死神グリアは、いつも以上にイライラしていた。
天使のリョウに続き、小悪魔のコランという邪魔者が現れたからだ。
いや、リョウもコランも別にグリアの邪魔をしようとしている訳ではないのだが、グリアにとっては目障りな存在にしか映らなかった。
時刻は夕飯時、マンションの一室。
亜矢の部屋で、一つのテーブルを囲んでいる三人。
今まで亜矢が一人暮らしをしていた頃と比べれば、この短期間でなんとも賑やかな食卓になったものである。
「なあなあ、何で死神の兄ちゃんは怒ってるんだ?」
コランは不器用な手付きで箸を扱いつつ、目の前のグリアを不思議そうに見ている。
「さあ、何でかしらね?毎日、夕飯をたかられるこっちの方が怒りたいくらいだわ」
コランの隣に座っている亜矢が、サラっと言う。
向かい側に座っているグリアは、黙々とひたすら食べ続けている。
その乱暴な仕草、少し伏せた顔から溢れる怒りの感情、食べる事以外は閉ざした口。
あきらかに不機嫌だ。
「コランくんは死神みたいな大人になっちゃダメよ?」
グリアが黙しているのをいい事に、亜矢は多少ふざけてイヤミを言ってみる。
もちろん、それがイヤミだなんて気付いていないコラン。
無邪気にニッコリ笑って亜矢の顔を見上げながら言う。
「うん!だってオレは立派な悪魔になるんだ!!」
どこか返答がズレてはいるが、意味としては合っているだけに誰も反論出来ない。
ひたすら食べ続けていたグリアの眉がピクっと動く。
さすがに堪えられなくなったのか、箸を置くと両手をテーブルについた。
「テメエら、さっきから好き勝手………」
そう言いかけた時、来客を知らせるインターホンの音が響く。
亜矢は席を立つと、何かを言いかけたグリアを無視して玄関へと向かう。
コランもヒョイっと軽く椅子から降りると、小走りで亜矢の後を追っていく。
テーブルに一人残された、死神。
発散しかけた怒りをぶちまける事も出来ず、何とも虚しさを感じつつも、再び箸を持つと黙々と食べ始める。
亜矢が玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは。
「美保!」
亜矢の親友の美保だった。
「こんばんは、亜矢。いきなりごめんね?」
「それはいいけど、どうしたの?」
亜矢はそう言ったとたん、ある事を思いだし、今の自分の言葉を心で否定した。
(よ、良くないわ!今、あたしの部屋には死神とコランくんが…!!)
そう思った時には遅かった。
亜矢の背後にいつの間にか隠れていたらしいコランが、ヒョコっと顔を出したのだ。
「なあなあ、誰が来たんだ?」
ギョっとしてコランを見下ろす亜矢だったが、コランは来客に興味津々なようだ。
「あら?この子だあれ?」
美保がキョトンとしてコランを見る。
亜矢は引きつった笑いをしつつ、取り乱しては余計に怪しまれると思い、無駄に冷静を装いながらいい感じの言い訳を探していた。
そんな亜矢の心など知らず、美保の問いにコランが答える。
「オレはコランだ!お前の名前は何だ?」
「コランくんって言うの?ふふ、可愛い〜い!私は美保。よろしくね!」
「よろしくな!」
なんだか意気投合している二人だったが、美保が特に不思議がらずに受け止めていたので、亜矢はそうだ!と思い付きで言った。
「そ、そう!コランくんは死神のイトコなのよ!!」
