「君か」
僕がかけた外線に、畠山さんはわずか一コールで反応してくれた。
「あの女の子の容体はどうかね」
「おかげさまで、今は落ち着いていると思います」
「そうか、よかった」
「その、ありがとうございます。あの、さっきは、どうもすいませんでした。取り乱してしまって。あんな失礼な」
「よしてくれ。むしろ謝らなければならないのは、私の方なのだから。むしろ私も、いや」
一瞬通話が途切れた後
「そんなことではないのだろう、君が、私に電話をかけてきたのは」
受話器の向こうから、全てを見透かしたような声が聞こえた。
「馬鹿げたことだと言われれば、確かにそれは、否定できませんね」
「”商品”を守るのが、私の仕事だ。それは、理解できるね」
「わかっています。重々承知しています。ですが――」
「――京都駅だ」
畠山さんの声は、はっきりと僕の耳元に響いた。
「モトアキはバンドメンバーと合流するために、ツアーバスに乗って京都駅へ向かっている。時間的に言えば、もうすぐ着くだろう。急げ、新幹線ならば、ぎりぎり間に合うかもしれない」
「スゥをお願いします」
僕は受話器を置くと、名古屋駅へと飛び出した。
―――
駅のキオスクで買ったサンドウィッチを社内で食べ終える頃には、もう京都駅が見えていた。
ツアーバスで移動をしているのなら、京都駅で車を乗り入れることのできる場所を探せばいい。
新幹線を降りて駅員に訊ねると、京都駅八条口駅前広場ではないか、という答えだった。
広場でしばらく待っていると、一人の女性が姿を見せた。
小柄のショートカットの女性で、かわいらしい印象を与える女性だった。
しばらくすると駅のロータリーに、大きなワンボックスカーが止まる。
そしてそこから姿を見せたのは、名古屋で僕たちの前から姿を消したモトアキさんだった。
その女性はモトアキさんを見つけるなり駆け寄ってハグをし、口づけをする。
気が付けば僕は、拳を固めてモトアキさんにとびかかり、それを顔面に思い切りねじ込んだ。
モトアキさんの体はワンボックスカーに叩きつけられる。
僕はモトアキさんの胸倉を掴み、何度も拳を叩き込むが、周りのバンドメンバーやローディーたちに体を引き離された。
それでも僕は、モトアキさんの仲間たちを振り払い、ワンボックスカーの下の地面に倒れたモッチに、何度も拳を叩き込んだ。
それが、モトアキさんの仲間たちを激高させたのだろう、僕の脇腹に、硬いブーツの先がめり込んだ。
顔を思いきり、蹴り上げられた。
呼吸ができなくなる。
鼻から鮮血が飛ぶ。
それでも僕は、固く握りしめた拳を振るい続けた。
―――
「――気が付いた?」
うっすらと開けた僕の視界にぼやけて見えたのは――
「スゥ」
僕の焦点はようやく定まり、目を潤ませた、スゥのきれいな顔が認識できた。
僕はゆっくりと体を起こそうとしたけれど
「ダメだって、急に動いちゃ」
僕の上体を、スゥは膝枕に押し戻した。
「脳震盪起こして気絶したんだからさ。しばらく頭とか冷やして、安静にしてなきゃ」
言われてみれば、体を動かすたびに、首とか側頭部に軽い痛みが走る。
息苦しいと思ったら、僕の右の鼻の穴には丸めたティッシュペーパーが詰め込まれ、顔のあちこちがひりひりと痛んだ。
「ここ、どこ」
「京都駅だよ」
僕の頭は少しずつ鮮明になり、自分がなぜこの京都に来ていたか、記憶が少しずつ蘇った。
「そっか」
僕は自分自身の両拳を見つめる。
熱く熱を持ち、真っ赤に腫れて、掌全体に電気を流したような痺れるような感覚、痛みを覚える。
この感覚はきっと、確実にあった出来事への、いわば代償のようなものだろう。
僕のTシャツはところどころインクをこぼしたような鮮血の跡が浮き出ている。
その鮮やかな赤は、モトアキさんの返り血だろうか、それとも僕の流したものなのだろうか、わかるはずもなかった。
「ウチのため、なんだよね」
スゥはさみしそうにも見える笑顔を、膝の上に横たわる僕に向かって浮かべる。
「ウチのために、わんこくんこんなに、ボロボロにさせちゃった」
「君のせいじゃないんだ」
僕は僕の腕を額にかぶせる。
そう、これは、スゥのためなんかじゃない。
極私的な、僕のためだけの、自分自身のための、自己満足でしかないんだ。
「意識はしっかりとしているようだな」
スゥの体の陰から、低い男の人の声が響く。
その声のする方向を見れば、僕の顔を見下ろすようにして畠山さんが立っていた。
「あの人が、連れてきてくれたんだ。わんこくんの手当ても、一緒にしてくれたんだよ」
すると畠山さんは、僕の鼻に手をやった。
「折れてはいない。血も止まっている。不幸中の幸いといったところか。そろそろ、体を起こしても大丈夫だと思うが、どうかね」
僕はゆっくりと体を起こす。
「どれ、見せてみたまえ」
畠山さんは僕の腕を取りくるくると返した。
そして僕の胴体や顔、モッチの仲間たちにひどくやられたであろう部分を、丁寧に点検する。
「呼吸にも問題はない。アバラなども、大丈夫なようだな。念のために病院に、と言いたいところだが、むしろ君たちの立場を考えれば、いらぬお世話といったところか」
そして、ふぅ、と呼吸を置きながら言った。
「悪い大人の、せめてもの罪滅ぼしだと思ったんだがな。逆に君を、傷つける結果となってしまったな」
「そんなことないです」
僕は首を振った。
すると畠山さんは無言で、再び封筒を取り出した。
今回差し出された封筒は、前回出されたものよりもかなり厚みがあった。
するとスゥは微笑みながら、首を振る。
「ずっとモッチに恋してた日は、嘘じゃないの。ウチの中で、キラキラした、本当に純粋なものなの。だから、ウチはこれからも、それがあれば、生きていけるから」
「これはむしろ、私の問題なんだ。その男の子が、拳をふるったようにね」
畠山さんの眉間に、深いしわが寄る。
「大人なんて、情けないものだ。こういう形でしか君たちへの想いを表現できない。どうか、受け取って欲しい」
スゥは目を閉じ、大きく息を吸い込み、そして吐き、その封筒を受け取った。
「ありがとう」
畠山さんの表情は、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「時間が必要だろう。君たちにも」
畠山さんはスマートフォンを取り出して電話をかけ、ぼそぼそと呟き、そして通話を切った。
「君たちの気が済むまで、あのホテルにいるといい。費用は、我々が持つ」
「いいんですか」
「全ては、必要経費だ。これから”ジェリーピース”に馬車馬のように働いてもらって、回収させてもらうことにするよ」
そういうと畠山さんは、僕に向かって手を差し出した。
「迷惑をかけた。だが、君たちと会えて、心の底からよかったと思う」
一瞬の躊躇もなく、僕はその手に応えた。
その瞬間、ほんの少しだけ、畠山さんがほほ笑んだ気がした。