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第33話

 コンビニエンスストアは、ホテルの一階にある。


スゥは飲みすぎて、きっと胃が疲れているだろうから、脂っこいものよりもレトルトのスープとか春雨スープとかうどんとかそういうものがいいだろうか、いろいろ考えたら、三十分以上も時間を費やしてしまった。


僕は会計を済ませ、ビニール袋を片手に、とエレベーターのボタンを押す。


 いつもの不快な重力を感じながら部屋のある階にたどり着き、カードキーをかざす。


かちり、と小さな音が鳴って、ドアロックが開錠される。


「ただいま」


 僕が声をかけると、スゥはそこにはいない。


 代わりに、さらさらというシャワーの音が、奥のバスルームから響く。


 お風呂に入っているんだな、僕はそう判断し、一足先にコンビニのおにぎりにかぶりついた。


 おにぎりを一つ、二つ食べて僕はベッドに寝転がる。


 ベットに寝そべったまま、僕はテレビのリモコンのスイッチを押す。


 スゥは、まだお風呂場から出てこない。


 なんだか、時間がどろどろとしたゼリーみたいに僕の周りにまとわりついているみたいだ。


 ラムコークの味が懐かしく感じられた僕は、立ち上がってテーブルのもとへ。


 だけど、そこにラムの大きな瓶はなかった。


 いったい、どういうことだ。


 さっきからずっと、シャワーの音が鳴りやまない。


 そもそもシャワーを浴びて入浴を済ませるなら、どうしてオフバスタブにお湯をはらせたんだろう。


「スゥ」


 バスルームドアをはさんで、僕は声をかける。


 返事がない、シャワーのノイズで、聞こえないんだろうか。


「スゥ、聞こえる」


 さっきよりも大きな声で呼びかけたけど、やっぱり返事がない。


 おかしい、何かいつもと、雰囲気が違う。


 周囲を見れば、スゥの下着が散乱している。


 間違いなくスゥは、バスルームにいる。


 心の中でスゥに謝りながら、そして、スゥに下心をからかわれることを覚悟、いやむしろ、期待しながら、僕はバスルームのドアの取っ手に手をかけ押した。


 そこには、目を閉じバスタブに横たわるスゥの裸体があった。


「スゥ」


 バスタブの縁には、空っぽになったラムの瓶、そして、これも空になったピルケース。


 どうしたらいい、何を考えたらいい、救急車か、警察か、だけど、それを呼んでいる暇があるのか、焦点の定まらない虚ろなスゥの表情に、僕はただ最悪の事態だけが頭を占めた。


 その刹那、僕の頭に、昼間の出来事がよぎる。


 そうだ、今の僕にはこれしか――


 僕は、ポケットにあった名刺を手に、電話の外線ボタンを押した。


「助けてください――」


―――


「とりあえずは、これで安心だろう」


 ベッドに横たわるスゥに布団をかけながら、畠山さんは言った。


 僕の電話を受けて部屋に飛び込んできた畠山さんは、迷わずにスゥの口の中に指を突っ込むと、胃の中のものをすべて吐き出させていた。


「ご迷惑をおかけしました」


 僕は畠山さんに頭を下げた。


「僕は、何もできませんでした」


「今の時代、大量摂取して死に至るような強さの薬を市販するようなことはない。おそらくは、強いアルコールとの併用による、ショック反応だろう。だがいずれにせよ、君の判断に間違いはなかった」


