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第7話『大魔王襲来(前)』

終礼後、亜矢の親友・美保が、何やら楽しそうに話しかけてきた。


「ねえねえ亜矢〜!気にならない?」

「気になるって、何が?」


亜矢はカバンを背負うと、キョトンとして美保を見る。


「教育実習の先生よ!これがすっごいイケメンって噂よ!美保も見てみた〜い!」


1人、胸を躍らせる美保に対し、亜矢は半ばあきれ顔で返す。


「イケメンって、あんた…。美保はリョウくん一筋なんじゃないの?」

「もちろんリョウくんが1番よ!でもやっぱりカッコイイ人は気になるじゃない〜!」


今いち美保のテンションに乗れない亜矢はハイハイ、と軽く会話を流した。

教育実習で来ている先生は、とにかくカッコイイという、ここ数日の女子の間での噂だった。

だが、その先生は亜矢のクラスを受け持っていないので、亜矢は見た事がなかった。

それほど感心もなかった。今は、自分の事で精一杯。

見かけだけが良くても、正体が人間でない恐ろしいモノ、という前例がある。

そのいい例が今、目の前にいる死神—。

グリアは無言で亜矢の目の前に立ち、何を思うのか亜矢をただ見下ろしている。


「……何か用?あたし、もう帰るんだけど」


いつものように、強気な視線を向け、亜矢は堂々と言い放つ。

何故かこの2人は、向き合えばいつも反発ばかりしている。

そんな2人が唯一触れ合う『口移し』の時以外は——。


「嫌な感じがするぜ。ここ数日ずっと、だ」

「……え?」


グリアがあまりにも真剣な眼差しで言うので、亜矢は素で聞き返す。


「そんな気分なんでな、今日は先に行くぜ」


そう言うと、グリアは背中を向けて教室を出て行った。

亜矢はポカン、と彼の背中を見送っていたが、ハっと我に返る。


「べ、別に一緒に帰るなんて決まってないじゃないっ!」


亜矢は軽く腹を立てるが、まだ大半の生徒達が残っている教室内を見回して、ある事に気付いた。


「あれっ…リョウくんもいないわ」


その亜矢の呟きを聞いた美保が過剰な反応を示した。


「うそっ、リョウくん、もう帰っちゃったの!?一緒に帰ろうと思ったのに〜!!じゃあね、亜矢!お先にっ!!」


美保は慌てて駆け出し、教室を出て行った。

相変わらず積極的な美保に亜矢は感心するが、何か心が晴れない。

何かがひっかかるのだ。胸騒ぎにも似た、この心のモヤモヤは一体?

前にも、グリアは突然『嫌な感じがする』という発言をした事がある。

その時の言葉が示したものは、天使・リョウの出現であった。

では、今回は……?





