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―第三章 初めまして―

 夢を見ていた。遠い昔の記憶を、深い意識の底で。

 スーパーで買い物をしている母に駆け寄る。小さな手には、好きだった菓子を二つ持っていた。振り向いた母は呆れたように笑いつつ、お菓子は一個までだからね、と優しく言った。多少の不満はあったが、返事をして持っていた菓子の一つを棚にしまう。ちゃんと選べて偉いわね、と母が褒めてくれたところで、両手に酒缶を持った父が戻ってきた。母が咎め、父が困った顔をしながらたまにはいいだろう、と甘えているところに、小さな指を差す。パパ、一個までだからね、と母が言っていた言葉を真似すると、両親は顔を見合わせて笑った。そうか、拓真がそう言うなら仕方ないな、と父は笑いながら片方を元の場所へと戻しに行った。そうして父の背中を目で追いかけていると、誰かと目が合った。

 確かに目が合ったのだ。なのに、顔を思い出せない。黒いクレヨンで塗りつぶしたように、顔だけがどうしても思いだせなかった。

 背中に嫌な汗をかいている。心臓の鼓動が、どんどん早くなっていく。

 あれは、誰だ?



 荒い呼吸が聞こえて、目が覚めた。それが自分のものだと知るのに、拓真はほんの少しだけ時間を要した。心臓が痛いほど打ち付けられている。汗がひどく噴き出ていて、全身がびしょ濡れになっていた。


「……夢、か……」


 ほんの少しだけ安心して、長く息を吐く。しかし夢とはいえ、実際に経験したことには間違いなかった。穏やかで、幸せな日常の一瞬。確かにあった幼少期の記憶。なのに、どうしてこんなに苦しいのか。

 拓真は身体を起こし、両手で顔を覆う。それから強めに両頬を叩き、痛みで現実を思い知った。ジンジンと熱を帯びてくる頬を擦りながら、拓真は自分がいる場所を見回す。

 若干埃っぽく、見覚えのない部屋だった。隅の方に木箱や傷ついた案山子などが積み重なっているのを見る限り、物置代わりだったのだろうか。三角屋根のようで、天井は斜めになっている。天窓からは光が差し込み、優しい温かさを感じた。拓真が寝かされているのは、お世辞にも質がいいとは言えないベッドだった。ベッドの枠組みの上に藁が薄く敷かれ、さらに上から少しだけチクチクと感じるシーツを被せている。そして拓真の身体には、ペラペラの薄い毛布がかけられていた。だが文句は言えまい。床で寝るよりは遥かに上等な寝床だ。

 服は最低限というべきか、ボロボロにほつれているハーフパンツだけを履かされているようだった。上半身は何も着ておらず、汗でべたついている。

 ぺたり、と拓真は自身の胸に触れた。激しく打ち鳴らされていた鼓動は、落ち着きつつある。筋肉質でそれなりに厚みのある胸は、やはり若い時の身体を彷彿とさせた。


「生きてる……なんで生きてるんだ?」

「それはあなたが頑張って戦ってくれたからよ」


 いろいろなことがありすぎて、何が本当のことなのかもわからない。それゆえに、あまり深く考えずに出てしまった言葉だったのだが、まさかの返事が返ってきた。

 木製のドアが開いていたことに、拓真は遅れて気付いた。そこには長い金髪と力強くも美しい青の瞳を持った乙女が、バケツを持って立っている。拓真と共に戦い、守ってくれた乙女その人だった。


「よかった、目が覚めたのね。あなた、五日間も眠り続けていたのよ」

「い、五日も……?」


 乙女はドアを閉めると、拓真のベッド脇までやってきた。バケツを置くと、手ぬぐいを浸して水を絞る。それを持って身体に触れようとしたので、拓真は反射的に退いてしまった。