 僕は、拳を握り締めた。


「いったいどうして、いったい何がどうなって、こんなことに――」


「――できるだけ中立的に、事実として情報を伝えたいと思う」


 そういうと畠山さんは、ソファーの縁に腰を落とし、たばこを取り出して火をつける。


「モトアキと彼女は、別れた。別れを選んだ」


「そんなはずはありません。僕をからかわないでください。スゥが、そんな選択するはずないじゃないですか」


「すまない、別れた、などという表現を使うべきではなかった。モトアキが、一方的に捨てたんだ。その女の子をな」


「いい加減にしてください」


 僕は、畠山さんに向けて怒鳴った。


「二人はそれこそ、遺伝子レベルから、魂から惹かれあっているんだ。そんな二人が、そんな結果になるわけない」


「モトアキは、今“ジェリービーズ”のヴォーカル、アミナと付き合っている。秘密だがな」


 まだ長いままの煙草を、畠山さんは灰皿で潰す。


「アミナは、レコード会社のお偉いさんの娘だ。その支援があってこその今のあいつなんだ」


「自分の成功のために、スゥを捨てたっていうのか」


「もしもアミナと別れたとすれば、あいつのメジャーシーンでの活躍はなくなってしまう。アミナの父親とは、それほどの存在なんだ」


「スゥはそんなこと求めていなかった。スゥは、モトアキさんのベースと歌声を聞きながら、ささやかでいいから幸せになりたい、一緒に人生を送りたいってずっと言っていたんだ」


「”昔のように、つっぱりながら売れないバンドで、北海道の風呂無しアパートに戻るつもりはない”、あいつは、そう私に言っていた」


「信じられるか」


「そういう手垢のついたような生活に、我慢できない男たちもいるということだ」


「そんなこと、認められるか」


 気が付けば僕は、畠山さんの胸ぐらをつかんでいた。


 すると畠山さんは、ポケットから厚みのある封筒を取り出した。


そこに、何が入っているかは、僕にも予想ができた。


そしてそれが、何を意味しているということも。


「ふざけるな」


 僕は畠山さんの手にした封筒を払い落とした。


「帰ってくれ」


「君に殴られるつもりで、ここまで来たんだがな」


 畠山さんは、周辺に散らばった札束を拾いなおした。


「一晩もすれば、意識も戻るだろう。また何かあったら、いつでも連絡をくれればいい」


―――


 僕はバスルームから手桶を持ってきてタオルを絞り、スゥの額に当てる。


 スゥが寝息を立てる間、僕はその横で頭が真っ白になるまで腕立て伏せや腹筋を繰り返した。


 腕が上がらなくなり、上体に力が入らなくなると、ベッドの脇の姿見の前に立ち、その日は一晩中、何度も何度もコンビネーションを繰り返した。


※※※※※


 明け方、スゥの瞳が少しだけ開いた。


「スゥ、スゥ」


 うっすらと目を開けたスゥは、小さく唸るような声を上げると、けだるそうに右手首を額に当てる。


「わんこくん」


 僕の顔にようやく気付いたスゥは、半分閉じたその瞳のまま僕の顔を見つめた。


「ウチ、バカなことしちゃったみたいだね」


 そういうと、スゥはその手を僕の頬に優しく触れさせた。


「けど、ウチのことなんか、放っておいたってよかったのに。ウチなんて、どうなろうと誰もかまわないんだから」


「そんなこと、いうなよ」


 僕はスゥを抱きしめた。


「しばらくゆっくり休んでさ、また、旅に出ようよ。またモトアキさん探し出して、きちんと話をしようよ。そうすれば、わかってくれるから」


「きっとウチとモッチは、こうなる運命だったんだよ」


 スゥは、力なく笑った。


「ウチは、今まで集めてきた大切なもの、雌鶏が卵あっためるみたいに、大事に大事に守りながら生きていきたい、そういう風に考えてたんだ。そしてそれは、モッチも同じだって思ってた。けど――」


 スゥの腕をつかむ僕の手に、スゥは自分自身の手を重ねた。


「結局さ、ウチとモッチは、同じ方向を向いているようで、まったく違う方向を向いていたんだよね。ウチ、こうなって初めてそれが理解できたんだ。ううん――」


 スゥはそういうと、小さく顔を振った。


「――きっとウチはどこかで、そのことをどこか気づいていたんだ。気づいていたはずなのに」


―――


 スゥの寝息を確認すると、ようやく少しだけ、僕の心に落ち着きが戻った。


 僕の頭の中で、ホテルでモトアキさんと出会ってこれまでのことが渦を巻く。


 僕は、どこかでこうなることを知っていたんじゃないか。


 いやむしろ――僕は胸に湧き上がる自分自身に対する嫌悪感に、吐き気を催す。


旅立つ前と何ひとつ変化のない自分自身に対する苛立ちに、僕はテーブルを殴りつけていた。

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