亜矢が自分の住むマンションのすぐ近くまで辿り着くと、前方からパタパタと走って来る小さな誰かに気が付いた。


「アヤ、お帰り〜〜〜!!」


亜矢の帰りを待ちわびたコランは、外まで亜矢を出迎えに来たのだ。

満面の笑顔で、コランは亜矢の所に駆け寄るなり、おもいっきり抱きついた。

コランの小さな身長からして、ちょうど亜矢の腰下あたりに抱きつく形になる。


「コランくん、ただいま。迎えに来てくれたの?」

「うん!だって、早くアヤに会いたかったんだ!」


息切れしながらも嬉しそうにして亜矢を見上げるコラン。

亜矢が学校に行ってる間、コランは部屋で1人きりなのだ。

ゲームをしたり、テレビを見たり、1人で時間を過ごす方法はいくらでもあるが。

それでもコランにとって、亜矢と一緒にいる時間が何よりも心地よいのだ。


「なあなあ!早く帰って一緒に遊ぼうぜ!アレ教えてくれ、トランプっていうカードのゲーム!!」


はしゃぐコランの前で、亜矢は微笑み返しつつ答える。


「うん。でも、夕飯の支度と後片付け、それと宿題が終わってからね?」

「え〜〜〜〜!!」


コランは不満そうに頬を膨らませた。

だが、そこまで聞き分けの悪い子ではない。

亜矢がさり気なく片手を差し出すと、すぐに嬉しそうな顔をしてその手を握る。

そうして手を繋ぎながら歩き出すと、マンションの入り口の前に、1人の男性が立っているのが見えた。

その人は何を思うのか、マンションをじっと見上げている。

亜矢が不思議に思ったのはその人の行動ではなく、容姿の方だった。

グリアやコランとは少し雰囲気の違うブルーグリーンの髪、白い肌。整った顔立ち。

年齢は推測出来ないが、大人っぽさからして亜矢よりいくつか上だろうか。

一見、女性と見間違えそうな雰囲気の彼の横顔は、不思議なくらい綺麗だった。


「誰かしら、あの人?」


2人がマンションに近付くにつれ、彼が気配を感じてこちらに視線を向けた。

彼が視線を向けたのは、亜矢ではなくコランの方だった。


「王子サマッ!!」


そう叫ぶなり、彼は亜矢とコランの方へと駆け寄る。

そして、コランも彼の姿に気付くなり、驚きに声を上げる。


「ディアッ!!」


え?と、亜矢はコランを見下ろす。


「コランくん、あの人と知り合いなの?」


それにしても、その名前からして彼は外国人なのだろうか?

それに今、コランの事を『王子サマ』って呼んでいたような?

疑問ばかり浮かべる亜矢だったが、彼はコランの方に目的があるようだった。


「捜しました、王子サマ。長い事魔界へとお帰りになられないものですから」


コランは、表情にちょっと暗い影を見せた。この子にしては珍しい。


「……兄ちゃんの命令で来たのか?」

「魔王サマだけじゃありません。私も心配していたのですよ」


クールそうな外見とは逆に、ディアという人は優しい口調で言う。


「えっと、コランくん、この人とは……どういう関係なの?」


王子だとか、魔王だとか。亜矢が訳も分からずにいると、コランはひょいっと亜矢の正面に向かい合う形で立った。


「人じゃないぜ、魔獣ディアだ!」


誇らし気にディアの前に立ち、亜矢に紹介する。


「魔獣!?…って、どう見ても彼は人間だけど?」

「ディアの本当の姿は、すっげーーーでっかい魔獣なんだぜ!」


コランは両腕をいっぱいに広げ、その大きさを表現しようとする。

つまり、今のこの姿は『仮の姿』であって、本来は魔獣である、と—。

悲しくもこういう事に順応している亜矢は、頭でそう整理しつつ。


「あと、コランくんが『王子サマ』ってどういう事?」


するとコランは、堂々と自慢げな笑顔を向ける。


「オレの兄ちゃん、魔王なんだ!」

「えっ!?」


さすがの亜矢も、これには言葉を失い、呆気に取られている。

コランには魔王の兄がいて、それでコランは魔界の王子サマで…。

さすがにここまで来ると、想像の範囲を超えている。

コランはクルっとディアの方を向くと、今度は亜矢の事を彼に紹介する。


「この姉ちゃんがアヤだ!オレの初めての契約者!」


ディアは、亜矢の方に静かに視線を向ける。


「そうですか…あなたが、王子サマの契約者」


ディアは亜矢に近付くと、その高い身長を少し屈めた。


「私は魔界の王と王子に仕える魔獣・ディアと申します」

「は、春野亜矢です…」


戸惑いながらも亜矢は、その礼儀正しい魔獣に向かって自らも名乗る。


「でも、ディアはオレの家族みたいなモンなんだ!」


コランが付け加える。


「亜矢サマ、もう少しだけ王子サマの事をよろしくお願いします」


そう言ってディアは深く頭を下げる。


「えっ!?あっ、はい…!!」


つられて、何故か亜矢も慌てて頭を下げる。


「…では、今日はこれで失礼します」


ディアは2人に背中を向けて、ゆっくりと歩き出す。

亜矢は呆然としていたが、コランがふいに亜矢の片手を握った。

亜矢がその感触にハっとして、コランの方を見る。

コランは少し顔を俯かせ、唇を噛み締めている。

その小さな体から、何かとても大きな悲しみのような、何かの感情が溢れているようだ。

亜矢は言葉をかける事も出来ないまま、ただその小さな手を握り返してやった。





夕飯の支度を終え、亜矢とコランは2人でテーブルにつく。

今日は珍しく、毎日のように夕飯をたかりに来る死神は来ていない。

コランは何だかいつもの元気がなく、フォークでミートボールを軽くつついていた。


「やっぱり、オレを連れ帰りに来たのかなあ……」


そう、小さく発せられたコランの言葉。

亜矢は食事の手を止め、コランを静かに見つめる。


「コランくんは魔界に帰りたくないの?」


亜矢は、今自分の言ったその言葉に少し寂しさを感じた。

コランが魔界に帰る為には、魔界と人間界を繋げる『黒い本』が必要。

だが、その黒い本は何故か消滅してしまった。

その本を復活させるには、人間の『生命力』が大量に必要である。

亜矢はコランの為に少なくとも1年は生きようと決心したのだ。

1年間、コランに自分の生命力を与え続ける為に。

逆を言えば、コランとは1年間は一緒に暮らす事になると思っていた。

なのに、こんなに早くお別れする事になるなんて……?

