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第1話「新しい場所で」

 新しい環境になじみたい。

 私…美咲がそんな決意をしてから、大体三ヶ月くらいが経過していた。

 都会から田舎へと引っ越してきた理由はいかにも芸術家の家系らしいもので、お父様の「自然のインスピレーションが欲しい」という言葉で決まってしまった。

 そして家族…姉様と兄様も都会で消耗し続ける理由はないと話していたし、お母様に至っては元々田舎で生まれ育ったせいか、お父様の決断に二つ返事で了承していた。

 ちなみに私はちょっとだけ迷っていたけれど、学校では少し浮いていると言われていたし、友達だって多くなかったから、これでなにかが変わるのかな…なんて期待が少しあった。

 こうして私たちはほぼ満場一致で引っ越しが決定して、田舎らしい大きな平屋と広い庭が備わった家へと引っ越した。


 引っ越しによって変わったことの一つ、それは『好きなだけフルートが吹けること』だった。

 我が家では全員が何らかの芸術に触れているけれど、私はとくにフルートが気に入っていてよく吹いていた。理由は…小さな頃になんとなく触れて、それで吹いてみたらきれいな音がして夢中になったから…なんてもの。

 だけどそれでもコンクールで優勝するくらいにはうまくなったし、これからも自分の中にある芸術をフルートで表現したいと思っていた。

 けれど…環境になかなかなじめない私は、孤独感を解消するためにフルートを吹くことが多くなっていた。家と家のあいだが離れている場所なので近所迷惑を気にしなくていいし、どんな理由でもフルートを吹くことは楽しいけれど。

 それでも孤独の中で吹き続けているこの瞬間はどうしても自分の中の芸術と向き合っているようには思えなくて、出てくる音色は私自身が精彩を欠いていることに気づいていた。

 そんな演奏が積み重なっていくことで、私は…少しだけ、フルートと過ごす時間に疑問を持つようになってしまう。それでも毎日吹いているし、完全にやめたいなんて思えないけれど。

 だけど私の中に生まれた些細な、それでいて正体の掴みきれない不安は少しだけフルートとの距離を作って、少し違った時間の過ごし方を求めるようになった。

 それは、お散歩。ここは絵のモチーフになるような美しい自然が多いから、外を歩くだけでも絵画の展覧会を眺めているような気分になれる。

 同時に、落ち着ける場所を見つけて自然に包まれたままフルートの演奏をしていると…疑問によって乱された心の平穏が、ゆっくりと正されている気がした。


 都会で歩いたときに比べると、ここでの散歩はとっても穏やかだった。

 道こそちゃんと舗装されているけれど両脇には田んぼや畑が当然のように広がっていて、時折元気そうなおじいちゃんやおばあちゃんが挨拶してくれた。それに対して私も小さく会釈をして、ただ目的もなく歩く。

 いや、一応目的はある。引っ越してきたばかりの頃は迷子になるのが怖くて遠出はしていなかったけれど、今は一時間くらいはうろうろできるくらいには散歩コースも作れている。

 そしてちょうど帰り道へと切り替わる中継地点、そこが一応の目的地だった。

 それは川沿いの公園…だけど、都会にあるランニングコースも兼ねるような規模のものじゃない。入り口からほぼすべてが見渡せるくらいには小さくて、そもそも看板がないと公園かどうかすらわからないと思う。

 芝生とは呼べない伸ばしっぱなしの草。すでに緑色に生え替わった背が低い数本の桜。そして椅子…に見えなくもない、平らで大人が二人くらい座れそうな石。

 そんな石に腰を下ろし、私はバッグからフルートを取り出す。家にはもっとふかふかで座り心地のいい椅子があるけれど、こうして自然に包まれて演奏するのは好きだった。

 田舎は、音が少ない。風に揺れる葉擦れ、虫の鳴き声、踏みしめられて頭を垂れた草…どれもささやかすぎて、文字通りすべてが『自然』なんだって思える。

 そんな自然は私のフルートを邪魔しないどころか、新しい音をいざなうように伴奏してくれる。そしてそんな衝動に任せて吹くと、私は周囲と一つになれる気がした。

 今も新しい場所になじめない私が嘘のように、精彩を欠いているフルートが生き生きと命を取り戻し、私の中の芸術を形にしてくれる。

(…お父様は、これが欲しくて田舎へ来たのでしょうか)

