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第40話

「四か月、か」


 スゥは右ひじをつきながら、ビールのグラスを人差指と親指でルーズにつまんでる。


 そしてグラスに口をつけビールを一口含むとコースターに置き、何かを考えながら指を折る。


「あっという間だと思ったけど、やっぱ長かったよね。そんで、札幌まで大体一時間半、か」


 スゥはぼんやりとした表情で呟いた。


 そこは、セントレア空港のカフェ。


 僕たちは朝早く起きて、何日間も過ごしたホテルをチェックアウト、そして名古屋鉄道の電車に乗り継いだ。


海に浮かぶ人工島の空港で、僕たちは今、スゥのフライトまでの時間を共に過ごしている。


「なんか、時間と距離の関係って、複雑じゃね? ウチらが思っている以上にさぁ」


 そう言って、朝食兼おつまみの、ハムのサンドウィッチを一口かじる。


「本当だね」


 僕はスゥのつぶやきに耳を傾けながら、ウィンドウの外を行きかう人々を眺める。


 大きなキャリーケースを引っ張るビジネスマン風の人や、これからの旅に胸を膨らませる女子大生風の集団、そして、指を絡めて、微笑み歩く一組の男女の姿。


 その他、たくさんの人々が、旅の起点であり終点でもあるこの場所をすれ違い、あるいは少し触れあいながら歩みを進めている。


「なんか、不思議な感じじゃね? ここにいる一人一人には、その人しか知らない喜びや悲しみがあってさ、そしてみんなが、それぞれ日常があるんだよ? なんかすごくね?」


 僕に対していったのか、それとも自分自身に行ったのか、スゥはゆっくりそう言った。


「あーあ、とりあえず帰ったら、何しようかな」


 そういって、バドワイザーの瓶をグラスに傾ける。


「学校に通えばいいじゃん、また」


 ハンバーガーの付け合わせのフレンチフライをつまみながら、僕は言った。


「学校、か」


 スゥはビールを一口含むと、長旅でぱさついた髪の毛を、くしゃくしゃと掻いた。


「あー、だるぅー。だけどしかたないか」


 スゥは深いため息をつくと、顔をしかめる。


「あの野暮ったいセーラー服を着る日が、まさかまた来るなんてなあ。セーラー服着て、髪の毛もつやつやに真っ黒に染めて、革のバッグを抱えて高校に通うのかぁ」


「スゥの学校って、セーラー服なんだ」


「そ、今時だせーっしょ。まあまあ、お嬢様学校だったし」


 そういってスゥは、恥ずかしそうな笑顔を浮かべる。


「こんな格好してるけど、この育ちの良さは隠しようがないっしょ」


 ラフにグラスのビールを飲み干しながら、スゥは言った。


「子どものころから、英会話だ水泳だバレエだ空手だなんだって、いろんなもん習わされてさ。小学校三年の時から塾にも通わされて、私立の一貫校に入学させられたんだし」


「なんか、ちょっと想像つかないや」


「ちょっとくらいはフォローしろし」


 スゥは笑い、僕の肩を小さく小突いた。


「そういうのが嫌で、結局ここまで来ちゃったんだけど、これからはそう言うのを受け入れて、一からやり直すつもりで、立ち回っていくしかないか」


―――


「そんな顔すんなし」


 保安検査場の手前、スゥは僕の頬をつまんだ。


 そしてスゥは僕の頭をなでると、キャップのつばを指先でぐいと押し下げた。


「ウチは、消えてなくなるわけじゃないんだからさ。元居た場所に帰る、ただそれだけっしょ」


「そうだね」


「わんこくんはこれからどうするの?」


「君と同じだよ。元居た場所に帰るの。ただそれだけ」


「本当は、幸せなことなのかもしれないね。帰る場所がある。ウチにも、わんこくんにも」


するとスゥは肩にかけていたリュックサックをそのまま柊に渡す。


「これ、あげる」


 そういうとスゥは、旅の間中ずっと背負ってきたリュックサックを僕に差し出す。


「ウチにとっても、愛着のあるものだから。大切にしてあげてね」


「うん。もちろんだよ」


 そういうとスゥは、ポケットに突っ込んだ唯一の荷物ともいえる長財布を取り出し、その中から飛行機のチケットを取り出した。


