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第32話

 僕は部屋を出て、エレベーターのボタンを押す。


 頭から押さえつけられるような感覚に辟易としながら、ものの数秒で、目的の階につく。


 そこに見えたのは、カフェともバーともつかないような場所、内線の電話口から、畠山さんが僕に指定した店。


 畠山さんの名前を告げると、店員は窓際の席に僕を案内した。


「君は、高校野球は好きかね」


 気が付くと、僕とテーブルに向かい合わせで、畠山さんが座っていた。


 僕たちの右奥の壁には大きなモニターが取り付けられていて、夏の甲子園大会の結果が流れていた。


「この年になっても、私には高校球児が年上のお兄さんに見えるんだ。不思議な感覚だが、君も、私くらいの年になればわかるだろう」


 畠山さんが右手を上げると、店員は頷き、店の奥へと消えていく。


「モトアキから話は聞いた。君は、中学生だったな」


「すいません。ですがここに来たのは――」


「――心配しなくていい。誰にも言うつもりはないさ。親元から飛び出して、自由に生きたい年頃だ。手垢のついた日常や生活感のある暮らしから飛び出したい、男なら、特にね」


 トレーを片手に店員が僕たちの目の前に置いたのは、きゃしゃで繊細な、細いグラス。


 そこに店員が、恭しくボトルの中身を注ぐ。


「無免許でここまで来た君にそれを言うのは、野暮と言うものだろう」


 顎で小さく促されて一口含むと、それはスパークリングワインだった。


さわやかな酸味と控えめな甘さが上品に一体となって舌の上に転がって、これがいくらなのかは想像もつかないけれど、これが間違いなく高級なものであるという事は理解できた。


