小鳥のさえずり。心地よい風が頬を撫でていく。木洩れ日は瞼をくすぐり、うっすらと、大地に横たわる青年の目を開かせた。よく晴れた、穏やかな昼下がり。小さく明るい森の真ん中で、一人の青年がその身を起こした。
「……外? えっなんで?」
穏やかな昼下がりにはおおよそ似つかわしくない素っ頓狂な声を上げた青年は、自らの置かれた状況に困惑しているのか辺りを必死で見回している。
「俺外で寝た? 嘘だろおい……スマホも財布もないし……」
青年はブツブツと独り言ちながら頭を抱えた。
「これ絶対何かやっちゃってるやつだ。何やったかは覚えてないけど」
とにかく人のいそうな所へ、と考えた青年の背後で、パキ、と小枝の折れる音が響く。周囲でさえずっていた鳥たちが一斉に羽ばたき去っていく。嫌な予感以外の何物でもないものを抱きながら、青年は恐る恐る背後を振り返った。
「オイオイオイオイ、こんなところにクソ雑魚種族の人間ちゃんがいるぜ~?」
トカゲだ。それも軽く二メートルはあろうかというオオトカゲが、どういう理屈か二本の足で立ち、おまけに発話している。二人も。
「コラコラコラコラ、人間ちゃんが俺らリザードマン様の縄張りに許可なく入っちゃいけねえよな~?」
突拍子もない出来事に青年の思考回路は完全に停止していた。だが、目の前の二人のリザードマンとやらは一丁前に防具を身に着け、手には片手斧のような武器を持ってこちらを睨みつけている。今すぐここから逃げないとまずい、ということだけは青年にも辛うじて分かった。
「ごめんなさいもう帰ります失礼しましたっ!」
言うが早いか青年は全速力で逃げ出した。行く当てなどどこにもないが、とにかく走ってこいつらから逃れるしかない。
「待てやコラァ!」
幸いリザードマンたちの足はさほど速くないようだ。とはいえ青年も決して走るのが得意なわけではなかった。おまけに森の中は複雑に入り組んでおり、同じようなところを行ったり来たりでいつまで経っても抜け出せない。青年の体力はじわじわと削られ、リザードマンたちとの距離は少し、また少しと縮まっていった。
「ちょこまかちょこまかと……いい加減大人しくしろや!」
痺れを切らしたリザードマンの一人が手に持っていた斧を青年に向かって投げつけた。斧は勢いよく回転しながら青年の左肩を掠り、その奥の木の幹に突き刺さった。
「い゛っ……!」
青年は思わずその場に倒れこみ、左肩を押さえてうずくまった。
「待って何これどうなってんの……めちゃくちゃ痛い……夢じゃないのか……」
「オイオイオイオイ、もっと真面目に狙えよ」
「コラコラコラコラ、これでいいんだよ。ちゃんと狙ったら殺しちゃうだろ? 人間ちゃんは弱えんだから」
リザードマンたちはニヤつきながら青年を見下ろしている。斧を投げつけてきた方の個体が、青年の左肩を押さえている右手ごと土足で上からグリグリと踏みつけた。
「痛い痛い痛い!」
「ピーピー喚いてんじゃねえよ。これだからクソ雑魚種族は……」
リザードマンの言葉が不意に途切れる。二人は青年から離れ、一方を見つめて警戒しているようだ。
「どこのモンだ? 出てこいや」
リザードマンの言葉に答え、ゆっくりと歩いて姿を現したのは一人の少女だった。だがそのあまりにもこの世界と不釣り合いな容姿に、リザードマンも青年も目を疑った。
彼女の全身は機械で覆われていた。いや、覆われているのではなく身体のパーツそのものが機械でできているのかもしれない。華奢な少女の肢体はライトグリーンのぴったりとしたスーツで覆われ、関節や前腕、足部、腹部、頭部などにいかつい機械パーツが搭載されている。それらの機械パーツとスーツを繋ぐかのように身体全体を流れる細いライン模様は、怪しげに揺らぐ深緑色の光を発していた。
かたやこちらは片手斧に軽装備の防具をつけたリザードマンと普通の青年である。端的に表せば、文明レベルが違いすぎるのだ。
「何だァこいつ……人間か? ヘンな装備しやがって」
「オイ、ガキ。ここが俺らリザードマン様の住まう『ラケルタの森』だって分かってんのか?」
