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第36話

スゥと僕は今、名古屋から東南へとゼファーを走らせている。


「ぷっわぁ、マジ気持ちいー」


 阿久比町というところで休憩のためにゼファーを止めると、スゥは頭からいつものように、ざぶざぶとペットボトルの水をかぶる。


「なんかさ、どんどん暑くなってる感じじゃね?」


「うん。気のせいかもしれないけど、きっと南に向かっているからなんだと思う」


僕は買ったばかりのコーラの封を切り、大きく喉を鳴らす。


 一口目はうまかったけど、なんだか人工的な甘みが、唾液の乾いた口の中をいっそう粘つかせてかえって不快になった。


 だけど、久しぶりの感覚は、どこか懐かしく感じられ、そう悪いものではなかった。


 僕は道端に見えた水道に水を汲むとそれで口をゆすぎ、スゥと同じように頭から浴びた。


 夏も終わり始める時期なのに、太陽は嫌がらせのように僕の体をじりじりと焼き付ける。


「これを見ると、今ちょうど道のりの半分だってところだけど」


 僕は、スゥから手渡された封筒を取り出した。


 表面の宛名には僕のお母さんの名前、その横には、朱書きの”離婚届在中”の文字。


そしてその裏の差出人には――


「知多半島の南端、南知多町、か。そこに、わんこくんのお父さんが住んでるんだね。このゼファーの持ち主だった人が」


「確証はないけど、間違いないと思う」


 僕はペットボトルの水で、粘ついた口をゆすいだ。


「ゼファーのキーを置いて行ってくれた、お姉ちゃんもそこにいるかもしれない」


 このキーは三年前、僕の机の上に手紙と一緒に置かれていたものだった。


それはある風の強い夜、家から出て行った、大学生だったお姉ちゃんの。


「あのさ、わんこくんのお父さん、結構とっぽい感じ?」


スゥは、僕フルフェイスのヘルメットを手に取った。


「こんな狼のカッティングしてさ、バイカーとかのチームにいた人かもしんないし」


「そうなのかもしれないね」


 僕は苦笑して、頭から水をかぶった。


「あまりお父さんの記憶はないけど、すごく体が大きくて、たくましい人だっていうことだけは覚えてるんだ」


「もしかして、うちがかぶってるヘルメットは、お母さんの使ってたやつかもね」


「だったら、嬉しい」


 もし本当にそうだったら――


「よし、そろそろ出発しよう」


 水に濡れ、汗染みを作った僕のデニムのハーフパンツは、焼け焦げるような黒いシートで熱を持ち、僕の股の部分は蒸れて不快な気分に襲われた。


 ヘルメットさえも、陽光に照りつけられ、被ればまるでサウナのようだ。


 背中にしがみつくスゥと僕の間に、お互いの汗がじとりと混ざる。


 それでもゼファーは、ぼくとスゥは、この炎天下を進む。


 名古屋を出て数時間、徐々に風景は南国めいたものに変化し、潮をたっぷりと含んだ風には、ほんの少し生臭ささが混じる。


 少しずつ、少しずつ僕たちは、半島の南端へと近づいている。


 お父さんの住む町へ。


―――


 右手には、波面にぎらぎらと陽光を照り返す海が見える。


 僕はゼファーを降りると、海岸近くの駐車場に止めてキーを外した。


 スゥはポケットからスマホを取り出し、封筒に書かれてあった住所を打ち込む。


「こっちみたい」


 僕たちはスゥの指さした方向へと歩く。


 僕はスマートフォンを投げ捨ててしまったので、こういう時にスゥがいてくれて助かった。


 僕たちは首にかけたタオルで汗を拭きながら、陽炎揺れるアスファルトの道を進む。


 三十分ほどすると、海岸を目の前にした海沿いの道に、ペンションのような瀟洒な家が。


 よく見るとそこには、たくさんのサーフボードが立てかけてあり、ボードを抱えた男の人や女の人が、行き来をしている。


「ここ、サーフショップじゃね? わんこくんのおとうさん、サーフィンとか好きなの?」


 僕は首を振る。


 だって僕には、お父さんの記憶なんてほとんどないから。


「だけど何となく、ここで間違いないんじゃないかって気がするんだ」


 お父さんの部屋に残されたたくさんのアウトドア用品とかアロハシャツとか、それに何よりも、僕たちが乗ってきたゼファーとか、そのイメージからは、そう大きく外れるものじゃない。


