「もしかして、シュウくん?」
保安検査場を後にして、目についたベンチに腰を掛けた僕の頭上から声が響く。
僕はヤンキースのキャップのつばに指をかけながら、その声のする方向に顔を上げる。
そこには、黒いパンツスーツに身を包み、ピンク色の大きなキャリーケースを指にかけた女性の姿があった。
一瞬、僕は誰かと間違われたんだろうかと思ったけど、その見知らぬ女の人には、どこか懐かしい面影があった。
雰囲気が大人っぽくなったけど、僕の名前を呼んだその声は、懐かしく僕の耳に響いている。
そうだ、この人は間違いない。
「お姉ちゃん」
僕のお姉ちゃん、杏奈お姉ちゃんだ。
「やっぱり、シュウくんだ」
お姉ちゃんは、小走りに僕のところに駆け寄ってきた。
「本当にびっくりした。何年ぶり? なんでこんなところにいるの? 一人で来たの?」
矢継ぎ早のお姉ちゃんの質問に、僕は何と答えたらいいものだろうか、話をまとめようとすればするほど頭がこんがらがって、だけどその分、言葉にできないいろんな感情がこみあげはじめて、僕は何も言えなくなって、キャップを下げて、うつむいて口をつぐんだ。
「ねえねえ杏奈ちゃん、この男の子、杏奈ちゃんの弟さんなの?」
お姉ちゃんの同僚だろうか、数名の女の人たちも近づいてきた。
「うん。こっちで働くようになってから、何年もあってなかったんだけどさ」
「へぇ、すごい偶然だね、ねえ、名前、なんて言うの?」
「え、と。シュウ。小髙柊」
かろうじて、僕の口からは僕の名前が形になった。
「何年生なの?」
「たしか、中学二年生の年だったかな、そうだよね?」
言葉に詰まる僕への助け舟となったお姉ちゃんの言葉に、僕は小さく頷いた。
「中学二年生、若いなあ。けど、すごく大人っぽく見えるね」
「うんうん、高校生くらいに見える」
お姉ちゃんの同僚の女の人たちは、僕を見ながらそういった。
「あのさ、ちさちゃん、ゆうなちゃん」
お姉ちゃんは、その二人の同僚の女の人たちに向かって言った。
「私、これから弟と一緒に帰ろうと思うんだ、だから悪いけど」
「うん。じゃあ、打ち上げの飲み会は、また今度ってことで」
ちさちゃんと呼ばれていた女の人は、笑顔を浮かべたまま頷く。
「またね、杏奈ちゃん」
「じゃあね。また月曜日に」ゆうなちゃんと呼ばれた女性も、ちさちゃんに続く。
「シュウくんも、またね。いつでも名古屋に、遊びに来てね」
お姉ちゃんが振る手を背中に、二人はキャリーケースを引っ張り空港の奥へ姿を消した。
「じゃあ、いこ」
お姉ちゃんは柔らかく笑うと、僕に真っ直ぐ手を伸ばす。
僕は一瞬戸惑ったが、思い切ってその手に応える。
「よっと」
僕の手を取ると、お姉ちゃんは僕の体を引っ張り上げようとしたが
「おっと」
お姉ちゃんは想像したよりも重かった僕の体に、ほんの少しだけよろめいた。
「やっぱり男の子なんだなあ。こんなにずっしり来るなんてさ。あ、背も結構伸びた?」
ヒールを履いていなければ、自分と変わらないだろう僕の身長に、お姉ちゃんは少しだけ驚いた顔を見せた。
「ま、長いこと会っていないから、それだけ成長したってことなのかもしれないね」
僕は少し恥ずかしくなって、またキャップのつばを下げた。
お姉ちゃんは僕の前を二三歩進むと後ろを振り返って
「いこ」
僕を手招きし、再び歩みを進む。
僕はうなずいてゼファーのサドルバッグと、スミレからもらったリュックサックを担いでお姉ちゃんの後を追った。
―――
「はいこれ」
お姉ちゃんはカードで僕の分の切符を購入すると、渡してくれた。
僕たちが改札を抜けたそのおよそ五分後、名鉄の名古屋行の電車が滑り込む。