「ああ、ごめんなさいね。大丈夫、変なことはしないわ。身体を拭くだけよ」

「い、いいです。自分で拭きます」

「身体、動く? いいわよ、遠慮しなくたって」

「大丈夫です! 若い女の子に、そんなことさせられませんよ!」


 拓真の言葉に、乙女はきょとんと目を丸くした。睫毛の長い瞼を何度か瞬かせると、呆れたように笑いだす。


「ふふっ、変なこというのね。私たち、大して変わらない年じゃないの?」

「ええっと、それはあの……俺もわからないというか、なんというか……とにかく、自分で拭きます!」


 拓真は半ば奪うようにして、乙女の手から手ぬぐいを取った。程よく濡れた手ぬぐいはベタついた身体を拭くのに適しており、気持ちが良い。ささっと手早く身体を拭くと、拓真は乙女に手ぬぐいを返した。


「すみません、ありがとうございました。えーっと……」

「そう言えば名乗っていなかったわね。私はロザリン・ライトフィールズ。ロザリンでいいわ」


 ロザリンと名乗った乙女は手を差し出し、握手を求める。わずかな戸惑いを残しつつも、拓真はロザリンの手を握った。細い指先ではあるが、ロザリンの握手はとても力強いものだった。


「俺は伊藤拓真と言います。えっと……拓真と呼んでください」

「イトー、タクマ? なんだか不思議な名前……って、失礼よね、ごめんなさい。そんなに堅苦しくしないでいいからね、よろしく! ねえ、さっそくなんだけど、あなたのパネルを見せてくれない?」

「パ、パネル……?」

「ええ、あの戦いぶりがすごかったから、ぜひステータスを見せてもらいたいと思って!」


 何のことかと、拓真は首を傾げた。拓真の知っている限り、パネルとは薄い板のようなものを指す言葉だったと思うのだが、そんなものは持っていない。

 なんだろうと頭の中でグルグルと考えていると、ロザリンも首を傾げだした。


「……もしかして、パネルのことを知らない、なんてことはないわよね?」

「いや、申し訳ない……わからない……デス……」


 拓真の言葉に、ロザリンは衝撃を受けたようだった。可愛らしい顔に似合わないほど大きく口を開けたが、すぐに平静を取り戻し、宙を指で叩くような仕草をした。

 するとどうだろう、ロザリンの目の前に薄い縦長の画面のようなものが現れた。薄いのでロザリンの顔も透けて見える。画面には見覚えのない文字と数字のようなものが書いてあるが、なぜか全て読むことができた。


「これがパネルよ。見覚えはない?」

「な、ない、かな……」

「うーん、となると……」


 ロザリンはひどく神妙な顔をして、拓真との距離を近づけた。異性と滅多に関わってこなかった拓真は、なんだか気恥ずかしく思い、思わず顔を背ける。先ほどまで落ち着いてきていた心臓は、またも鼓動を増してきた。


「やっぱりあなたって、記憶喪失なのかしら?」

「……へ?」


 ロザリンの言葉に、今度は拓真がきょとんと目を丸くした。


「だって自分の年齢もよくわかってないみたいだし、話を聞いたところによると、あの時何が起きていたのかも、わかっていなかったんでしょ?」


 ロザリンの言うあの時とは、ロザリンに助けられたあの日のことを指しているのだろう。思い返しながら、拓真は始めに逃げることを提案してくれた褐色肌の男のことを思いだした。


「あ……もしかして、褐色肌の人から聞いたとか……?」

「そうよ。彼のことはわかる? 昔からの知り合い?」

「いいや、彼ともあそこで初めて会ったんだ。というより、俺はこの世界のことを知らなくて……」


 拓真の言葉を慎重に受け止めたロザリンは、静かに頷く。


「世界のことを知らないっていうのは……どういうこと? 自分が生まれてから、今までの記憶が一切ないっていうこと?」

「なんと言えばいいのか……俺は元々、日本というところに住んでいて……元々こんなに若くなかったんだけど、一度死んでから夢? みたいなところで……」


 忘れていたわけではないのだが、思い出す。自らを神だと名乗った、ウェルファーナという女性のことを。彼女は言っていた、自らの創った世界へ招き入れたいと。そして肉体と力を与えると言われ、目が覚めるとすでにあの場にいた。いうなれば、生まれ変わった―転生した―のだ。何をすればいいのか、目的も与えられずに。