もはや、こう言うしかコランの事をごまかせなかった。
まさか、自分が召喚してしまった小悪魔だなんて本当の事は言えない。
「ふ〜ん、そうなの。だからグリアくんに似てるのね。でも、なんでグリアくんのイトコが亜矢の家に…?」
もっともな疑問を美保が口にしたその時、亜矢の背後から現れたその人物。
「なんだぁ?誰か来たのかよ」
亜矢は自分の背後から現れたグリアの声に振り向く事なく再びギョっとするが、次には諦めたのか、深く溜め息をついた。
もはや、言い訳不可能な展開に…。
「な、なんでグリアくんが亜矢の部屋にいるの!?」
予想通りに目を丸くして驚く美保に、亜矢は覚悟を決めた。
「美保、違うの!これには深い訳がっ…!」
とは言っても、もちろん全てを話す気などはないが。
「も、もしかして……」
美保はグリア、コランの順に視線を移す。
「もしかして、コランくんは亜矢とグリアくんの子供なのっ!?」
あまりにも飛び抜けた美保の発言に、ズコっとコケる亜矢。
キョトンとしているコラン。ただ目を見開いているグリア。
「そ、そんな訳ないじゃない〜〜!!」
よく考えてみれば、高校生なのにこんな大きな子供がいるはずないのだが。
時々、冗談なのか本気なのか分からない発言をする美保。
それでも、彼女の瞳はいつも純粋だから受け止める方としては困る。
「いいのよ、亜矢!美保は亜矢とグリアくんの事、応援してるからね!」
「だ、だから…!それも違うわよ!」
どうも、前の事から美保は亜矢とグリアの仲を勘違いしているようだ。
不本意だが、変に言い訳をするくらいならそう思われる方が都合がいいかもしれない。
と、亜矢は思ってここは強く否定せず諦めた。本当に不本意なのだが…。
「それで美保、どうしたの?こんな時間にウチに来るなんて」
「あ、うん……。ちょっと聞きたい事があって」
ちょっと悲しそうに目を伏せた美保。
これは何か深刻な相談かなと思った亜矢は、とりあえず美保の話を聞く事にした。
「あ、でもグリアくんもいるし、私は邪魔だったかしら?」
勘違いして、変に気を遣う美保。
「いいのよ、邪魔なのは死神の方なんだから!」
グリアに対してたっぷりと皮肉を込め、それに対し睨んでくるグリアを軽く無視して、亜矢は美保を自分の部屋へと上がらせる。
と、言う訳で亜矢の部屋には美保を加え、さらに賑やかになって4人。
亜矢と美保が向かい合ってテーブルに座る。コランはもちろん、亜矢の隣に着席。
そして、部屋の隅のソファに寝転がり、すっかりくつろいでいるグリア。
夕飯が済んだのならさっさと帰ればいいのに、と亜矢はグリアを横目で見つつも、美保に視線をもどし、真剣に聞く体勢になる。
「それで美保、聞きたい事って?」
「うん、リョウくんの事なんだけど…」
「リョウくん?」
意外な人物の名が出て、亜矢は思わず聞き返す。
「リョウくん、何か悩みとかあるのかなぁって思って」
これまた、意外な言葉だ。
一瞬、その言葉に反応してグリアの瞳が僅かに揺らいだ。
亜矢はリョウの事を思い浮かべてみるが、思い出すのは彼の笑顔ばかり。
いつも穏やかに笑っている天使の彼に、悩みなんてあるようには見えないが。
「リョウくんに悩みがあるとは思えないけど、どうして?」
「時々…、リョウくん、とても悲しそうな顔するのよ。ううん、悲しいというか、とても辛くて苦しそう。悩みじゃなかったら、何か持病とか…」
