亜矢はグリアを連れて、学校からマンションへと引き返した。
そして今、マンションの自室。
亜矢のベッドで苦しそうに眠るコランの前に、亜矢とグリアは座っている。
「コランくん、急に熱出して苦しみだして。これって病気なのかしら?」
亜矢が心配そうにコランの顔を覗き込みながら、冷やしたタオルをその小さな額に置く。
グリアは冷静にその様子を見ているが、少し難しい顔をした。
「いや、悪魔は人間と同じ病気にはならねえよ」
亜矢は隣に座るグリアの方に顔を向ける。
グリアは意外と、真剣にコランの事を見てくれているようだ。
少しだけ嬉しいような、安心するような。
これは亜矢の中で、グリアに対して今までになかった不思議な感覚。
「じゃあ、この前の死神みたいに、栄養不足とか?」
亜矢が思い出したように言う。
グリアは思い出したくない事を言われ、少し眉を釣り上げた。
「コイツは常に亜矢の生命力を吸収してんだ、それもありえねえよ」
亜矢は顔を俯かせた。再び、不安が胸を締め付ける。
「それじゃあ、コランくんを助ける方法って……」
「オレにはこれ以上分からねえな」
「そんな…………」
亜矢は肩を落とす。結局、自分はコランに何もしてあげられない。
今だってただ、グリアを頼っていただけの事。
でも、これ以上コランが苦しむのには耐えられなくて。
自分が今出来る事、それは———。
亜矢は突然、勢いよく立ち上がった。何かを決意したかのように前を向き。
グリアは驚き、亜矢を見上げる。
「死神、ちょっとコランくんを見てて!」
亜矢はグリアに振り向く事なく、そのまま部屋を出て行こうとした。
「………っ!テメエ、どこ行くんだよっ!?」
振り向くグリアの視線が、亜矢を追う。
「学校よ!もう一度行ってくる!!」
「リョウに聞いても同じ事だぜ!?」
「違うわ、そうじゃなくて!」
グリアは何故か必死になっていた。
今ここで、亜矢を止めなければならない理由なんて、分からない。
だが、引き止めようと思ったのは彼の直感だろうか。
亜矢を行かせてはならないような、そんな何かの予感が。
だが、亜矢は部屋を出て行った。玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「……………バカが!」
独り言を呟くそのグリアの顔に、銀色の長い髪が少し垂れた。
だからと言って、亜矢を追う理由も見付からない。
部屋には、死神と小悪魔が残された。
亜矢はただ、ひたすらに走った。
目的地は学校。だけども、向かう視線はすぐ目の前に向けている。
目的の人はきっと、望めばすぐに現れるだろう。
あの人もまた、自分に目的があるのだろうから。
何の確信もない事だが、亜矢は息を切らせながら、小さく唇を開く。
「……見てるんでしょう?」
走りながら誰かに向かって、小さく言葉を投げる。
息を切らせ、走りながら。
「……魔王!魔王ッ!!」
亜矢がそう、小さく叫んだ瞬間。
亜矢は何かの変化に気付き、足を止めた。
一瞬にして、亜矢は今までとは違う景色の中に立っていた。
見覚えのない場所ではない。少し道から外れた、人通りのない裏路地だ。
そして正面を見れば、そこには予想通りオランが立っていた。
緩く締めたネクタイ。いくつかボタンの外されたワイシャツ。
相変わらず、不良っぽい教師だ。
この裏路地に亜矢を招待したのは、『取り引き』をする為の彼の計らい。
「『魔王サマ』だろうがよ」
オランはニヤリと笑った。
亜矢は荒い呼吸を整えながら、オランと少し距離を置いた正面に立つ。
「オレに何の用だぁ?」
オランは動こうとしない。本当は亜矢の目的を見抜いているのだろう。
それは、亜矢の心を見透かしているという余裕。