思ってもいなかった。

何故だろうか、素直に喜べない。


ガタッ!


急にコランが席を立った。

驚いて亜矢が顔を上げると、コランは亜矢の席の横に立つ。

亜矢がコランの方に顔を向けると、コランは赤の瞳で力強く亜矢を捕らえるかのようにじっと見上げる。しかし、今にも泣きそうな瞳で。


「アヤは、オレに帰って欲しいのか!?」

「……っ!?」


亜矢は答えられない。本心を言えば、全てが矛盾するから。


「アヤッ………!!」


コランは亜矢の膝元に抱きついた。

いつもの無邪気な感じではなく、どこか必死で、悲し気な……。


「オレ、アヤに嫌われないようにするから!何でも言う事聞くからっ…まだ……オレ、アヤの側がいいっ!!だから、だから……っ!」


コランが亜矢の膝元で顔を伏せる。泣いているのだろうか。分からない。


「コランくん……」


亜矢は溢れ出す感情を抑えながら、コランの小さな背中を抱いてやった。


「あたしだって、コランくんの事が好きよ」

「………ホントか?」


コランは瞳を潤ませ、亜矢を見上げる。

亜矢は微笑み、見返す。それ以上の事は言えなくて。


「えへへ…でも、アヤがオレの契約者である限り、オレは魔界に帰れないんだけどな」


コランが言うに、人間と契約している間、悪魔は魔界に帰る事は許されないという。

それが魔界の掟なのだ。

だが、亜矢がもし他の悪魔と契約を結べば、亜矢はコランの契約者ではなくなる。

その時点で、コランは強制的に魔界に連れ戻されるだろう。


「だからアヤ、オレ以外の悪魔と契約しちゃダメだぜ!」

「心配しなくても、コランくん以外の悪魔になんてそう簡単に会えないでしょ?」


そう言って笑うが、亜矢は『悪魔との契約』=『口付け』だった事を思い出し、妙に恥ずかしいような気持ちになって少し視線をそらした。

暗い雰囲気もいつの間にか2人の笑顔でいつもの穏やかな空気に戻り。

夕食の後片付けを終え、宿題を終わらせた亜矢はようやく自室に戻り、1人大人しく亜矢の事を待っているコランの側へと座る。


「お待たせ。じゃあ、何して遊ぼうか?あ、トランプだったわね」


亜矢がトランプのカードを何枚か持ってコランに見せるが、何だかコランの元気がないようだ。

視線はどこか泳いでいる感じで、亜矢の言葉に対して反応もない。


「コランくん、どうしたの?……まだ悩んでるの?」


亜矢が心配してコランの顔を覗き込む。

コランは笑顔を作るが、どこか無理をしている。いつもの明るさがない。


「ううん、そうじゃない……。なんか、疲れたから…オレ、もう寝る。おやすみ、アヤ…」


そう言ってコランは静かに立ち上がると、亜矢のベッドに潜りこんだ。

そのまま、背中を向けてコランは眠ってしまった。

亜矢はキョトン、としたままコランの後ろ頭を見つめている。

どうしたのだろうか。あんなに一緒に遊びたがっていたのに。

色々考えて、疲れてしまったのだろうか。


(明日はいっぱい遊ぼうね……)