 今はインターネットがあるのだから、どこにいたって同じものを見ることができる。

 だけど、『感じる』となれば話は別だ…そんなお父様の声が聞こえるようで、私はフルートの演奏中に少しだけ笑いそうになった。

 そうだ、私はこうして楽しく吹きたかったんだ…そんな気づきが得られた瞬間、私は演奏の手を止めた。

 そして、気づく。私の演奏に観客がいたことを。

「…あら? 猫さん、いつからそこに?」

「ミャア」

 フルートから意識を世界に戻すと、私の隣には三毛猫がお行儀良くお座りしていた。

 毛並みはとてもつややかで、赤い首輪も装着している。さらには自分から私の隣に来てくれたように、人によって育てられているのは確実だとすぐに理解できた。

「うふふ、私の演奏はどうでしたか? 外で吹く以上は誰かに聞かれるのが常ですが、こんなに間近で聞いてくれる方がいるとは思ってませんでしたよ」

「ミャ」

 じっと私を見つめてくる三毛猫は逃げる様子はなく、それが嬉しくて私はそっと手を伸ばした。その頭を撫でてみるとつややかな光にたがいないなめらかな触り心地が伝わってきて、改めて大切に育てられていることにこちらも嬉しくなりそう。

 そう、私は猫が大好きだった。今は家にはいないけれど、いつかは一緒に暮らしてみたいとも思う。だけど私は責任を取るにはまだまだ大人になりきれていなくて、その衝動を抑えることで精一杯だった。

「可愛いですね~、お名前はなんて言いますか~?」

「…ンミャッ」

 頭を撫でると気持ちよさそうに目を細めて、そのうちごろりと私の前で無防備に寝転ぶ。

 それについテンションが上がってしまったところ、そのもふもふのお腹を撫でてしまった。猫がお腹に触れられるのを嫌がるのは知っていたし、ましてや初対面の相手なら引っかかれても文句は言えない。

「ああっ、そこはダメでしたか? ごめんなさい」

「ナーオゥ」

 でもこの三毛猫はとても優しい性格みたいで、気持ちの良くない場所を触ったら爪は一切出さず、それでも撫でる手を押しのけるように肉球でぐいぐいとしてきた。

 うーん、頭以外はお気に召さないのかな…なんてことを思いつつ、もう一度頭を撫で始める。するとやっぱり目を細めて、自分から手に頭を押しつけるようにごろんごろんと身をよじらせた。

「…ねえ、猫さん。私ね、まだ新しい場所になじめていないんです。こういうとき、どうすればいいと思いますか?」

「…」

 その無防備で──だけど頭以外を撫でると押しのける──優しい態度を見ていると、どうしても私は相談せずにはいられない。

 動物が人間の言葉を理解しないなんて当たり前だけれど、猫は意外と頭がいいって聞いたことがあるし、何より…私の演奏を聴いてくれたこの子なら、どうしてかその答えを知っているような気がした。

 こういうのを…巡り合わせって言うのかな?

 でも私の質問に対しては目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らし続けるだけで、それにがっかりすることはなかった。

 こんなにも私の孤独を和らげてくれるこの子は、きっと友達になってくれるだろうから。

「あ、そろそろ戻らないとですね…猫さん、またここで会いましょう? 次に会えたときは、もっといい音を聞かせますからね」

「ニャー」

 腕時計を見た私はそろそろ戻る時間だと判断して、名残惜しさを感じつつも撫でる手を止めて立ち上がる。

 三毛猫はまだごろんごろんと体を地面にこすりつけていたけれど、それでも視線はずっと私のほうに向いていて、すぐに再会できそうな期待に胸が膨らんだ。

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