぇ透明な蛞蝓だぁ、ぶるるっ!」
「ふ、ふるえ、ぶるるっ、とまんねぇ、ひい!」
大人は勿論、
「――お母ちゃあん」
童達も泣く。
「お母ちゃぁん!」
子が泣いた、泣き始めた。えーんえーんと大合唱、理という物差しがまだ未熟な幼子達は、本能、勘と言ったもので今の状況を感じている。そう、
この生温い風が前触れにしか過ぎぬと。。
これからもっと恐ろしい事が起こると。
さてもいよいよ、
「おいおいおいおい、お月様!?」
天変地異だ――あんだけ黄金に輝いていた月が、桜を眩く照らしていた月が、
赤より紅、染まっていった。
「ひい」
悲鳴が鳴る。
「ひいっ!」
まるで太鼓、あちらこちらの怖がる一音、間隔がどんどん狭まっていく。どんどんと連なり重なっていきそして、
「ひいいっ!」
人々の恐れが飽和した時、
――それらは現れた
妖怪であった。
何も無い空気から霧が浮かんで、
霞のそれらが異形を成していき、
肉となり、色となり、そして、
「オオオオオオオオオッ!」
声を為す。
鬼が居て、ろくろ首が居て、傘小僧が居て、
ああ特にとくとく特筆すべきは、
――一つ目を持った大入道
ぼろ衣のような修検服を着込んだ、身の尺は18尺、
若侍の三倍もの背丈の頂点から、
ギョロリと、血走った目の視線を、べろりと舐めるように動かした。
怖気。
民達のうなじが泡立ち、凍り、沸騰する。
「「「ひいいいいいいい!?」」」
祭の客達を上回る妖怪の群れ共が、そげな人間の喚きの集合を聞いて、
「「「ケラケラケラケラケラケラ!!!」」」
と、笑ってみせる。そして、鬼が金棒を振り露店を壊し、ろくろ首の首が桜の木に巻き付き、ボキリ! と幹を折って見せた。鎌鼬が人の脛を切り、河童が古池に人を投げ入れた。
そして――縦横無尽に吊り下がっていた提灯が、軒並み全てバクリと割れて、そこから舌が飛び出して、さっきよりも一際高い声で笑い始めた。
――暴力が数を揃えてやってくる
「うわぁ、や、やめて!」
「たすけてぇ!」
「なんで、こんな、なんでぇ!」
先程までの喜びの宴は一転し、阿鼻叫喚の地獄絵図。人語を発さぬまま妖怪共は、まるで遊ぶかのように人や物を抉り続けた。創造を目的としない破壊こそが、妖怪にとっての快楽のようだった。
その様を、遥か上から見る者が居る。
いわずもがな、白姫である。
彼女は突然起きた出来事に、茫然自失していたようだったが、すぐさま両脇の殿様と奥方に、天守閣の奥へと引っ込められていた。だが、城は既に囲まれている状態、隠し通路でもなければ、姫は長浜城から抜け出せぬだろう。
それを確認した後に、若侍はこの恐慌の中、落ち着いた侭に、視線を動かす。
すると、一つ目の大入道が、
さきほど、丁稚羊羹を落とした童を覆い被さって、覗き込んでいる。
「ひい、ひいい、ひいいいっ!」
童のすぐ傍には、親が倒れ込んでいた。大入道から子をかばった後弾き飛ばされたのだろうか。ただ、死んではいないようである。遠目からでも"生き死に"が解る能力、いや、経験が若侍にはあった。
騒乱の最中、怪異に追われて木の葉のように舞う人々の隙間を、するりゆらりと潜り抜け、一つ目入道に歩みを進めながら、若侍は確信する。
この妖怪達も、同じだと。
妖怪は、すぐには人を殺さない。傷つけ、物を壊し、いたぶり、精神的にたっぷりと追い詰めてから、やっと命を奪う。現代風に言うならば、
『相変ワラズマウントトッテルナァ、ソウジャナイト、満タサレヌモンナァ』
そう言う事らしい。
「一つ目」
侍は、
「あれは、お前の同族だが」
相変わらず己にしか聞こえぬ声に話しかける。
『同族ジャナイ』
