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第6話

 授業以外で久しぶりに来た理科室は、相変わらずほこり臭い。

 ホームルームが終わってから、真っ直ぐにやってきたので、まだ氷室先輩は来ていない。

 なにか実験でもしてみようか、と考えたけれど、そういう気分にはなれなかった。


 実験器具を見るともなしに見ていたら、理科部に入って初めてやった雲をつくる実験を思い出した。

 まずフラスコに水を入れ、ふたをする。よく振ってから、ふたをしたまま線香の煙を中に入れる。そして、注射器で中の空気を抜いてやれば自然と雲ができる。

 そんな単純な実験だったけど、初めての僕は緊張していたし、やり方を書いたプリントを渡すだけだった氷室先輩も、僕の方をちらちらと見ていた。

 フラスコの中に、雲ができたときは、思わず氷室先輩と顔を見合わせて笑った。

 あのときは、まだなにも考えていなかったし、思ってもいなかった。

 不意にトビラの開く音がした。


「山名くん」

 振り返ると、氷室先輩がいた。驚いた顔じゃなかった。僕が来ることを予感していたのだろうか。

「ひさしぶりだね」

 氷室先輩はカバンを机の上に置き、理科準備室のロッカーから白衣を取り出しはおった。いつものスタイルだ。

「先輩……あの」

「ひとつ、わかったことがあるの」

 氷室先輩がさえぎるように言った。

 僕は戸惑いながら、氷室先輩を見る。実験の準備を黙々として、こちらには一瞥もくれない。

「なにが……わかったんですか?」

 恐る恐るきく。

 自分の本当の気持ちが、なんて言ってくれないだろうか、と期待しながら。

「どういうタイミングで猫になるのか、が」

「えっ?」

 予想外の言葉に僕は驚く。それは重大な発見だった。それがわかれば、対処の方法もあるかもしれない。

「私が猫になるのって、寂しいと思ったときみたいなの」

「寂しい? それってどういう……」

「正確に言うとね。山名くんに会いたくなると、ってことみたい」

「僕に、ですか?」

 信じられない言葉だった。今言ったことをまとめると、氷室先輩は僕に会えないと寂しくて、そして猫になる、と。


「この間、初めて土日以外で猫になったの。あれは、山名くんと会えなかったからだと思う」

「で、でも、それは変ですよ。僕と出会ってからは、一年と少しですよ。それまではどうだったんですか?」

 反論したくないのに、僕は反射的に反論していた。理系の哀しい性だ。

「それまではないの」

「ない?」

「うん。私が猫になるようになったのは、山名くんと出会ってから」

「そんな……、わけがわからない」

 僕は近くにあったイスに、ドスンとすわりこんだ。

「私にとって、山名くんは保護者じゃないよ。いないと寂しいの」

「彼氏がいるのに?」

 口をついて出る言葉が、つい皮肉っぽくなってしまう。

「有沢さんは別だよ。彼も大事だけど、私にとって山名くんも大事なの」

「都合がいいですよ。それに証拠がない。僕と出会わないと猫になる証拠が」


 むなしい反駁だ。そんなものがあれば、猫にならない解決策だって、とっくに導き出せる。

 でも、氷室先輩の答えは意外なものだった。

「あるよ。というより、山名くんも気づいてるでしょ? 私が猫になると、なんでいつも真っ直ぐに山名くんの家に行くの? 猫になっている私はほとんど意識がないのに」

「それは……」

 以前考えたことがあったが、餌を与える僕に対する帰巣本能か、または氷室先輩の無意識がそうさせる、ということしか思い浮かばず、途中でやめてしまったことだった。

「これは仮説だけど、猫の私が山名くんをとても好きなんだと思う」

「猫の先輩が?」

「うん。それなら説明がつくでしょ」

 人ごとみたいに氷室先輩に問われて、僕は開きかけた口を閉じる。


 たしかに説明はつく。この間、川に行ったことは例外だけれど、それも僕に探させることを目的としたのなら、一応の説明はつかないこともない。猫にそんな知恵がまわるとは思えないけれど、ただの猫ではないわけだから。

「だとすると、僕は猫の先輩に必要とされている、ということですか?」

「そうなるかな。でも、私にとっても山名くんは大事な後輩だよ」

 笑顔で言う氷室先輩には、その言葉がどれだけ残酷か理解していないに違いない。

 でも、希望を捨てるべきじゃないかもしれない。猫の氷室先輩が僕を好きなら、いつか人の氷室先輩も好きになってくれるかもしれない。ただ、一つ問題があるとすれば……。

「二股ですか?」

 僕の問いに、氷室先輩は首を傾げてニヤッと笑って言った。


「二股じゃなくて、猫股じゃない」

 力が抜ける。とても、重大なことを話している最中だとは思えない。

 反論する気はもうなくなっていた。僕にとって氷室先輩が必要なのは違いないのだ。相手も必要と言ってくれているわけだから、問題は……あるけど。

 有沢先輩にバレたときはバレたときだ。その時考える。

「なんだか先輩といると、楽天的になるみたいです」

 僕が言うと、氷室先輩は今頃気づいたの、という顔をして、

「ま、猫だからね」

 と言った。

 当分僕は、氷室先輩に振り回されることになりそうだ。

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