「競艇っての面白さってのは、スタートにあるんさぁ」
おじいさん、泰造さんと名乗ったその人は、僕たちを連れて競艇場二階の一般観覧席へと連れてきてくれた。
ガラス越しに見える巨大なプールの水面の奥に、続々とボートトレーサーが集まり始める。
「競艇にはフライングスタート方式ってのがあるずら。選手はスタートラインを決められた時間の一秒間の間に通過するずら。それができなくちゃフライング、失格になっちゃうずら」
「競馬とだいぶ違うんだね」
「そうずら。生き物じゃなくて、オートレースなんかと同じで相手は機械ずら。それに、競艇では第一ターンマークを一番に回った艇がそのまま一位になることがほとんどずら。だから、スタートがものすごく重要になるずら」
泰造さんはリュックサックに入っているポットを取り出すと、そこにお茶を注いで一口飲む。
「競艇は、もうすでにスタートが始まってるずら」
僕たちの買った舟券は二―五―三、黒、黄色、赤のスーツを着たレーサーが順番に三周を終えれば僕たちの予想は当たることになる。
だけど、実際に見てみると、やはりその予想は心もとないようにも思えた。
―――
第一コーナーですべてが決まる、泰造さんの言う言葉を信じれば、僕達のその予想は確実に外れたといえる。
黒の選手は二番手、黄色と赤の選手はそれぞれ最下位を争っている。
ほぼ順位はそこで膠着したまま、最終コーナーへと差し掛かる。
その時、猛然と黒が外から仕掛け、黄色と赤もそれに続く。
「マジ?」
スゥは立ち上がり、目を見開いた。
そしてあっという間に形勢は逆転し、僕達の予想した通り、二―五―三の着順が確定した。
「これって、夢じゃないよね?」
「夢じゃない」
僕は断言した。
「的中したんだ。僕たちの予想が」
僕自身にも信じられないし、なんだか実感がわかないけれど、僕達は賭けに勝ったんだ。
「さて、じゃ、行くらぁ」
泰造さんはリュックにポットをしまった。
「さっそく、換金ずら。こういうのは、さっさとした方がいいずら」
「泰造さん、残念だったね」
スゥも立ち上がり、泰造さんの肩に手をかけた。
「ま、ウチたちのチケットを購入してくれたんだから、お礼くらいはするから」
「お礼はこっちで、させてもらうずら」
泰造さんはにやりと笑いうと、ポケットの中からチケットを取り出した。
「お嬢ちゃんたちの夢に、乗っからせてもらったお礼ずら」
そこにはしっかりと、二―五―三の数字がのぞいていた。
―――
「いやぁ、あんたたちのおかげずら」
泰造さんが頼んだうな重三つが、僕達のテーブルの上に並べられた。
「おかげで大穴舟券当てられたずら。これはささやかなお礼ずら」
「まったく、調子がいいんだから」
そうは言いつつも食欲を抑えられないという風で、スゥは割り箸を割った。
僕もそれに続き、勢いよく重箱を掻きこむ。
「美味しい」
その味、その触感、その風味、僕が今まで食べてきたウナギを思い出しても、今僕が口にするこのウナギの味には敵わなかった。
「マジうまいじゃん! 静岡のウナギって、こんなにおいしかったの?」
「何を言うずら。浜名湖のウナギは、日本で一番うまいずら」
泰造さんは大きなビールのジョッキを手に持ち、心地良さそうにのどを鳴らす。
「やっぱり、人間どんなときにも大きな夢を持つのは大事ずら。あんたたちの夢に乗っからせてもらって、俺も運が開けるかもしれねえずら」
―――
泰造さんと別れた僕達は、さらに西へ西へとゼファーを走らせる。
僕は、これだけのお金があれば、新幹線で浜松に行けるんじゃないの、と言ったけど、スゥは首を振った。
「ウチはこのまま、わんこくんと一緒に旅がしたいんだ。このゼファーと一緒にさ」
久しぶりに何の気兼ねなくお腹一杯、しかもうな重なんてものを食べた僕は、軽快にゼファーのアクセルをふかす。
僕達は途中コンビニに立ち寄り、何も言わずに七万円を寄付金のボックスにねじ込んだ。
「これで、神様に貸し借りなし、だね」
