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第4話

 部活を休み始めてから、二週間になる。

 我ながら情けないとは思う。氷室先輩が男と歩いていたから部活を休むなんて。

 でも、どうしても足が向かない。何度か氷室先輩ものぞきに来てたけれど、その度に僕は姿を隠して逃れてきた。

 氷室先輩に直接確認したい気持ちもある。あの男は誰ですか? そう一言聞くだけでいい。氷室先輩は答えてくれるだろう。ただ恐いのだ。もし氷室先輩の口から「彼氏」なんて言葉が出てきたら、僕は、僕の気持ちはどこへいくのだろうかって。


 お昼休みになって、クラスの友達とお弁当を食べているとメールが入った。ポケットから携帯電話を出して確認すると、氷室先輩からだった。どうせ部活を休んでることだろう。もう、何度も同じようなメールをもらっている。

 そう思って開いたら違っていた。

『ネコ』

 そう一言書いてあった。


 意味がわからない。猫? 猫がどうしたというのだろう。僕と氷室先輩の間で猫といえば、あのことしかない。でも、それがいったいどうしたっていうんだろうか?

 僕は気になったけれど、放っておくことにした。今は氷室先輩のことを考えていたくない。

 メールのことを思い出したのは、放課後になってからだった。いくら氷室先輩だって、あんな変なメールを送ってくるなんて、やっぱりおかしい。

 放課後に、恐る恐る理科室に行ってみるが、誰もいない。あまり気が進まなかったけれど、三年生の教室に行ってみることにした。


「えっ、氷室さん? お昼頃に具合が悪いとか言って、早退したけど」

 まだ教室に残っていた女子にお礼を言うと、僕は学校の外まで歩きながら考えた。

 どうにも腑に落ちない。どうして、氷室先輩はあんなメールを送ってきたのだろうか。まさか急に猫になりそうになったとか? でも、氷室先輩が猫になったのはつい二週間前だ。今までそんなに早い間隔でなったことはない。

 そもそも、僕に連絡してこなくたって、あの一緒に歩いていた男に連絡すればいいじゃないか。


 うまく考えがまとまらないまま歩いていると、少し先にこの間の男が友達数人と歩いていた。

 彼女が早退したっていうのに、のんきなもんだ。

 僕はむかつきを覚えながら、早足で高校生たちを追い抜く。そのまま段々と速度を上げて、最後にはかけ足になっていた。

 肩で息をしながら駅につくと、僕は思いきって氷室先輩に連絡してみることにした。


 携帯電話を操作して、氷室先輩の電話番号を呼び出す。最後のボタンを押すときに、指がちょっと震えた。

 呼び出し音が鳴るがつながらない。留守番電話サービスに切り変わったところで、電話を切った。

 どうするべきか? もし、氷室先輩が猫になってしまったとすれば、それはかなり危険な状態だ。猫の間は氷室先輩は自分の意志で動いているわけじゃないから、どこへ行ってしまっても不思議じゃない。


「ああもう! くそっ」

 僕は舌打ちをして、駅から離れて走り出した。

 猫が行きそうなところを片っ端から探すしかない。

 こんな時だというのに、空はどんよりとして、今にも雨が降り出しそうだった。

 周りはどしゃ降りの雨で、視界が悪かった。

 制服は雨で重くなって、まるで重りをつけているみたいだった。

 めぼしいところは探したはずだけれど、最後に一カ所だけ思い出した場所があった。前に一度、氷室先輩が猫の時に抜け出したことがあった。その時は近くで見つかったのだけれど、後から聞いたら「川が見たかったような気がする」と言っていたことがあった。