返答が聞こえる。
『アレモ、火ダ、儂ノ為ニ盛ル火ダ』
「そうか、なら」
『――アア』
ブッタ斬レ、と。
その時、一つ目入道はその大きな指と人差し指で、童をつまみ、上に掲げた。そして大きな口をあけて、飲み込む寸前で止めてしまう。自分が羊羹のように喰われると思った童は、あー、あーっ! と泣き叫ぶ。だがその危険信号に、駆けつけられる民は居ない。悲鳴が、悲鳴でかき消されるのだから。
――親は気を失っている
一つ目は、たっぷりと時間をかけて、子供の嘆く様を堪能し、にたりと一つ目を笑わせたあと、口の中へ童を放り込もうとする。
この怪異の中初めての殺人、一つ種の命が、理不尽の振りをした自然道理で、
失われようとしたその瞬間、
童を摘まむ入道の腕が、落ちた。
「――千ノ一」
若侍が、入道の足元で、刀を抜いていた。
遠い距離を一瞬で詰める速力、それと供に繰り出した剣閃は、
人の胴回りより太い腕を、一瞬で切り落とし、
その断面から、
「桜流し」
血の代わり、薄紅色の桜の花弁を吹雪かせる。
そのまま体も花弁と化して消えていく、一つ目の断末魔を聞きながら、
落ちてきた童を、すとりと受け止めた。
「わぁっ!」
腕にすっぽりと納まった童は驚きの声をあげたが、さっきまで自分を食い殺そうとした一つ目の入道が、桜花弁となって散っていく様子、そして、
「大丈夫か」
若侍の、無表情だが、優しい声色に、さっきまでの恐怖はとんと消え失せた。
「あ、ありがとう、……あ、お、おっとぉ!」
おっとっと、でなく、父親という意味でのおっと。
自分の身の安全を確認すると、すぐ、自分を守ろうとして気絶した父親の事が気に掛かる。若侍は童を、親の傍にまで下ろしながら言った。
「おっとぉ、おっとぉ!」
「大丈夫だ、おそらく、一つ目の睨みを受けたんだろう、直に目を覚ます」
「ほ、本当?」
『大丈夫大丈夫、ッタク、殺ル気ニナレバスグ殺セルノニ、子ヲ失ッタ親ヲ後カライタブロウトスルトカ、悪趣味ダナァ』
「……あれ?」
その声は、若侍だけでなく、童にも聞こえた。何故ならば、
――心の中から飛び出してきたのだから
「きゃあ! また一つ目!」
『ギャハハ! 食ーベチャーウゾー!』
と、凄んでみせたがこの一つ目、成りはかわいいものであった。まず背丈が童の半分くらいしか無いし、体もずんぐりと丸く、体の半分以上ある目も愛嬌がある。口も表現豊かに歪むのだから――正直マスコット――のような身なりである。
これが先程から、若侍の心に引き籠もっていた、怪異の正体であり、
そして、
『サテ』
――侍に刀を抜かせる者
『タゲ、取レタナァ』
気付けば、騒乱は鎮まっていた。
妖怪達が全員、一つ目と若侍に注目している。妖怪達の思いは一つだった。
――自分達を怖れぬ者が居る
それは妖怪達にとって、許せぬ事、怒りであるがそれ以上に、
恐怖であった。
『ギャハハ、ギャハハ! ソウダヨナァ! オットロシイッテイワレタ者ガ、カワイイ扱イサレテ無力化サレル! 怖イガ商売ノ妖怪ニ、コレ程怖イ事ハ無イ! 八尺様モ貞子モモウ萌エキャラダモンナァ!』
何かのたまい叫ぶ中で、妖怪供がぶち切れて、一斉に襲いかかってくる。四方と上方からの一斉攻撃、本来、前にしか集中出来ぬ人間には、捌ききれぬ質量と物理、だが、
「千ノ二十二、水龍」
若侍がそう言って刀振り上げれば――名の通り水で出来上がった龍が、周囲を縦横無尽に駆け回った。怪異が軒並みその濁流に飲み込まれ、溺れていく。ろくろ首や唐傘は勿論、河童すらも川流れ、上にも底にも出る事出来ず、苦しそうに呻いた後、ポンッ! と鼓のような音を立てて、全てが赤、時々青い人魂に変わっていく。