亜矢は強い意志を視線にこめて、オランと向き合った。
「あなたと、契約するわ」
「へえ?」
亜矢の言葉に、オランは驚きと楽しさを交えたような笑いをこぼした。
「あなたは魔界一の悪魔なんでしょう?何でも叶えてくれるのよね?」
「ああ、オレと契約すればな」
亜矢はゆっくりと歩を進めた。
決心した割には、その歩みは緩やかだ。
「……助けたい人がいるの。だから………あなたと契約する」
亜矢はオランの目の前まで辿り着くと、高い身長の彼を見上げる。
先程は契約を拒んでいた少女が、今は自らが契約を求めて自分の元へ来た。
オランにとって、これほど面白い事はない。
満足そうに笑み、オランは少し膝を曲げ、亜矢の身長に合わせて身を屈ませた。
「『契約』がどういう事か、分かってるよな?」
亜矢はそれに返さず、ただ少しだけ頬を赤らめた。
悪魔との契約は、『口付け』によって成立する。
「契約成立ってワケだな。………クク」
オランは亜矢の頬を手で触れた。
少し亜矢が反応したようだが、先程とは違い、抵抗の意志は見えない。
ただ、目を静かに閉じている。
オランはそのまま亜矢の唇に触れようとしたが、寸前で止めた。
閉じた亜矢の瞼に力が入る。
それは、『静かに』というよりは何かに耐えている。
(今まで、何度も死神に口移しされて来たんだもの。こんな事くらい…もう…)
亜矢は心で、自分自身にそう言い聞かせていた。
(……大丈夫…よ………)
これが、亜矢の決心だった。
オランと契約してコランを助けてもらおう、という。
この口付けだって、コランを助ける為の過程に過ぎないのなら、自分が犠牲になったって構わない。
オランと契約すれば、亜矢はコランの契約者ではなくなってしまう。
そうなれば、コランは魔界に連れ帰されてしまう。
それでも仕方のない事だと思った。
自分のせいで魔界に帰れなくなり、そのせいで病気になったのだとしたら。
やっぱり、コランは自分の側、人間界にいるべきではないのかもしれない。
その方が、コランの為なのだと——。
亜矢の瞼が震える。
自分を偽り続けてここに立つ、その心に耐えられなくて。
その時。
ふっと、柔らかくて暖かい感触を感じた。
唇ではなく、額に。
「?」
亜矢は驚いて目を開けた。
目の前には、鋭くも優しい眼をしたオランがいつもの笑いを浮かべていた。
「あんたの願いを叶えてやるぜ」
「え?」
亜矢は訳も分からず、キョトンとしてオランを見返す。
その仕草がおかしくて、オランは笑う。
「助けたいヤツがいるんだろ?そいつの所まで案内しな」
「え……でも、契約は?」
オランが口付けたのは、唇ではなく額であった。
これでは契約は成立してないのでは?
オランは再び亜矢に顔を寄せた。
ふいを突かれて驚いた亜矢は、反射的に身を引いた。
「魔界一のオレには端から契約なんざ必要ねえんだよ、ヒャハハハ!!」
亜矢は気が抜けてポカン、とするが、すぐに我にかえった。
じゃあ、さっき契約と称して口付けを求めて来たのは一体何!?
ただの趣味!?
そうだとしたら、ある意味、死神以上にタチが悪い悪魔である。
「さあ、どうした?案内しな」
それでも、この悪魔は亜矢の願いを聞いてくれるらしい。
悪魔にこう言うのも変だが、根は悪い人じゃないのだろう。
「……魔王、ありがとう」
亜矢は初めて、オランに向けて優しい笑顔を向けた。
それは、自然と出た笑顔と言葉。
「『魔王サマ』だっつってんだろ」
オランがそう言うまで、少しの間があった。
一瞬、亜矢の笑顔に引き込まれた…とは、オランの口からは決して出ない。
唇を重ねなかった事を、今になってちょっと後悔したオランだった。
バタン!
