日没とともに森の気温は下がり、結露が小さな窓を曇らせる。ニニィは今、亡くなったはずの師匠とともに、かつて暮らした小屋で温かいスープを口にしている。死者から供された物を食べるのは気が進まなかったが、ほわほわと湯気が立つ師匠特製のスープから漂ってくる懐かしい香りに、どうしても腹の虫が喚くのを我慢できなかったのである。
その日仕留めた獲物と、日頃から蓄えている木の実をふんだんに使ったそのスープは、素朴ながらも深みのある味わいで、ほんのり舌に残る甘みがニニィのお気に入りだった。温かい食事と薪ストーブ。師匠の落ち着いた声。人の寄り付かない、静かな森の奥の小屋。自分を取り囲むすべてが、ここにいれば安心だと伝えてくれているようで、暗闇に苛まれたニニィの心が少しずつ解れていく。
「修行は順調か」
修行、と言われニニィは気まずそうに目を伏せる。当時師匠からは、盗賊になるための修行として日々こなすべき課題が課されていた。ここに住む以上は修行に励み、将来は盗賊として身を立てること。それが師匠と交わした約束であった。
「じゅ、順調」
「分かりきった嘘を吐くな」
師匠の身も蓋もない言い方にニニィはうっと言葉を詰まらせ、黙ったままスープを口に運び、飲み込む。
「……わかってるなら聞かないでよ」
「そうはいかない。約束だからな」
師匠はやれやれと溜息を吐いてみせる。
「まだ、盗めないのか?」
「…………」
違う。現にニニィは今、情報専門の盗賊として自立している。
「躊躇うことはない。お前は『奪われた』」
師匠の言葉がニニィに重く刺さる。
「故郷を、母を、これまでの人生の全てを」
黙ったままのニニィに、師匠は躊躇うことなく言葉を続けた。
「『ピクシー狩り』の首謀者を突き止めるんだろう?」
その一言でニニィの肩がびくりと跳ねる。ニニィが何と引き換えにしても成し遂げなくてはならない、そう幼い自身に課した使命。ピクシー狩りと称される、筆舌に尽くしがたい略奪行為の数々。その首謀者を突き止め、必ず討つこと。
「……わかってる」
「なら、為すべきことも自ずと分かるはずだ」
師匠は素っ気なく言い放ち、食事を終えて席を立った。
ニニィは座ったまま俯き唇を噛み締める。本当はわかっている。師匠から課された課題「俺から何か盗みだすこと」は、今のニニィなら簡単にこなせてしまう。だからこそ、出来ないのだ。これでは、このままでは「あの時」の二の舞になってしまうから。
「師匠」
部屋を出ようとする師匠に、ニニィは意を決して声をかけた。師匠は立ち止まり、こちらを振り向かないまま次の言葉を待っている。
「師匠はどうして、あたしを盗賊にしたいの」
それはニニィがずっと聞きたくて聞けなかった問いだった。答えない師匠にニニィは続けて疑問をぶつける。
「どうしてあたしを助けたの」
ピクシー狩りによって何もかもを奪われたニニィに手を差し伸べ、生活の場を与え、盗賊として身を立てる術を一から教えてくれた。それなのに。
「どうして、あたしにあなたから盗ませようとしたの」
あの時。かつて、ニニィが初めて師匠に情報盗みを仕掛けた時。ニニィはそこで、決して忘れることのできないある情報を手に入れてしまった。今、あの時と同じ状況に陥りつつあるニニィは、とてもではないが師匠に情報盗みを仕掛ける気になどなれなかった。
だが師匠は、隣の部屋へ通じる戸の前で立ち止まったまま、その視線をゆっくりとニニィに向けた。
「知りたいのなら盗めばいい。俺から語ることなどない」
――ああ、やっぱり。師匠はあたしが盗むのは情報だと知っていたんだ。知っていて、わざとあたしに盗ませたんだ。
「…………ばかなひと」
それならばもう、あの時と同じように、師匠の望み通り盗んであげよう。どうせ既に起きてしまった過去は変わらないのだ。
ニニィは師匠の目を見つめながら、全ての意識を一点に集中させた。
***
「あーはいはいこわいこわい」
ユイのライトに照らされた、白装束に三角巾姿で顔の半分爛れた女のオブジェを軽くスルーし、シマノとユイは先に進む。
「世界観が合ってないんだよな」
暗闇に慣れすぎたせいか、シマノは不気味な造形物たちにダメ出しをするまでになっていた。
「だから没になったと推測」
ユイも歩きながら淡々と返す。二人はこの造形物たちがゲームの没データだろうと判断している。
「ユイはこういうメタな話題も通じるから助かるよ。本当に俺みたいな異世界転移者じゃないの?」
