「いやあ、話がまとまってよかったですよ、伊藤さん」
黒いスーツに身を包んだ男たち数名と、道着姿の男が古ぼけた道場の入り口にいた。道着姿の男は中年に差し掛かる年代だと思われるが、頬がこけ、黒髪よりも白髪の方が多いせいで、もっと上の年代に見えなくもない。身長は元々高いのだろうが、背筋が丸いのと表情が暗いせいで、どうにも弱々しく見える。
幸の薄そうな顔をした道着姿の男は、リーダー格らしきスーツの男が持つ保険証券をちらりと見ると、静かに視線を足元へと落とした。その様子を見て、リーダー格の男は軽い調子で言う。
「まあまあ、そんな暗い顔をしないで! かえって良かったと思いましょうよ。妻子のいないあなたで、この土地の所有権に関するごたごたを解決することができたんだ。素晴らしいことじゃないですか」
よくもまあ、そんなことが言えたものだ。道着姿の男は、そう口にせずとも、視線で語った。しかし道着姿の男の視線に気付かず、リーダー格の男は続ける。
「元々こうなったのも、解決できずあなたに引き継いだおじいさんが悪い。はじめから私たちの言う通り、素直にこの土地を明け渡せばよかったんですよ。そうすれば、あなたもこうならずに済んだのに」
リーダー格の男が言うと、その取り巻きであろう他のスーツの男たちも口々にそうだそうだと言い出した。
「今時、誰が剣道を習うっていうんだ?」
「こんな古臭いところ、誰も来ねえだろうに」
「あのジジイは本当に頑固で、話が通じない野郎だったもんなあ」
「孫に重荷を残してぽっくりいっちまうなんて、とんだ迷惑ジジイだよ」
たしかに日本の伝統武芸とはいえ、昨今では剣道を習う人の方が少ないだろう。この道場だって大正時代から存在しているのだ。改修を重ねているが古臭いと言われれば、認めざるを得ない。
だが祖父について馬鹿にされるのは、道着姿の男にとって辛抱できないことであった。
「おい」
道着姿の男はそれまで丸まっていた背筋を伸ばし、祖父を悪く言った男の肩を掴むと、自分へと引き寄せた。
「うちのじいさんを、馬鹿にするな」
道着姿の男の言葉に、引き寄せられた男は、ヒュッ、と短く息を飲みこんだ。
先ほどまでの弱々しい印象は、どこへ行ったのか。道着姿の男の鋭い眼光は、顔がやせているせいなのか、よりギラギラとした恐ろしい光を纏っていた。
自分にとって、忠誠を誓った者以上に恐ろしいものはないと、引き寄せられた男は思っていた。反社会的組織でいながらも、警察だって怖くはない。自分の身体もそこそこ鍛えているし、いざとなれば武器はいくらでも手に入る。
だが、肩を掴むこの男はなんだ。肩を掴む手に、大した力は入っていない。すぐにでも払いのけることは可能だろうが、なぜだかできなかった。その鋭い眼差しに見つめられ、声を出すことも叶わない。身長も僅かにしか変わらないはずなのに、見上げるほど大きな相手だと錯覚してしまう。
本能がこの男を恐れている。引き寄せられた男がそのことに気付く前に、道着姿の男はリーダー格の男によって、蹴り飛ばされた。
「うちの者がすみませんね、伊藤さん。でも、そのおじいさんのせいで、あなたはここにサインする羽目になったんですよ?」
倒れた道着姿の男の前に屈み、スーツの男は保険証書を見せつけた。契約者名は、道着姿の男の名である「伊藤拓真」と記されていた。受取人の名は、おおよそ親族とは考えにくい男の名前が記されている。おそらく、このリーダー格の男の名であろう。
「ちょっと悪口を言われたからって、生意気なことをするのはやめてくださいね。どうしても言いたいなら、うちの方でこの後のことを事故として処理しますけど……どうします?」
拓真はぐっと言葉を堪え、握りしめていた拳の力も緩めていった。男たちが知っている通りの弱々しい雰囲気に戻ると、リーダー格の男はニコリと微笑み、拓真に背を向ける。
「それじゃあ、私たちはもう行くんで……明日の朝までに、お願いしますよ。近くにうちの者を置いておくので、逃げても無駄ですからね。そこのところ、よく覚えておいてください。では、さようなら」
そしてスーツの男たちは去っていき、道場の入り口には拓真だけが残された。
雲行きが怪しかった空から、大粒の雨が降ってくる。ぽつり、ぽつり、とゆっくり振ってきたかと思うと、あっという間に土砂降りに変わっていった。