天使に悩みや持病なんてあるのかなあ、と亜矢は聞きながら思いつつ。
それにしても、リョウがそんな顔をしている事なんて見た事がなかった。
いや、気付かなかった。
リョウに憧れている美保の事。きっと、誰よりもリョウの事をよく見ているのだろう。
亜矢はちょっと感心したが、リョウの事については何も原因が思い付かない。
思えば、亜矢はリョウの事を良く知らない。彼の正体が天使だという事だけ。
「亜矢はリョウくんのお隣さんだし、何か知ってるかな〜と思って来たんだけど」
本気でリョウの心配をしているらしい美保に何か協力出来ないものかと、亜矢はふと、ソファで寝転がっているグリアに視線を移す。
「死神、何か知らない?」
すると、グリアはだるそうに顔だけをこちらにゆっくりと向けた。
「ああ?知るかよ」
この話に感心がないと言うよりは、関わりたくない、と言った顔だ。
少なくとも、グリアなら少しでもリョウの事を知っていそうなものだが。
結局答えは出ないまま、美保はしばらく亜矢とおしゃべりをして帰って行った。
グリアも自分の部屋に戻り、部屋には亜矢とコラン。
(リョウくんかぁ……)
亜矢は風呂上がりの髪をとかしながら、さっきの美保との会話を思い返していた。
明日からはもう少し注意深くリョウの事を見てみようと思った。
「なあ、アヤは死神と天使の兄ちゃん、どっちが好きなんだ?」
パジャマ姿でベッドの上でゴロゴロしていたコランが、無邪気に聞いた。
「こっ!コランくんまで……!そんなんじゃないってば!……もう」
亜矢は少し頬を赤らめながらベッドまで歩くと、横になっているコランのすぐ横に腰を下ろす。
そうするなり、コランはバっと勢いよく起き上がり、亜矢に抱きついた。
「オレは、アヤが好きだ!」
「えっ!?」
「アヤの側は居心地いいから、オレ好きなんだ!」
大きな赤の瞳を一杯に開いて、抱きつきながら亜矢を見上げる。
「コランくん……」
えーと、これは告白というのだろうか?と亜矢は思いつつも、幼いながらも純粋で真直ぐなその気持ちがどこかくすぐったくて、微笑み返す。
「おやすみ、アヤ……」
こうして、小悪魔は今日も亜矢の温もりに抱かれながら眠りにつく。
次の日の朝。
「ちょっと、なに朝から機嫌悪そうな顔してるのよ?」
「……………」
今日も何故かグリアと一緒に登校する事になった亜矢だが、隣で歩いているグリアは昨日以上にイライラが増しているようだ。
昨日は昨日で、怒りを発散する事が出来なかったのだから。
「何だか知らないけどそんなに怒ってばかりで……栄養不足なんじゃないの?」
「……なら、そこら辺の魂喰ってもいいのかよ」
「そ、それは絶対にダメよっ!」
そんな相変わらずの会話を繰り返し、学校まで辿り着くと。
運の悪い事に、今日に限って校門の前で体育の有田先生に出くわし、さらに悪い事にグリアに絡んで来たのだ。
「コラァ、貴様ぁ!何だ、コレは!?」
有田はグリアを見るなり、胸元にあるペンダントを鷲掴みにして引張る。
グリアは制服の時も私服の時も、いつも胸元に赤い宝石のついたペンダントをしている。
「学校にこんなモノを持って来ていいと思っているのか!?」
グリアは特に動じる事なく目を細めていたが、ふっと無言で顔を伏せた。
亜矢はその側で、その様子を緊張しながら見ている。
(今日の死神はマズイわ、何をするか分からない!)
