「うおーーーーでけーーーー!!」
突如開けた視界と、眼下にどこまでも遠く広がっている水面。キャンの感動の叫びが周囲の岩という岩にこだまする。
それが収まった頃、ムルは耳を塞いでいた手を外し、眉間の皺は寄せたまま静かに口を開いた。
「『石の涙』。北方にあるとされる巨大地底湖だ」
「ちてーこ? 何だそれ?」
「地底の湖」
「みず……うみ……? 海ってことか!? すっげー!! オレ海初めて!!」
「海ではない」
キャンはなんだ違うのかーとがっかりしつつも、岩から岩へひょいひょいと下りていき、あっという間に湖近くまで辿り着いたようだ。
地底ではいつ魔物が出てきてもおかしくない。出たところで狙われるのはムルの方であろうが、万が一を考えるならキャンに不用意にあちこち近づくなと止めておいた方がいいだろう。
そう考え一歩踏み出したムルの頭に、殴られたかのような強い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
思わずその場にうずくまる。衝撃は、確かな痛みとなってムルの脳内を支配する。
「あああ……!!」
「おい、どーした!?」
ぱしゃぱしゃと水面をたたいて遊んでいたキャンが慌てて振り返り、ムルに駆け寄った。
「どーしたんだよ!? 痛むのか!? 大丈夫か!?」
ムルの顔を心配そうに覗き込みながら、キャンが懸命に呼びかけている。その声を掻き消すかのように、重苦しい情念のようなものが、ムルの脳内で激しい痛みを伴いながら暴れ回った。
「声が……っ!」
「声!?」
「石の、声が、聞こえ、すぎる……!」
頭を押さえ、いやいやと首を振りながら苦しみもがくムルに、キャンはどう声をかけて良いかわからず困り果てていた。
「ぐっ……うあああっ!」
苦悶の声とともにムルの髪の光が強さを増していく。同時に「石の涙」と称された巨大地底湖の水面も同じ色の光を帯び始めた。
「なっ、なんかわかんねーけど、ここにいたらヤバそうだぜ……!」
キャンはムルに肩を貸し、やっとの思いで立ち上がらせると、一歩ずつ湖から距離を取っていく。すると、ムルの髪も湖面も徐々に光が収まっていった。
「すまぬ……」
「気にすんな! このままみずうみから離れ……」
キャンの言葉が途切れる。ムルも痛む頭を押さえながら前方を注視すると、一体の巨大ミミズがこちらに狙いを定め、いつ襲い掛かろうかと蠢いているのが見えた。
「……我を置いて逃げろ。地底に生まれしものは地底に生まれしものしか狙わぬ」
「ヤダね! 勇者キャン様は仲間を見捨てないのである!」
こんな時まで勇者ごっこか。キャンの無神経な言動がムルの神経を逆撫でする。
「ふざけるな、死にたいのか?」
「ふざけてねーし! オレが逃げたらムルが死んじゃうだろ! そんなの絶対イヤだ!」
キャンはムルを庇うように前に出ると、身の丈の二倍ほどにもなる大きなミミズを見上げ、静かに剣を抜いた。
「って、重っ!!」
風の魔物と戦った時とは違い、今はシマノのスワップがない。キャンの腕力は元通り剣を構えるだけで精一杯の状態に戻ってしまっている。
だがミミズにそんなことは無関係だ。奴の巨体が唸り、キャンを軽々と弾き飛ばした。
「っうわあああ!!」
「キャン!!」
勢いよく飛んだキャンの身体は、すぐそばの岩にぶつかり、地面へと落ちた。ぶつかった衝撃で手放した剣が地面に突き刺さる。
幸いキャンはすぐに起き上がり、特に大きな怪我はしていないようだったが、剣を落とし、小刻みに震える手を見つめて愕然としていた。
「なんでだよ……オレ、また弱くなっちゃったのか……?」
一度手に入れたはずの希望を手放す辛さに、キャンは目に涙を浮かべている。それを見ていたムルも、キャンの様子が先ほどの戦闘とは異なることに気づいた。
「やはりお前だけでも逃げろ。ここは我一人で……対処する……」
ムルはそう言うものの、立っているのもやっとの状態だ。そんなムルに、邪魔者を排除したミミズがじわじわと迫る。
ダメだ、このままじゃ守れない。キャンは涙を乱暴に拭い去ると、地面に刺さった剣を残したまま全力で駆け、ミミズの横っ腹に思いっ切り頭突きを繰り出した。
「お前の相手はこの勇者キャン様だっ!! バーーーーカ!!」
果たしてこの言葉がミミズ相手にどこまで通用するのかは疑問だが、巨大ミミズはゆっくりと狙いをキャンに変更した。
さて、シマノのスワップがない以上、キャンの攻撃で大きなダメージを与えることはできない。
「けど、やるしかねーよな」