「もう、そんな時間なくなってきちゃったな」


 空港の時計を確認すると、搭乗時間が迫ってきたのが確認できた。


 スゥはチケットを暫く見つめると


「そういえば」


何かに気が付いたかのように少し大きく目を開く。


「そういえば、ウチわんこくんにウチの名前、教えてたっけ?」


 パタンと手を叩き、スゥは首を傾げる。


「確かに言われてみれば。僕も、スゥに僕の名前教えてなかったよね」


 一瞬僕たちは無言でお互いを見つめ合い、そして噴き出すように笑った。


「あーおかしー。これだけ長く一緒にいたっていうのに、ウチたちお互いに本当の名前知らなかっただなんてね」


「本当だね」


 スゥは勿体つけたように小さく喉を鳴らすと


「ウチの名前は、菫。芦屋菫っていうの」


 そういうとスゥ、スミレは照れ隠しなんだろうか、僕の肩口を何度も強くたたいた。


「わかってるよ、ウチだって、どう見たってウチにこんなきらきらした名前なんか似合わないってことがさ。マジでだせーっしょ。うちの親何考えてんだろうね」


「ううん」


 僕は首を振る。


「スミレ、似合ってるとおもう。すごく、いい名前だ」


 スゥは眉をひそめ、唇を掻くようなしぐさを見せると


「ありがと。けどなんか、自分の名前が自分の名前じゃないみたい」


 そういって、やさしく僕を抱き寄せた。


「それじゃ、聞かせて。わんこくんの名前」


「柊」


 僕はスミレの瞳をまっすぐに見つめ、そして僕自身の耳にも久しぶりに響く、僕の名前を口にした。


「僕の名前は、柊。小髙柊だよ」


「シュウ、か。格好いい名前だね」


 自分の名前が自分のものじゃない、みたいな感覚、サイズがあっているんだけどまだなじんでいない、おろしたての靴に足を通しているような感覚。


けどその感覚は、これから僕が戻っていく世界に置いて僕が名乗るべき、僕が背負うべきそのすべてを包み込んでいるように感じられた。


「いつも、なんだか名前負けしているみたいで、コンプレックスだったんだけどね」


「そんなことない。いい名前だよ。それに、すごく似合ってる


「そうかな」


「だってシュウはこんなにも強くて、こんなにも優しい男の子なんだからさ」


「ありがとう」


 俯くスミレの表情は、金色のさらさらとした長い髪に隠されて確認できなかった。


僕はまた、ずっと心の中に秘めていた想いを言葉にしてしまいそうになった。


 だけど、僕はそれを思いとどまった。


 その思いは、言葉と言う形にするには余りにも強すぎるから。


「じゃ、もう行かなくちゃ」


「うん」


「じゃあね」


 僕たちはお互いに手を振った。


 スミレが振り返ったのを確認して、僕も振り返り、その場を立ち去ろうとした。


「シュウ!」


 フロア一帯に響くような大きな声に振り向くと、スミレが僕のところに駆け寄ってきて、強く、だけど柔らかく僕を抱きしめた。


「君は、本当に強くなった。男らしくなった」


「ありがとう」


 しばらくお互いの体を抱きあったまま、僕たちの体はゆっくりと離れたが、両手は固くつながれたままだった。


「シュウは、これから大人になる。もっともっと強くなる。だけど、ずっとそのままでいて」


「うん」


「ウチの大好きな、純白のドレスみたいにピュアなシュウでいて。今みたいな純粋な、ピュアな心を持ったまま、強くなって。いつかどこかでウチがシュウに再会した時、たとえ東京の新宿ど真ん中の雑踏の中ですれ違った時でだって、ウチがシュウだってわかるように」


 今度は僕から、スミレの体を抱きしめた。


 スミレの身長は僕より少し高いから、僕の言葉はダイレクトにスミレの耳に届いただろう。


「約束する。絶対。君に会えて、よかった」


「ウチも。シュウに会えて、よかった」


その言葉と柔らかい微笑みを浮かべ、スミレは柔らかな唇を、スゥよりちょっとだけ低い僕の額につけた。


「またね、シュウ」


そういって、スミレはゲートの奥に姿を消した。

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