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第38話

 お父さんの現在を確認した僕は、スゥに手を引かれるようにして、ゼファーの止めてある駐車場の横の、コンクリート製の階段を下って砂浜へ降りた。


「うわー、めっちゃ海、きれいじゃない?」


 スゥはそういって、波打ち際に駆け寄り、足を波に浸した。


「なんかさ、海の水までぬるく感じるんだけど」


 ギラギラ御照り付ける太陽は、相変わらず無慈悲に僕の背中を焦がす。


 けど今の僕には、例え背中に火をつけられたって何一つ感じることはないだろう。


「聞かせて」


 スゥは僕の横に座り、そして言った。


「わんこくんがお父さんにあったら、話したかったこと。伝えたかったこと。わんこくんの心の中の思いを、言葉にしてウチに教えて」


「僕は――」


 僕の心の中からたくさんの、お父さんに聞いてほしい僕の言葉が、僕自身が本当に求めていたことが一気に僕の中で言語化した。


 ねえ聞いて、僕はちゃんとお父さんの言いつけを守って勉強して、有名な私立中学に入学したんだ――


今も毎日一生懸命勉強して、成績もいい方なんだよ――


だから、お父さんならほめてくれるでしょ――


だからそのご褒美として、ゼファーを僕にちょうだい、ちゃんと免許が取れるまで、乗るのは我慢するから――


それでもう一度、お父さんと一緒に暮らしたいんだ、お母さんも、お姉ちゃんも一緒に――


 僕のその陳腐な、子どもっぽい言葉を、スゥは笑わずに、真剣に聞いてくれた。


 そして僕の言葉は僕自身に、僕の願いがもう永久に叶わないものであるということを言い聞かせていた。


 僕は拳を固めて、何度も砂浜を殴りつける。


 僕の拳は何度も、何度も何度も、砂浜にめり込む。


「ダメだよ」


 スゥは僕の横に座って、砂にまみれた僕の拳をやさしく両手で包んだ。


「わんこくんの拳は、そんな憂さ晴らしなんかに使うものじゃないでしょ? わんこくんの拳は、誰かのためにふるうものだし」


 スゥは僕の拳を解き、そこにスゥの掌を重ね、指同士を絡める。

 滝の流れのように言葉を垂れ流した僕の額に、スゥは優しく、口づけをしてくれた。


 崩れ落ちるみたいに、頭をスゥの首筋にもたれかけさせた僕を、スゥはやさしく抱きしめてくれた。


するとスゥはそのまま立ち上がり、僕の手を引き立あがらせた。


「へー、様になってんじゃん」


 スゥが僕に対しファイティングポーズを取っていたので、僕も無意識のうちにファイティングポーズを取っていた。


「さすが、毎日シャドウとか走り込みとか、繰り返してきたことはあるかな」


 そして両手を構え、その掌を僕に向ける。


「ほら、打ち込んで、ワンツー!」


 スゥの支持に従い、僕はスゥの掌に、指示通りのパンチを繰り出す。


「うん、いいパンチだね。じゃあ次は――」


 そして何度も何度も、スゥの指示に従い拳をふるう。


「いい感じだよ。じゃあ、どれだけと良くなったのか、見てあげる。マス・スパーしてみよう」


 スゥの言葉に促されて、僕は慎重に距離を測り、拳を開いたまま左ジャブを放つ。


スゥは僕のパンチを、左手でパチリとパーリングする。


「いいよ、わんこくん、脇も閉ってるし、ジャブも鋭いよ」


砂浜で軽快にバックステップを踏みながら、スゥは言う。

スゥの動きは、こんな歩きづらい砂浜でも、まったく影響を受けていないくらいに軽やかだ。


僕は頭を揺すりながら距離を詰めて繰り返した。


ジャブの連打に右ストレート、ワンツーのコンビネーション、この道中で何度も繰り返してきた動きを。


 けどいつもと違って地面が砂地だから、僕は足を取られてもつれ、体勢を崩す。


「ほら、しっかり」