今ムルを守れるのは自分だけだ。キャンは改めて正面からミミズと対峙する。剣を地面に刺したまま、勇者とミミズとの戦闘が幕を開けた。
***
「知りたいのなら盗めばいい。俺から語ることなどない」
あの時。ニニィが師匠に、最初で最後の情報盗みを仕掛けた時。それを再現するかのように、ニニィは今、師匠から情報を盗み出そうとしている。
きっともう、この小屋には居られない。あの情報を得てしまえば、あたしはあの時と同じ行動をとるだろう。そうすればまた、さっきまでの真っ暗で独りぼっちの世界に逆戻りだ。
ここにいたいと願う気持ちがニニィを躊躇わせる。同時に、このまま幻の世界にいてはいけないと律する気持ちがニニィを責め立てる。
激しい葛藤を抱えたまま、ニニィはとうとう師匠から情報を盗み出した。
「これって……」
盗んだ情報が、ニニィの脳内に浮かび上がる。それは、とある一枚のイラストだった。無駄にモジャモジャの頭、申し訳程度に胴体から生えた手足、何故か不自然に笑っている不気味な顔……。
「…………ツタの……魔物……?」
そう、初めて地底に行った時シマノが描いたムルの似顔絵こと「ツタの魔物」である。想定外の収穫に、ニニィは我慢できず吹き出した。
「あっははは……なんでこれなのよ……!」
「いきなりどうした」
急に笑い出したニニィを見て師匠が訝しんでいる。そんなことには構わず気の済むまで笑った後、ニニィはふうと一息吐いた。
「あんまり人が一生懸命描いたものを笑っちゃいけないわね」
ニニィはもう一度師匠と向き合う。冷静に考えれば、師匠がツタの魔物を知っているはずがない。つまりこの師匠は、ニニィ自身の記憶が作り出した幻にすぎないのだ。
「ねぇ、師匠」
師匠は何も言わずニニィの言葉を待っている。
「今までありがとう。あたし、もう行かなくちゃ」
あの時と同じ言葉。師匠は黙ったまま受け止めている。
「仲間ができたの」
師匠が目を見開く。
「もうあたしは独りじゃない。だからここには居られないし、」
師匠の顔を見て、一瞬躊躇いながらもニニィははっきりと告げた。
「もう二度とあなたを殺さない」
空間に亀裂が入る。ニニィを囲む幻の世界がゆっくりと崩壊していく。
「ごめんなさい、は言えない。あの時のあたしを否定したくない。でも、今のあたしは、奪われたからって全部奪ってもいいとは思えない。だから、」
ニニィは俯き、再び顔を上げて師匠を見た。
「今のあたしにはあなたの望みを叶えてあげられない。ごめんね」
周囲の空間とともにその身体を崩壊させていく師匠が、静かに口を開いた。
「…………もう、叶ったよ」
その時ニニィには、師匠がフッと微笑んだ、ように見えた。
やがて周囲は再び暗闇に包まれる。元通りの、何もない空間に独りぼっち。だが、先程までとは違い、不安や恐怖はなく、ニニィは穏やかな気持ちで立っていた。大丈夫。あたしは独りじゃない。ニニィはそっと目を閉じる。
「おや、よく戻ってきましたね」
聞き覚えのある声、だが出来れば今聞きたくはない声にニニィは驚き目を開ける。いつの間にかそこは薄暗い室内で、目の前の椅子に腰かけているのは、ゆったりとしたローブのようなものを羽織り、フードを目深に被った長身の男。
「ゼノの幹部……!」
「エトルとお呼びください」
幹部の男エトルは、組んだ手を組んだ足の上に置き、穏やかな声でそう告げた。
***
「落ちるのも飽きてきたな」
シマノの呑気すぎる発言にユイが冷めた目を向ける。落とし穴に落ちたシマノとユイは、あれからずっと落下を続けていた。
最初の方こそどこまで落ちるのかと不安がっていたシマノだったが、五分ほど落ち続ける頃にはいつまで続くんだとげんなりするようになっていた。
「そのうち地面に着く。今は待つしかない」
「だといいんだけど……このまま落ち続けたりして……」
シマノの脳内に「無限落下バグ」という単語がよぎる。ゲームならリセットしてしまえば終わりだが、実際に自らが体験するとなると話は変わってくる。最悪の場合、一生このまま落ち続けるかもしれないのだ。
「大丈夫。落下速度が徐々に上昇していることから、私たちは正しく重力の影響を受けている。つまり、y軸の位置情報は正しく取得されていると推測。永遠に落下し続けるとは考えにくく、いつか地面に到達する可能性が高い」
「それはそれで余計に不安なんですけど……」
地面に着く、と言われても、それってつまり物凄い速度で激突するに等しいのでは……と余計に不安になるシマノであった。