亜矢の部屋のドアが勢いよく開いた。
コランの寝ているベッドの前で座っていたグリアは、その音に振り向くなり目を丸くして固まった。
「あそこのベッドに寝てる子よ!お願い、助けて!!」
「へ〜え?どれどれ……」
なんと、どういう訳か亜矢が例の悪魔の教師を連れて帰ってきたのである。
グリアは驚き、声も発しないまま、ベッドに近付いてくる二人を避けるようにして部屋の隅に移動した。
オランが、ベッドに寝ているコランの顔を覗き込む。
「ほう……コイツは誰かと思えば……」
そう言うなり、オランは眠るコランの頬を軽くピタピタ叩いた。
「オラ、起きなぁ!」
「きゃああっ!何してるの!?病気の子にっ!!」
オランの突然の荒々しい行動に、亜矢は慌てて制止する。
コランは目を覚まし、うっすらと開いた瞳でオランの姿を捕らえる。
そして、その口から小さく出た一言。
「……………兄ちゃん……」
ハっと、亜矢の動きが止まる。
「なーにこんなトコでくたばってんだよ、弟」
え?え?と、亜矢はコランとオランの間で何度も視線を移らせる。
「も、もしかして……魔王ってコランくんのお兄さん?」
偶然なのか必然なのか。あまりにも上手く巡り合わせた展開に、亜矢はただ呆然とする。
「それより、今は早くコランくんを助けてあげて!」
亜矢はオランに言う。
「『コランくん』ねえ……ククク」
オランは含み笑いをしながら、片手を亜矢の目の前に差し出した。
ポンッ☆
すると、オランの手には小さな草が出現し、亜矢の目の前で小さく葉を揺らした。
「え?」
亜矢がキョトンとして目の前に出された草を見るが、オランがそれをグイっと押し付けてきたので、亜矢はそれを受け取った。
「魔界の薬草だ。そいつを小さく刻んで、スープにでも混ぜて飲ませてやりな」
「…やっぱりコランくんは病気なの?」
「いや、人間界の環境に身体が馴染んでねえからよ、ガキには耐えられなかっただけの事だ。ったく、ガキのくせに面倒な…」
そのオランの言葉を聞いたコランが、反応した。
「ガキ……じゃない……」
熱で頬を赤く染まらせながら、不満そうな顔をする。
亜矢は少しホっとしつつも、その薬草を持ってキッチンへと急ぐ。
亜矢が、薬草を入れて作ったスープをコランに飲ませてあげてから、わずか数十分後。
「コランくん、もうちょっと寝てた方がいいんじゃないの?」
「大丈夫、もう元気だぜ!ありがとう、アヤ!」
まるで何事も無かったかのようにすっかり元気になったコランは、さっきまでの反動と言わんばかりに力いっぱい亜矢に抱きつく。
ようやく事態が落ち着いてきたと思い、亜矢の肩から力が抜ける。
だが、今になって死神の姿が見えない事に気付いた。
いつの間に部屋を出て行ったのだろうか?
