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第3話「結衣お姉さん」

 あの夢を見た日から、私はずっと次の休みが楽しみだった。

 それはただ単に印象に残ったものが夢に出てきただけかもしれないけど、それでもあの空間での出来事はまるで本当にあった記憶のように、私の中でたしかな一ページになっていた。

 もちろん、それを誰かに話すことはない。今の学校だとそんなにたくさん話せる相手はいないし、家族との会話でも話題として出すにはタイミングがわからなかったから、私は小さな頃に自分だけの秘密を見つけたときのような、小さなドキドキを楽しんでいたのかもしれない。

 そうして次のお休み、私がゆっくりと散歩をする時間。

 今日は前よりももっと仲良く猫と戯れたいから、動きやすい服装…ボートネックのシャツにタイトフィットのストレッチジーンズを着る。靴も歩きやすいスニーカーにして、これで準備は万端…ああっ、フルートも絶対に持って行かないと。

 いつもより足取りが軽かったのか、家を出る前に姉様が「美咲、珍しくはしゃいでるね」なんて微笑みながら声をかけてきて、ちょっとだけ恥ずかしくなった私は曖昧に笑って「お散歩、前より好きになったんです」とだけ伝える。

 そしていつも通りゆっくり歩いて公園に到着すると、この前と同じように三毛猫はいなかった。だけどフルートを吹いていたらまたふらりとやってきてくれる、それを信じて私の中の芸術を解き放つ。

 吹くまでは自然の音に包まれていたけど、フルートが鳴り始めると私の出す音が一番大きくなる。ずっと前から聞き続けて、そして奏で続けていた音。

 初めて聞いたとき、とても高くて清らかだと思った。だから自分で吹いてその音が出たとき、とっても嬉しかった。

 そうして好きという気持ちを抱きながら吹き続けてきて、今は…少しだけ、心の中に距離ができている気がした。だけどもここで吹くときは私とフルートは一つになっていて、吹き続けることでなにかが変わるんじゃないか…そんな期待もある。

 そして、本当に変わった。


「いい音だね」


 目を開き、声の方向に振り向く。どうしてか私は「あの夢の黒猫さんですか?」なんてことを尋ねそうになって、でもそれはおかしいことだと感じて口をつぐみながら声の主を探した。

「あ、ごめんね。演奏の邪魔だったかな?」

 そこに立っていたのは、長い黒髪をそのまま流していたきれいなお姉さんだった。

 服装はグレーの無地Tシャツにブラックのチノパン、靴は動きやすそうなアンクルブーツ。ものすごく整った顔立ちも相まって、とってもクールな印象があった。

 けれどもその話し方は柔らかさもあって、初対面の相手に固まりがちな私も過度に体は硬くならなかった…ちょっとだけ緊張していたけれど。

「え、えっと、そんなことはないです。まだまだ未熟者ですが、褒めてもらえて嬉しかったです…」

「そっか、それは良かった。ここはおじいちゃんやおばあちゃんが多いから、同年代の子がいるのって珍しくて…それにフルートなんてめったに聞けないから、つい声をかけちゃったんだ。隣、いい?」