その隙をつき、僕のみぞおちと顎先に左拳を当てるスゥ。


僕は小さくうめいたけど、また顔を上げて、ファイティングポーズを取りスゥに向かう。


 ――ボールだ。


 僕とスゥの間に、子ども用の野球ボールが、僕の前に転がっていた。


 僕はそれを拾って、周囲を見回す。


「ねえ、あの子って」


 スゥの指さす方向、僕達の左手奥を見れば、一人の少年が立って、僕の手にするボールを見ていた。


「ねえ、これ君のでしょ?」


 スゥがそう呼びかけると、男の子は一瞬びっくりしたような表情を見せて、おずおずと頷く。


「ねえ、こっちおいで」


 スゥの言葉に、その男の子は小走りで僕たちのもとに駆け寄ってきた。


 その顔は間違いない、僕のお父さんと手をつないでいた、あの男の子だ。


 僕はその男の子にボールを手渡す。


「ありがとう」


 男の子は、ようやく僕に、屈託のない笑顔を向けてくれた。


 僕の喉は暑さとシャドウボクシングによりひりひりと渇いて張り付き、声が出せなくなった。


 カラダが緊張と、言葉にならない感情のほとばしりで硬直している。


「ねえ、君、一人なの?」


 スゥが男の子にかけた声をかけると、今度はその男の子は照れたような表情で言う。


「うん」


「そっか。一人で遊んでるの?」


 ボールを持つ男の子の前に座り、スゥは話しかけた。


「うん。いまねぇ、お父さんとお母さんが、僕の新しくベッド買ってくれたの。いま、組み立ててるから、ぼくやることないから、ボール投げやってるの」


「そっか、えらいじゃん。ウチ、お姉ちゃんの名前は、スゥっていうの。君の名前は?」


「あのねぇ、ぼくね、ヒヤマケイタっていうの。七歳だよ」


 ヒヤマケイタ――


 この子は、僕のお父さんの子どもであり、僕にとって――


「そっか、七歳にしては、なんだか体もおっきいね」


「うん。ぼく、学校でも、並んだら後ろの方だよ。だけどね、お父さんはもっとおっきいの。もっともっと、おっきいんだよ」


「ん、じゃあ、ケイタ君は、お父さんに似たんだね」


「うん。だからぼく、大人になったらもっともっとおっきくなって、お父さんよりもおっきくなるんだ」


「そうだね。きっとケイタ君も、おっきくなれるよ」


 そういうと、スゥは僕を見上げるようにして言った。


「ね? わんこくんもそう思うでしょ?」


「おにいちゃん、わんこっていうの?」


「うん。お姉ちゃんは、このお兄ちゃんのことをわんこくんってよんでるの」


「へー、なんだかおもしろいねー」


 僕はすでにぬるくなったペリエのふたを開け、それを一気に流し込んだ。


「ねえ、ケイタ君」


 僕もまた、ケイタ君の前に立膝をついた。


「ケイタ君のお父さんって、どんな人なの」


「僕のお父さん、すっごくおっきいの。すっごくおっきいし、やさしいの。お休みの日は、いつもいろんなところに連れて行ってくれるの」


「そっか。お父さんとは、どんなことをして遊ぶの」


「キャンプとか行くの。あと、おっきくなったら、サーフィンとかも教えてくれるって言ってるんだよ。僕も、お父さんみたいにおっきくなって、サーフィン教えてもらうんだ」


「なれるよすぐに」


 そういって僕は、ケイタ君の頭を撫でた。


「お父さんのこと、大好きなんだね」


「うんっ!」


 そういってケイタ君は、僕に一切の曇りのない笑顔を向ける。


 その顔は、お父さんの面影をほとんどそのままの形で宿していた。


 そしてどこか、当然と言えば当然だけど、僕の顔と似ているような気もした。


「ねえ、お兄ちゃんたちはさっき、なにして遊んでいたの? パンチパンチ、して遊んでたの?」


 ケイタ君は、犬かきみたいにひょこひょこと手を体の前で振るわせる。


「あのね、お姉ちゃんたち、ボクシングしてたんだよ」


