「うわ暗っ!」
危険な亀裂の中に足を踏み入れたシマノの第一声がこれである。せめてもう少し緊張感を持ってほしいものだとユイが溜息を吐く。
「明かりなら私が」
ユイがそう言うと、懐中電灯のような光の筋が二本出現した。これは便利だ。シマノが礼を言おうとユイの方を向くと、光の筋の出どころはなんとユイの両目だった。
「目からビーム……?」
「ビームよりサーチライトと呼ぶ方が正確」
そういう問題ではないが、あまり深く追求するのもやめておこう、とシマノは軽く流すことにする。
「ってか、ニニィどこ行った?」
シマノの問いかけにユイがキョロキョロと辺りを二本のライトで照らす。何もない、ただひたすらに真っ暗な空間。
その時、ユイのライトの端が、白い女の腕を捉えた。
「ひぃぃっ!」
シマノが情けない悲鳴を上げながら後ずさる。一方ユイは躊躇いなく腕の先にライトを向けた。
ライトに照らされた腕の先には、毛むくじゃらの大きな塊。その毛むくじゃらの塊から、生白い腕が何本も何本も無造作に生えていた。
「うぎゃああああっ!」
シマノがより一層情けない悲鳴を上げ、腰を抜かした。ユイは咄嗟に光線銃をその塊に向けて構える……が、暫くするとユイは警戒を解き、目を見開き怯えるシマノに手を貸して立ち上がらせた。
「シマノ、見て。これは生き物ではない」
「へ……?」
シマノは言われるがまま恐る恐るそれに近づく。確かにユイの言う通り、腕まみれのその異形は完全に沈黙しており、全く動く気配がない。というよりも、近づいてよく見ればそれは生物ではなく、何らかの造形物――オブジェのようなものだった。
「こんな悪趣味なもん置いとくなよな……」
相手が生き物ではないと判明し、シマノにも悪態をつく余裕が生まれた。先ほどまでの情けなさを挽回するため、改めて気合を入れ直す。
「さ、気を取り直してニニィを探さないと……」
そう言って一歩踏み出したシマノの目の前に、巨大な目玉が鎮座していた。目と目が合って、シマノの思考がフリーズする。
「ノオオオオオオッ!!」
突然の英語である。ユイがライトを向けると、そこにはシマノの背丈と同じくらいの巨大な目玉が、一つだけ置かれていた。こちらも生物とは考えにくく、オブジェか何かに見える。
「もう無理……怖い……俺何か悪いことしました……?」
嘆くシマノにユイが憐れみを込めた眼差しを向ける。とにかくこのままではシマノの精神衛生上非常によろしくない。一刻も早くこの暗闇と物騒なオブジェ群から距離を取るべきだろう。それに、シマノでこの有様なのだから、元々暗いところを苦手とするニニィが耐えられるとはとても考えられない。こちらの捜索も急いだ方が良さそうだ。
「行こうシマノ。ニニィが心配」
「そ、そうだよな。早く見つけて、キャンとムルとも合流しないと」
仲間のため、という大義名分を得たおかげか、シマノのメンタルはやや持ち直したようだ。ユイの両目ライトを頼りに、二人は暗闇の中はぐれた仲間たちの捜索を開始する。
***
「うおおお! 暗えええ!」
「はしゃぐな、声を落とせ」
亀裂の存在に気づかないまま真っ先に飛び込んだキャンとムル。彼らもまたシマノたちと同じく暗闇に囲まれていた。
「あれっ、オレたちさっきまで山にいたよな? なんで真っ暗?」
「穴にでも落ちたか。だいぶ地底深くまで来てしまったようだ」
ムルの「地底」という言葉にキャンがすぐさま反応する。
「地底!? 地底って地底民っていうやべーやつらがいるんだろ!? オレたち今地底にいんの!? 怖えええ!!」
放っておいたらいつまでも一人で喋り続けそうな勢いだ。キャンの子どもらしい無邪気なリアクションに、ムルは寂しげに笑った。
「なーなー、ムルはなんでここが地底って分かるんだ?」
当然の疑問だ。ムルはほんの少し間をおき、黙ってフードを外した。透き通るような銀髪が、毛先から徐々に青白い光を帯びていく。
