小田原でも、モトアキさんの足取りはつかめない。
小田原は横浜ほどライブハウスの数はないから、一日で大体の聞き込みは終わってしまった。
僕達は城跡の公園にテントを貼り、そこで一晩を過ごす。
再びスゥが寝入ったところを見計らい、僕はトレーニングを始めた。
※※※※※
その日の朝も、天候はすぐれない。
僕たちの視線に続く道の先には、静岡県へと続く箱根の山道がある。
「うっわ、山の上、雲ががっつりかかってんじゃん」
スゥはそういって、顔をしかめた。
「しっかりした雨具とか持ってないし。雨の山道とか、めっちゃやばいっしょ」
「これからあの中に突っ込んでいくことを考えると、雨に降られることは覚悟しておいたほうが良さそうだね」
僕の言葉に、スゥは頷いた。
「だったらさ、いけるところまで行って、雨やばくなったらそこで今日の移動はやめね?」
僕は同意し、二人で手早くテントをまとめ上げると、そのまま箱根方面へと向かった。
―――
緩やかな坂道は次第に急なものとなり、うっそうとした樹々は、左手に見えていた海をその中に溶け込ませてゆく。
肌を包む空気が冷気を含み始め、カウルやヘルメットは曇り、曇りは水滴となり、風に乗って後方へと飛び散る。
箱根の峠を上っている、その事実があらためて実感できた。
僕たち二人を乗せたゼファーのエンジンは、苦しそうな声を上げる。
頻度が上がったカーブですれ違う下りの対向車線のトラックの存在感には、恐怖すら感じる。
アスファルトは湿り気を含み、少しでもハンドル操作を誤れば、谷底か対向車の餌食だ。
目の前の空間を、白い光線が引き裂く。
それとやや遅れて、耳をつんざくような轟音と、大粒の水滴が周囲を包み始める。
雨粒はより密度を増し、無限に折り重なったカーテンのように僕たちを襲う。
「わんこくん! そろそろ限界!」
右手に湖畔が見えた頃、僕は急いで、しかし正確にハンドルを切った。
―――
「うわー、こりゃひどいわ」
曲がり角の看板からすると、そこは芦ノ湖、そのほとりの木陰に僕達は避難した。
スゥはリュックサックから蚊取り線香を取り出して火をつける。
「この降り方からすると、なかなかやみそうにないね」
僕はサドルバッグからタオルを二枚取り出すと、一枚をスゥに手渡す。
「あ、サンキュ」
タオルを受け取るとスゥは、いつものように無造作にTシャツを脱ぐと、体を拭いてそれを肩にかけた。
「そだね。だったらしばらく、ここで休むしかないっしょ」
スゥのその言葉に僕も同意し、木陰に二人で手早くテントを張った。
「でもさ、これ、恵みの雨じゃね?」
スゥがリュックサックの中から取り出したのは、ビニール袋に入った固形石鹸。
「せっかくこれだけ降ってんだしさ。天然のシャワーじゃん。しばらく頭からペットボトルの水被ったりするくらいしかしてないし」
スゥの言う通り、僕は家を飛び出してっから何日もシャワーを浴びていない。
汗のにおいにはなれたとはいえ、そろそろ体を洗っても悪くはない。
「Tシャツも一緒に洗ったほうがいいよ。そこに紐張っといたから、終わったらかけときなね」
スゥはそういって、雨の中へと出て行った。
だけどスゥのその姿は、僕が目視できるくらいのところにあった。
雨に視界が遮られてはいるけれど、かろうじて体つきや振る舞いまで確認できるほどに。
ショートパンツを脱ぎ、下着とビキニを脱いでトップレス姿になったスゥは、僕の視線に気づいていない。
右手でくるくると石鹸を回して泡を立てると、その指を脇の下、胸、髪の毛、そして腹部、下腹部へと這わせていく。
神聖な儀式のように目を閉じ、体に叩きつける雨に身を任せていた。
―――
「あー、さっぱりしたし」
「お帰り、スゥ」
「ん、どした? なんか顔赤いけど、風邪でもひいた?」
「あ、いや、違うと思う」
「んじゃ、お次どうぞ」
僕はTシャツを脱ぎ、ハーフパンツになると裸足になって、スゥの目の届かないところまで飛び出した。
すごい雨、まさしくシャワーそのものだ。
時折遠くに響く雷鳴に、少しだけ恐怖を覚えながら、僕は手早く石鹸を泡立てる。
髪の毛、顔、耳の裏、首筋、腕、体、そして足と泡を体の垢を洗い落とす。
そして、僕の一番デリケートな部分。
スゥと旅をしてから、トイレに行くとき以外は一切触っていない。
だから、石鹸で洗っているとき、ちょっと変な気分になった。
