僕がコンビニでおにぎりやサンドウィッチ、コーラなんかを買ってホテルに戻ってきたとき、スゥは気持ちよさそうに寝息を立てていた。
どうやら僕の帰りを待ちくたびれて、シャワーも浴びずに寝てしまったようだ。
スゥは相変わらず、ホットパンツにビキニの水着、薄いパーカーのままだ。
エアコンをガンガン聞かせた部屋じゃ風邪をひいちゃうな、そう思った僕は、掛け布団を手に取る。
するとスゥが寝返りを打ち、ビキニの胸元がいっそう露わになった。
僕は慌てて目をそらすが、そのそらした先には、スゥのやわらかな唇があった。
やわらかな唇――
その表現は、想像でも誇張でもないことを、僕は痛いほどに知っている。
スゥのその寝顔は無防備で無造作で、あけすけな寝相は僕に全てをさらけ出そうとしているように思えた。
僕自身の中に、場違いな衝動が、地下水脈みたいに流れ始めた。
僕はタンクトップ姿になると、腕立て伏せを開始する。
何度も何度も、腕中の筋繊維が、ずたずたになるんじゃないかって思うくらい一心不乱に。
もう一グラムの重りすら持てないほどに消耗したことを感じると、今度はあおむけに寝て足を曲げ、腹筋運動を繰り返す。
そして、スクワット。
体中が悲鳴を上げた時、ようやく僕の体はカーペットの床に横たわった。
それでも僕の心は体に命令を下して、ベッドの脇の姿見の前に立たせて構えを取らせる。
そして、一心不乱に拳を振るわせる。
僕の目の前に湧き上がる、僕自身ではない何かに対して。
―――
軽い寒気とめまいに、ようやく僕の心は命令をやめる。
気が付けば、僕の足元には汗だまりのシミが大きく跡をつけている。
僕はシャワーで汗を流し、ベッドに腰を掛ける。
けれど、僕の目はさえて、頭の中には言葉にならないあれやこれやの思いが渦を巻く。
※※※※※
結局僕は、一睡もすることができなかった。
気が付けば、すでに時計は朝の五時半を回っている。
予想した通り、体中に筋肉痛の張りを感じる。
窓を叩く雨のカラカラという音に、今日の天候を知る。
どうやら、ロードワークに出るには厳しいようだ。
スゥは、相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てる。
昨晩感じた衝動は収まっていたが、それでも今、スゥと一つの部屋にいていい気分じゃない。
“すぐに戻ります”僕はメモをテーブルの上に残し、『白鯨』の文庫本の下巻をポケットに突っ込みむとパーカーを羽織り、部屋を出た。
―――
ホテルの玄関を出た僕の目に、強い海風にあおられる高い波が映る。
けど、その風は思ったよりも湿り気を含んで暖かい。
むしろ肌を叩く雨粒は、ひたひたと心地よくすら感じられる。
夏の嵐の高波と雨を受ける太平洋。
ここはいったいどこなんだろう、僕はどこかに迷い込んでいる。
ここは、僕が今まで生きてきた世界ではないんだろう、そんな思いが、僕の胸によぎる。
僕はパーカーのフードをかぶり、雨音の響く路上へと向かった。
―――
ところどころの木々や商店のひさしで雨をかわしながら海沿いを歩くと、一軒のダイナー風のレストランが見えた。
そしてそこには、何台かの車が停車する。
どうやらすでに営業をしているらしい、僕はそのダイナーへ向かって駆けだした。
―――
「いらっしゃいませ」
若い女性店員は僕にそう声をかけると、好きな席を見つけるように促す。
僕はその言葉に従い、海に大きく開けた窓側の席に腰を下ろす。
僕はメニューを手に取り、そのウェイトレスに、ホットコーヒー、オールドファッションとストロベリーチョコのドーナツを注文した。
店内に流れる有線放送に耳を傾けながら、僕は何をするまでもなく、肘をついたまま窓の外を眺めている。
数分後、注文した品物が届く。
しっかりしたコーヒーの香りと酸味に、僕の頭の中は、少しだけ鮮明さを取り戻した。
ぼそぼそとしたオールドファッションをコーヒーで流し込みながら、視線は窓の外を泳ぐ。
『白鯨』の続きを読もうかとも思ったが、僕の心が一文字も掬い上げようとはしない。
僕はあきらめて、文庫本を閉じてテーブルに置いて窓の外を見る。
僕の視線の先には何人ものサーファーたちが、ボードを抱えたまま風雨に身をさらしている。
するとそこに、手をつないだ、一組の男女のサーファーが姿を現した。
その二人は手を繋いだまま、波を待っているのだろうか、ずっと雨の中に佇み、肩を寄せ合っている。
僕は、その波を見つめるサーファーたちの姿から、目を離すことができなくなった。
すると店内に、エモーショナルなエレクトリックギターソロが鳴り響く。
この曲は、そうだ、スゥがipodから聞かせてくれた、レニー・クラヴィッツの音楽だ。
波をまっすぐに見つめながら、お互いの存在を確かに感じているであろう、信頼しているであろうその姿。
その光景に、僕は胸が締め付けられるような想いがした。
僕はレニーの音楽に身を委ねながら、サーファーたちを見つめ続ける。
