雨音に混じって、猫の鳴き声がした。
ベッドに寝ころんで雑誌を見るともなしに見ていた僕は、飛び起きて、窓の外を見た。
外はものすごい勢いで雨が降っていたけれど、その中を猫が一匹、部屋の窓の前で座っていた。びしょぬれになっている。
「氷室先輩!」
慌てて僕は窓を開けて、猫に手を伸ばし抱きかかえる。こちらも濡れてしまうけれど、そんなことはどうでもいい。用意しておいたタオルにくるんで、優しく拭いてやる。
ニャアァ、と気持ちよさそうな鳴き声を、のんきに上げているところをみると、風邪などは大丈夫そうだ。茶と白が混じった、カフェオレみたいな毛並みがふわりとしていて、どことなく愛らしさがある。
一通りふいてやると、猫は軽やかに僕の腕から飛び降りた。音もたてずに床に着地して、今では定位置になっているベッドの上に飛び乗って丸くなる。
「相変わらず、マイペースだなぁ」
僕は苦笑いをして、ベッドに腰かけた。
さて。ここまでくると僕は先輩に焦がれすぎて、猫まで先輩に見えてしまう変な中学生と思われてしまうだろうから、説明をしておこうと思う。
そのためには、多少……いや、かなりの柔軟な頭が要求されるから、心して聞いてほしい。
まず、この猫は氷室先輩だ。あっ、今やれやれって顔をしなかったか? ちぇっ、まあいいけど。
僕だって、バカじゃない。信じるに足る理由というのが、ちゃんとある。
もう一年も前のことになるだろうか。
まだ僕が一年生の頃、入り立ての理科部に毎日のように顔を出していた。氷室先輩はまだ部長じゃなくて、違う人がやっていたはずだけれど、いつもいるのは氷室先輩だけだった。
後輩に指導する、なんて人じゃないから、なんとなく氷室先輩のすることを見たり手伝ったり、自分で勝手に危険じゃない程度の実験をしたりして、時間をつぶしていた。
そんなふうにして過ごして、夏休み前のことだった。いつものようにまったりと実験にはげんでいたら、氷室先輩が手を止めて突然言ったのだ。
「山名くん。わたし、明日猫になりそう」
真顔だった。氷室先輩って、真顔で冗談を言う人だったのか、と場違いなことを考えたのも覚えている。それはあながち間違いでないことは、後々知ったけれど、この時は違っていた。
「どうしよう?」
本当に焦ったような顔で、氷室先輩が言うから、僕はつい言ってしまったのだ。
「それなら、うちで預かりますよ」――と。
冗談の受け方としては、悪くないと今でも思う。でも、それが始まりだったのだ。
「そっか。なら、大丈夫だね」
氷室先輩はにっこりと微笑んで、冗談だと笑い飛ばしもせずに、そのまま実験を再開してしまった。
取り残された形の僕は、「いや、まさかね」などと、ぼそぼそとつぶやいていた。
そして、翌日の土曜日。お昼過ぎに猫が一匹、僕の部屋の窓を引っかいた。
それから毎月のように、
間隔はほぼ一ヶ月。学校が休みの土日祝日のどれかで、お昼頃から、五~七時間で元に戻る。猫の間の記憶は、曖昧だけどかすかには残っている。
ここ一年でわかったことは、それぐらいだ。規則性と呼べるほどのものなのかどうかもわからない。そもそも、猫=氷室先輩という図式すら、疑う余地は十分にある。
でも、いわゆる変身シーンは見たことなくても、限りなくそれに近い状況は何度も確認している。
というのも、元に戻るときは、前もって預かっておいた着替えを入れたバッグと一緒に、押し入れに入ってもらうことにしているからだ。そうしてしばらく経つと、氷室先輩が押し入れから出てくる。マジシャンでもない限りは、猫=氷室先輩は成立する、と考えていいのではないかと思う。
ちなみに帰りは、二階から屋根を伝い塀の上に移って、そこから飛び降りてもらっている。幸い、僕の部屋側には他に家がなく、見られる心配も少ない。
「今日もありがとう。それじゃあ、バイバイ」
元に戻った氷室先輩は、雨が小降りになるのを待って、窓から屋根へと慣れた様子で降りていった。人間のときも、まるで猫みたいだ。
足をすべらせないかと心配したけれど、氷室先輩はあっさりと着地に成功し、小さく僕に手を振ると小走りにかけて行ってしまった。
僕はその様子を、笑みをうかべて見送るしかなかった。氷室先輩が帰った後は、いつも目が回るような息苦しさを感じる。それは、苦しいんだけれど、どこか心地よさもふくんでいた。
この気持ちをなんと表現するのだろうか。最近の一番の問題はそのことだ。