「我は地底の者。石の声を聞き、石とともに在る」
暗く澄んだ深青の瞳が真っ直ぐキャンを捉える。その視線に射止められたキャンは口をポカンと開け、しばらくの間呆然としていたが、やがてぽつりと一言こぼした。
「きれい…………」
「っ……!」
予想外の反応にムルは面食らった。眼前の少年は臆することなく眼をキラキラと輝かせ、押し倒さんばかりの勢いでムルに迫る。
「すっげー! かっけー! なんで光るの? 石の声ってどんなの? 地底民はみんな光るの?」
矢継ぎ早に質問をぶつけると、キャンは突然ハッと我に返り耳と尻尾をしょぼんと下に垂らした。
「……ゴメン、オレさっき酷いこと言った」
「気にするな。我も気にしておらぬ」
ムルがそういうとキャンはまたパッと明るい表情に戻り、あれやこれやと質問責めを再開した。ころころとよく変わる奴だな、とムルは呆れつつも、顔には穏やかな笑みを浮かべている。
「我ら二人では心許ない。シマノたちとの合流を目指そう。行くぞ」
キャンの止まらない質問マシンガンをぴしゃりと止め、ムルは石の声を頼りに歩き出した。
***
「シマノ~、ユイ~……どこ行っちゃったのよ……」
明かりもない真っ暗闇の中、不安げに仲間の名を呼ぶニニィの声が響いた。だが、響いたその声は誰にも届くことなく霧散し、静寂がニニィを覆い蝕んでいく。
「結局……あの時と同じ、か」
自嘲するように呟くと、ニニィは力なくしゃがみ込み膝を抱えた。
「また、戻ってきちゃった……」
膝の間に顔をうずめ、じっと耐える。静寂の中、聞こえるはずのない音が次々とニニィの耳を嬲っていく。荷車の揺れる音。樽や木箱のぶつかり合う音。「商品」を品定めする声。声。声。小さな木箱に押し込められ、ここから出してとすすり泣く、幼い自身の声。忌まわしい過去の記憶が音となってニニィを苦しめる。
「やだ……やめてよ……」
「お願い……誰か助けて……ここから出してぇ……!」
硬く目を閉じ耳を塞ぎ、絞り出すような声で懇願するニニィの眼前に、一筋の光が射した。ニニィは無我夢中で目を開け、光の先へ手を伸ばす。
その小さな手を、光の向こうから伸びた大きな手が、取った。
「…………師……匠?」
「まったく、いつまで寝ぼけているつもりだ」
ニニィの手を取ったその人は、かつて慕った「師匠」だった。気が付けば辺りの暗闇も消え去り、ニニィは師匠とともに、当時二人で暮らしていた小屋の前に立っていた。
「早く入れ。もう日が落ちる」
師匠に促されるまま、ニニィは懐かしいその小屋に足を踏み入れた。
「随分うなされていたようだな」
薪ストーブに火を入れ、夕餉のスープを温めながら師匠が声をかける。白髪交じりの頭に、痩せた背中。その様を部屋の隅から遠巻きに眺めながら、ニニィはどう答えようかと思案していた。窓の外から日暮れを告げる鴉の声が届く。鬱蒼と茂る森。その奥の奥、人の滅多に寄り付かない場所に、ニニィと師匠が暮らした小屋はあった。
「……腹でも減ったか? まだかかるから気を長くして待て」
黙ったままのニニィを気遣い、師匠が気さくに語りかける。少し掠れた、聞く者を安心させるような落ち着きのある低い声。ニニィはそれにもうまく答えられないまま、ストーブの薪が小さく爆ぜる音だけが沈黙の隙間を埋めていく。記憶のままの小屋。記憶のままの師匠。全てが、「あの時」のまま。
「ねぇ、師匠」
意を決して、ニニィは師匠に話しかける。
「ん?」
「…………ううん、何でもない」
うまく言葉を繋げず、ニニィは曖昧に笑ってごまかした。師匠はやや訝しんだが、然程気に留めずにスープの方へ向き直る。その背中を見つめながら、ニニィは一つ、小さな溜息を吐く。だって、こんなこと、どう伝えたらいいんだろう? 師匠はもう、死んでしまったはずなのだから。