「大丈夫です」

 お姉さんはそう話しながら、とても小さな微笑みを浮かべて隣に座ってくる。だけど体が引っ付かないように少しだけ間隔を空けていて、なれなれしい印象は一切なかった。

 …不思議な人だな。初対面なのに、私はそんなことを思う。

「この子がさ、楽しそうにこっちへ歩いて行こうとしてたから。何かあるのかなって思ったら、フルートの音が聞こえてきて…ふふっ、やっぱり『ミケ』って不思議な子だな」

「ミケ? これがこの子のお名前ですか?」

「うん、三毛猫だからミケ。この辺の農家で暮らしてて、飼い主のおばあちゃんがそう呼んでるよ。お年寄りのネーミングセンスってわかりやすいよね」

「ですね…でも、すごく似合っているし可愛いです」

「それには同感」

「ナゥー」

 意外な形で名前が判明したミケちゃんの頭を撫でるお姉さんは、ひときわ優しい声と表情だった。顔立ちや服装はクールだけど、やっぱりこの人は冷たくない。

 そう思ったら私はますます力が抜けていって、普段は胸の奥にしまうような、聞きたいことが自然と口にできた。

「お姉さんのお名前はなんですか?」

「ん? わたしは『結衣』。きみは?」

「あ、私は『美咲』です。美しいに、咲くって書いて美咲です…今の自己紹介、ちょっとナルシストっぽかったですか?」

「あはは、美咲は面白いね。でも、ぴったりな名前だと思うよ? 美咲はきれいだから」

「…あ、ありがとうございます、結衣お姉さん」

 結衣お姉さん。それがこの人の名前。私の名前を褒めてくれたけど、この人の名前もきれいだし似合ってるって思う。

 顔立ちや服装から考えると大学生っぽく見えるし、お姉さんって呼ぶくらいがちょうどいい…よね?

 何より、なんとなくこの人は『お姉さん』って雰囲気があった。私も芸術家の家で育ったせいか、そうした直感には妙に自信がある。

「…美咲はいくつ?」

「私は十七歳で高校二年生です」

「…私と同じだ。もしかして年上に見えた?」

「えっ、同い年だったんですか? 結衣お姉さん、すごく落ち着いて格好良く見えたから…てっきり大学生かと」

「格好いい、かなぁ…まあよく年上に見られるけど、それならお姉さんって呼ばなくてもいいよ?」

「ですけど…」

 結衣お姉さんの言うとおり、同い年ならお姉さんってつける必要はないと思う。

 だけど…それは私の中に小さな抵抗感を生み出していて、今さらながら「芸術家って頑固なんだな…」と自分の感性や直感の頑なな部分に気づいた。

 それでもそんな気持ちをうまく伝えるのは難しくて返答に困っていたら、ミケちゃんを撫でながら結衣お姉さんは笑ってくれた。

「まあ、美咲が呼びたいならいいよ。家には妹もいるし、そう呼ばれるのには慣れているから」

「あ、そうなんですね…うふふ、やっぱり結衣お姉さんはお姉さんです」

 改めて不思議だなぁって思った。

 結衣お姉さんとは初めて会ったはずなのに、こんなふうに話していると笑ってしまう。

 それはちょっとだけ前…楽しくフルートを吹いていた頃に似たような気持ちで、ぽかぽかと私の胸の内を満たしてくれた。

「結衣お姉さんもお散歩中でしたか?」

「うん。わたし、散歩が好きなんだ。知ってる道でも新しい発見が見つかることもあるし、ここら辺を歩くとミケにも会えるしね」

「ウニャ」

「ふふっ、ですね」

 結衣お姉さんを見ていると私も触りたくなって、ミケちゃんの頭を指先で撫でる。すると気持ちよさそうに目を細めてくれて、改めてこの子は頭を撫でられるのが好きなんだと理解できた。

「それとね、ミケは不思議な猫なんだよ。なんていうか…時々、夢に出てくるんだ」

「え?」

 その言葉を聞いたとき、私の胸はドキリと高鳴った。

 新しい場所になじむには、新しい出会いが必要。

 そして、夢。それら全部が偶然にしてはできすぎていて、まるでこの子が。

「夢にミケが出てくると、何か大切なことを教えてくれている気がするんだ。それで今日は『公園へ行け』って言われたような感じがして、こうして来てみたら…美咲に会えた」

「…あの、実は私もなんです。夢にミケちゃんが出てきて、それで『新しい出会いが必要だ』って言われたような気がして」

「そうなの?…じゃあさ、友達になる? お互い猫の夢を見るなんて、偶然にしてはできすぎているし」

 どくん、もう一度心臓が鳴る。

 そんな私の落ち着かない胸の内とは裏腹に、やっぱりミケちゃんはのんびりと喉を鳴らしていて。

 …これで、良かったんですよね?

 そんな質問を心でしてみたけど、やっぱり目は細まったままだった。

「…はい、よろしくお願いします。私、もっと結衣お姉さんと仲良くなりたいです」

「決まりだね…ミケ、美咲と会わせてくれてありがとね」

 私の返事にまた結衣お姉さんは笑ってくれたけど、ミケちゃんはお礼を言われてもやっぱり眠そうにしていた。

 それがおかしくて私も笑ったけど、ちゃんとお礼を伝えておいた。

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