その時僕の頭に浮かんでいたのは、一糸まとわぬスゥの全身。
石鹸にまみれた僕の手が止まらなくなりそうな心を、僕は必死になって抑え込むけど、僕の体は、僕の理性のコントロールから外れていった。
―――
「おかえり」
テントに帰ると、スゥはすでにビキニを脱ぎ、タンクトップとホットパンツ姿になっていた。
「なんか、すっきりした顔してんじゃん。気持ちよかった?」
僕は目をそらしながら、無言でスゥに石鹼を返した。
「この降りだからさ、今日はもうここで一晩過ごすしかないっしょ」
僕は頷き、固形燃料に火をつけて、フライパンの中に水をはった。
「せっかくだからさ」
僕はゼファーのサドルバッグから、インスタントコーヒーと粉末ミルク、砂糖を取り出す。
「あ、いいじゃん」
スゥの目は大きく開かれ、明るく輝く。
「そういうえばウチ、しばらくコーヒー飲んでなかったよなあ」
数分ほどすると、フライパンの中に細かな気泡が浮かび、それは次第に大きくなった。
沸騰したことを確認すると、僕は瓶を指でたたくようにしてインスタントコーヒーの粉末を金属製のマグカップに入れ、フライパンからお湯を注ぐ。
「砂糖とミルクは?」
マグカップとともに、スゥにいった。
「ウチ、いらない。ブラックのが好きだし」
そういうとスゥはマグカップを受け取り、ゆっくりと一口、コーヒーを含んだ。
「あー、おいしー」
そんなスゥの横顔を見ながら、僕もブラックのままのコーヒーを飲む。
「うん、おいしいね」
こうやって飲み続けていれば、そのうち本当においしく感じることができるようになるんだろうか。
コーヒーを飲み終えると、僕達はテントに寝転がる。
スゥはiPodを取り出して音楽を流す。
テントの入り口から吹き抜ける涼しい風に、ようやく僕の体は、心は、リラックスすることができた。
「そういえばさ、きちんと話してなかったね。モッチのこと」
ふっと、呼吸が漏れるようにスムーズに、スゥの口から言葉が漏れた。
スゥは体を起こし、胡坐をかいて顔を上げる。
「中学生の時にさ、高校の先輩に誘われてライブハウスに行ってさ、そこで会ったんだ。ウチのすべてを、変えてくれた人に」
「それが、モトアキさん――」
スゥは頷いた。
「初めて見た“グールズ”のライブ、ウチ、一発でやられちゃったんだ」
スゥの言葉の合間、合間に、iPodから穏やかに音楽が流れる。
「ベースのモッチのプレイとヴォーカルに、なんていうか、魂持ってかれたって感じがしたんだよね。それで打ち上げに参加してモッチに声をかけてさ。それが、全部の始まり」
雨はいっそう激しくなる。
「それでウチは家飛び出して、そのままモッチとおままごとみたいな同棲生活始めたんだ。だけど――」
雨音に音楽と、スゥのゆっくりとした呼吸が混ざる。
「――ある日突然、いなくなったんだ。“ビッグになって必ず迎えに来るから”、その置手紙だけを残して。スマホも解約して、何から何まで、足取り全部消して」
一定のリズムで、テントから水滴が澄んだ音を立てた。
「わんこくんには、好きな人いないの?」
「まあ、いる、いた、のかもしれない。だけど、わかんない」
僕は頭を振る。
「本当に人を好きになったときってね、自分の人生を全部捧げてもいいって、そういう風に思えるの。DNAレベルで、魂のレベルでひかれあってる、そういう風にお互いを思えるんだ」
全く僕には実感がわかなかったけど、スゥとモッチのことを考えると、本当に、魂が溶け合うレベルで惹かれ合う、そんな関係があるんだと実感がわいてきた。
僕もいつか、そんな相手に巡り合えるんだろうか。
そもそも、人を好きになるって、どういうことなんだろう。
僕が子どもだから、わからないんだろうか、じゃあいつになったら、僕は大人になるんだろう、なんで僕は、大人になっていくんだろう。
とりとめもない考えを巡らせながら気が付くと、スゥは僕の肩に頭をのせながら、浅い呼吸を立てていた。
僕はゆっくりとスゥの背中を地面に横たえると、テントを出た。
まだ雨は上がらない。
僕は木陰で、スゥから教えてもらったトレーニングメニューを繰り返し行った。
雨音に催眠術に掛けられたようになった僕は、心の中が空っぽになるまでそれを繰り返す。
筋肉痛と酸欠による眩暈で、僕は吐きそうになったほどだった。
全身が、服のままプールに飛び込んだのかってくらい、ずぶぬれになったので、汗を拭いて新しいTシャツに袖を通した。