リザードマンの一人が片手斧をちらつかせ凄んで見せるが、少女は全く意に介していないようだ。
「警告します。その人間を解放し、直ちにこの場を離れなさい」
一切表情を変えずに言い放った少女の態度がリザードマンたちの神経を逆撫でした。
「ちょ~っとイイ装備持ってるからって調子乗んなよ?」
「生意気な人間のガキが……俺らに指図してんじゃねえぞ……」
今にも少女に襲い掛かりかねないリザードマンたちの様子に、青年はうずくまったまま必死で声を振り絞る。
「きみ……早く逃げて……ここは俺がっ、何とかするから……!」
思いがけない青年の言葉にリザードマンたちは振り向き、そしてゲラゲラと笑い出した。
「オイオイオイオイ、お前何カッコつけてんの?」
「お前みたいな貧弱野郎が何とかするって? ムリムリムリムリ!」
斧を持ったリザードマンが青年に近づく。
「再度警告します。その人間を解放し、直ちにこの場を離れなさい」
「聞くかよ」
リザードマンは少女の警告を無視し、青年を踏みつけて動きを封じると、斧を青年の首筋にあてがい少女を挑発する。
「そこのガキ。こいつを解放してほしいんだろ? だったら大人しく俺らの言いなりになってもらおうか」
もう一人のリザードマンは腹を抱えて笑っていた。
「だっせぇ~! カッコつけた上に足引っ張ってやんの!」
青年は自らの無力さと死の恐怖に、唇をかみ震えている。勝利を確信したリザードマンたちは、あろうことかこの後どうやって青年と少女を嬲ってやるかを話し合い始めた。
ところが、少女の表情は全く変わらなかった。まるで本当の機械であるかのように。
「警告を無視、敵対行動を確認。これより排除にかかります」
次の瞬間、ドンッという音とともにリザードマンの右腕が片手斧ごと吹き飛んだ。一瞬、何が起こったのか誰も把握できないまま、右腕を失ったリザードマンはじっと腕があったはずの空間を見つめ、やがてギャアアアアとけたたましい悲鳴を上げながら一目散に逃げていった。笑っていたリザードマンも顔を青ざめさせ、少女が次に自分に狙いを定めたのを見て取るとこちらも情けない悲鳴を上げながら逃げていった。
少女は構えていた小型の光線銃をしまい、青年の元に駆け寄ると無表情で手を差し伸べた。
「立てますか?」
「あ……ありがとう」
青年は少女の手を取り何とか立ち上がった。肩は痛いし、殺されかけた恐怖で足は竦んでいたが、これ以上、この見ず知らずの少女にカッコ悪いところを見せたくはない一心で踏ん張った。
「肩の治療を行いたいところですが、この森からの脱出を優先することを推奨します。この『ラケルタの森』は彼らリザードマンの縄張り。逃げていった彼らが仲間を連れ戻ってくる可能性が極めて高いでしょう」
少女は無表情のまま淡々と告げた。本当に機械そのものなのかもしれない、と青年は考える。
「わかった。でもその前に」
歩き出しかけた少女が振り返り、小首をかしげる。
「何か?」
「きみは誰? なんで俺を助けてくれるの?」
少女はやはり表情を変えないまま、淡々と答える。
「私はユイ。あなたを守るために生まれた者」
「えっ、俺を? なんで?」
「そう創られたから」
いまいち答えになってないような……と感じつつ、青年はユイに促され、ともに森の出口を目指して歩き始めた。歩きながらユイが尋ねる。
「あなたの名前は?」
「俺は……」
名前を思い出そうとして、青年はふと考える。そういえば、俺は何でここにいるんだ。ここはどこだ。リザードマンなんて現実世界で見たことがない。現実世界。じゃあここは現実じゃないのか? そもそも俺は何者だ……だめだ、全く思い出せない。ただ一つ、一つだけ覚えているのは。
「シマノ」
青年シマノはそう答えた。
「……って、俺を守るために生まれたのに名前も知らないってどういうこと?」
「?」
ユイには今一つピンと来ていないようだ。謎は多いが、とにかく今はこの森からの脱出を優先しようと決意し、シマノは少し足を速めた。