「わーんこくん」
少しずつ目を開けた僕の目の前には、金色のさらさらした髪の毛と、それぞれのパーツが異様に整って見えるスゥの顔。
その場から飛びのいた時、感じたことのない筋肉痛に全身が襲われていることに気が付いた。
「ごめんごめん、もう少し寝かせとこうかなって思ったんだけどさ、ほら、あったかい方がいいっしょ」
そういってテントを出たスゥの後に、僕は続いた。
「コンロとか、借りたよ。今日はちょっと涼しいから、ゆっくりご飯食べようよ」
フライパンの上には、ベーコンの上に乗っかった目玉焼きがあった。
「わんこくんが寝ている間、近くのコンビニで卵を買っておいたんだ」
スゥはそれをパンの上にのせて僕に渡すとき、ほんの少しだけ笑う。
「今気が付いたけど、顔なんかひどいし。もしかして、寝付けんかった?」
僕は思わず、顔に手を当てる。
昨日一晩中、体を動かし続けていたせいだろう、体中に、ひりひりとした痛みがこびりつく。
「ほら、卵ウチのも食べな」
そういって、ハムエッグの残りを僕のパンに上乗せする。
「いったじゃん、僕に食べ物のことで、気を使わなくていいって」
「いいっていいって、こんなの、余裕あるときだけなんだしさ。それに前も言ったけど、わんこくんは成長期の男の子なんだし。ウチよりもっと食わなくっちゃっしょ」
僕はその言葉に従い、瞬く間にハムエッグを平らげた。
もともと食事を少なくしていたこともあるけれど、深夜から続けたトレーニングで、全身が栄養を欲していることが実感できた。
「おいしい」
それ以上に、今の僕は今の感情を表現する言葉がない。
本当に、ただただ、スゥの作った料理は美味しかった。
「もしかして、ウチのイメージと違う、とか思ってるっしょ」
「え? いや、そういうわけじゃ」
「いいよ、ウチこんな見た目だし。だけどこう見えてウチ、結構家庭的なんだけどなあ」
そう言ってため息をつき、すぐに微笑むスゥ。
「だってウチの将来の夢、お嫁さんだし。てか、笑うなし」
「ごめんごめん」
スゥは、思わず吹き出してしまった僕の肩を小突いた。
「だけどね、ご飯って、本当に食べてほしい人がいるから、作るものなの。女はね、本当に好きな人以外に、ご飯なんて作ってあげようなんて、思わないんだから」
「そういうものなのかな」
「そういうもんだし。覚えときなよ」
「そうだね。スゥは絶対、いいお母さんになれると思うよ」
「ちょっと、いきなりお母さんは飛躍しすぎだし」
そういってまた明るい笑い声をあげると
「でも、ありがと」
その笑顔は、少し照れくさそうなものへと変化した。
「モッチがいなくなってからも、ずっとウチ、ご飯だけは作り続けてたんだ。いつ戻ってきても、おいしくてあったかいご飯をモッチが食べられるように。だから、おいしいって言ってもらえると、めっちゃあがるし」
その日は少し涼しいから、体を休めるという意味で、午後まで仮眠をとることにした。
昼前に目を覚ました僕は、全身に心地よい筋肉痛を感じながらスゥをゼファーに乗せる。
その日は久しぶりに雲が多く、いつもの肌を焦がす熱い太陽が、遠慮がちにその隙間から顔を出すだけだったので、その道のりは快適だ。
その途中、休憩のために路肩にゼファーを止める。
風が強いのだろう、波しぶきがごつごつとした岩に叩きつけられて霧状になり、いつのまにか視線から消え失せる。
その光景を何時間でも見ていたい、そんな気分にさせられた。
―――
道は徐々に、山がちになる。
西へ向かう僕たちは間違いなく、箱根へと至る道を進んでいる。
そこは小田原。
目の前に見えてきたのは、僕も初めて目にする、小田原城だ。
僕たちはその近くのガソリンスタンドで給油をすると、城のふもとにある公園にゼファーを止めた。
「ここかー」
ゼファーから降りたスゥは、そういって大きく伸びを一つ。
「あれでしょ? 北条なんたらが作って――」
「北条早雲」
「そうそれ。それで、豊臣秀吉が倒したってやつ、ここかー」
「とりあえずはさ、また図書館を見つけて、そこで時間をつぶそうよ」
すると、スゥは何かに築いたように周囲を見回すと
「ねえ、あれ!」
指をさした先には、タイ焼きの露店があった。
「気持ちはすごくわかるけど、さっき給油もしたし、あまり無駄遣いは――」
その瞬間、僕のお腹も小さな音を立てる。
僕たちは顔を合わせて、苦笑いをした。
「じゃあさ、一匹だけ。一匹買って、半分こ。それならよくね?」
僕たちは百円を支払った。
スゥは出来立てを受け取ると、真ん中化は半分に割って、僕に頭の部分を差し出す。
だけど僕は、無言でしっぽの方を手にとった。
「やさしーじゃん、わんこくん」
そっぽを向いてたい焼きを頬張ったけど、焦ってたものだから味なんて全然わからなくて、感じることができたのは、出来立ての、たい焼きのあんこの熱さだけだった。
―――
僕たちはその足で、小田原市内の図書館に向かう。
図書館で僕は再び『白鯨』を手に取り、それに疲れを感じると、今度は中原中也の詩集を手に取った。
スゥはCDを借りて、ヘッドフォンを耳に当てている。
読書に飽きると本を閉じ、図書館近くの公園の脇で、腕立て伏せと腹筋背筋、スゥに教えてもらったコンビネーションの練習をする。
筋肉痛で昨日みたいな動きはできなかったけど、それでも体をひたすらに動かす。
汗まみれになった僕は、公園の水道で汗を流し、Tシャツを簡単に洗うとゼファーにかけて、新しいTシャツに袖を通す。
体は相変わらず汗臭かったけど、もうそれは気にならない。
図書館に戻ると、スゥは音楽を聴きながら転寝をしている。
その姿を見ながら僕は、今度は芥川龍之介の全集を手に取る。
だけどたまった疲労が、僕の瞼を鉛にした。
―――
いつの間にか転寝をしていた僕を起こしたのは、図書館の閉館時間を告げる音楽だった。
体を襲う筋肉痛だけでなく、赤くはれた日焼けの跡にも痛みを感じる。
スゥもまた、ゆっくりと体を起こし、背中を伸ばした。