そう言って、スゥは笑った。
途中一軒の古本屋に立ち寄り、『白鯨』の上下巻セットの文庫本を購入した。
その日僕たちはホテルを予約し、その日の疲れを吐き出すかのように泥のように眠った。
※※※※※
「洗濯をしよう」
翌朝、起き抜けのスゥは、開口一番そう言った。
「今まで、せいぜいが石鹸で手洗いしかしてないじゃん? そろそろきちんと、服を洗濯する時期だと思うんだよね」
僕は同意し、二人で衣類をもってランドリーへ行き、洗濯機に突っ込んだ。
「けどさスゥ、この洗濯が終わって乾くまで、旅には出れないんじゃない」
「まあね。乾燥機にはかけたくないから、もう一日ホテルに泊まって、今日一日は洗濯ものに捧げよう」
僕たちはホテルに宿泊の延長を申し出ると、ホテルのレストランでゆっくりと食事をとる。
洗濯が終わったことを確認すると、それを部屋に持ち帰り、ずっと使ってきたひもを部屋の中につるすと、そこに洗濯物を干した。
それが終わると僕たちは、その日は浜松市を観光することに決めた。
お城に上ったり、カフェで昼食を取ったり、新しいシャツを一緒に見たり、僕には経験ないけれど、こういうのがデートっていうんだろうか、そんなことを考えたりもした。
その日の夜、夕食を済ませて部屋に戻った僕は、コンビニで買ったコーラの封を開ける。
スゥもまたコーラのペットボトルを取り出したが、それともう一つ、何か焦げ茶色の液体が入った瓶を取り出した。
「スゥ、それは?」
「あ、ばれちゃったー」
最初からばれることを期待していたように、いたずらなほほえみを浮かべるスゥ。
スゥはグラスにガラガラと氷を詰め込むと、そこに先ほどの瓶の液体、そしてコーラを注いで人差指で回し、その指をちゅ、と口に付ける。
そしてそれを一気にのどに流し込むと、スゥにしては低い、うなるような声を上げ
「まじうま」
と言ってほほ笑みながらグラスを置いた。
僕はその、液体の入った小瓶を手に取る。
「これ、お酒?」
「ん、ラム酒だよ」
スゥは僕からラムの小瓶を受け取り注いで、もう一杯さっきと同じものを作った。
「ラムコーク。昔からこれ、大好きだったんだ」
「昔からって、スゥはまだ未成年じゃないか」
「カタいことは言いっこなし。そもそもウチら、無免許で家出同然で静岡まで来てんだからさ」
その言葉に、僕は何も言い返すことができず、唯々苦笑するほかなかった。
スゥのそのあけっぴろげな態度と、幸せそうな笑顔に
「それ、おいしいの?」
ぼくも好奇心をくすぐられてしまった。
「ん、おいしーよ。大人の味、っていうには子どもっぽいけど、ちょっとだけラムとアルコールの苦みが入って、コーラの味に深みが出るっていうのかな」
するとスゥは、氷の入ったグラスをカラカラと揺すり
「飲んでみる?」
といたずらな微笑みを浮かべる。
無免許運転、家出失踪に置き引き、これでもかってくらいしでかした法律違反に、さらに未成年飲酒が付け加わるわけだけれど、僕は驚くほどに一瞬の躊躇もなく答えた。
「飲みたい」
スゥはもう一つのグラスにガラガラと、縁からはみ出るくらいに氷を詰め込むと、そこに瓶からゆっくりとラムを注ぐ。
氷があるからどれくらいのラムが注がれたのかよくわからないし、ラムっていうお酒がどれくらい強いものか、そもそも、アルコールの強さ弱さがいったいどんな変化を僕にもたらすのか全く見当がつかないから、僕はスゥにすべてを任せた。
スゥはそこに、グラス八分目くらいのコーラを注ぎ
「はい」
そういって、僕にグラスを差し出した。
僕はそれを受け取り、一口のどに流し込む。
コーラの中に入り混じった、ラムの何とも言えない苦みと辛みは、初めて感覚にもかかわらず僕の舌に心地よくしみわたる。
「おいしい」
僕は素直に、そういった。
「ま、ほどほどにね。美味しいものはときどき、ほんの少し味わえればそれでいいんだからさ」
だけど僕はそのあと、ラムコークを三杯ほどおかわりし、いつの間にかベッドの中で眠りに落ちていた。