「私はこの世界で造られた存在。シマノとは違う」
前方を向いたまま淡々と答えるユイのライトが、いかにも何か這い出てきそうな古井戸を照らし出した。
「……お化け屋敷ダンジョンでも作る予定だったのか?」
「さあ」
「だとしてもせめて洋ホラーに寄せろよなー」
はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐き、シマノは井戸を無視して歩いていく。その無気力全開の態度に、ユイは思うところがあり立ち止まった。
「シマノ……飽きている?」
「……若干」
目を逸らし答えるシマノに、今度はユイが呆れたように溜息を吐いた。
「シマノは飽き性」
「いや、俺じゃなくても飽きるって! さっきからずっと同じようなとこ歩いてて代り映えしないし」
「飽きている場合じゃない。早くニニィたちを探し出さないと」
「はい……仰る通りです……」
ユイに静かに叱られ、シマノは地味に落ち込む。
「ところでシマノ、新しいスキルはどんなものだった?」
あからさまに肩を落としたシマノに気を遣ったのか、ユイが話題を変えてきた。そういえばボス戦後のあれやこれやですっかり忘れてしまっていたが、新スキル「ツリー」を覚えたところだった。
「まだ試せてないんだよなー。って、確かユイがクエストを優先しろって言ったんじゃ……」
「……それはそれ。これはこれ」
都合がよすぎると小言を言いかけたシマノであったが、それよりこの退屈な道程を新スキルで紛らわしたい気持ちが勝った。
早速ウインドウを開き、スキル一覧を確認する。ツリーの文字はグレーアウトしていないので、戦闘中以外でも使用できそうだ。早速ツリーの文字をタップすると、新しく別のウインドウが立ち上がった。そこには、巨大な樹木が映し出されている。
「世界樹……?」
それはこの世界の中心に聳える世界樹だった。その世界樹を背景として、ウインドウの中央に、二つの文字がゆっくりと思わせぶりに浮かび上がってくる。
「凡人」
分かっとるわ!! とシマノはウインドウを掌で殴打した。ユイはウインドウこそ見えないものの、シマノの様子を見て何かを察したのか、憐れみの眼差しを向けている。
殴打がタップと見做されたのか、ウインドウが切り替わり、樹形図のようなものが表示された。樹形図といっても、分岐のない一本道の粗末なものだったが。
「これ、スキルツリーか……?」
図をよく見るとレンズ、スワップ、ツリーの各項目が一本の線でつながっていた。ツリーの下にはさらに線が伸び、続きのスキルがありそうな雰囲気を醸し出している。どうやらこのツリーというスキルは、パーティメンバーのこれから覚えるであろうスキルを樹形図で表示してくれる、大変ありがたいもののようだ。
とはいえ、シマノのスキルツリーは単調な一本道だ。大した発見もなく、正直見ていて何も楽しいことなどないのである。
「いや待てよ、もしかしてこれ、他の人のやつなら……!」
凡人のスキルなど見ても仕方がない。ここは是非とも他の仲間たちのスキルツリーを確認しておくべきだ。
「シマノ、見て」
ユイの声掛けにシマノはウインドウから目線を外す。そのまま彼女の指さす方に目を向けると、少し離れた位置に真っ赤な左矢印のオブジェが立っていた。ここまでの似非お化け屋敷オブジェたちと比べると、明確に左を指し示している
「こっちに進めってことか?」
「シマノ、気をつけて。罠の可能性もある」
ユイの警告に従い、シマノは一先ずレンズをかけ、次にウインドウを閉じて視界を確保してから、ゆっくりと慎重に矢印へと近づく。だがその一方で、シマノはここまでの道中に心底飽き飽きしていた。多少リスクがあったとしても、今はこの矢印の指示に素直に従ってみたい。
「行こう。何か手掛かりがあるかもしれない」
根拠もなくそれっぽいことを言うシマノに呆れつつも、このまま闇雲に探すよりは手掛かりを求めるべきだと判断し、ユイはこくりと頷いた。
矢印に従って歩いていくと、また別の矢印が現れる。そんなことを幾度か繰り返していると、突然二人の身体は宙に放り出された。
「へ?」
足が地につかない。一瞬の浮遊感にシマノとユイは顔を見合わせる。直後、二人の身体は重力に従い真っ逆さまに穴の中へと落ちていった。
「落とし穴ああぁぁぁ…………!!」
シマノの叫び声は、穴の底の方へと吸い込まれていった。