亜矢はせめて、コランが明日は元気になれるようにと、コランを優しく抱くようにして一緒のベッドで眠った。

コランは、眠りながら毎晩、亜矢の生命力を吸収している。

亜矢が近くに寄ればより一層、コランは元気になれるのだ。

だが、コランの元気の源は亜矢の『生命力』だけではないのだが。

静かに眠るコランは、無意識に亜矢の腕にそっと頬を寄せた。

コランにとって、亜矢の側が何よりも心地よい居場所なのだ。

そして、その小さな体は亜矢の存在そのものを常に求めているのだ。





朝になった。

亜矢はふと、隣で眠るコランに視線を向ける。

まだ、熟睡しているようだ。

亜矢はコランを起こさないように静かに起き上がる。

朝食の準備を終えたが、一向にコランは起きて来る様子はない。

いつもならこの時間、コランはすでにでテーブルについているはず。

亜矢は自分の部屋に行くと、ベッドで未だ眠り続けるコランに声をかける。


「コランくん、ご飯出来たけど……まだ寝る?」


すると、意外にもすでに目を覚ましていたらしいコランは小さく答えた。


「う………ん」


亜矢に背中を向けているので、コランの表情は分からない。

どこかいつものコランらしくない反応に、亜矢はベッドの側に寄るとしゃがみこんだ。

ふと何かに気付いた亜矢は、少し膝を立てて寝ているコランの顔を覗き込む。

寝息にしてはどこか、荒々しい息遣い。苦しそうに眉を歪めている。


「コラン……くんっ!?」


亜矢は小さく叫ぶと、コランの額に手を当てる。


「熱……い…!」


額に当てた手から、異常な程の熱が伝わる。

あきらかに発熱している。


(そんな……まさか、病気!?)


亜矢の心臓が、不安と戸惑いによって激しく鼓動する。

悪魔の平熱なんて知らないし、まして人間と同じように病気にかかるかなんて、そんな事はもちろん知らない。

だが、コランの紅潮した頬。苦しそうな呼吸。

何か、コランの身体に悪い異変が起きた事には変わりはない。


(どうしよう。そうだ…薬、解熱剤……!)