どちらかと言えば、グリアよりも有田の身を案じている亜矢だった。
「聞いてるのか!?だいたい、貴様はそのロン毛自体が規則違反……!」
有田がそう言った瞬間、グリアのペンダントの宝石を掴んでいた有田の手首を、グリアの片手が力強く握りしめた。
ン?と有田がその手に目を向けたその時、グリアが顔を上げた。
「…………触んじゃねえよ。殺すぞ」
低く、重いその一言。
上げた顔から除く鋭い瞳からは、殺意とも取れる恐ろしい輝きを放ち、相手を一瞬で射貫いた。
さすがに有田も恐怖を感じたのか、小さく声を上げたかと思うと逃げるようにして目の前から去っていった。
いや、それが利口だろう。死神の場合、『殺し』は冗談ではない。
「あんた、そのうち退学になるわよ…?」
半分呆れたように亜矢が言うと、グリアは今度は低く笑った。
「面白え。やれるモンならな」
ああそうだ、コイツに心配は無用だった、と亜矢は自分自身に溜め息をついた。
放課後の教室。
夕焼け色の陽が窓から差し込み、誰もいない教室をオレンジ色に染めている。
いや、その教室の窓の前に立ち、空を見上げている少年が一人。
遥か彼方を見つめ、何を思うのか。
彼の瞳からも、背中からも、その心は読めない。
「まだ教室にいたのね、リョウくん」
静寂の空間となった教室に、響くその声。
窓の外を見上げていたリョウが静かに振り向く。
「亜矢ちゃん」
ゆっくりと歩み寄る亜矢をリョウは目で追う。
「一緒に帰ろうと思って外で待ってたんだけど、全然来ないからちょっと心配しちゃったわ」
死神を撒いて来たのよ、と亜矢は小さく舌を出して笑った。
「そうなんだ…ゴメン」
小さくそれだけ言うと、リョウは再び窓の外に視線を戻す。
亜矢はリョウのすぐ隣に立つと、同じようにして空を見上げる。
「空を見てたの?天界とか、故郷の事とか思ってた?」
亜矢のその言葉に、リョウは少し驚いた風にして亜矢の横顔を見つめ、顔を伏せる。
「ううん、そういう訳じゃない…よ…」
どうした事か、リョウはいつものような笑顔を見せない。
今なら、美保が言った言葉の意味が分かる。
リョウの寂しそうな……いや、悲しみが確かに、どこからか伝わって来る。
「あなたの事を心配している人がいるのよ」
「ボクを?」
「ええ。あたしも今、ちょっと心配になったけど」
「……………」
伏せたリョウの顔は彼の水色の髪に埋まり、その表情が隠れる。
そして、小さく発せられた言葉。
「どんなに隠しても、いずれは気付かれちゃうものなのかな……」
「え?」
何か、深い意味をこめているように聞こえた言葉に、亜矢は聞き返す。
「あ—……、大丈夫よ、誰もリョウくんが天使だなんて気付かないわ」
リョウが言いたかったのはその事ではないと分かりつつも、亜矢はあえてそう返した。
「この学校の女子にとっては、別の意味でリョウくんは天使に見られてるみたいだけど」
そう言って亜矢は笑うが、リョウの瞳には暗い影が映っている。
それは、時間と共に夕焼け色から闇に染まっていく空の色に比例しているようで。
「ボクは天使なんかじゃないよ」
それは、自らを天使と名乗って現れたリョウの口から出る言葉としては、意外だった。
深く読めば、自らの存在を否定したとも言える発言。
「あなたが何者であっても、あたしはリョウくんを信じているわ」
「!」
リョウは顔を上げた。
さっきから目を合わせようとしなかったリョウが、亜矢の顔を驚きの目で見つめる。
「なんで?…なんで、ボクを?」
問いかけるリョウに対し、亜矢は窓の外の空を見上げ、遠くを見つめながら返す。
「なんでかしら。死神から与えられた、この心臓の力なのかしら。人の本当の心が分かるというか、伝わってくるのよ。リョウくんは信じていい人だって」
少し前に、リョウから『魂の器』についての話を聞いた時に、彼はグリアも亜矢も救うつもりだと言った。