 僕は深呼吸をして覚悟を決めた。


「じゃあ、行くよ」


―――


「お父さん、いた?」


 サーフショップの中は、小麦色に焼けたサーファーたちが行きかうが


「ううん」


 僕のお父さんの姿は見当たらなかった。


「あの店員さんも?」


「ちがうよ」


 店のカウンターに日焼けをした体格のいい若い男性が座っているが、その男の人も当然、お父さんじゃなかった。


 そこまではっきりと、お父さんの顔を覚えているわけじゃないけれど、顔を見れば、顔さえ見れば、絶対に間違えない自信はある。


「もしかしたら、あのカフェにいるのかもしれない」


 スゥが指さした先には、店舗に併設されたカフェが見えた。


「よし、じゃあいってみよう」


 僕たち席を見つけ、スゥはレモンスカッシュを、僕はペリエを注文するが、そこには店員しかいない。


 もしかしたら浜辺に出ているのかもしれないと思い、砂浜や店舗を行き来する人たちの中に、お父さんの顔を探してみた。


「だめだ、見当たらない」


「だったらさ、聞いてみたら? 店員さんに」


 僕は頷き、レシートを持ってレジに向かう。


 レジ横の棚からペリエを二本取り、会計のついでのふりをして、女の店員さんに訊ねる。


「えと、オーナーさんは、今日はいないんですか」


「カズマさんのこと?」


 それは僕のお父さんの名前、間違いない、やっぱりこの店は、お父さんの店なんだ。


「カズマさんは、今日はお休みなんだ。大体こういう日は、いつも車で外出してると思うんだけど、君はカズマさんの知り合い?」


 その質問を僕は適当にはぐらかしてごまかすと、スゥと一緒に店を出た。


 店を裏手に回ると、店とは違う玄関が見える。


 ここに玄関があるということは、やっぱりここは店舗兼住居なんだろう。


 そして玄関の横には、大きな駐車場が。


「ここが、わんこくんのお父さんの駐車場なのかな」


「そうだと思う」


 ここに車がないということは、やはりあのレジのお姉さんが言っていたように、どこかに出かけているということなんだろう。


「じゃあさ、ここで待ってようよ」


 スゥは道路を挟んだところにあるガードレールを指さした。


「いきなり家の前に、何年も合ていない息子がいたら、さすがに怪しまれると思うし」


「うん。じゃあスゥは、さっきのカフェで待っててよ」


「ううん、ウチも一緒に待つよ」


 そういって、いつものハッカ油のスプレーを取り出し、僕に吹きかける。


「ここまで一緒に来たんだもの。わんこくんと一緒に、ウチもいさせて」


僕とスゥはガードレールに腰を掛け、お父さんの帰りを待つことにした。


「ねえ、お父さんに会ったら、どうしたいの?」


「わからない。わからないけど――」


 僕は目を閉じ、僕の頭の中に浮かんでくるたくさんの言葉を反芻する。


「――とにかくたくさん、話したいことがあるんだ」


 太陽は南中高度にいたり、そこからやや西に傾き始める。


 じりじりと身を焦がす太陽に、僕とスゥは何度もペリエで水分を補給する。


 汗はまたも滝のように吹き出し、僕は何度もタオルでそれを拭き、スゥの虫よけのハッカ油を体に吹き付けた。


 考えてみれば今日はほとんどゼファーに乗ったり、ガードレールに腰かけたり、せいぜいがお父さんのお店のカフェでペリエを飲んだくらいで、ほとんど休息らしい休息をとっていない。


 それでも僕たちは、お父さんが帰ってくるのを待ち続けた。

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