大雨に晒され、ようやく拓真は立ち上がる気になった。道着が濡れようがどうなろうが、気にはしていないようだった。これからそれ以外のもので汚れるのだから、気にしても仕方がないといった方が正しいだろう。
拓真は道場内に戻り、予め用意していたビニール袋を手に取った。その中には、先日購入した縄が入っている。がさり、と袋から覗く縄を一瞥すると、拓真は稽古場へと入った。
稽古場から入って正面の壁にある神棚に向かって礼をすると、拓真は竹刀を手に取り、素振りを始めた。これは幼少期に祖父から教えてもらって以来、毎日やっていることだ。
(これも……最後の素振りか)
道場が設立されてからずっと存在している古い神棚を見つめながら、拓真は竹刀を振るう。祖父と共に何度も掃除をした神棚は、すっかり年季が入って色褪せていた。
外から打ち付ける雨の音がよく響く稽古場内に、竹刀が空を切る音と拓真の息遣いのみが聞こえる。視点がぼんやりとして定まらない中で、拓真は無心で竹刀を振っていた。
雨はだんだんと激しさを増していく。明かりをつけていない稽古場は薄暗く、肌寒い気さえしてきた。素振りを続けていればやがて身体が火照ってくるだろうに、今日ばかりはそうならない。気付けば竹刀を持つ手は震え、素振りもままならなくなっていき、拓真は神棚の前に膝をついた。
「申し訳ない……」
消え入りそうな声で、拓真は呟く。土下座をするように身体を丸め、床に突っ伏した拓真の肩は震えている。
「道場を守れなくて……申し訳ねえ……!」
過去に、祖父と共に誓ったのだ。きっとこの道場を守り、繁栄させていくと。
しかし実際は、そうならなかった。祖父の代で経営難に陥り、そこへスーツの男たちが土地を寄越せとやってきた。奪われないよう最善を尽くしてきたつもりだったが、どうにもならなかった。奪われたくないなら、と多額の金を要求されるも、それを用意する資金力なんぞ経営不振だった道場にあるわけがなく、文字通り命がけで支払うしかなくなったのだ。
命を賭して金を払ったとしても、その時には拓真はもうこの世にいない。この道場は、どう足掻いても守れないものとなっていた。
「くそっ……くそおおおおっ……!」
男の低い泣き声が、道場内に響き渡る。誰も聞いてはいないその声が、道場内を埋め尽くした。
拓真は知っている。起きてしまったことは、どうにもならないのだ。その流れを受け入れ、自分ができうる限りのことをするしかない。それは、両親が殺害された経験から得た教訓だった。
そんな中でも、祖父が教えてくれた剣道は、拓真にとって心を支える強い軸となった。
武芸を通して己の心と向き合い、人間として成長する。
その教えの元、拓真は剣道を学び、そして少ない門下生に伝えてきた。もう今は門下生の一人もいないが、教える喜びは知っている。
この命が尽きるまで、そうして生きていくと思っていた。だが、そうはならなかった。
「……もし……」
雨の勢いが弱まり、道場の屋根を叩く音が少しばかり和らいだ頃。拓真は身体を起こし、鼻をすする。幾筋も流れる涙を乱雑に拭い、拓真は神棚を見上げた。
「もし、生まれ変われたなら……次は、絶対に道場を守ります……」
神棚から返事はない。それでも、拓真は続ける。
「それが、じいさんとの約束だから」
生まれ変わることなど、信じちゃいない。だが、約束を守るためならば、そんなことを願ってもいいのかもしれない。
「……なんてな。さて、と……」
自嘲しつつ、拓真は立ち上がる。覚悟が決まったわけではないが、ここから状況は変わらないのだ。ならば、やるしかない。
「……お世話になりました」
稽古場から出る際、神棚へ礼をした拓真は、そのまま外へ繋がる裏手側へと向かった。その手にビニール袋を持ち、縄の重たさを感じ取る。もはや心は無になりつつも、外へ向かうドアを開けた。
「……あ」
拓真は、自分の人生は比較的不幸であると感じていた。幼少期に親を失い、青年期には借金を抱え、最後には自死せざるを得なくなる。むしろ不幸であることが自分らしいのかもしれないと、諦めてさえいた。
だが雨雲が去り、最後に見ることのできた夜空の、なんと美しいことか。思わず頬が緩むほどの光景に、拓真は呟いた。
「……すごいなあ。星って、こんなに綺麗だったのか」
最後の幸福に微笑み、歩み出る。自らの運命へ、ゆっくりと。
――そして、伊藤拓真の現代日本における人生は、幕を閉じたのだった。