その言葉を、亜矢は信じている。彼が天使だからという訳ではない。
彼の純粋な想いと意志を確かにこの心臓は受け止めた。
再びリョウに顔を向けると、リョウはその瞳を微かに潤ませながら、何かを懸命にこらえているようだった。
それは、涙でも、悲しみでもない。リョウの強く握られた拳が、僅かに震える。
「……リョウくん?」
亜矢が不思議に思うと、リョウは一度目を閉じ、少しして決心したように目を開く。
「亜矢ちゃん……ボクは、本当は……!」
そう言いかけた時だった。
「ここにいたのかよ、亜矢」
リョウの言葉を遮るかのように教室に響いて来た、もう一つの声。
亜矢とリョウがハっとして振り向くと、教室のドアにグリアが立っていた。
相変わらず、不機嫌そうな顔をしてはいるが。
「もうすぐ『命』が切れる時間だろうがよ?ったく、わざわざ捜して来てやったんだぜ、感謝しな」
亜矢は少しムっとしたが、彼の言う事はもっともな事だった。
亜矢はリョウに向かって「じゃあ、お先に」と優しく言うと、グリアの元へと歩く。
グリアと亜矢は何かを言い合いながら教室を出て、その声はやがて廊下の先へと小さくなり、消えていった。
再び、静寂の中に一人、残されたリョウ。
窓から差し込む夕日を背中に浴びながら、呆然と立ち尽くす。
未だに、その両手の拳は握られたままだ。
(ボク、今………)
さっき、リョウが亜矢に言いかけた言葉。
塞がれたその言葉の続きが、リョウの中で封じられる事なく、なお駆け巡る。
亜矢に、全てを打ち明けようと思った。
何故、そう思ってしまったのか。感情に流された、というだけではない。
リョウの中で、葛藤が生まれる。
その時だった。
リョウの全身から、突然、何かの強烈な力が集約し始めた。
それは、光を伴った突風のような力。
ガタガタッ!!
教室内のいくつもの机が、その力を受けて音を立てて弾け、乱れていく。
「く……うっ!!」
リョウは、すぐ近くの机に両手を付き、上半身を伏せる。
苦しそうに息を荒くつき、両目の瞼を力の限り閉ざす。
リョウの背中にその光が集まったかと思うと、次の瞬間。
バサッ!!
リョウの背中から、一対の大きな翼が出現した。
天使の羽根である。
普段は自らの意志で羽根を隠してはいるが、今は何かの力の働きにより、その羽根を強制的に晒される形になった。
人間界に降りてから、亜矢にもグリアにも見せる事が無かったリョウの羽根。
天使の羽根と言えば、普通は純白というイメージがあるだろう。
だが、リョウの羽根は、左翼は純白であったが………
もう片方の羽根、右翼は——黒く染まっていた。
いや、正確には完全に黒ではない。僅かに、白い羽根も残っている。
「う……あ…あ!」
リョウの苦痛の叫びが、誰にも届く事なく教室に響く。
その苦痛に伴い、右翼の残された白の部分が、だんだんと黒く滲んでいく。
白が、黒に侵食されていく。
蝕まれていく自らの羽根に目を向ける事なく、リョウは顔を机に伏せたまま耐えている。
その額から、汗が伝い流れていく。
ようやく、侵食はある程度で止まったが、リョウの中で何かの声が響く。
それは、リョウの天界での記憶とも重なる。
『我が忠実なる天使………』
その声はリョウの視覚、聴覚を全て支配する。意識がもうろうとする。
『背けば、苦痛となるだけ……』
リョウは薄く目を開け、そして………荒い呼吸の合間から、小さく言葉を漏らした。
「ボ……ク…は………」
視界に映るのは、乱れた机といつもの教室。
リョウはようやく立ち上がり、そして再び、闇色に近付いた空を窓から見上げた。
その頃のグリアと亜矢は昇降口を出ようとした所だった。
「………我慢すんなよ」
「…な、何がよ?」
「命が切れかかってんだろ?苦しそうだぜ」
平然に振る舞ってはいたが、亜矢は息苦しそうに呼吸を荒くしている。
「口移ししてやるよ、来な」
そう言ってその場で亜矢の肩に手をかけるグリアだったが、亜矢は勢いよくその手を払った。