 そして、僕たちの前には上品なサンドウィッチが。


 その内の一つを無造作につかんだ畠山さんは、それを口の中に放り込むと、一口二口、グラスのスパークリングワインを飲み干した。


「さて――」


 この程度のアルコールなど自分の意思には一切影響がない、とでもいうように、畠山さんは淡々と口を開く。


「君は、モトアキとあの女の子の関係を、どこまで知っているのかね」


「僕だって、詳しく知っているわけではありません」


 思った以上に飲みやすいそのスパークリングワインは、らしくもない饒舌に僕を陥れる。


「だけど、スゥがどれだけモトアキさんを愛しているか、二人が深いレベルでつながっているか、そこだけは理解しているつもりです」


僕の言葉を聞くと、畠山さんは店員に合図を送り、店員はまたボトルをもってグラスを満たし、そのボトルをテーブルに据えた。


「このシャンパンがいくらするか、見当がつくかね」


 畠山さんはボトルを回し、そのラベルを僕に見せた。


「小売価格で、一万五千円だ」


 再びグラスに口をつけ、そして僕を真っすぐに見て言う。


「この中身を、例えば一本千五百円のものと入れ替えられてそれと気づく人が、世の中にどれだけいるだろうかね」


「いったい、何が言いたいんですか」


「その金額が、本当にその価値とみあっているかなんて、誰にもわからんということだ」


 そういって畠山さんは、再びグラスに一口つけた。


「だが現実問題としてその値段がついて、私もそれに納得して金を払っている。それが、我々の住む世界だ」


「あなたのおっしゃりたい事が、僕にはわかりません」


 僕はグラスの中身を飲み干し、少し強めにテーブルに戻した。


「単刀直入に言おう」


 畠山さんは、空になった僕のグラスにワインを注いだ。


「あの女の子と二人で、ここを去ってほしい」


「いやです」


 僕は首を振った。


「女がらみのスキャンダルは、今の時代一番嫌われる事案だ。”ジェリーピース”は一気にメジャーデビューを狙える、その寸前まで来ている」


「僕たちには、スゥには関係ありません」


「これから約束された成功を壊してやりたいというのなら話は別だがな」


「スゥがモトアキさんのことをどれだけ好きか、あなたにはわからないんだ」


「そういうものであることは、理解している」


「僕はそのスゥの想いを、誰よりも知っている。誰が何と言おうと、僕はスゥの気持ちを守ってやりたいんだ」


「君や私がその不誠実さにいかに悲しみ怒ろうが、それで世界は回っている」


「けど、それでも僕には異議申し立てをすることくらいはできるはずです」


「そうか」


 そういうと畠山さんは髪の毛をかきあげた。


「ビジネスはビジネスだ。だが、君の純粋さは嫌いじゃない。できる限り、君たちには幸せになってほしいと願っている」


 そういうと、一枚の名刺を机の上に差し出した。


「何かあったら、いつでも連絡をくれ」


―――


その夜、二人はまだ帰ってこなかった。


僕はエレベーターを降りると、ホテルの周りを延々と走り続けた。


アルコールのせいだろうか、心臓が破裂しそうなほどに動悸するけれど、それでも僕は足を止める気にならなかった。


徐々に、胃の中が熱くなる。


それは違和感に代わり、僕はたまらずにホテルの脇に嘔吐した。


僕はTシャツを脱いで口をぬぐうと、アルコールの混じった胃液のにおいが鼻を突く。


僕はTシャツを肩に掛けて、ホテルのロビーへと戻る。


宿泊客が、上半身裸にTシャツを掛けただけの僕を怪訝な表情で見る。


ホテルマンたちは、僕がモトアキさんたちと泊っていることを知っているせいか、少し表情をこわばらせただけで何一つ咎めだてすることはなかった。


―――


 部屋に戻っても、そこには人影はなかった。


 僕はいつものトレーニングをこなすと、姿見に向かって一心不乱に拳をふるう。


どれだけ宙に拳をふるっても、僕の心の中に積み重なった何かが払しょくできない。


それでも僕は、拳をふるうしかなかった。


※※※※※


 気が付くと僕は、上半身裸のままソファーの上に倒れこんでいた。


 変な寝方をしていたせいか、ほんの少し首筋に張りを感じる。


 時計を確認すると、すでに時間は午後三時を回っていた。


 僕は買っておいたコンビニのおにぎりを適当に食べ、シャワーを浴びて一息ついた。


 そのまま何をするでもなく、ベッドに寝そべって、天井をずっと眺めていた。


「おっはよー」


 ドアが開くと同時に、陽気な声が響く。


「スゥ」


「ん、なんかすっげー久しぶりな感じ」


 スゥの体からは、初めて感じるようなきついアルコールのにおいがする。


 モトアキさんと会ってから、華やかになっていた目元からはメイクが消え去り、その瞼は赤く腫れている。


「もしかして、こんな時間までお酒を飲んでいたの。ちょっと飲みすぎだよ」


「ん、ごめんごめん。モッチとその友達と、ずっとパーティーしてたからさ」


 ぐらりと崩れるスゥの体に、僕は肩を滑り込ませる。


「大丈夫。とにかく座りなよ」


 僕はその体をソファーまで運び、冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。


「ん、サンキュ。君はいっつも、ウチにやさしいのだ」


 そういって口元に小さなピースサインを作った。


「そういえば、モトアキさんはどこに行ったの」


「ん、まあいいじゃん」


 そういうとスゥは立ち上がって、冷蔵庫の中からビールの缶を取り出した。


「もうやめなよ。飲みすぎだよ」


「大丈夫、大丈夫。迎え酒ってやつだから」


 そういうとスゥは、三五〇mlのビールをあっという間に飲みほした。


「んー、やっぱり物足りないな。ねえ、ラムコーク、作ってくれない?」


 僕はスゥに言われるがまま、ラムの大きなボトルを手に取った。


「ん、サンキュ。やっぱウチ、この味の方が好きだな」


「それより、モトアキさんはどこに行ったの。ずっと一緒に、いたはずじゃないか」


「ごめん、ちょっと飲みすぎてさ。顔もこんなむくんでるし、ちょっと長々しゃべる気力ないんだよね」


 そういうとスゥは、ベッドの上にどさりと寝転び、手で顔を覆った。


「ごめん、困らせるつもりは、なかったんだ」


「知ってるし。わんこくんが、うちにとびきり優しいってことはさ。そのやさしさに、ちょっと付け込ませてもらっていいかな」


「うん」


「お風呂沸かしてもらえない?」


「何でもないよ、そんなこと」


 スゥは柔らかく微笑んだ。


「ねえ、もう一つ、頼まれてほしいんだけど」


「うん」


「ご飯、コンビニかどこかで買って来てくれないかな。外に出てご飯を食べようって気に、どうしてもなれないからさ」


「わかった」

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