「ボクシング?」


「とはいっても、鬼ごっこみたいなものなんだけどさ。わんこくん、ほら」


 僕はスゥに促されて、スゥに教えられたとおりの、オーソドックスなボクサーの構えをケイタ君の前で披露する。


 そして、何百回と繰り返していたシャドウボクシングを、ケイタ君の前でやって見せた。


「すごおい」


 ケイタ君は砂浜でぴょんぴょんと飛び跳ねて目を丸くした。


「お兄ちゃん、格好いいね。仮面ライダーみたい」


「ケイタ君にもできるよ、ほら、わんこくん」


「じゃあ、まずは左足を一歩前に出して――」


 僕は、スゥが僕に教えてくれたのとまったく同じ手順で、ケイタ君にボクシングの構えを教えてあげた。


「これでできてるかな」


 ケイタ君は嬉しそうに、興奮気味に僕に訊ねた。


「うん。格好いいよケイタ君。そしたらね――」


 これもまた、スゥから教えてもらったように、左ジャブと右ストレート、基本的な部分を簡単に、だけど丁寧に教えてあげた。


「うわあ、すごい。僕の手、しゅんしゅんいってる」


 興奮の笑いと叫び声をあげて、ケイタ君は楽しそうに何度も拳を前に繰り出した。


「けどね、ケイタ君」


 スゥはケイタ君の右手を取り、両手を掌で包んで言った。


「パンチっていうのは、必ず誰かを守るためにふるうものなの。仮面ライダーだって、悪い奴と戦うためにパンチやキックをするでしょ? それとおんなじことなんだよ」


「じゃあ、お兄ちゃんも、誰かを守るためにパンチをするの?」


「うん」


 スゥは微笑んで頷いた。


「わんこのお兄ちゃんは、お姉ちゃんのためにパンチしてくれたんだ」


「お兄ちゃん、強いの?」


「強いよ」


 ケイタ君の問いかけに、スゥは頷く。


「わんこの兄ちゃんは、すっごく強いの。すっごく強くて、だけど優しくて。そうだな、ケイタ君のお父さんみたいな人なんだよ」


「へー、わんこのお兄ちゃん、すごいね。格好いいね」


 その瞬間、僕の心の中に、強い風が僕の心の中を拭き去り、雨雲を吹き飛ばした。


「ねえ、ケイタ君」


 僕はケイタ君お前にしゃがみ、その目をまっすぐに見て言葉を伝えた。


「いつか君が、どうしても守らなくちゃいけないものを見つけた時、そのためだけに君は拳をふるっていいんだ」


「じゃあお父さんとか、お母さんとか、ひばり組のななえちゃんとかを守るためにならいいの?」


「うん」


 僕はケイタ君の頭を撫でた。


「君は本当に、物分かりがいい」


 そして僕は立ち上がると


「えい」


 優しく、ケイタ君の額を触った。


「パンチっていうのは、動かない相手に充てるものじゃない。常に

動いているものに当てなくちゃならないんだ」


「うん。仮面ライダーでも、怪人、動いてるもん」


「そのためにはこうやって、“てのひらの鬼ごっこ”をして当て方を覚えるんだ。さあ、ケイタ君もやってみて」


「うんっ!」


 それから僕たちは、マス・スパーリングをやった。


 けどもうそれは、マス・スパーの形すら維持していない、本当に、文字通りの鬼ごっこみたいなものだった。


 それがいつの間にか、本当の鬼ごっこになった。


 どっちから言い出すわけでもなくじゃんけんをして、時々またじゃんけんをしながら鬼を交替して、三人で汗を流しながら追いかけっこをした。


 そしてその鬼ごっこはいつの間にか、僕とスゥが怪人、ケイタ君が仮面ライダーになってのごっこ遊びに代わって行った。


 僕たちの遊びはお互いの気分の赴くままに、うつろい、変化し、そしてそのすべてが、僕の、スゥの、そしてケイタ君の、心からの歓声へと変わっていった。

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