「い、いやよ!学校でなんて!せめて、家に着いてから…!」
そんな事で意地を張る亜矢に、グリアの苛立ちはさらに増す。
「それで死んだら次はねえんだよ!バカが、つべこべ言うんじゃねえ!」
それでも必死に首を横に振る亜矢。
「ちっ……!」
グリアは亜矢の手首を掴むと、引張るようにして歩き出す。
「ちょ、ちょっと?」
グリアに誘導されて辿り着いたのは、校舎の裏だった。
さすがに時間が時間だけあって、薄暗い。
「要は、人目につかなきゃいいんだろ?」
亜矢は、無言で目を伏せた。
拒否する理由がなくとも、素直に受け入れる気なんて元々ない。
だが、亜矢の沈黙は、グリアにとっては『了承』の意。
それは、何時の間にか二人の間に出来た、暗黙の了解みたいなもの。
「ったく、手間かけさせやがって…」
こうして、ようやく『口移し』が行われる。
その時。
「ククク……ようやく現場を押さえた」
物陰に隠れていたらしい人影が、薄暗闇の中から姿を現した。
亜矢はバっと反射的にグリアから離れ、その人影に目をこらす。
「あなたは…!!」
二人の目の前に現われたのは、制服を着た巨体の男。
「なんだ、てめえは」
グリアが鋭い目で睨む。
「風紀委員の鷲尾よ……!」
亜矢が、グリアにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「不純異性交遊とは良くないな。これが学校側に知れたらお前達はどうなるかなあ?」
余裕の笑みを浮かべながら言う鷲尾の言葉に、亜矢も強く睨み返す。
(コイツ……脅しをかける気!?)
強気な亜矢は堂々たる態度で鷲尾に言い返そうとするが……
「おっと、無駄だ。証拠はあるんだ」
鷲尾の手には、デジカメが握られている。
『口移し』の瞬間を撮られたのだろう。
「お前達をマークしていたかいがあったぞ」
クっと歯を食いしばり、拳を握り、亜矢はその場に立ち尽くす。どうも出来ない。
立場的にも力的にも、亜矢は鷲尾に勝てないだろう。
「クク……黙ってやっててもいいんだぞ?その代わり、代償は払ってもらおうか。そうだな、明日までに金を………」
鷲尾が本格的に脅しにかかろうとした時。
表情すら変えずに沈黙していたグリアが、突然に動きだした。
大きく横に片手を振ると、その手に『死神の鎌』が出現した。
「………死神っ!?」
亜矢がとっさに叫ぶが、グリアにはもはやその声は届かない。
「っ……な、なんだ貴様、その刃物はぁっ!?」
さすがの鷲尾も、その鋭い刃物を構えるグリアの尋常でない目に怯えた。
「………こっちは、長い事魂喰ってねえからイラついてんだよ…!!」
グリアは低く言うと、鎌の刃先を鷲尾に向けて、狙いを定めた。
「な、何言ってるんだ貴様…!!そんな刃物で、な、なにを……」
鷲尾が後ずさるが、グリアには逃す気がない。
刃先を突き付け、じりじりと追い詰める。
(死神、まさか鷲尾の魂を狩る……気!?)
しかし、意に反して亜矢は声が出せなかった。全身が震えている。
「だ、ダメよ……死神…………」
本当は叫びたいくらいなのに、喉の奥が震えて、小さな囁きにしかならない。
今、自分が叫んだ所で、死神は止まりはしない事も分かっている。
「決まってんだろ、………死ね!!」
その声と共に、グリアは鷲尾の胴体目掛けて鎌を大きく振った。
「う、うわあああっ!!」
「……いやあっ!!」
鷲尾の叫びと、亜矢の叫びが同時に重なる。
その頃、リョウは昇降口を出て、校門に向かって歩いている所だった。
その背中にはすでに羽根はない。再び、自分の意志で隠したのだ。
先程の苦痛のせいか、力の入らない足取りでゆっくりと歩む。
その時、リョウは何かの力を感じ取った。
(………まさか、グリア!?)
リョウは自らの疲労も忘れ、校舎に向かって走り出す。
その力に導かれるようにして。
ザンッ!!