 この辺りで川といったら一つしかない。


 土手までやってきたが、相変わらずの雨が視界をさえぎって、間近にいかなければ確認できない。しかも、川も増水していて危険だった。

 土手を慎重に歩きながら、呼びかけてみるが、声も雨音に消されてしまう。もうダメだろうか。そう考えたとき、かすかな鳴き声が聞こえた気がした。


「氷室先輩?」

 僕は辺りを見回すが、姿は見えない。

 土手の下の方は、川の水がせまってきている。僕は意を決して土手の下にすべり下りた。足下を気をつけながら探す。

 ――いた。背の高い草が茂っている根本に、体を丸めていた。白と茶色が混じった毛並み、このどこかすっとぼけた顔つき。氷室先輩に間違いない。

 僕は抱きかかえると、駅に向かって走り出した。腕時計を見ると、四時半を過ぎたところだ。


 いつもの通りだとすれば、あと三〇分すると、いつ氷室先輩は人間の姿に戻ってもおかしくない。そうなるとどうなるか。考えるまでもない。

 電車のスピードをもどかしく感じながら、僕は駅を下りると、傘も差さずに家まで走った。時間はどうにか間に合いそうだった。


 家に着いたのが、五時ちょうど。親はちょうど出かけていた。あとで、家の留守電を確認したら、雨がおさまるまで待つと入っていた。姉貴は友達と旅行中なのが幸いした。僕はバスタオルにくるんだ猫を、姉貴の部屋に放り込み、メモ書きを一枚、ドアの下から滑り込ませた。

『姉貴の部屋です。適当に服を着てください』

 一息つくと、僕はシャワーを浴びて、氷室先輩が出てくるのをただ待った。これで、あの猫が野良猫だったら、僕はただのバカだ。そうじゃない、と思いたいけど、一〇〇パーセントの自信があるわけじゃない。

 六時過ぎになって、姉貴の部屋で急にがさがさと音がし始めた。それからさらに数分後、ドアが開いて、氷室先輩が出てきた。


「山名くん……」

 哀しそうな、それでいて嬉しそうな、複雑な顔を氷室先輩はしていた。

 なにか声をかけようと思いながら、なにを言っていいのかよくわからなかった。

「ありがとう。助けてくれたんだよね?」

「そりゃあ、あんなメール送ってこられたら、助けないわけいかないじゃないですか」

 僕は照れくささから明後日の方を向いて言った。

「急だったから、人気のないところに行くのが精一杯だったの。あと、短いメールを送るのが」

「……一つ聞いていいですか?」

「いいよ」

「どうして僕にメールを送ったんですか? 氷室先輩、高等部の彼氏がいますよね? どうして彼氏に送らなかったんですか」

 問い詰めるような口調になったことを、言った後に後悔した。

 氷室先輩は、ちょっと驚いたような顔をしたけど、すぐに真顔になった。

「当たり前じゃない」

「当たり前?」

「だって、私の本当を知っているのは山名くんだけなんだよ」

「そ、それなら、彼氏に教えればいい」

「イヤダ」

「子供のワガママみたいなこと言わないでください。僕は氷室先輩の保護者じゃないんですよ」


 氷室先輩は僕の言葉に、黙ってしまった。言い過ぎただろうか? でも、これが本当の気持ちだ。僕は氷室先輩の保護者じゃない。

「帰る」

 氷室先輩は呟くように言って、玄関に向かっていく。

 怒らせてしまったかもしれない。それでも僕は、きちんと言わなくちゃいけなかった。いつまでも保護者みたいな立場でなんていたくない。

 後を追いかけて玄関まで向かう。氷室先輩は玄関で立っていた。僕が行くと、振り返った。

「クツと傘、借りていい?」

 氷室先輩の表情は怒ってはいなかった。でも、笑ってもいなかった。

「どうぞ」

 僕は姉貴の使っていなさそうなスニーカーを出し、傘立てにあったまともそうな傘を渡す。

「ありがと」

 氷室先輩はぎりぎり聞き取れるぐらいの小さな声で言って、玄関から出て行った。


 ドアが閉まると、僕は大きく息を吐いた。

 いつの間にか握りしめていた拳をほどき、自分が緊張していたことに気づく。

 今言ったことは賭だった。自分はただの保護者のつもりはない。そう宣言したのだから、今までみたいにはいかなくなるだろう。

 もしかしたら、このまま避けられて、氷室先輩は彼氏に自分の特異体質のことを相談するかもしれない。それでも、今のままよりはマシだと思った。こんなはっきりしない状態よりは。

 不意に玄関のドアが開いた。

「あら健一、なにしてるのそんなところで」

 母親が怪訝そうな顔で聞いてくる。僕はぼんやりとした頭のまま、あいまいな笑みをうかべた。

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