『バキュームターイム!』
すると一つ目が――その大きな目で、妖怪だった人魂を吸い込んでいく。ついで、入道の成れの果ての桜花弁も掃除するようにだった。
はてさて、ここまでの若侍の活躍を、ずっと黙って見ていた民達だが、妖怪が怯む中で彼等は、
「うおおおおおおお!」
感情を爆発させた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「すげぇ、妖怪斬りの大立ち回り!」
「命の恩人だ、ありがとう!」
まだ妖怪が蔓延る中で、脳天気な声があがる中でも、しっかりと、
「あの、あの、お願いです!」
――まだ事態が終わってない事に気付く者は居る
「白姫様をお助けください!」
と。
「ああ、そうだ、白姫様ぁ!」
「城は妖怪に囲まれたままだ!」
「中に入った奴等もいるかもしれない!」
実際、妖怪の半分が、若侍に睨みをきかす中、大方はまだ城に群がっていた。入道ほどではないが、巨大な妖怪が、石垣を登り、硬く閉ざされた木戸を激しく叩いていた。
『アレ、全タゲ取レテナカッタ? マジカ、妖怪デモ自分ノプライドヨリ仕事優先スルヤツイルノ? ソッチノ方ガコッワー』
魂と、花弁を吸い終わった一つ目が、相も変わらず訳わかめな事言う中で、若侍は、城へと歩み始めた。
助けられた童は――父の背中に手を置きながら、叫ぶ。
「お侍様、ありがとう!」
と、
「お侍様、お名前は!」
と。
……侍、足を止め振り返り、
紅月下の妖怪城を背景に、美しくその姿を際立たせながら、
名乗る。
「――小神一千」
なんとも澄み切った心地良い名が、童だけでなく、人々の心に涼風と、希望を生む。
この人ならばきっと大丈夫だと、我等の願いを託せると、だから、
「一千様、白姫様を助けて!」
真っ直ぐに願いを、童は、民は、侍に伝えた。
一千は、
こう言った。
「それは出来ない」
、
「俺は角隠しの、鬼姫を斬りに来た」
「……え?」
童が、全員が呆気に取られる中で――今まで静止した妖怪達が、再び襲いかかってくる。一千、
「千ノ六十七、矢嵐」
そう言いながら振った刀から――放たれる透明の矢が、天狗の羽根を、猫又の尻尾を、射抜いていく。なんとか矢の雨を潜り抜けてきた妖怪も、そのままバサリと斬られてしまう。飛び道具から接近技の連携を、淡々とこなしていきながら、一千は城へ近づいていく。
「し、白姫様は鬼じゃないよ! 侍様、お侍様ぁ!」
童だけでなく、民の間にも動揺は広がった。だが、声はあげられても、妖怪と戦闘中の一千には誰一人近づけない。
やがて門を潜り抜けた時、
人々の声が――一千からすれば自身の声が、民達に届かなくなってから、
「すまない」
そう呟いてから、妖怪達が群がる長浜城を見上げる。
――さて、今は徳川綱吉の治世
しかし長浜城は本来、1615年に廃城となり、解体された資材は彦根城の建築の際、流用されている。
徳川綱吉の時代は、1680年からの始まりである。
ここに矛盾が生ずる。今、一千が見上げるのは、有り得ぬ歴史なのである。
もしそれが成立するとするならば、
この場所が、妖怪溢れるこの場所が、本来の世界と違うからでしかない。
小神一千は、
異世界転生者である。
戦国時代、天下分け目の関ヶ原から、
千人斬りを果たした後に、
一つ目によって、この世界にやって来た。
それを知る者は、当人と一つ目しか知らぬ。だからゆえに、
(――何者だ)
天守閣の奥へと連れて行かれる姫は、心中にて、
(あの者は)
自分を射抜くようにみつめていた、侍のその正体を、名も含め解らぬままだった。
侍と同じ、視力を持つ者。