「……で、コランくんの兄って事は、あなたは本当の意味で魔王?」
床に堂々と足を組んで座るオランには、それだけで魔王としての威厳が感じられる。
亜矢はそんなオランの正面の床に腰を下ろし、あくまで対等の位置で向かい合う。
「ああ、オレは魔界の王、オラン。で、このガキが弟ってワケだ」
「ガキじゃないーー!!」
いちいち反応するコラン。そういう所がまだ子供なのだが、それもまた愛嬌だ。
「あたしと契約しようとしたのは、やっぱりコランくんを連れ帰す為なの?」
コランが口を閉ざした。ぎゅっと、亜矢を抱く手に力が入る。
「ああ?まあ、最初はな。このガキが生意気にも人間と契約したって言うからよ、オレも興味を持ったワケだが…」
オランは、ズイっと顔を亜矢に近寄せ、間近で亜矢をその眼で捕らえる。
亜矢は思わず身を引きそうになったが、オランの顔を見て気付いた。
この人の顔が、誰かに似ていると思った事。
赤の瞳。褐色の肌。そうか、コランに似ていたのだと。
やっぱり兄弟なんだなと、それだけで納得してしまう。
「それが、なかなかいい女だったんでな。オレが手に入れたくなった」
「なっ!なっ!?」
こんな間近で見つめられ、ストレートに言われては亜矢もさすがに戸惑う。
「だ、だって!あたしと契約したら、今度はあなたが魔界に帰れなくなるんじゃ!?」
「オレは魔王だぜ?魔界の掟なんざ関係ねえ」
「そ、それに魔王がのんびり人間界に来てていいわけ!?王サマでしょ?」
「魔界の事なら、ディアに任せてあるぜ」
何ていい加減な魔王なのか!?と思いつつも、完全に亜矢はオランのペースに飲まれていた。
すると今度は、その視線で捕らえながら、オランは亜矢の頬に手を触れた。
先程の、口付け前の時みたいに、柔らかく。
亜矢がハっとして目だけをオランに合わせる。
「オレ様の妃にしてやるぜ、亜矢。魔界に連れ帰るのはあんたの方だ」
そう言うオランの透き通った赤の瞳。
死神から与えられたこの心臓から伝わる、彼の心と意志。
オランは真剣なのだ。唐突ではあるが本気で今、亜矢を口説いている。
だが、そんな雰囲気の間に割って入ったのはコラン。
「ダメーー!!兄ちゃん、ダメーー!!」
コランは必死になってオランと亜矢の間に入りこみ、オランの体を亜矢から離そうと力いっぱい押し返す。
「コランくん?」
今までにないコランの行動に驚きつつも、その仕草がどこか可愛らしく感じ、亜矢は小さく微笑む。
コランにとっては笑い事ではないのだが。
コランは初めて、焼きもちを妬いたのだ。自覚はないが。
「ガキが、生意気に入ってくるんじゃねえよ」
「ガキじゃないってば!アヤはオレの契約者だ!だからオレが側にいる!」
何かを言い合う兄弟。だが、亜矢が聞きたいのはそんな口論ではなくて。
「その事なんだけど、魔王」
オランとコランの動きが止まり、亜矢を見る。
「どうしてもコランくんを連れて帰らなきゃいけないの?」
ふっと、オランが真面目な顔になる。
「コイツには、人間との契約はまだ早えんだよ」
それを聞いて、亜矢は何も言えなくなった。
まだ幼いコランが、人間界に来てしまったせいで。
コランが亜矢の願いを叶えようとして失敗し、倒れてしまったあの日の事。
人間界の環境に耐えきれず、体調を悪くした今回の事。
まだ幼いという事もある。やっぱり、まだ家族の元に……魔界にいるべきなのだと。それがコランの為であると思える。
だが。
その時、コランの力強い口調がその沈黙を破った。
「兄ちゃん……オレの『黒い本』は、消滅しちゃったんだ」
「ああ、知ってるぜ」
黒い本。それは、魔界と人間界を繋ぐ扉で、その本がないとコランは両方の世界を行き来できない。
だが、その本は何故か消滅してしまった。
その本がリョウの手によって消滅させられた、という真実は今は誰も知らないのだが。
「オレ、自分で本を復活させる。そして、いつか自分の力で魔界に帰る。………だから、今はアヤの側で…頑張るんだ!」