そう思って亜矢は立ち上がろうとしたが、コランがとっさに亜矢の片手に触れた。

触れられたコランの手から伝わる熱に、亜矢は引き止められた。


「どこ行くの?…側にいて、アヤ……」


薄く瞼を開け、赤色の瞳を潤ませながら、コランは弱々しく亜矢を見上げる。

亜矢はグっと唇を噛み締め、泣きたくなるような感情を抑えながら見下ろす。

コランは普段、亜矢に『側にいて』とは言わない。

『側にいたい』とは言っても、『側にいて』とは口にしない。

コランは、亜矢を縛る事は決してしないのだ。

朝、亜矢が学校に行く為に家を出る時だって、いつも笑顔で送りだしてくれる。

本当は、寂しいだろうに。

だからこそ、熱に浮かされた今、コランの口から本音がこぼれたのだろう。


「コランくん、ちょっと待っててね…!!」


亜矢はコランの手を優しく握り返すと部屋を出て、玄関に向かって走り出す。

乱暴に靴を履いて外へ出ると、すぐ右隣にあるドアの前に立つ。

そのドアの横には、『死神』という目立つ表札。


「死神っ……死神!!」


亜矢は我を忘れ、そのドアを懸命に叩く。

どうすれば、コランを助けてあげられるのか。

それを、グリアに聞くつもりだった。

少なくとも、グリアなら悪魔の事について知っていそうだと思ったのだ。

だが、何の反応もない。すでに部屋にグリアはいないのだろう。

亜矢は諦めると、今度は自分の部屋の左隣のドアに向かって走り出す。

左隣の部屋には、リョウが住んでいる。

だが亜矢はリョウの部屋のドアの前に立った時、ふと足を止めた。

冷静になって考えてみる。

すでにいつもの、学校に行く時間を過ぎてしまっている。

グリアもリョウも、学校に行く為に家を出ているのは当然な時間だ。


「学校…!!」


亜矢は独り言のように小さく言うと、急いで自分の部屋に戻る。

カバンと制服の上着を手に持つと、再び玄関を出る。

今日は登校する気なんてない。

だが、グリアとリョウを追う為に、亜矢は学校へと向かった。



コランを助けてあげられる手段、それを知っているのはグリアとリョウしかいない。

下手にコランに人間と同じ薬を飲ませて、悪い反応でも起こしてしまったら…。

そう考えると、むやみに看病が出来ないのである。

息を切らせ、走り続けて。

ようやく、亜矢は学校へと辿り着いた。

だが突然、校門の前で何者かが立ち塞がり、走る亜矢の行く手を阻んだ。


「………よお。遅刻だぜ、あんた」


ニヤリと笑いながら、その男は息を切らせている亜矢を高い身長で見下ろしている。

紫の髪に、褐色の肌。

ネクタイを緩めに締めたその姿。年齢的に大人なのに、どこか不良っぽい。

その男に、亜矢は見覚えはない。

亜矢がただ、その男を不思議そうに見上げていると、彼はククっと笑った。


「挨拶はどうしたよ?挨拶は基本だって、センセイに習わなかったかぁ?」


どこか、見下したような、遊んでいるような。

亜矢は先日の美保の言葉を思い出し、ようやく両足を揃えて立つ。


「……もしかして、教育実習の先生?」

「ああ、魔王サマだ。覚えておきな」


変わった名前だなぁ、それに『サマ』って?と亜矢は色々と疑問に思うが、それ所ではない事も思い出す。

亜矢は軽く頭を下げると魔王の横を通り抜け、校舎に向かって走り出す。

だが。


「待ちな、亜矢」


背後から響いて来た、魔王の声。


(えっ?なんで、あたしの名前を……?)


驚いた亜矢が振り返ったその一瞬。

目の前の景色の変化に、亜矢は驚愕して足を止めた。

学校の校庭、校門、外の町並み。

それらの自分の回りにあったはずの景色が、一瞬にして消えた。

そして、気が付けば真白、『無』の空間に立っていたのである。

その空間に立つのは亜矢と魔王、2人きり。

目的地を見失った亜矢は、目の前の魔王をただ見つめる。


「な、なにこれ…どうなってるの!?」


亜矢は辺りを見回し、動揺しながら言う。

だが、亜矢はすぐに我を取り戻した。

そして、魔王を鋭く睨む。


「まさか、あなたが!?あなた、一体……!?」


すると、魔王は満足そうに笑った。


「へえ、察しがいいな?気に入ったぜ」


察しがいいも何も、今までにもこういう体験をした事がある亜矢にとって、だいたいの予測がつくようになってきた。

それに魔王という男は、どこかグリアに似ていたから。


「あなたの目的は何?今は時間がないの。急いでいるのよ」


こんな場所に立たされながらも、亜矢は気丈に振る舞う。

はやく、コランを助けてあげたい。今はその一心で。


「オレ様の名はオラン。魔界一の悪魔だぜ」

「悪魔!?」


亜矢は思わず身構える。

だが同じ悪魔でも、このオランとコランでは全く別の存在に思える。

悪魔本来の凶悪、邪悪さというのが全身から感じ取れる。

ここにいてはマズイ、と身体が無意識に危険信号を発しているようだ。

これも、死神から与えられた心臓のチカラなのだろうか。


「オレの目的はなぁ?」


そう言いながら、オランは亜矢にじりじりと近寄る。

亜矢はオランを強く見据えながらも、押されるようにして後ろに下がる。

だが、何も存在しない空間なのに、背中に何か見えない壁のようなものが当たり、亜矢はそれ以上身を引く事が出来なくなってしまった。

まるで、亜矢の反応を楽しむように。そして、じらすように。

オランは亜矢のすぐ目の前に迫ると、顔を近付ける。

亜矢はその時、目の前に映るオランの顔が、誰かに似ていると思った。

赤の瞳。どこか、吸い込まれそうな——綺麗な色だと思った。


「や……めてっ!!」


オランが必要以上に顔を接近させてきたので、亜矢は顔を背けて拒絶してみせる。

全身が思ったように動かない。何かの力が働いているのだろうか?


「オレと契約しな、亜矢」

「!!」


亜矢の頭の中が一瞬、真白になった。まるでこの空間と同化するように。

悪魔との契約、それは『口付け』によって成立する。

何が目的で、この悪魔は亜矢に契約を求めるのだろうか?


「もちろん、契約すればあんたの願いは叶えてやるぜ。悪くねえだろ?」


誘うかのようにオランは言うが、そんな言葉では亜矢の心は動かせない。

亜矢は思い出した。


『オレ以外の悪魔と契約しちゃダメだぜ!』


と言った、コランの言葉を。そして、その意味を。

亜矢が他の悪魔と契約すれば、コランとの契約は自然と解除されてしまう。

そうなったら、コランは魔界に連れ戻されてしまう。


「………いや!あなたとは契約出来ないわっ!!」


亜矢は首を振るが、オランの大きな手が亜矢の顎を掴み、固定された。

どうやら、亜矢の意志は関係ないらしい。有無を言わせず、契約を結ぶ気なのだ。

亜矢は泣き出しそうな瞳に力をこめて、オランを睨む。

本当に、死神といい、この悪魔といい……人の唇を何だと思ってるの!?