 だがそれを言って、信じてもらえるかどうかは、また別の話だろう。何を言えばいいのか迷った拓真は、ウェルファーナについて聞こうと口を開いた。


「ロザリン、ちょっと聞きたいことが……」


 そこでタイミングが悪く、金属を打ち付けるような音が三回聞こえた。ロザリンはドアの方を見て、立ち上がる。


「来客みたいね……ちょっと待っててもらえる?」


 拓真はもちろんだと頷き、おとなしくロザリンを待つことにした。ロザリンが来て賑やかになった部屋は、静寂を取り戻してしまった。


「……俺もあれを、出せるのか?」


 ふとパネルのことが気になり、ロザリンがやっていたように宙を指先で叩いてみる。すると、微かな音を立てながら、拓真の目の前にロザリンが出したものと同じものが出てきた。だがパネルに記載されている文字は同じであれど、数値は一部記されていないようだった。


「これ……昔、じいさんが買ってきてくれたゲームで見たのと似てるな……ステータス……って言ってたっけ? 体力に、精神力……攻撃、防御、ま、魔力ぅ……?」


 やはり、現実味のない世界だ。これは夢なんじゃないかと、拓真は頬を叩こうとしたが、諦めて手を下ろした。目の前で起きていることは、全て現実なのだ。信じないと口で言おうにも、信じるしかないのが現状だった。


「これ、どういうことなのかロザリンに後で聞いてみよう……」


 そうしてロザリンが戻ってくるのを待っていると、階下から地面を強く叩きつけたような派手な音がした。合わせて、ロザリンの短い悲鳴も。


「なんだ……⁉ まさか、この間の奴らが⁉」


 拓真は慌ててベッドから降り、近くにある案山子の上に重ねてあった埃っぽいシャツを纏い、できるだけ全速力で階段を下りて行った。

 階段から降りると廊下が続いており、そこを駆けていく。さほど走らないうちに、開放的な空間に出た。まるで道場の稽古場を彷彿とさせる広場の中心に、尻もちをつかされた状態のロザリンと、三人の男が立っていた。しかし三人の男は、先日戦った相手ではない。


「ロザリン!」


 拓真がたまらず叫ぶと、三人の男は拓真へと振り向いた。


「あっ、ランディさん! あいつじゃないですか?」


 三人の男のうち、肉付きが良くて丸っこい身体の男が言う。その後ろから、背は高いが皮と骨だけしかないような痩せっぽちの男が首を傾げ、ニヤリと笑いながら呟いた。


「噂通り、黒い髪の毛に黒い瞳。間違いねえ、この辺りじゃ見ねえ作りの顔ですよ」

「ふーん?」


 二人の男の間から一歩前へ出た青い短髪の青年は、品定めをするように拓真を見る。拓真は三人を睨みつつ、ロザリンとの間に割って入るように歩み寄った。

 青い短髪の青年は、拓真から目を外さない。豊かに実った果実のように輝く橙の瞳は、ゆっくりと弧を描いていった。


「こんにちは、道端の英雄さん。今、王都では君の話題で持ち切りだよ」

「……だからなんだよ。なんなんだ、あんたたち?」


 できる限りの敵意をむき出しにして、拓真は青年の言葉に応える。青年は右手を心臓の位置に置き、軽くお辞儀をした。その目を、拓真から一切逸らさずに。


「誤魔化さず、ハッキリ言おう。君に決闘を申し込みたい!」


 紳士然とした態度の中に見え隠れする、攻撃的な熱意。それを肌で感じた拓真は、拳を強く握りしめるのだった。

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