小さいながらも力一杯、コランは兄を見据え、気持ちを伝える。
そうか、と亜矢は思った。
人間界に留まる事は、コランにとって修行の意味でもある。
一人前の悪魔になるために、一人で目的を果たす事が出来るように。
年齢がどうこうじゃない。コランは必死に、大人になろうとしている。
多少、背伸びをしてはいるが。
「よく言ったな、弟」
意外にも、オランの反応はそれを否定するものでは無かった。
「いいぜ。だったら、自分のチカラで帰ってみせな。だが、ソレとコレとでは話が別だぜ」
オランは再び、亜矢に近寄った。
「ちょ、ちょっと!?」
「オレ様の妃になりなぁ、亜矢」
「な、ちょっと何すっ……やめてー!!」
亜矢が右手を振り上げ、オランの頬を叩こうとしたが、あっさりとその手首をオランに掴まれ、逆に動きを封じられる。
ニヤリ、と余裕に満ちた笑いに背筋が凍る。
「魔王サマを叩こうとした女は初めてだぜ。……気に入ったぜ」
「きゃーー!!やだっ、放してっ!助けて、コランくんーー!!」
「兄ちゃんのバカーーー!!」
バタバタといきなり騒がしくなった亜矢の部屋。
だが突然、オランが立ち上がった。
「……さて、オレはそろそろ帰るぜ」
え?と、亜矢は拍子抜けたようにオランを見上げる。
「帰るって、魔界に?」
「ああ。魔界の王ともなると、ヒマじゃねえんだよ」
さっきと言ってる事違うじゃないっ!と、亜矢は心でツッコミを入れるが、それを口にしてオランを煽るような事はしたくない。
「あばよ、また来るぜ。その時は……覚悟しときなぁ?」
意味深な言葉を残して、オランは部屋のドアから出て行こうとする。
「人間らしく、玄関のドアから帰るとするぜ。ヒャハハハ!!」
一人で笑いながらドアの向こうへと去っていくオラン。
魔界の王ともなると、自由に人間界と魔界を行き来できるのだろう。
なんだか、嵐みたいな人だった。
亜矢はどっと疲れるが、ある事を思い出した。
「………コランくん、すぐ戻ってくるから、ちょっと部屋で待っててね」
「うん!オレ、アヤの言う事聞くぜ!」
素直なコランの反応が嬉しく、でもどこか罪悪感をも感じる。
亜矢は玄関を出た。
すると目の前には、腕を組み、壁に寄り掛かっている死神の姿があった。
じっとただ、こちらを見ている。
「ずっとここで待ってたの?」
亜矢が静かに歩を進めながら、グリアの正面へと近付く。
「いや?そろそろ来る頃だろうと思ってよ」
さすが死神である。何でこうも、亜矢の心を読んでしまうのか。
亜矢がグリアの正面に立つと、ようやくグリアは腕を解いて亜矢を見下ろす。
亜矢はどこか視線を泳がせ、何か照れているのか、目を合わせずに言う。
「………その、今日は………一緒に来てくれて……」
亜矢が助けを求めて学校に行き、オランに迫られていた時に救ってくれた事。
何も言わずに、学校をサボって一緒に家まで来てくれた事。
今日は色々ありすぎて正面から言えなかったが。
「死神……」
亜矢は少しだけ顔を上げる。
グリアは一切の表情もなく、一方的に紡がれる亜矢の言葉を受けている。
「ありが………」
そこまで亜矢が言いかけた時。
フっと、亜矢の全身から力が抜けていった。
亜矢の視界に映る全てが、色を無くしていく。
倒れかけた亜矢を、反射的にグリアは両腕で支える。
「亜矢っ!?」
すでに、亜矢に意識はない。生命力が消えかかっているのが分かる。
(しまった、オレとした事がっ………!!)
すでに、前に『口移し』をした時から24時間が経とうとしていたのだ。
今までなら、命が切れかかると何らかの前兆が亜矢に起こっていた。
だが、今回は色々な事がありすぎて、亜矢の体がその前兆すらも認識する余裕が無かったのだろう。
だから今、こんな極限の状態になるまで気付かなかった。
「チッ………!」
グリアは場所も構わず、亜矢の体を支えながらその唇に自らを口付ける。
果たして、間に合うだろうか?