亜矢の脳裏に浮かんだのは、何故かそんな事に対しての不満と怒り。

口移しの手段だとか、契約の証だとか。

キスっていうのは、もっとこう………大切なもので。

大切な人にだけしてもらいたくて。そういうものでしょう!?


(嫌…………!!)


亜矢はギュっと目を閉じる。目の前に迫るものから逃げようとして。


(助けて!)


誰に助けを叫んでいるのか、自分自身でも分からないが。

その後に、亜矢の心に浮かんで来た人の顔と、名前。

亜矢は薄く目を開ける。

自分に近付くオランの顔が、あの人の顔と重なって見える。

いつも『口移し』と称して、唇を重ねてくるアイツの顔に。


(死神………!!)


亜矢がそう、心の中で強く叫んだのと同時に。


パァアアン!!


何かが砕けるような、大きな音が響いた。

亜矢がその衝撃に驚いて目を完全に開ける。

その一瞬、亜矢の視界に——鎌を持った死神グリアの姿が映った。


「…死神……」


亜矢の口から、小さく漏れたその名前。

砕けたのは、この空間そのものだった。

気が付けば、元の校舎。元の町並み。元の景色に戻っていた。

死神の鎌が、オランの作り出した空間を切り裂いて2人を元の世界へと戻したのである。


「ちっ……」


オランが小さく舌打ちをした。

亜矢とオランの前に立つグリア。その手にはすでに鎌はない。


「教師が生徒に手ぇ出してんじゃねえよ」


そうグリアが睨み付けたのと同時に、亜矢はグリアの方へと駆け寄った。

すでに、亜矢にはオランの事が見えてないようだった。


「死神、大変なのっ…!コランくんがっ!!」


亜矢は死神にすがるようにして訴える。

いつも強気で反発的な亜矢からは考えられないその姿。

グリアもさすがに少し驚いたようだが、あくまで冷静だ。


「そういうワケでな。今日はサボるぜ、センセイ」


オランに向かって言うと、亜矢と共に校門の外へと出て行った。


「……けっ、死神ごときが……」


オランは2人を追う事も見送る事もなく、吐き捨てるように言う。

だが、何かの気配を感じ、オランが校舎の方に視線を向けると。

目の前に、1人の少年が立っていた。

水色の髪を風になびかせ、いつからそこに立っていたのか。

その少年からは一切の感情というものが感じられない。


「なんだ、てめえは」


オランが不機嫌そうに言う。


「……ボクの名はリョウ」


リョウの口から出される言葉も、淡々として感情というものがない。


「名前を聞いてんじゃねえよ」


だが、オランはリョウを見て何かに気付き、笑いを含んだ口調になる。


「天使ってのは、羽根が白いモンだと思っていたがよ、片方が黒いヤツなんて初めて見たぜ。面白えなぁ?」


「!!」


感情を表さなかったリョウの瞳が僅かに揺れる。

オランは、リョウの正体が天使だという事を見抜いた。

それだけじゃない。リョウの羽根が見えるのだ。

リョウは普段、自分の羽根を自らの意志で隠している。

亜矢にも、その羽根を見せた事はない。

リョウの羽根は、何かの原因によって右側の片方の羽根が黒く染まっているのだ。

だが、リョウもオランの正体に気付いていた。


「魔界の王が、なぜ人間界に?」


オランは、そのリョウの問いに答える訳でもなく、言葉を続ける。


「大変だよなぁ、天界に仕える天使も」

「……どういう意味?」

「知ってんだよ、お前が仕える天界の王を。1つの世界を統べる王としてな、ちょっとした顔見知りだ」


リョウの言葉が詰まる。

何も返せない所からすると、オランの言う事に偽りはないのだろう。


「お前ら天界のする事など、オレには関係ねえ。興味もねえよ」


オランは校舎に向かって歩き出した。


「オレがお前らの邪魔をするとでも思ったか?クク……」


リョウは顔を俯かせた。だんだんと小さく遠ざかっていくオランの笑い声を背中に受けながら。


(魔王オラン…彼までも…)


リョウは心の中で呟いた。

亜矢の『命』、それに引き寄せられるようにして。

ついに、魔王までもが現れた。

きっと、理由は違っても皆、目的は同じなのだろう。

亜矢を手に入れる為に。そして、亜矢の魂を手に入れる為に。


(そして、ボクも—………)


未だ、隠されたままの真実と悲しみを胸に秘め、リョウは空を見上げた。

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