僕たちは、今朝僕とスミレがセントレア空港に来た時と、ちょうど正反対の路線を進んでいることになる。
「はー、暑かった」
お姉ちゃんはそういって、特急列車の自由席の窓際に腰かけた。
「あ、窓際の方がよかった?」
僕は首を振り、お姉ちゃんの隣に腰かけた。
「じゃあ、遠慮なく」
お姉ちゃんはペットボトルのお茶の口を開けて、気持ちよさそうにそれを飲み干した。
「シュウくんも、ほら、買ってきておいたから」
僕はお姉ちゃんが差し出してくれたペットボトルを受け取った。
特急列車の車体ががたりと大きく揺れたかと思うと、車体はゆっくりと進んでいく。
そして、徐々にスピードが上がる。
「今まで出張に行ってたの」
車体の速度に合わせて飛んでいく風景を眺めながら、お姉ちゃんは言った。
「韓国から、一週間ぶりよ。名古屋に帰ってきたの。なんだか、懐かしいような感じがするわ」
「いま、お姉ちゃんは何をやっているの」
「見ての通り、OL。中堅の工業メーカーの営業をやってるんだ。家を飛び出して大学もやめて。アルバイトとか派遣とかで生活してたの。そしたら、たまたま今の会社の求人広告を目にして、応募したら採用されたってわけ」
「仕事、楽しい?」
「うん。それなりに、毎日楽しく働かせてもらってるよ」
それからしばらく僕たちは、お姉ちゃんの仕事の話とか、家でのお母さんの様子とか、お互いに会えなかった時期の空白を埋めるように、情報交換のような話をした。
徐々に電車は、名古屋駅に近づいてくる。
「今度は、シュウくんのことを聞かせてほしいな」
席を立ち上がりながら、お姉ちゃんは僕を見下ろすようにして言った。
「なんでシュウくんが、セントレア空港なんかにいたのか。どうやってここまで来たのか。いろいろ教えて」
僕は、静かにうなずいた。
「家に帰ってからでいいから。ゆっくりと聞かせてほしいな」
そういって、お姉ちゃんは僕を跳び越すようにしてまたぐと、電車の通路に出た。
―――
名古屋駅でお姉ちゃんはタクシーを捕まえて、僕たちはそれに乗り込む。
「中区の○△×まで」
十五分ほどすると、三階建てのアパートの前にタクシーは止まった。
「こっち」
タクシーの精算を終えたお姉ちゃんは僕をそのアパートの中に手招きした。
―――
「洗濯物とか、色々あるんでしょ」
アパートのリビング、大きめのソファーに腰を下ろしたお姉ちゃんは、僕にそう言った。
「出しといて。私のと一緒に洗濯やっちゃうから」
そういって、冷蔵庫から出しておいたビールのプルトップを開けた。
「どうせだから、シャワーも浴びちゃって。シュウくんの来てるその服も、一緒に洗っちゃうから。そのデニム、全然洗ってないでしょ。脱衣所の棚に、ショートパンツとかTシャツとか入ってるから、自由に使って。カレシが置いてってるやつだから、遠慮しないで」
―――
シャワーから上がると、キッチンから木の板を叩くような音がする。
「あ、上がった?」
僕の姿に気が付いたお姉ちゃんは、僕の姿を振り返ってそう言った。
「さすがにちょっと、おっきいか。今お夕飯作ってるから。コーヒー飲める?」
「うん」
「入れてあるから、それ飲んで少し待ってて。カップとか、好きに使っていいから」
僕は頷き、食器棚からマグカップを取り出して、コーヒーメーカーからコーヒーを注いだ。
「そっか」
「えと、何」
「ん、コーヒー、ブラックで飲めるくらいには、大人になったんだ」
―――
お姉ちゃんはご飯を炊いて、おみそ汁と豚肉の炒め物をテーブルの上に並べた。
お腹の空いていた僕は、むしゃぶりつくみたいに、一心不乱にお箸を進める。
お姉ちゃんは肘をついて、にこにこと笑いながら、無言で僕を見つめていた。