その音楽が終わるころ、雲の間に薄い切れ目が見え始める。
二人のサーファーが、顔を見合わせてほほ笑み、砂浜へとかけていく姿が見えた。
会計を済ませて店を出た僕の目の前で、雨はいっそうやわらかな、霧のようなものに姿を変えていた。
その雨の中に、僕は目を閉じてその身をさらす。
雨は暖かくて心地よくて、優しく僕の体を濡らした。
―――
「お帰り、わんこくん」
シャワーを浴びたのだろう、濡れ髪に肩タオルのスゥが僕を出迎えてくれた。
「こんな雨の日にまでロードワークか。いやいや感心感心」
スゥは腕組みをして、大げさな言葉を口にする。
「さすがに今日は、ロードワークに出てたってわけじゃないんだ」
僕は紙袋から、コーヒーとドーナツを差し出した。
「え? わんこ君、これ買いにいってくれてたの?」
「まあ、それが目的だったってわけじゃないんだけど」
僕がそういうが早いか、スゥはコーヒーを一口含むと、チョコドーナッツにかぶりついた。
「サンキュ、わんこくん。マジうまいんだけど」
そういって無邪気な、屈託のない笑顔を僕に向けた。
「いやー、なんか今日は、こうやってごろごろ過ごすのもいいかもね」
そういって、ドーナツを手にベッドに寝転ぶ。
そして、僕の腕を引っ張ってベッドに座らせ、イヤフォンの片方を自分の耳に、もう片方を僕の耳の中に差し込む。
「充電も十分にできたから、これからは、好きな時に音楽聞けるようになるかな」
そういって画面をフリックし、音楽を流した。
――Cherish
Cherish――
シルキーな女性のヴォーカルの後、テンポの良いベース音が響き、シンセサイザーがポップなメロディーを奏でだす。
「これは、誰の曲なの」
「マドンナ。“チェリッシュ”って曲なんだけど、聞いたことない?」
僕は首を振る。
「聞いたことはないんだけど、なんだか懐かしい感じ。すごく心があったまるような気がする」
「いいでしょ。ウチ、マドンナ大好きなんだ」
――Cherish the thought
Of always having you
here by my side――
「なんだかんだで、こうや聴き歌い継がれる曲に、名曲以外存在しないって思うんだ」
スゥはリズムに身をゆだね、マドンナのヴォーカルに自身の鼻歌を乗せる。
そのリラックスした表情に、僕の心もまたときほぐれていく。
僕たちはベッドの上に座り、背中を合わせて目を閉じた。
「ね? いい曲っしょ?」
僕は、大きくなずいた。
「せっかくだからさ、久しぶりにこの曲も――」
そういうとまたスゥはipodを操作した。
この曲は、偶然にもさっきのダイナーで流れていた、レニー・クラヴィッツの曲だった。
「僕もこの曲、好きだよ。なんて曲だったっけ」
「“Again”。ウチもこの曲、大好きだから」
そしてしばらくまた、その曲に身も心も委ねていると
「ごめんね」
不意に、スゥの口から言葉が漏れた。
「どうしたの」
「ほら、昨日のこと。急に、ね――」
「あ、ああ。ん、あれね」
「もしかして、わんこくん、初めてだった?」
「ん、まあね」
「もしかして、怒ってる? 嫌な気持、なった?」
「とっさのことで確かに驚いたけど、嫌な気持になんて、なるわけないよ。だって、相手がスゥなんだもん」
僕の言葉にスゥは拍子抜けしたような表情を見せたかと思うと、ちょっとだけ頬が赤らんだ。
「まあ、そういう風に言われるのは、ちょっと嬉しいかな。照れっけど」
「この際だから言うけど、僕の方こそごめん、かな」
「なんでわんこくんが謝んのよ。意味わかんないし」
「だって、スゥの旅の目的は、一日も早くモッチを探すことなのに。僕がついていくことで、余計な手間を取らせちゃったんじゃないかな、って」
僕の言葉に、スゥはまたきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、再び笑って頭を振った。
「むしろ、ウチこそ感謝してるし」
「どうして」
「たった一人でモッチを探すだけの旅じゃ、ウチもきっと、もっとつらかったと思うし。わんこくんと会った時だって、実は心折れかけてたし」
「全然そんな風には、思えなかったけど」
「やっぱりあてのない旅ってさ、いろんな意味できついんだよ。だから今こうやっていられるのも、わんこくんが一緒に旅をしてくれるからなんだ。だから、ウチの方こそ感謝」
するとスゥは、背中をもたれさせている僕の肩に頭を乗せた。
「わんこくんはかわいいし、優しいから、きっと女の子にもてると思うよ」
「全然だよ」
僕は苦笑して首を振った。
「もし好きな子ができて、いつまでも一緒にいたいと思える子だったら、絶対に大切にしてあげなきゃね。きっと、わんこくんなら、できると思うし」
「それはどうかはわからないけどね。だけど、スゥとモトアキさんみたいな関係になれたらうれしい」
「照れるじゃん。けど、ありがと」
そういうとスゥはまた目を閉じたので、僕も同じく目を閉じ、しばらくの間音楽の中へと没入していった。