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先輩と猫
秋木真
恋愛現代恋愛
2024年07月26日
公開日
11,022文字
完結
理科部に所属している僕。
「今週、アレらしいの。また、よろしくね」
理科部の部長の氷室先輩にそう言われる。
その週末に僕の部屋の窓の前に猫がやってきた。

第1話

 グツグツと音をたてて、鍋が火にかけられていた。その中身は、見たこともないような紫色をしていて、臭いは芳香とは言い難い。部屋は薄暗く、鍋の前で妙に嬉しげな顔をした女の人が立っていた。


 この状況を一言で言い表せと問われたら、魔女がなにか悪いものを作っている、と僕は答えるだろう。

 そして、それは大きくは違っていないと思う。


「ねえ、どうして人間はしなくてもいいことをすると思う?」

 彼女が不意にこちらを見て言った。

 手入れのしていないショートボブの髪の毛には、あちこちに寝癖がついていた。はっきりとした黒縁の眼鏡に気をとられるが、顔の作りはとても小さく、実は可愛らしい。でも、その可愛らしさを、制服のシャツの上から白衣を羽織るいつもの彼女のスタイルが打ち消していた。


「しなくてもいいことって、例えば?」

「いろいろあるでしょ。人間が生きるためには、食べて、寝て、適度な運動をすればいいだけなのに、それ以外のことばかりしてる」

「今の氷室先輩のしていることとか?」

 僕の問いに、彼女は視線を僕から大鍋に移し、また僕に戻ってくる。

「そう。これもしなくてもいいことだね」

 彼女はそう言って、おたまを手に取り、鍋をかき混ぜた。

 ただよう臭いが強くなる。いますぐ退散したくなるような臭いではないが、長時間は嗅いでいたくない、そんな臭いだった。


「ところで、一つ聞いていいですか」

「なに?」

「なにを作ってるんですか?」

「ああ、これ」彼女は困ったように、苦笑いをして鍋を見た。「最初はさつまいもを入れた、スープを作ろうとしたのだけれど、なぜかすでに食べ物の気配がしないのよね。やっぱり、隠し味にテトラドトキシンを入れたのがまずかったかしら」

「な、なるほど……」

 僕は言いながら後ずさる。テトラドトキシンといえば、フグの猛毒だ。これだけ煮立てたら、気化していて近づくだけでやばいんじゃないか?

「やーね。冗談よ。テトラドトキシンなんか入れるわけないじゃない」

 氷室先輩は笑いながら言うが、なんだか目が笑っていないような気がして恐い。

「ところでさ、山名くん」

 氷室先輩が手を止めて、僕を見た。

「なんです?」

「今週末、アレらしいの。また、よろしくね」

「ああ、もう一ヶ月でしたっけ? わかりました。用意しておきます。……それじゃあ、そろそろ僕は帰りますね」

「うん。わたしはもう少し残っていくから」


 氷室先輩にあいさつをして、僕は理科室を出た。一応、部活動ということにはなっているけれど、一二人いるはずの部員は、僕と部長の氷室先輩しか出てこない。他の部員は、内申のための席を置いているだけだ。私立中学の部活なんて、こんなものかもしれない。顧問の先生だって、顔を出すことはまれだし、元々期待されてもいないようだから、その点は気が楽だけど。

 僕は電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りると、自宅とは違う方向に足を向けた。今日は木曜日だから、先輩のアレは明後日の土曜日かその次の日曜日なのだろう。まだ一日余裕があるが、準備を早めにしておくことにこしたことはない。


「キャットフード、キャットフードと……」

 僕は家から遠いスーパーマーケットまで足をのばして、キャットフードをかごに入れる。うちは一戸建てだけれど、動物の類いは一切飼っていない。家族に動物嫌いがいるわけでもないけれど、特別飼いたいと言い出すほど好きな人もいない、という、よくある理由だ。

「七三五円になります」

 レジのおばさんにお金を支払い、おつりとレシートを受け取って外に出る。雲が多く、風が湿り気をおびていた。もうすぐ雨が降るかもしれない。


 足早に帰路につく。駅までもどり、さっきとは反対方向に歩く。家の近くにもスーパーマーケットはあったが、そこでは近所のおばさんがパートで働いているから避けている。キャットフードを買っていることを、母親に告げ口されると面倒なことになるからだ。

 家につくまでに、なんとか雨に降られずにすんだ。僕はリビングにいるだろう母親に「ただいま」とだけ言って、二階の自分の部屋にあがった。


 キャットフードは、もちろん鞄の中に放りこんである。

 部屋のドアを閉めて、ほっと息をつく。この瞬間までは何回やっても緊張する。悪いこと(少なくとも法は犯していない)をしているわけでもないのだけれど、見つかれば言い訳をしなきゃならない。そういうのは、僕は得意じゃない。


「先輩には、ほんと世話をかけられるよな」

 僕はぼやきながら、キャットフードを引き出しの奥にしまう。毎回、そんな風に一人で面倒くさそうに装っているけど、自分でだってわかっている。結構、楽しみにしているってことに。

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