大きく振られた鎌が風を起こし、その刃は鷲尾の胴体を真横に切り裂いた。
…………いや、すりぬけた。
ドサッ!
鷲尾の巨体が、仰向けに地に倒れる。
亜矢は恐る恐る鷲尾を見るが、確かに胴体を真っ二つに切り裂かれたであろう鷲尾には何の外傷も見られず、ただ気を失ったように倒れている。
訳も分からず、亜矢がただ立ち尽くしていると、グリアは倒れている鷲尾のすぐ前に立ち、正面に向かって手を伸ばす。
すると、鷲尾の胸——心臓の部分が光り出し、そこから光の球体が生まれるようにして、天に向かってゆっくりと浮かび上がってきたのだ。
これが、人の『魂』なのだろう。
ちょうど、グリアの伸ばした手の位置まで光の球が浮上すると、グリアはその球を鷲掴みにして手の中に収めた。
グリアは、ためらいもなくその球を口元に運ぶと……かじりついたのだ。
そう、それはまるで、リンゴを丸かじりするような仕草で。
「………っ!!」
亜矢が、自分の口を手で覆う。
死神が、人の魂を『食べて』いる。
言葉だけで聞いても、実際に見るのは初めての事。
亜矢の心に、初めて死神に対して恐怖が生まれる。
自分も、いずれはこのようにして魂を喰われてしまうのだろうか。
死ぬ事が恐いのではない。死神に喰われる事が———恐い。
だが、グリアは一口かじっただけでその手と口の動きを止めた。
「………ちっ、こんな不味いモン、喰えたもんじゃねえ」
不満そうにして表情を歪め、グリアはその光の球体を手から放し真下に落下させた。
その球は、仰向けに倒れている鷲尾の胸の上に落ち、吸い込まれるようにして再び元の場所へと戻って行った。
「死神、まさか……鷲尾を……?」
震える喉に何とか力を入れ、亜矢はグリアに問いかける。
だが、グリアは平然としている。いつもの彼だ。
「ああ?一口かじったくらいで死なねえよ。でもまあ、数日は目が覚めねえかもなぁ?クク……」
亜矢は内心ホっとするも、そのグリアの笑いでさえ、今は恐いものだと感じた。
そんな二人の前に、いつからそこにいたのか、もう一つの人影があった。
「リョウくん…?」
亜矢がその影に気付いた。だが、リョウは険しい顔をしている。
「…………帰るぜ、亜矢」
リョウの事など気にもとめていないのか、グリアはそのままリョウの横を通り過ぎようとする。
だが、リョウはグリアに強い口調で言葉を投げかける。
「死ぬ予定でない人間の魂を狩る事は、大罪に値するって事、知ってるよね?」
グリアが歩みを止める。そして、振り返ってリョウに冷たい目を向ける。
「テメエ、いつから天界の犬になった?」
リョウは真直ぐにグリアを見据える。いつもの穏やかさはない。
「…それは、どういう意味?」
グリアはフン、と目を伏せるとそのまま背中を向けて歩き出す。
亜矢は振り返り、倒れている鷲尾を心配そうに少し見てから、グリアを追って小走りに走り出す。
リョウはその場に立ったまま、今日幾度も繰り返した言葉を再び口にする。
「………ボクは………」
グリアの言った通り、あれから病院に運ばれた鷲尾は数日間目を覚まさなかった。
次に鷲尾が学校に来た時には、彼は死神に魂を喰われたあの日の事は、何もかもすっかり忘れていたという。
そういえば、死神は人の記憶を操作出来るんだった。
デジカメに撮られた証拠写真も、死神が上手く処理してくれたに違い無い。
グリアに直接聞く事はしなかったが、亜矢はそう思う事にした。
死神の本当の姿。そして、天使を支配する意志。
少しずつ見え始めてきた真実。
だが、『魂の器』が完成される僅か数ヶ月後の未来は、誰にも見えない。