命が完全に切れてしまってから口移しをしても、意味がない。手遅れなのだ。
亜矢の唇からは何の反応も感じられないが、グリアは命の力を注ぎ続けた。
亜矢を抱き支える腕に、自然と力がこもる。
やがて、亜矢の瞼がゆっくりと開かれた。
うっすらと開かれた瞼から覗く瞳に、グリアの瞳の色が映る。
それに反応して、グリアは唇を離す。
しばらく、鼻が触れそうなその距離でお互いの顔を見合わせていたが。
亜矢の身体を引き離したのは、グリアの方からだった。
「死…神………?」
亜矢はただ呆然と、目の前の死神を見返すしかなかった。
グリアの眼は怖いくらい冷たく、まるで相手を射抜くようなもの。
「都合のいい時だけ、オレ様を頼るんじゃねえ」
グリアの口から出たのは、思ってもいなかった言葉で。
亜矢は思わず息を止める。
今までにない彼の言葉。その腕からも、瞳からも冷たく引き離され。
「あ、あたし……」
何も返せない。
「てめえが死にそうになって、何が人助けだよ?」
グリアの言葉の意味が分からなくもない。でも、心では理解できない。
亜矢はいつも、自分の事よりも他人の事を優先する。
例え、自分の命が尽きる危険にあろうとも。
それでいて、いつも『口移し』に抵抗するのである。
この前の美保の時だって、今回の事だって。
亜矢は結局、自分の命を落としかけた。
誰かを救おうとしたばかりに、自分の事が見えなくなった。
言い換えれば、グリアの言葉は『自分の命を大切にしろ』という意味なのだろう。
それは、魂を狩る『死神』らしくない台詞ではあるが。
だが、亜矢の命だからこそ。
亜矢だからこそ、グリアにとってはその言葉に意味がある。
グリアは亜矢の返事を待つ事なく、背中を向けて歩きだした。
亜矢の部屋の右隣にある、『死神』の表札が掲げられた部屋に向かって。
亜矢はその背中を目で追う。
すぐ隣の部屋なのに、何故かその背中が遠いものに思えた。
言わなきゃ…!
今、言わなきゃいけない事があるのに…!
自然と、亜矢は駆け出していた。その背中に向かって。
「待って……!!」
グリアが顔だけで振り向く。
その視線の先に、すぐ前に、何かを必死に伝えようと自分を見上げる少女の姿。
言葉が、出ない。
たった一言なのに。
亜矢の戸惑いをかき消すように、開こうとするその唇を塞ぐかのように。
二つの視線が同じ軌道線上で重なった瞬間、亜矢の唇に重ねられたもの。
ほんの数秒の事ではあったが。
時が止まり、二人の影が壁に一枚の絵を描く。
『口移し』ではない『口付け』。
それは、二人にとって初めての事。
それを、その触れあいを——人は何と呼ぶのだったか?
亜矢の部屋の窓際には、1つの小さな鉢が置いてある。
その鉢には、オランがくれた魔界の薬草が植えられていて、窓から吹き込んでくる風に小さく葉を揺らしている。
時々、その草を料理に混ぜてコランに食べさせてやれば、今回のような事は起こらないとオランから教えてもらった。
コランの事はとりあえず、これで心配はなくなったと思えた。
「……………」
亜矢はベッドの上で上半身を起こし、自分の唇を指先で軽く触れた。
その隣では、すでにコランが安らかな寝息を立てて眠っている。
グリアが現れてから、全てが狂い始めた。
自分の日常も、自分自身も———何もかも。
今まで何度も死神に『口移し』をされてきたが、触れあうのも、感じる暖かさも、その場、その一瞬のみの出来事。
後になって思い出すとか、感触が残るとか、そういう事は無かったはずなのに。
(どうしたんだろう、あたし…)
今日は疲れすぎたせいかもしれない、と自分を納得させて亜矢はベッドに潜り込んだ。
死神が口移しによって少女に与え続けるのは、『命の力』だけなのだろうか?
この先、少女が死神に奪われるのは、『魂』だけなのだろうか?
その全ての答えが出る日は、そう遠くない。